聖書 聖書に見る予型


出エジプト
キリストの十字架死と復活は、
"第2のエクソダス"である

 過越の小羊がキリストの犠牲の死の予型であることを見ましたが、じつは出(しゅつ)エジプト自体も、キリストの死と復活の予型である、と言えます。
 出エジプトの出来事は、イスラエル人にとってエジプトの圧政からの"解放"であり、自由への"脱出"でした。
 同様に、イエス・キリストの十字架死と復活は、人類にとって壮大な"解放"をもたらすものです。それは、ある意味では"第二の出エジプト"とも言えるものなのです。


キリストによるエクソダス

 ある日イエス・キリストは、三人の弟子たちを連れて、祈るために山に登られました。
 弟子たちはそのとき、今まで見たことのないような光景を目にしました。キリストが祈っておられると、
 「御顔(みかお)の様子が変わり、御衣が白く輝いた」
 (ルカ九・二九)
 のです。しかも旧約の二大預言者モーセとエリヤが栄光のうちに現れ、何かキリストと話をしているではありませんか。
 「(彼らは)イエスがエルサレムで遂げようとしておられるエクソダスについて、いっしょに話していたのである」(同九・三一)
 と聖書は記しています。「エクソダス」は、邦訳では「ご最後」ですが、三人はキリストの十字架について話していたわけです。
 しかし、「エクソダス」は原語(ギリシャ語)では「脱出」とか「出国」という意味の言葉で、「出エジプト」と同じ語です。旧約聖書の『出エジプト記』は、英語でも Exodus(エクソダス) といいます。
 聖書は、キリストの十字架の死をエクソダスと呼び、出エジプトの大脱出に比するものとしているのです。
 キリストの十字架、およびそれに続く復活は、ある大脱出・大解放をもたらす出来事でした。それは"第二のエクソダス"あるいは"新しいエクソダス"とも呼べるものなのです。
 ではキリストの十字架と復活は、どのような意味で、"第二のエクソダス"であり得たのでしょうか。


キリストは"真のイスラエル"

 キリストの"第二のエクソダス"について理解するために、私たちは基礎知識として、まず三つのことを理解する必要があります。
 第一に、キリストは聖書においては"真のイスラエル"と見られている、ということです。
 聖書を読むと、私たちはそこに"三つのイスラエル"をみることができます。
   (1) 肉によるイスラエル
   (2) 霊によるイスラエル
   (3) 真のイスラエル
 の三つです。父祖ヤコブを先祖とするいわゆるイスラエル民族は、第一コリント一〇・一八で「肉によるイスラエル」と呼ばれています。これは、肉体的な血縁関係等による神の民です。
 一方、信仰と御霊の働きによる神の民――クリスチャンたち(教会) は、"霊によるイスラエル"と呼んでいいでしょう。ある人々が言うように、「新イスラエル」とか、「第二イスラエル」と呼んでもかまいません。
 もう一つのイスラエルは、"真のイスラエル"――イエス・キリストご自身です。それは次のことから言えます。聖書では、「イスラエル」はしばしば、「ぶどうの木」にたとえられています。旧約聖書・詩篇八〇・八にこうあります。
 「あなた(神) はエジプトからぶどうの木を携え出し、国々を追い出して、それを(約束の地カナンに) 植えられました」。
 この「ぶどうの木」(単数)とは、イスラエル民族です。一方イエス・キリストは、弟子たちに、
 「わたしは真のぶどうの木、あなたがた(クリスチャン) はその枝である」(ヨハ一五・一五)
 と言われました。「真のぶどうの木」という言葉によってキリストは、ご自分が"真のイスラエル"である、と述べておられるのです(エレ二・二一も参照)
 これは、単にたまたま言葉が一致したのではありません。実際、キリストが"真のイスラエル"であるとしなければ、旧約聖書イザヤ書の有名な「わたしのしもべ」の預言などを正しく理解することは、できないのです。
 イザヤ書五三章に、
 「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた」(五三・五)
 と書かれています。この「彼」がキリストを意味することは、クリスチャンなら誰でも知っているでしょう。「彼」とは、神が「わたしのしもべ」と呼んでおられる人物のことです(五三・一三)
 ところがイザヤ書の前後の文章をさらによく読んでみると、「わたしのしもべ」は、明らかに文脈上は「イスラエル」のことなのです。
 イザヤ書四〇章以降の大部分は、「わたしのしもべ」の預言で占められています。しかしそれはあるときは、肉によるイスラエルを指し(イザ四一・八〜九、四二・一九)、あるときはキリスト(イザ五三章、使徒八・三〇〜三五)、あるときは霊によるイスラエルをさしています(イザ四三・六〜七、一〇)
 預言者イザヤは、キリストを"真のイスラエル"と見て預言したのです。
 イザヤは三つのイスラエルを、三重に見て預言しました。物事を二重三重に見て預言することは、聖書にはしばしば見られることです。
 「イスラエル」にはこのように三つあり、キリストは"真のイスラエル"と見られているのです。


預言者イザヤは、3つのイスラエルを3重に見て預言した。



真のイスラエルから霊によるイスラエルが出てきた

 キリストの"第二のエクソダス"を理解するための基礎知識の第二は、真のイスラエルから霊によるイスラエルが出てきた、ということです。
 肉によるイスラエル(イスラエル民族)の中に真のイスラエル(キリスト)が現われ、真のイスラエルから、霊によるイスラエル(教会)が出てきたのです。
 神は、まず全人類の中から、取るに足りないような弱小民族であったイスラエル民族(肉によるイスラエル)を起こされました。イスラエル民族は、救い主キリストを全人類のために来たらせることを目的として、神が創始し、育成された民族です。
 しかしイスラエル民族のすべての人々が、神に対する敬虔な信仰を持っていたわけではありませんでした。なかには偶像崇拝に堕落した人々もいました。
 けれども堕落せず、様々な試練の中でも、神に対する真実な信仰を持ち続けた人々もいました。彼らは「残りの者(レムナント)と呼ばれました(一列王一九・一八、イザ二八・五、ミカ七・一八)。こうして神の選びは、
   全人類→イスラエル民族→残りの者
 と、しだいにせばめられていきました。そしていわば最後の「残りの者」、あるいは真の「残りの者」として現われたのが、イエス・キリストなのです。
 それについては預言者イザヤが、キリストの到来の約七五〇年前に、次のように予言していました。
 「エッサイ(ダビデの父)根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。・・・・この方は主を恐れることを喜び・・・・」(イザ一一・一〜五)
 この預言の意味はこうです。
 イスラエル民族は、一本の"木"にたとえられているのです。この木は「バビロン捕囚」という神のさばきの斧によって、一度バッサリと断ち切られました。
 しかし、やがてその「根株」の1つから「新芽」が生え、「若枝が出て実を結ぶ」というのです。この「若枝」こそ、真の「残りの者」と呼ばれる人物のことであり、エッサイ―ダビデの家系に降誕されたイエス・キリストにほかなりません(黙示五・五)
 イエスという"最後の残りの者"から、そののち使徒たちが誕生し、教会が誕生して、"霊によるイスラエル"が形成されました。かつてヤコブ(イスラエル)一二人の息子たちから、肉によるイスラエルが形成されたように、キリスト(真のイスラエル)一二弟子に始まって、霊によるイスラエルが形成されたのです。


"最後の残りの者"イエスから教会が出てきた。

 肉によるイスラエルは次第にせばめられ、イエス・キリストに至り、そこから霊によるイスラエルが生まれてきました。このように、肉と霊によるイスラエルは、真のイスラエルにあって連続しているのです。
 ただ、肉によるイスラエルと霊によるイスラエルの間には、一つ大きな違いがあります。肉によるイスラエルの民になるにはふつう血縁関係が必要ですが、霊によるイスラエルの民になるには信仰だけでよい、ということです。
 霊によるイスラエルは、すべての地上的な国籍、地位、老若男女の別を越えて存在する神の民です。
 神とキリストに対する信仰を持つ者は誰でも、民の一員として迎え入れられます。
 信仰を持ったその日から、その人は、霊によるイスラエルの民の一員なのです。


クリスチャンはすべてキリストの「内にいる」と見なされる

 キリストの"第二のエクソダス"を理解するための基礎知識の第三は、霊によるイスラエルは真のイスラエルと一体だ、ということです。
 聖書においてはつねに、民族は父祖に対して強い一体性で結ばれている、と見られています。
 たとえば聖書は、"父祖アブラハムが、彼の時代の偉大な王メルキゼデクに、自分の戦利品の中から一〇分の一の捧げ物をした"と記していますが、この父祖アブラハムより三代後の人物に、レビという人物がいます。
 アブラハム――イサク――ヤコブ――レビという順です。レビにとってアブラハムは、ひいおじいさんにあたります。
 ところが聖書は、レビは父祖アブラハムを通して、メルキゼデクに一〇分の一の捧げ物をした、と述べています。こう書かれています。
 「レビでさえも、アブラハムを通じて(メルキゼデクに)一〇分の一を納めた、と言える。なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを迎えた時には、レビはまだこの父祖の腰の中にいたからである」(ヘブ七・九〜一〇)
 レビは、ひいおじいさんであるアブラハムの行為にあずかった、というのです。その時レビは、アブラハムの「腰の中にいたから」だと。つまりレビは、父祖アブラハムの内にいた、と見られているのです。
 同様に聖書では、イスラエル人はみな父祖ヤコブの内にいた、と見られています。ホセア書一二・四が良い例です。その句は一般に、
 「彼(ヤコブ) はベテルで神に出会い、その所で神は彼に語りかけた
 と訳されていますが、これは原語(ヘブル語)では、
 「彼(ヤコブ)はベテルで神に出会い、その所で神は私たち(イスラエル人) に語りかけた
 です。神がベテルの地でヤコブに語りかけたあの出来事は、イスラエル人全体に語りかけたことだ、というのです。
 イスラエル人はヤコブの内にいたのであり、ヤコブはある意味でイスラエル人全体だった、と見られているわけです。


父祖ヤコブに語りかけたことは、
イスラエル民族全体に語りかけたことだった。

 このように聖書においては、父祖と民族は時空を超えて、強い一体性で結ばれています。民族は、父祖の「内にいた」と見られるのです。
 これは不思議に見えるかも知れませんが、聖書の思想を理解する上で、きわめて重要な事柄です。
 アダムの犯した罪が全人類に及んだのも、同様の理由によるのです。
 アダムが罪におちたとき、全人類は彼の「腰の中に」いました。そして全人類はアダムの内にいた、と見られるので、罪と死が全人類に及んだのです(ロマ五・一二)
 ですから、アダムと全人類が強い一体性で結ばれているのと同じように、キリストと霊によるイスラエルも、一体化されています。
 キリストはご自分を「真のぶどうの木」と呼び、クリスチャンたちは「その枝」だ、と言われました。木と枝が一体であるように、キリストとクリスチャンたちとは一体なのです(ヨハ一五・一、五)
 聖書はまた、
 「あなたがたは、神によって、キリスト・イエスの内にいるのです」(一コリ一・三〇)
 と言っています。霊によるイスラエルに属するすべての人は、キリストの内に"取り込まれている"のです。
 それだけではありません。霊によるイスラエルは、キリストのあの十字架死の時もキリストの内にいた、と見なされるのです。聖書は、
 「(私たちは)キリストと共に十字架につけられた」(ロマ六・六)
 と述べています。それによって私たちの「古き人」(古い自分) は、キリストと共に死んだのだと。
 つまり、キリストの死は単に「身代わりの死」ではありません。
 キリストが罪人の「身代わりに」死なれたことは、教会でよく説かれてきました。これは聖書的に、正しい教えです(一ペテ二・二四)。しかし、キリストの死は「身代わりの死」であるだけではありません。
 私たちは「キリストと共に十字架につけられた」のです。さらに、私たちは「キリスト・イエスにおいて共によみがえらされ」(エペ二・六)ました。
 私たちは、キリストの十字架と復活の際に、キリストの「内に」いて、時空を超えてそれらの出来事にあずかった、とされているのです。


キリストの十字架死と復活は"第二のエクソダス"である

 私たちは、三つの事柄を見てきました。一つはキリストが"真のイスラエル"であること、二つ目は真のイスラエルから霊によるイスラエルが出てきたこと、三つ目は霊によるイスラエルは真のイスラエルと一体である、ということでした。
 これらが、キリストの"第二のエクソダス"を理解するための重要な鍵です。
 下図を見てください。これは肉によるイスラエルが歩んだ路程と、人類の歩んできた路程とを比較したものです。
 聖書によると肉によるイスラエルは、はじめカナンの地に住んでいました。しかしやがてエジプトの地にくだり、約四〇〇年もの間、そこで奴隷にされました(出エ一二・四〇)
 神は民の叫びを聞かれ、指導者モーセを遣わされました。彼を通し、イスラエル民族の「出エジプト」を敢行されました。
 出エジプト後、彼らは三日目に紅海(こうかい)を渡りました(出エ一三・二〇、一四・二、二一。エジプトを出発後、彼らは二度宿営し、二度の夜を過ごし、三日目に紅海を渡りました)
 そしてシナイ半島の荒野に入り、やがてシナイ山で、神から律法を授かりました。この律法授与の日は、ユダヤ人の伝承によると、紅海渡渉後ちょうど五〇日目でした。確かにそれが五〇日目頃であることは、聖書の記録からも読み取れます(出エ一二・二、一二・六、一九・一、一一)
 この律法授与の日、民の不従順に対して、神のさばきが下りました。その日、約「三千人」が死んだとされています(出エ三二・二八)
 こののち、彼らは「四〇年の間」(民数一四・三三)荒野で流浪生活を送りました。四〇年間、民は約束されていた豊潤な地カナンには入れず、荒野でキャンプをはりながら、あちこちを移動して暮らしました。
 このキャンプ――「宿営」は、新約聖書では「荒野の集会」(使徒七・三八) と呼ばれています。これはギリシャ語では、「エクレシヤ」です。「エクレシヤ」はふつう「教会」と訳される語ですから、「荒野の集会」はキリスト教会の"原型"であった、と言えるでしょう。
 荒野の流浪時代は、「乳と蜜の流れる」約束の地カナンを"待望する時代"でした。荒野の四〇年の後、民は約束の地カナンに入りました。
 しかし、当時カナンの住民の悪は満ちていたので、神はイスラエル民族を用いて、彼らを滅ぼされました(申命九・四)。カナンの都市は、イスラエル民族によってことごとく「火で焼かれ」、征服されました。
 じつは、肉によるイスラエルが歩んだこれらの路程(ろてい)は、次に見るように、霊によるイスラエルの民(御国の民) が歩む路程の"型"となったのです。


出エジプトは、キリストの十字架の救いの予型である。



肉によるイスラエルの路程は霊によるイスラエルの路程の"型"

 はじめエデンの園にいた人類は、やがて罪に堕ち、罪と死の支配下に入りました。聖書は、私たちはキリストの十字架によって救われる時までは、「罪と死の原理」(ロマ八・二)の支配下にあった、と述べています。
 この原理は、
 「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生む」(ヤコ一・一五)
 ということです。私たちの腐敗した本性から、悪い欲が出てきます。それがはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。これが「罪と死の原理」です。
 この原理の及ばない人は、ひとりもいません。アダムの堕落からキリストの十字架に至るまでの時代は、いわば"罪と死の原理の奴隷時代"であったのです。
 ところが、そこにただひとり、「罪と死の原理」の外にいるかたが現れました。そのかたこそ、神のもとから来られた神―人であるキリストです。キリストは時満ちて現れ、私たちのために、十字架と復活の御わざをなされました。
 しかしイエス・キリストは、この御わざを、決して単にイエス個人としてなされたのではありません。"真のイスラエル"としてなされたのです。
 私たちはそのとき、キリストの内に"取り込まれ"、一体化されていました。私たちはキリストと共に、なかば強制的に「十字架につけられ」、また共に「よみがえらされた」のです。
 キリストは私たちを、いわば"巻き込んで"死なれました。キリストは私たちの「代表」としてというより、私たちを巻き込んで死に、また伴ってよみがえって下さったのです。
 私たちは先に、父祖アブラハムのした行為がレビのした行為とも見なされ、また父祖ヤコブに語りかけたことがイスラエル民族全体に語りかけたことと見なされた事実を、見ました。父祖に起きた出来事は、民族全体の出来事と見なされるのです。
 同様にキリストの死は、霊によるイスラエル全体の死と見なされ、キリストの復活の出来事は、霊によるイスラエル全体の新しい生命へのよみがえり、と見なされます。キリストは私たちを伴い、「罪と死の原理」からの
    "出エジプト"(エクソダス)
 を敢行されたわけです。
 かつて指導者モーセは、イスラエル民族を率いてエジプトを出、三日目に紅海を渡って新しい土地に入りました。同様にキリストは、私たちを率いながら、十字架を通して「罪と死の原理」のもとから脱出し、三日目によみがえって、命の支配する新しい世界に導かれたのです。
 聖書は言っています。
 「キリスト・イエスにある者が、罪に定められる(有罪宣告をされる)ことは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(ロマ八・一〜二)
 キリストは私たちを、十字架死と復活によって、「いのちの御霊の原理」の支配下に導かれました。「いのちの御霊の原理」とは、私たちが神の御霊(聖霊)によって、キリストとの交わりに入れられ、キリストのもつ永遠の命と、聖潔(せいけつ)、愛、力にあずかれる、ということです。
 人は、信仰を持ち、霊によるイスラエルの民の一員となるとき、キリストと一体化させられます。その魂は、二千年前のキリストの十字架と復活の出来事に結びあわされます。
 キリストの死は、その人に"古い自分"の死となってあらわれ、キリストの復活は、その人に新しい生命への復活となってあらわれます。キリストを信じる者は、こうして「罪と死の原理」から解放され、「いのちの御霊の原理」と「永遠の生命」の中に入るのです。


AD七〇年のエルサレム滅亡は世の終わりの出来事の"型"

 キリストの十字架死・復活の後の出来事について見てみましょう。
 キリストの復活後五〇日目(ペンテコステの日)のこと、エルサレムに集まって祈っていたクリスチャンたちに、神の聖霊が下り、教会が誕生しました。「聖霊降臨」と呼ばれる出来事です。
 これは、かつてイスラエルの民がエジプトを出て紅海徒渉をした後、五〇日目に律法が与えられたことに対応するものです。
 律法授与のときは、約「三千人」が死にました(出エ一九・一、一一)。しかし聖霊降臨の時には、約「三千人」がキリストを信じて、永遠の命を受けました(使徒二・一、四一)
 キリスト復活から四〇年たって紀元七〇年になると、エルサレム滅亡という出来事が起こりました。ローマ軍が攻め寄せてきて、エルサレムはあとかたもないほどに滅ぼされてしまったのです。
 かつてカナンの地は、イスラエルの民によって猛火で焼かれました。同様に、このときエルサレムも猛火に包まれました
 かつてカナンの火による滅亡は、出エジプトの「四〇年」後でした(民数一四・三三)。同様にエルサレムの火による滅亡も、十字架の四〇年後に起こりました。
 またカナンの滅亡が、カナンに満ちる悪への審判であったように(レビ一八・二四〜二五)、エルサレムの滅亡は、神の都の腐敗への審判として起こりました(マタ二七・二五)
 しかしこの際、キリスト者は一人も死にませんでした
 というのは、キリスト者たちはみな、このことに関してあらかじめ語られていたキリストの警告を、守ったからです。キリストはかつて弟子たちに、もしエルサレムが軍隊に包囲されるのを見たなら滅亡が近づいたと考え、ユダヤにいる人々は山へ逃げ、市内にいる者はそこから出よ、と教えておられました(ルカ二一・二〇〜二一)
 キリスト者たちの避難は、実際には次のように行われました。
 ローマ軍は、ユダヤ人の反乱を鎮圧しようと、将軍ケスティウスの指揮のもとにエルサレムの都を包囲しました。彼らは、圧倒的な力をもって攻撃してきました。
 そして、都の中で籠城していた人々が執拗な攻撃に耐えかねて、今にも降伏するばかりであったときのことです。状況は、ローマ軍の即時攻撃に最も好都合であると思われました。
 ところがローマの将軍は、一見何の理由もないのに、軍隊を撤退させてしまったのです。
 これは、ご自分の民のために事件の成り行きを導かれる神の、あわれみに満ちた摂理でした。このことによって、キリストの警告に従おうとするすべての者に、脱出の機会が与えられたのです。
 事件は神の支配下にあったので、ユダヤ人もローマ人も、キリスト者の避難を止めませんでした。キリスト者たちはみな、ローマ軍の一時的な撤退の最中に、ただちに安全な場所――ヨルダン川の東側のペラの町に避難しました。
 この後、エルサレムは滅亡しました。しかしそのときキリスト者は、だれも死ななかったのです。


現代は"約束の御国待望時代"

 じつは、紀元七〇年のこのエルサレム滅亡の出来事は、世の終わりの出来事の「予型」でもあります。
 それはマタイの福音書二四章、ルカの福音書二一章などに記されたキリストの預言を、注意深く読むとわかります。キリストはそれらの預言の中で、紀元七〇年のエルサレム滅亡と世の終わりの出来事とを、二重写しに預言しておられます。
 つまり、紀元七〇年のエルサレム滅亡と同様のことが、世の終わりにも起こるのです。
 そこで私たちは、上図のように、十字架死から世の終わりに至る、もう1本の線をみることができます。これは霊によるイスラエルにとって、"約束の御国待望時代"とも呼べる時代です。
 かつて肉によるイスラエルは、荒野での試練の時を経てから、約束の地カナンに入りました。同様に霊によるイスラエルも、荒野のような地上世界での試練の時を経てから、約束の御国に入るでしょう。
 またかつて肉によるイスラエルは、「荒野の集会」(エクレシア) を形成しました。同様に霊によるイスラエルも、荒野のようなこの世のただ中で、教会(エクレシア) を形成しています(ヘブル三〜四章)
 やがてキリスト再来の時が来ると、火による大審判が全地に下されるでしょう。かつてカナンが火で滅ぼされ、エルサレムが火で焼かれたように、聖書によれば世界にはやがて、火による大審判が下されます。
 しかしそのとき、キリスト者は一人も滅びることはないでしょう
 紀元七〇年のエルサレムと同じく、やがて世の終わりに神の審判の炎が世界をおおうときも、キリストの警告に聞き従う者たちは、一人残らず救出されるからです。主イエスは、こう約束されました。
 「(その時)あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます」(ルカ二一・一八〜一九)
 世の終わりにも、キリスト者はだれも滅びることはないのです。


キリストは、A.D.70年のエルサレム滅亡と
世の終わりの出来事を、二重写しに語られた。



 以上、私たちは、キリストの十字架と復活が、どのような意味をもっているかを見てきました。
 霊によるイスラエルの祖となられたキリストは、霊によるイスラエルと一体の者として、十字架と復活の御わざをなされました。キリストは、ご自分に属する者をすべて"巻き込んで"死に、また"ともなって"復活されたのです。
 こうしてキリストを信じるすべての人々に、「罪と死の原理」からの解放が起こり、「永遠のいのち」が与えられました。信仰者にとって、キリストの十字架・復活は、いわば"第二のエクソダス"だったわけです。
 私たちは現在、荒野のようなこの世にあって、エクレシア(教会) の時代を過ごしています。しかしやがて定められた時が来れば、主は私たちを約束の御国に導いて下さいます。
 かつてヨシュアは、イスラエル民族を率いて、「乳と蜜の流れる地」カナンに導きました。同様に主イエスは、霊によるイスラエルの民をともない、やがて神の恵みに満ちた至福の御国に導いてくださるのです。

                                            久保有政著  

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