聖書 聖書に見る予型

水と火による審判
聖書における水と火による審判


 最後に、世の終わりになされると聖書が告げている「火による大審判」の予型について見てみましょう。
 私たちは、この世の中に様々な悪が存在することに気づかされます。そして、
 「もし神がおられるなら、なぜこの世に悪が栄えているのか。なぜ神は、悪と不正が世界にはびこることを許しておられるのか」
 との率直な疑問を持つ人も、少なくありません。
 しかし、神は義をもってこの世を裁き、悪を一掃する日を定めておられるのです。
 「神は、義をもってこの世界を裁くため、その日を定めておられる」(使徒一七・三一)
 と聖書に記されています。この審判の日は「主の日」とも呼ばれ、旧約時代から様々な預言者がその来ることを予言してきました。
 神によるこの審判と悪の除去は、全世界に及ぶものであり、かつ、すべての人々に及ぶものです。神はそのために、ご自身の予知に基づき、適切な日を定めておられるのです。
 来たるべきこの審判の時について理解を深めるために、歴史上起こった幾つかの予型を調べてみることは、非常に有益なことです。


エジプトとカナンへの審判

 まず、イスラエル民族の歴史の中での予型を見てみましょう。とくに、イスラエル民族の"紅海渡渉(こうかいとしょう)"の際のエジプトへの審判、およびカナンの地への審判に着目します。
 イスラエル民族は、エジプトの圧政のもとに置かれた約四〇〇年にわたる苦役時代のあと、指導者モーセに率いられて、エジプトの地を脱出し、神が約束された地(カナン)へ向かいました(出エジプト)
 そしてイスラエル民族が、エジプトの国境に位置する紅海に達したとき、あとを追ってきたエジプト軍が背後に迫りました。聖書は、その時神は、紅海の水を左右に隔て、海の底に向こう岸まで道をお造りになったと記しています。
 イスラエル民族は、海の底に出来たその乾いた道を渡って行きました。あとから追いかけてきたエジプト軍は、同じことを企てましたが、イスラエル民族が向こう岸へ渡った後、水はもとに戻り、エジプト人はみな溺れ死にました。そして、「ひとりも残らなかった」(出エ一四・二八)と記されています。
 このことは、これが起こる約五〇〇年前に、神が父祖アブラハムに語られた次の言葉の成就でした。
 「あなた(アブラハム)はよく心にとめておきなさい。あなたの子孫(イスラエル民族)は他の国(エジプト)に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四〇〇年の間、悩ますでしょう。しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます(創世一五・一三〜一四)
 このように、四〇〇年の間イスラエルの民を苦しめたエジプトを、神は裁かれたのです。
 イスラエル民族は、そののち四〇年ほどたって、神が約束された地カナンに入って行きました。
 当時、カナンの地に住む民は目をおおいたくなるようなひどい悪の中に暮らしていました。カナンの地は国家的規模で、後述するソドムとゴモラのような邪悪な地と化していたのです。
 そこで神は、こうしたカナンの地へのさばきのために、イスラエル民族を用いられました。イスラエル民族が、出エジプト後カナンの地に入って、その地の民族を滅ぼし、
 「町とその中のすべてのものを火で焼いた(ヨシ六・二四)
 のは、カナンの地の民に対しては、神からの審判であったのです。こうしてカナンの地は、火による審判を受けました。
 しかし、そのとき指導者モーセは、イスラエル民族にこう注意しました。
 「あなたの神、主が、あなたの前から彼等を追い払われた後に、あなたは心の中で、
 『わたしが正しいから、主はわたしをこの地に導き入れて、これを得させられた』
 と言ってはならない。この地の国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである」(申命九・四)
 このように、エジプト軍への"水"による審判の後、四〇年たって(ヨシ五・六)、カナンの民への"火"による審判がありました。水ののちに火が来るのです。
 実は、この水による審判と、火による審判は、次に述べる全世界的な水による審判と、火による審判との"型"だったのです。


水による審判と火による審判

 「かつて、一家族を除いて全人類が大洪水によって滅亡した時があった」
 という伝説は、単に聖書の中に語られているだけではありません。エジプト人、ギリシャ人、ヒンズー人、中国人、メキシコ人、イギリス人、ポリネシヤ人、ペルー人、アメリカ・インデアン、グリーンランド人、その他世界中の多くの国々の様々な人種、また様々な語族の間に、同様な伝説がみられます。
 例えばエジプトには、神がある時に大洪水によって地をきよめ、その洪水からはごく少数の羊飼いだけが逃れた、という伝説があります。
 また中国の伝説によれば、中国文化の創設者は、その妻と三人の息子と三人の娘とともに、人間が天に背いたために起こされた洪水から逃れた代表者とされています。
 このように、一家族を除いて全人類が洪水によって滅ぼされたという伝説は、世界の民族に普遍的に見られるものです。これを偶然の一致とみることは、到底できません。大洪水が実際にあったことは、最近ではさらに地球物理学や、考古学的にも実証されています。
 聖書によれば、大洪水は、当時地の上に満ちた暴虐と悪への審判として起こったものです。つまり、それが起こったのは当時の人々への正当な審判としてであり、またそれが書かれたのは、「世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするため」(一コリ一〇・一一)です。
 ですから聖書は、世の終わりになされる火による大審判について人々に警告を与えるために、「ノアの大洪水」の時のことを、しばしば引き合いに出します。
 「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。・・・・『人の子』の現れる日(すなわちキリスト再来の日=火による大審判の日)にも、全くそのとおりです」(ルカ一七・二七、三〇)
 つまり聖書は、大洪水による"水"による審判の後、やがて世の終わりに、"火"による大審判があることを告げているのです。ペテロの第二の手紙三・六〜七には、こう書かれています。
 「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は・・・・火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びの日まで、保たれているのです」。
 その日、焼かれるべきものは焼かれ、残されるべきものは残されるでしょう。この世界の悪や罪に染まった事物の体制は焼き尽くされ、一方、神を愛し神に従う人々とそのわざは残されます。
 この世界の悪や罪に染まった事物の体制は、ちょうど木や、わらや、紙などの、燃えやすい材料で出来た建物に似ています。また、神を愛し神に従う人々とそのわざは、金や、銀や、宝石などの、燃えない材料で出来た建物にたとえることが出来るでしょう。つまり、審判の日が火とともに現れると、前者は焼き尽くされ、後者は残って、クリスチャンたちは「火の中をくぐるようにして助かる」(一コリ三・一五)のです。
 しかし、来たるべき火による大審判とは、いったい、どのようなものなのでしょうか。それは将来行なわれることであるので、私たちはまだ見ていません。けれども、それはやがて必ず起こることです。
 神は、この来たるべき審判の日がどのようなものであるか示すために、前もって、その来たるべき審判の日の"絵"と言ってもよい出来事を起こされました。その代表的なものが、有名なソドムとゴモラの町の滅亡の出来事です。


ソドム・ゴモラへの火による審判

 ソドムとゴモラの町は、かつてパレスチナの肥沃(ひよく)な土地の中にあり、そこはまるで「主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤って」(創世一三・一〇)いました。しかし、そこに住む人々はひどく堕落しており、その罪と邪悪さは、目に余るものだったのです。
 そこで神は、それらの町々を、「硫黄と火(創世一九・二四)を天から降らせることによって滅ぼされました。
 かつて肥沃な地であったソドム・ゴモラは、今は死海の底に沈んでいますが、その付近からは「紀元前二千年頃の住民が、突然消え失せたことを示す証跡」が発見されています。
 また近くには、「厚さ五〇メートルの岩塩の層があって、その上に遊離した硫黄の混じった泥灰層(でいかいそう)」があり、それを調査したM・G・カイル博士は、
 「もし神がそのガスに点火されたなら、大爆発が起こって、塩と硫黄とが灼熱したまま天に放出され、文字通り、火と硫黄とが天から降ったであろう」
 と言っています。
 しかし、この好色と淫乱の町の中でも、義人ロトはその中から、神に救い出されました。これらの町の滅亡は、終末に起こる火による大審判の一つの"予型"です。イエスは言われました。
 「人の子の日(キリスト再来の日=火による大審判の日に起こることは・・・・またロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出ていくと、その日に火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現れる日にも、全くその通りです」(ルカ一七・二六〜三〇)
 このように、ソドム・ゴモラへの火による審判が起きたのは、当時の人々への正当な報いとしてであり、また、来たるべき終末の火による大審判の"予型"となるためでした。終末においては、ソドム・ゴモラや、カナンに対してなされたような審判が、全世界的規模で行なわれるのです。
 なお、大洪水からソドム・ゴモラ滅亡までの期間は、約四〇〇年でした[正確には三九二年。これは、ソドム・ゴモラ滅亡のときアブラハムは九九歳(または一〇〇歳 創世一七・一、二一・五)だったことを知って、創世記一一・一〇〜二六の系図を調べるなら、簡単に計算できます。]
 先ほど述べたように、紅海におけるエジプト軍への水による審判から、カナンの火による審判までは四〇年でした。そして、大洪水からソドム・ゴモラの火による滅亡までは、約四〇〇年です。〇の数は違うものの、数字的に対応しているのです。
 また私たちはこのことによって、大洪水から終末の火による大審判までの年数を、算出することが出来るでしょうか。しかしイエス・キリストは、それは出来ないと言われました。
 「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使(みつか)いたちも、子(キリスト)も知りません。ただ、父(父なる神) だけが知っておられます」(マタ二四・三六)
 このようにキリストは、火による大審判の時が正確にいつであるかは、誰も知らないし、知り得ないことであると言われました。それは天の父なる神のみが知っておられ、心に定めておられることなのです。
 ただ私たちは、その日が近づいたことだけは、知ることが出来ます。
 キリストは、世界が終末を迎えようとする時に世界に起こる、様々な「しるし」について予言されました。キリストが語られたそれらの予言(マタイ二四章など)を見てみるならば、現代がすでにその時を間近にひかえていることは、ほぼ確実と思われます。
 そしてついにその時が来ると、神は世界の悪を一掃し、悪に終止符を打ち、ご自分の義を地上に打ち立てて、ご自分の栄光の御国を地上にもたらして下さるでしょう。


キリストの生涯との関連

 最後に、イエス・キリストの生涯と、これらのものとの関連です。
 そのことを見るために、まずイスラエルの紅海渡渉が、イスラエル民族にとって一種の「洗礼」であったこと、また大洪水の水も「洗礼」の水に深いかかわりがあったことに、注意を向ける必要があります。
 聖書は、イスラエル民族の紅海渡渉について、
 「わたしたちの先祖は、みな雲の下におり、みな海を渡り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマ(洗礼)を受けた(一コリ一〇・一〜二)
 と述べており、また大洪水については、
 「この水は、バプテスマ(洗礼)を象徴するものである(一ペテ三・二一)
 と述べています。つまり紅海渡渉、および大洪水の水は、バプテスマ(洗礼) に深い関係があったのです。
 イエス・キリストの生涯を見てみると、キリストは三〇歳で公生涯に入られた時、洗礼を受けられ、その後、通説に従えば三年半、すなわち約四〇か月の宣教活動の後、十字架の死を遂げられました。
 しかし「洗礼」とは、もともと罪人が回心して神に立ち返ったときに受けるもので、罪がなく清いおかたであったキリストには、本来は必要のなかったものです。にもかかわらず、キリストが洗礼をお受けになったのは、それなりに意味のあることだからでした。
 つまりキリストは、ご自身が洗礼をお受けになることによって、ご自身と罪人とを"同化"し、やがて十字架上で罪人の身代わりとなるための準備とされたのです。
 そしてまた私たちは、世界史におけるノアの大洪水がキリストの生涯においては洗礼に対応していること、また、終末の大審判がキリストの生涯においては十字架上で身代わりに審判を受けられたことに対応していることを、見ることができます(下の図)


 つまりキリストの十字架の死は、私たちが終末の審判の日に受けるべきであった審判を、代わりに受けられた出来事なのです。聖書は言っています。
 「主(神) は、われわれすべての者の不義を、彼(キリスト)の上におかれた」(イザ五三・六)
 「彼は、われわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ」(イザ五三・五)
 このように神は、罪のないかたが罪人である私たちのために死ぬことによって、彼を信じるすべての人を義と認め、罪と審判から救う道を開かれたのです。
 神は、人間は自分の力だけでは、誰ひとりとして完全な正しい者にはなり得ず、誰ひとりとして、終末の大審判の日に耐え得る人がいないことを、知っておられました。そこで神は、人間が自分の正しさに頼らずに救われる、別の道を開かれたのです。
 それが、キリストの十字架の死でした。キリストは私たち一人一人のために、また私たちすべての者の身代わりとして、十字架上で死なれました。この身代わりの死によって、神は、キリストを通して私たちが救われる道を開いてくださったのです。
 つまり神は、キリストが私たちの身代わりに審判を受けて下さったので、人間側がある"条件"を充たせば、その人を"すでに審判を受けてしまった者のように"見なして下さるのです。すでに審判を受けてしまえば、その人はもう罪は問われません。
 その"条件"とは、キリストによって自分が救われるという信頼と、キリストの教えに従っていくという従順を、人が持つことです。すなわち、一言で言えば「信仰」です。人が、「キリストへの信仰」という神の要求に応じるとき、神はその人を、キリストにあって"すでに審判を受けてしまった者のように"見なしてくださいます。
 そして神は、キリストの義によってその人を義と認め、「神の子」として迎え入れ、また「永遠のいのち」をお与えになります。それゆえ、来たるべき大審判の日に、審判は信仰者には下らずに、その上を過ぎ越し、彼らはやがて神の創造される来たるべき新しい世に、迎え入れられるのです。

                                            久保有政著  

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