聖書 聖書に見る予型

三日間の死と昇天
エノク、イサク、エリヤ、ヨナとイエス・キリスト。


 キリストは、約三三歳のときに十字架の死を遂げられ、その三日後に復活し、四〇日地上におられたあと、天に昇られました。このキリストの"三日間の死と昇天"には、じつは幾つかの予型がありました。
 まず、その一つであるアブラハムとイサクの出来事を見てみましょう。
 アブラハムとは、紀元前二千年頃の人で、イスラエル民族の父祖とされる人物です。彼の子がイサクです。イサクの子は、ヤコブすなわちイスラエルで、その子孫がイスラエル民族です。


アブラハム−イサクの関係は、神−イエスの関係の型

 アブラハムが生まれた当時、すでに多くの人々は、多神教や偶像崇拝に傾いており、唯一の真の神に対する信仰は、まれでした。しかしそうした世界においても、アブラハムは真の神に対する信仰を、しっかり持ち続けていました。
 神はアブラハムを、メシヤを来たらせる民の父祖としてお選びになり、彼の信仰を訓練されました。
 神はその際、アブラハムに対して、きわめて親密な思いをもって接しられたようです。神はアブラハムを「わが友(イザ四一・八)と呼ばれました。
 「神の友」とまで呼ばれた人物は、じつは聖書では彼のみです。あの偉大な預言者モーセでさえ、「神のしもべ」と呼ばれたのです。
 神は、あたかもアブラハムがご自分と"同格の者"であるかのように、彼を「友」と呼ばれました。もちろん、彼は実際には神と同格ではありません。しかし、あたかも同格の者であるかのように「友」と呼ばれたのは、じつはこれから見ていくように、彼が"神の立場"に立たせられた人物だからなのです。
 アブラハムは高齢になって、妻サラとの間に、イサクを生みました。このアブラハム−イサクの関係は、神−イエスの関係の"型"です。
 どういうことでしょうか。アブラハムと神、またイサクとイエスの間には、次に見るように多くの対応関係があるのです。
 たとえばイサクは、アブラハムと妻サラとの間に生まれた「ひとり子(創世二二・二)と言われています。同様に、イエスは「神のひとり子(ヨハ一・一四)と言われています。
 また、イサクの誕生は前もって予告されていました(創世一八・一四)。同様に、イエスの誕生は旧約聖書中に予言されていました(イザ七・一四)
 また、「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えました(創世二五・五)。同様に、「神は御子(イエス) を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになりました(ヨハ三・三五)
 また神はアブラハムに、
 「イサクから出る者が、あなたの子孫と唱えられる」(創世記二一・一二)
 と言われました。アブラハムには、女奴隷ハガルとの間に生まれた子イシマエルや、妻サラの死後に迎えた二番目の妻から生まれた子らもいたにもかかわらず、神は、イサクの子孫がアブラハムの子孫と唱えられる、と言われたのです。
 同様に、神の御子(みこ)イエスにつく者たちが、「神の子」と唱えられます(ロマ九・七〜八、ガラ四・二八)
 このように聖書によれば、アブラハムと神、またイサクとイエスの間には、密接な対応関係があることがわかります。

       神――イエス
   アブラハム――イサク


 ここで、アブラハムが神の立場に、イサクがイエスの立場に立たせられたことを、最も如実に物語っている出来事に注目しましょう。


神はなぜアブラハムに、イサクをささげよと命じられたのか

 旧約聖書・創世記二二章には、現代人には一見理解しにくいような事柄が記されています。神はある日、突然アブラハムに、こう命令されました。
 「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行き、わたしが示す山で、彼を燔祭(はんさい――全焼のいけにえ) としてささげなさい」(創世二二・二)
 愛するひとり子を、父の手で殺せ――こんな残酷な命令があるでしょうか。
 結局、イサクが死のうとする寸前に神はアブラハムの手を止められたので、イサクは助かりましたが、神は一体どんな意図があって、このような命令を出されたのでしょうか。
 神はイサクを殺したいと思われたのでしょうか。いや、そうではなかったのです。
 イサクからアブラハムの子孫が出て、その子孫が「星のように多くなる」と約束されたのは、神でした。神が、ご自分で約束されたことを破るような不誠実なかたでない限り、そのようなことは到底考えられません。
 では、この命令は何のためだったのでしょうか。この命令の目的は、二つありました。
 第一に、この命令はアブラハムの信仰を試み、彼を真に「信仰の父」とするためでした。
 「神は、アブラハムを試みて言われた」(創世二二・一)
 と書かれています。しかしそれにしても、この命令を受けたときのアブラハムの苦悩は、言語に絶するものだったに違いありません。彼はおそらく、神に向かって、
 「なぜ、そんなことをしなければならないのですか」
 と叫んだでしょう。けれども、彼は結局、神のご命令に従いました。
 イサクは、アブラハムの子孫が「星のように多くなる」という約束を成就するために生まれた子です。もしその子が死ねば、すべては水泡に帰する、と普通なら考えます。しかし、彼はそうは考えなかったのです。
 神は約束された以上、約束をはたす真実なかたです。また神が命令される以上、きっと何か人間の思いを越えた、善なる意味があるに違いない。今、自分の人間的な知恵ではわからない。しかし、必ず何か善なるみこころがあるに違いない――彼はそう考えました。
 それだけではありません。たとえこの子が死んでも、生死の権をにぎる全能の神には、この子を復活させることもお出来になる、という希望さえ彼は持っていたのです。新約聖書・ヘブル人への手紙一一・一七には、
 「信仰によってアブラハムは、試練を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。・・・・彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである」
 と書かれています。彼は、神がかつて彼に言われた言葉、
 「わたしは全能の神である」(創世一七・一)
 を心にとめていたのでしょう。こうして彼は、神のご命令の奥にあるみこころを信じ、それを実行に移そうと、モリヤの地に向かったのです。
 何という信仰! 何という服従でしょうか。ここにこそ、彼が「信仰の父」と呼ばれるゆえんがあります。彼はどこまでも、神の真実と、人知を越えた神のご計画とを信じたのです。


アブラハムは神の立場に、イサクはイエスの立場に立たせられた

 しかし、この命令が出されたのは、単にアブラハムの信仰を試みるためだけではありませんでした。もう一つの目的があったのです。
 それはこの出来事によって、将来、神のひとり子イエス・キリストが犠牲としてささげられるということを、あらかじめ"予型"として示すことでした。この場合、アブラハムは神の立場に、イサクはイエスの立場に立たせられていました。
 実際、アブラハムがイサクをささげよと命じられた場所「モリヤの地」は、のちの日のエルサレムです(二歴代三・一)。つまりアブラハムは、将来イエスが十字架につけられる場所に行って、イサクをささげなさい、と命じられたのです。
 また、アブラハムがこの命令を受けたとき、彼の心の中でイサクは、いわば「三日間」死んだも同然だったでしょう。
 アブラハムはイサクを引き連れ、モリヤの地へ出発しました。しかしいかに神の真実を信じたとはいえ、愛するひとり子をささげる決心をしたその時、悲しみとあまりの辛さのゆえに、彼の心の中でイサクは、すでに死んだのです。
 モリヤの地に向かって出発したとき、イサクはアブラハムにとって、すでにささげられたも同然でした。アブラハムはこのとき、将来神が御子イエスを十字架につけるときの、神の痛みと同じような心痛を味わったことでしょう。
 彼はモリヤの地に着きましたが、それは決心して出発してから「三日目」(創世二二・四)だった、と聖書は記しています。彼はそこで、子を祭壇上にのせ、たきぎの上に横たわったその子に手を下そうとしました。しかしその瞬間、神は彼の手を止められました。もうそれで十分だったからです。
 そのとき、じつにアブラハムの心の中で、イサクは生き返ったのです。ヘブル人への手紙一一・一九に、
 「彼はいわば、イサクを生き返して渡されたわけである」
 と書かれています。神は、人類の代表者とも言えるアブラハムに、三日間、愛するひとり子が死んでいるのと同じような経験をさせられました。
 神はこうして、将来ご自分がなされることの、一つの"予型"を示されたのです。御子イエス・キリストが死に渡されることは、父なる神にとって、その後に復活があったとはいえ、腸のえぐり取られるような心痛だったでしょう。
 私たちは、アブラハムの心を察することにより、父なる神のみこころの、少なくとも一部は察することができるのです。


三日間の死と昇天

 イエス・キリストのご生涯中、三日間の死と昇天は、最も重要な出来事です。イサクがアブラハムの心中で三日間死んでいたことは、この三日間の死の予型です。そのほかにも聖書には、三日間の死と昇天の予型として、幾つかのものがあります。
 イエスの三日間の死の予型は、イサクの出来事ともう一つあり、それはヨナの出来事です。旧約聖書の「ヨナ書」には、預言者ヨナが三日間大魚の腹の中にいた、という出来事が記されています。それをさして、イエスは言われました。
 「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子(イエス)も三日三晩、地の中にいるであろう」(マタ一二・四〇)
 このようにヨナの出来事も、イエスの三日間の死の予型です。イエスが、
 「こう(旧約聖書に) 記してある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる」(ルカ二四・四六)
 と言われたのは、以上述べた予型がかかわっているからなのです。
 つぎに、昇天について見てみましょう。
 聖書によると、イエス以前に、死を見ずに天に引き上げられた人物が二人います。エノクとエリヤという人です。その詳細は、旧約聖書・創世記五・二四(ヘブル一一・五)と、第一列王記二・一一において見ることができます。彼らは、生きたまま、天に引き上げられたのです。
 これら三日間の死と昇天の予型を、年代順に並べたのが上図です。年代は、聖書の記述と考古学に基づいています。
 図中でエリヤとヨナは、ほぼ同時代の人です。このように、各出来事は約一千年ごとに起こりました。
 さらにこれらは、昇天――三日間の死――三日間の死と昇天――イエスご自身による三日間の死と昇天、というように"段階"をふんで起きたことがわかります。
 これらの予型は、イエスによる実際の三日間の死と昇天を目標とし、それを指し示していました。このこともまた、神の歴史への介入の一例です。
 神は、イエス・キリストによる救いの道を開くために、何千年も前から、着々と準備を進めてこられたのです。聖書は言っています。
 「イエスが渡されたのは、神の定めた計画と予知とによるのである」(使徒二・二三)
 イエスは、神の遠大なご計画と摂理、また神の綿密な準備のもとに、十字架にかかり、復活し、昇天されたのです。


イエスの三日間の死と昇天は、
はるか昔から準備されていた

                                            久保有政著  

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