キリスト

予言されたキリストのご生涯
キリストのご生涯の主な事柄は、すべて予言されていた


 イエス・キリストのご降誕の時、ご降誕の場所、またそのご生涯は、旧約聖書の中に予言されていました。


キリスト降誕の時

 まず、キリストご降誕の時に関する予言から見てみてましょう。
 ご降誕の時に関する予言は、旧約聖書の「ダニエル書」に記されています。ダニエル書はBC六世紀――すなわちキリスト降誕の五百年以上前に記されたものですが、実際この書がその頃記されたことは、エドワード・ヤング博士、メリル・アンガー博士らの研究によって、充分確証されています。
 まずダニエル書二章において、キリストがローマ帝国の時代に降誕されることが、予言されています(二・二五〜四五、特に二・三四)
 さらに九章になると、その年代についてまで予言されます。九章の予言はこうです。

 「それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六二週あることを知り、かつ悟りなさい(九・二五)

 この予言の意味を理解するには、予言が出された当時の状況を、多少知っておく必要があります。当時、ユダヤ人は有名な「バビロン捕囚」のさなかにあって、遠いバビロン帝国の地に、とらわれの身となっていました。しかし、その後ユダヤ人は、祖国に帰還することを許され、エルサレムを再建し始めます。
 この予言は、そのエルサレム再建命令が出された時から「メシヤなるひとりの君(すなわちイエス・キリスト)が来るまで、七週と六二週ある」という予言です。
 (刊行会訳では「七週。また六二週の間、・・・・・・」となっているが、そのような句点を途中に挿入する根拠はない。ダニエル書の予言性を否定しようとする近代主義者を除いて、聖書信仰に立つ学者たちは「七週と六二週」という訳が正しいと考えている。)
 「七週と六二週」は、計六九週です。ここで「週」と訳されている言葉(シュアブ)は、必ずしも日本語の一週間の意味ではなく、単に「」の単位を表す言葉です。つまり六九週は六九×七、すなわち四八三日、または四八三年を意味することになりますが、ここでは文脈上四八三年を意味します(エゼキエル書四・六、また民数記一四・三四等も参照)
 この予言は、エルサレム再建命令からメシヤ到来まで四八三年ある、という予言であるわけです。つまり、バビロン帝国に捕囚されていたユダヤ人が祖国への帰還を許されて後、エルサレムが再建されるよう命令が出されてから、四八三年後にメシヤが来られる、ということです。
 ユダヤ人が帰還を許可された年は、BC五三六年、四五七年、四四四年の三回です。これらのうち最も重要なのは、BC四五七年の帰還です。
 五三六年の時は神殿が再建されただけで、エルサレム市街や城壁などは再建されませんでした。そしてその後八〇年もの間、エルサレム市街や城壁などは荒廃したまま置かれ、工事は始まりませんでした。さらにその間に、民は、ユダヤの律法に禁じられていた雑婚をし始めていたのです。
 そのため四五七年に、祭司エズラが、エルサレムに帰還してその状況を見た時、彼は「驚きあきれ」(エズ九・三)、深く嘆き悲しみました。そして彼は、エルサレムが真に再建されることを願い、神の律法を教え始めました。
 また、神殿への定まったささげ物を納めるように教え、租税、税金等についての制度を制定し、裁判人を立て、エルサレム建て直しのために尽力したのです。こうしてエズラ帰還のこの年から、エルサレムは「神の都」としての真の復興を始めたと言ってよいでしょう。
 さらに四四四年には、ネヘミヤを指導者として、城壁の再建も始まるに至りました。城壁の完成後は、エズラとネヘミヤは協力して宗教改革をすすめ、エルサレムの都を整えていきました。こうしてBC四五七年から四三二年の二五年間に、エルサレムは再び要塞都市として復興しました。
 したがって、著名な聖書学者ヘンリー・ハーレイ博士らは、エルサレム再建命令の年を、四五七年と見ています。そうすると、その四八三年後はAD二六年です。これは、まさにキリストが「年およそ三〇歳」(ルカ三・二三) になられ、人々の前に現われて宣教を開始された年です。キリストは、AD二六年秋に宣教を開始し、その三年半後のAD三〇年春に十字架の死を遂げられたのです。
 このようにダニエル書の予言は、驚くべき正確さで、歴史上に成就したのです。


キリスト降誕の場所

 次に、キリスト降誕の場所についての予言を、見てみましょう。旧約聖書のミカ書五・二〜四には、こう記されています。
 「ベツレヘム・エフラタよ、・・・・・・イスラエルを治める者が、あなたのうちから、わたし(神)のために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。・・・・・・彼は主の力により、その神、主の名の威光により、立ってその群れを養い、彼らを安らかにおらせる。今、彼は大いなる者となって、地の果てにまで及ぶからである」。
 これはBC七〇〇年頃の予言で、預言者ミカによって予言されたものです。ここで「ベツレヘム・エフラタよ」とありますが、「エフラタ」は、「ベツレヘム」の古名です。
 この予言によれば、キリストはユダヤの小村ベツレヘム(ベツレヘム・エフラタ)に降誕され、「イスラエルを治める者」となり、神の力によって「その群れ(信者たち)を養い、彼らを安らかにおらせる」のです。そして「彼は大いなる者となって、地の果にまで及ぶ」と。
 実際イエス・キリストは、ベツレヘムに誕生されました。
 イエスの両親ヨセフとマリヤが当時住んでいたのは、ベツレヘムよりずっと北方のナザレ町でしたが、マリヤがみごもった時、全国で人口調査が行われることになりました。その人口調査のために、人々は故郷に帰ることを要求されたので、ヨセフは、みごもったマリヤを連れて、自分の故郷ベツレヘムへ帰ったのです。
 ベツレヘムでは、宿はいっぱいで泊まる余地がなかったので、彼らは馬小屋で夜をあかしました。その馬小屋でマリヤは月が満ち、イエスを産みました。このようにして、ベツレヘムにキリストが降誕されるという、旧約聖書の予言が成就したのです。


イエスの家系

 また、イエス・キリストがどのような家系に生まれるかということも、やはり旧約聖書の中に、あらかじめ予言されていたことでした。
 聖書の予言は時代的に段階を踏んでおり、キリストの生まれる家系の予言についても、時代を追うごとに詳しいものになっていくのを、私たちは見ることができます。
 聖書はまず冒頭の書・創世記の三章一五節で、キリストが人類の中に降誕することを予言しています。
 「わたし(神)は、おまえと女との間に、またおまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼(女の子孫=キリスト)は、おまえ(サタン)の頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとにかみつく」。
 この言葉には、二重の意味があります。一つは、人とへびの関係について、もう一つは、キリストとサタン(悪の勢力の主体)の関係についてです。
 「彼」は、象徴的に「女の子孫」と呼ばれる人物のことで、ヨハネの黙示録一二・五および一二・一七によれば、キリストをさします。
 「彼はおまえの頭を踏み砕き」とは、キリストが十字架によってサタンに致命傷を与える、ということです。一方「おまえは彼のかかとにかみつく」は、キリストの受難を意味しています(ロマ一六・二〇)
 これは旧約聖書において、キリストを暗示する最も古い予言であり、「女の子孫」として人類の中に生まれ、やがてサタン(悪の勢力の主体)を打ち砕く者となるキリストを暗示した予言です。この予言は、アダムとエバの堕落直後になされました。
 時代がすすんでBC一九世紀になると、キリストがイスラエル民族の「ユダ」の部族に生まれることが、予言されました。
 「つえ(王権の象徴)ユダを離れず、立法者(神)のつえは、その足の間を離れることなく、シロ(究極的にはキリストを意味する)の来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う(創世四九・一〇)
 さらにBC一〇〇〇年頃になると、予言はさらに詳しくなります。キリストはユダの部族の「ダビデ王」の家系に生まれることが、予言されるのです。
 「わたし(神)は、(ダビデ)の家系をとこしえに堅く定め、その位を天の日数のようにながらえさせる。・・・・・・彼の家系はとこしえに続き、彼の位は、太陽のように常にわたしの前にある」(詩八九・二九、三六)
 この言葉は、イエス・キリストがダビデの子孫として生まれ、私たちの救い主、また「王の王、主の主」として立てられたことによって、その究極的な成就を見ました。この予言通り、キリストはダビデの家系であるヨセフとマリヤの家に、ご降誕されました(ルカ二・四)
 このように、キリストはまず人類の中に降誕することが予言され、つぎにイスラエル民族の「ユダ」の部族、またユダ族のダビデ王の家系に生まれるというように、時代が進むごとに、予言がせばめられていったのです。


キリストのご生涯

 イエス・キリストは、神の福音を宣べ伝え、人々を導き、人々の病をいやすご生涯を送られました。これについて、新約聖書は次のように記しています。
 「イエスは、多くの人がついて来たので、彼らをみないやされた。・・・・・・これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった
 『これぞ、わたし(神)の選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。・・・・・・彼はいたんだ葦(あし)を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける』(BC七〇〇年頃の予言 イザ四二・一〜四)」。
 また、キリストが多くの病人をいやされたことは、
 「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった(BC七〇〇年頃の予言 イザ五三・四)
 という旧約聖書の予言の成就である、とも言われています (マタ八・一七)
 キリストの十字架の光景についても、旧約聖書には次のように予言されていました。
 「私(キリスト)を見る者は、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
 『主(神)に身をまかせよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから」(BC一〇〇〇年頃の予言 詩篇二二・七〜八)
 これは、「メシヤ詩篇」と言われる旧約聖書の預言詩の中にある予言で、十字架のまわりでキリストをあざける人々を予言したものです。福音書の記録によると、人々は十字架のまわりでこう言ってあざけりました。
 「彼(キリスト)は、神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがよい。『わたしは神の子だから』と言っているのだから」(マタ二七・四三)
 またキリストの十字架のもとで、ローマの兵士たちがキリストの着物をくじで分け合うことも、予言されていたことでした。
 「彼らは、私(キリスト)の着物を互いに分け合い、私の着物をくじ引きにします(BC一〇〇〇年頃の予言 詩篇二二・一八)
 福音書の記録によると、キリストの肌着は「一つ衣」だったので、この予言通りローマ兵たちは、それを「くじ」を引いて分け合いました(ヨハ一九・二三〜二四)
 そのほかにも、キリストがエルサレムに「ろば」に乗って入られること(ゼカ九・九)違法な裁判にかけられること(イザ五三・八)、不利な証言の前にも口を開かないこと(イザ五三・七)なども、旧約聖書に予言されたことでした。
 また、十字架上でとりなしの祈りをすること(イザ五三・一二)、十字架上で渇きをおぼえること(詩篇二二・一五)、十字架上で「やり」で突かれること(ゼカ一二・一〇)、両側の十字架の盗賊の骨は砕かれたのにキリストの骨は砕かれないこと(詩篇三四・二〇)なども、すべて予言されていたことでした。
 キリストの復活に関しても、次のように予言されていました。
 「まことにあなた(神)は、私(聖徒)の魂をよみに捨ておかず・・・・・・」(BC一〇〇〇年頃の予言 詩篇一六・一〇)
 これも、「メシヤ詩篇」と言われる預言詩の中の一節です。キリストは十字架の死の後、死者の場所である「よみ」に下り、そこから三日後に復活されました。キリストが真の「聖徒」だったならば、彼が死の中に閉じ込められていることなど、あり得なかったのです。また、
 「もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主(神)のみこころは彼によって成し遂げられる(BC七〇〇年頃の予言 イザ五三・一〇)
 とも予言されています。これは「彼」=キリストが、もし自分の生命を人々の罪のためのいけにえとして犠牲にするなら、「末長く子孫を見ることができ」、しかも神のみこころは「彼によって成し遂げられる」というものです。
 この「末長く」と訳された言葉は、原語(ヘブル語) では「永遠に」と同じ言葉です。この聖句は、キリストの復活を暗示・予言していたのです。


十字架の意味について

 最後に、キリストの十字架の意味について見てみましょう。旧約聖書は、キリストの十字架の意味についても、その何百年も前から語っていました。
 「彼(キリスト) は、主(神)の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った・・・・・・まことに彼は、われわれの病を負い、われわれの悲しみをになった・・・・・・彼は、われわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ・・・・・・彼は、自ら懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ(BC七〇〇年頃の予言 イザ五三・一〜五)
 ここに、あのキリストの十字架が「われわれのとが(罪)のため」、また「われわれの不義のため」であったと、語られています。私たちは、あの十字架上のキリストの傷、すなわち「その打たれた傷によって・・・・・・いやされた」のです。つまり罪の赦しを得、滅びから救いに入れられるのです。


キリストの十字架は、
私たちのあがないのためだった。

 キリストは、私たちの罪のために、私たちを罪と滅びより救うために、十字架にかかられました。聖書が言っているように、
 「われわれは、みな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。(神)は、われわれすべての者の不義を、彼の上におかれた(イザ五三・六)
 のです。神は、私たちすべての者の罪を、十字架上のキリストにおかれました。この、
 "罪のないかた(キリスト)が私たちの罪を代わりに担われた"
 ということによって、神はキリストを信じるすべての人の罪を赦し、神の子としてくださるとの約束をお与えになっています。それはキリストを信じるすべての人々が、やがて来る神の王国の至福の支配に、入れるようになるためなのです。
 このように聖書は、キリストのご降誕、そのご生涯、またその十字架の意味についても、明確に予言していました。キリスト降誕の何百年も前から、旧約聖書の中に予言されていたのです。
 キリストに関するこのような予言をした旧約聖書が、キリスト降誕以前の紀元前の時代に存在していたことは、多くの考古学的証拠によって確証されています。
 降誕を予言され、また予言通りの生涯を送った人物は、世界のどこを探しても、イエス・キリストのほかにはいません。これによっても私たちは、イエス・キリストがまことに神よりつかわされた救い主であるという確信を、ますます深めることができるのです。

 そのほか、数多くあるキリスト予言のうち、幾つかを記しておきましょう。


贖うかた
 「私(ヨブ) は知っている。私を贖うかたは生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを(ヨブ一九・二五 BC一〇〇〇年前後)
 ――かつて義人ヨブは、苦難にあったときに、神の霊感によってこれを語りました。
 「私を贖う(救う)かた」が「後の日にちりの上に立たれる」とは、神が後にキリストにおいて地上に来られたことを、指しています。

神の御子(みこ)
 「あなた(キリスト)は、わたし(神)の子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは、国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える」(詩篇二・七〜八 BC一〇〇〇年頃)
 ――「メシヤ詩篇」と言われる詩篇第二篇の言葉です。
 「きょう」とは、特定の日ではなく、むしろ"永遠のきょう"です。これは永遠において神からお生まれになった神の御子が、全世界の支配者になるとの予言。


処女降誕
 「主(神)みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子(キリスト)を産み、その名を『インマヌエル』(神われらと共にいます)と名づける。――インマヌエル――その広げた翼は、あなたの国の幅いっぱいに広がる」(イザ七・一四、八・八 BC七〇〇年頃)
 ――キリストの処女降誕の予言です。
 キリスト降誕の目的は、人々のためにご自分が"新しいアダム"となることでした。古いアダムは人類に罪と死をもたらしましたが、新しいアダムは、義と命をもたらすのです。
 古いアダムは、男女の結合によらずに生まれました。そこで新しいアダムも、男女の結合によらず、処女からお生まれになったのです。
 救い主キリストは、神・人の両性を合わせ持つ必要がありました。単に神であるだけなら、人々の身代わりになることはできず、単に人であるだけなら、罪の力を克服することはできないからです。
 そこで彼は、肉によればマリヤの胎から生まれ、霊によれば神の聖霊によって、神から来られたのです。彼こそ、「インマヌエル」(神我らと共にいます)の事実であったのです。


主権者
 「ひとりのみどりご(キリスト)が、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」(イザ九・六 同)
 ――処女から生まれたこの男の子は、神からの権威を持つかたです。イエス・キリストの力強い権能に関する予言。


神の霊に満ちた救い主
 「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝(キリスト)が出て実を結ぶ。その上に(神)の霊がとどまる。・・・・・・この方は主を恐れることを喜び・・・・・・」(イザ一一・一〜五 同)
 ――「エッサイ」はダビデ王の父。「新芽」とはダビデのことでしょう。「若枝」は旧約聖書独特の象徴的表現で、キリストを意味します(エレ二三・五) 。神の霊に満ちた「救い主」の出現に関する予言です。


エルサレム入城
 「この門(聖所の東向きの外の門)は、閉じたままにしておけ。あけてはならない。だれもここから入ってはならない。イスラエルの神、主が、ここから入られたからだ(エゼ四四・二 紀元前五八〇年頃)
 ――キリストは十字架刑の数日前にあたる日曜日に、人々の歓呼に迎えられながら、エルサレムに入られました。そのときキリストは、エルサレムの東側の地から来て(マタ二一・一)、エルサレム城壁の東の門(「黄金の門」と呼ばれる)を通って入られました。
 エルサレムは、その数十年後のAD七〇年には、ローマ軍によって破壊されてしまいました。しかしやがて市街は再建され、現在の城壁も、一五二四年にオスマン帝国のスレイマンによって再建されました。
 彼はこのとき、エルサレムの東の門(黄金の門)を閉じたままにしました。それは現在も閉じたままです。
 預言者エゼキエルの予言によれば、終末の日に新しくされたエルサレムにおいても、東の門は閉じたままにされるでしょう。


エルサレムの東の門(黄金の門)。
イエスは、ここからエルサレムに入られた。
それは現在閉じたままである。



裏切られる
 「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた(詩篇四一・九 BC一〇〇〇年頃)
 ――これは直接的には、イスラエルの王ダビデが、息子アブサロムに反逆され、部下アヒトペルに裏切られた経験をさしています。しかしダビデは、イエス・キリストの"予型"的人物の一人です。ダビデが裏切られたこの出来事は、キリストが弟子ユダに裏切られることの、予型となったのです。


違法な裁判にかけられる
 「彼は、暴虐なさばきによって取り去られた(イザ五三・八  紀元前七〇〇年頃)
 ――キリストに死刑判決を下した裁判は、ユダヤの法に照らすと、違法なものでした。
 ユダヤ法(ミシュナ)は、死刑の"即決"を禁じ、翌日もう一度投票をやり直すべきことを、規定していました。ところがキリストの裁判は、夜のうちに性急になされ、翌朝には処刑、という運びとなったのです。
 また、キリストを死刑とするべき決定的な法的証拠は、何もありませんでした。人々の証言すら噛み合いませんでした。
 福音書によると、大祭司の「おまえがキリストか」と問いに、イエスが「わたしがそれである」とお答えになったことが死刑の断定となった、とされています。しかしユダヤ法には、これを涜神罪(とくしんざい)とし死刑と断定する規定は、ありませんでした。


不利な証言の前に口を開かない
 「彼(キリスト)は痛めつけられたが、それを忍んで口を開かず、ほふり場に引かれていく小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(イザ五七・三 同)
 ――福音書の記録によると、イエスは十字架刑の前夜に捕らえられて、ローマ総督の前に立たれました。そのときユダヤ人の指導者たちが、イエスに対する様々な不利な証言をなして、イエスを訴えました。しかし、
 「総督が不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった」(マタ二七・一四)
 のです。


とりなしをする
 「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする(イザ五三・一二 紀元前七〇〇年頃)
 ――キリストは十字架にかけられた際、神に背き続けている人たちのために、とりなして(仲裁して)言われました。
 「父(神) よ。彼らをおゆるしください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ二三・三四)


十字架上のかわき
 「私(キリスト)の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています」(詩篇二二・一五 紀元前一〇〇〇年頃)
 ――これはメシヤの受難を予言したメシヤ詩篇『詩篇二二篇』中の言葉です。キリストは十字架上で、
 「わたしはかわく」(ヨハ一九・二八)
 と言われました。


贖いの死
 「わが神、わが神、どうして私(キリスト)をお見捨てになったのですか(詩篇二二・一 同)
 ――この言葉は、『詩篇二二篇』冒頭の句です。詩篇二二篇は、直接的にはイスラエルの王ダビデの個人的体験をもとにした神への讃歌ですが、キリストの受難に関する"預言詩"という側面も、同時に持っています。
 キリストは、この言葉を十字架上で叫ばれました。ただし、最後の言葉ではありません。最後の言葉は「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ二三・四六)です。
 キリストは、神を恨んで「わが神、わが神、どうして・・・・・・」と言われたのではありません。この言葉は、キリストの十字架上での想像を絶する苦しみを示したものです。キリストの死は、一般の殉教者の死のように"神のもとへ行く"ことではありませんでした。
 それは私たちの罪を担い、"神からの無限の隔たりに追いやられる"ことだったのです。神と一体であるかたが、神からの無限の隔たりに追いやられる――これは生木が裂かれるような苦しみを、キリストにもたらしました。キリストのこの言葉は、その苦しみが、苦しみのままでほとばしり出たものと言えるでしょう。
 しかしこの言葉が、苦難のさ中で、なお神に向かって叫ばれるところに、神への信頼が横たわっていることを忘れてはなりません。キリストはこの言葉を叫ぶことによって、詩篇二二篇に示された「神による贖い」のみわざが、今や成就しようとしていることを示されたのです。


骨は砕かれない
 「主(神)は、(正しい者)の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない」(詩篇三四・二〇 同)
 ――旧約聖書によれば、もしキリストが完全に正しく義なるかたであるなら、彼の骨は砕かれないはずでした。
 キリストの十字架の際、両隣りの盗賊の足の骨は、ローマ兵によって砕かれました。しかしキリストの骨は、砕かれなかったのです(ヨハ一九・三一〜三六)


やりで突かれる
 「彼ら(イスラエルの人々)は、自分たちが突き刺した者、わたし(キリスト)を仰ぎ見・・・・・・激しく泣く」(ゼカ一二・一〇 BC五二〇年頃)
 ――キリストは十字架上で、最後に槍でわき腹(おそらく心臓)を"突かれ"、完全に息絶えられました。
 やがてキリストが再来される時、イスラエルの人々は、天が開けて地上に降りて来られるキリストのわき腹に、「突き刺し」傷を見るでしょう。そして彼らは、かつて自分たちの先祖が十字架にかけたおかたが救い主だったことを本当に知って、激しく嘆き、回心するでしょう(ロマ一一・二五〜二七、黙示一・七)


新しい契約を立てる
 「その日、わたし(神) は、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。・・・・・・わたしは、わたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。・・・・・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない(エレ三一・三一〜三四 BC六〇〇年頃)
 ――これは、モーセの律法にかわる新しい律法と、「新しい契約」が立てられる日が来るとの予言です。
 この予言は、キリストの血による「新しい契約」が立てられたことによって、成就しました。「新しい契約」とは"キリストの犠牲のゆえに信仰によって義とされる"との約束のことです。
                                            久保有政著  

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