サタンの起源と滅亡
悪の勢力の主体=サタン。その起源と現在、そして滅亡の時。
サタンと戦う大天使ミカエルの像(米国テキサス州オースチン)
終末は、悪の勢力の主体であるサタン(悪魔)が滅亡し、悪に終止符が打たれる時でもあります。そこで最後に、サタンの起源と、その活動、またその最期について見てみましょう。
サタンの起源
まず、サタンの起源から見てみましょう。
神が、悪の勢力を生むためにサタンを創造されたのでしょうか。いいえ、そのようなことは考えられません。聖書は言っています。
「あなた(神)は、善にして、善を行なわれます」(詩篇一一九・六八)。
神は善であり、その方に造られた世界は、当初善なるもので満ちていました。そこにやがて、サタンが現われました。つまりサタンは、もともとは善だったものが変質して生じたと考えられます。
サタンは、もともとは天使のひとりであったに違いありません。
天使は、神の被造物であり、「仕える霊」であって、「救いの相続者となる人々(クリスチャン)に仕えるために」造られた者たちです(ヘブ一・一四)。しかし天使は、自由意志を与えられた者であり、人間と同様に堕落する可能性をも持っていました。
実際、聖書は「罪を犯した御使いたち」に関して言及しています(ユダ6)。自由意志を持つ天使たちは、堕落する可能性も持ち合わせていたのです。
サタンとなった者も、もとはといえば天使のひとりだったでしょう。しかも、天使の中でも有力な、長のような存在であったに違いありません。それは現在、サタンが多くの悪霊を従えていることから、想像されます。
サタンとなった天使の堕落は、人間の創造以後、また人間の堕落以前に起こりました。
なぜなら人間が創造されたとき、神はお造りになったすべてのものを見て、「非常に良い」と言われました(創世一・三一)。これはそのとき、被造物である天使たちも、堕落していなかったことを意味しています。ですからサタンの堕落は、それ以後に起こりました。
一方サタンの堕落が起こったのは、人間の堕落以前でした。サタンはあのエデンの園で、へびに宿って人間を誘惑したからです。したがって人間の創造以後、人間の堕落までの期間内に、サタンの堕落が起こったと見るべきでしょう。
これは、サタンの堕落は人間よりも罪が重い、ということでもあります。というのは、人間は誘惑者(サタン)に会って堕落しましたが、サタンは誘惑者なしに自ら堕落したからです。
人間は罪に捕らわれた者ですが、サタンは、罪の創始者となったのです。
ルシファー
聖書には、次の言葉が記されています。
「暁の子(ルシファー)、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。
『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。蜜雲の頂に上り、いと高き方のようになろう』。
しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる」(イザヤ一四・一二〜一五)。
この聖句は、前後関係を見ると、バビロンの王に関して言われたところです。「暁の子(ルシファー)、明けの明星」は、第一義的にはバビロン王をさしています。
ところが、その後の文章を見ると、これは単にバビロン王のことだけではなく、サタンの堕落の時の様相も二重写しに述べられている、との感があります。たとえば、
「どうしてあなたは天から落ちたのか」
と言われていますが、バビロン王は、もともと「天」、あるいは「天」で象徴されるような状態にはいませんでした。
したがって、これは単なるバビロン王に関する言及ではなく、サタンの堕落のときの様子を重ね合わせて言っているものだ、と思えるのです。
もしそうなら、サタンは堕落の時にこう言ったのです。
「私は・・・・星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。蜜雲の頂に上り、いと高き方のようになろう」。
つまりサタンは、高慢(傲慢)の罪によって堕落しました。彼は自分のおるべき所を捨て、高慢になり、「いと高き方」=神のようになろうとしたのです。
バビロン王は、このサタンに似ていました。しかしこうした高慢は、もともとはサタンが世界に持ち込んだものなのです。このようにサタンは、堕落した天使だと思われます。
もっとも、この"サタン=堕落天使説"に対して、反対する者がいないわけではありません。ある人々は言います。
「ヨハネ八・四四には、『悪魔は初めから人殺しであり、真理に立つ者ではない』と記されている。『初めから』という言葉は、"堕落する前の状態があった"という説と矛盾するのではないか」。
しかし、この「初め」という言葉が、どの程度のことを意味しているかが問題です。それは"すべての出来事の初め"とも取れますが、一方では"人類の歴史の初め"という意味にも取れると思われます。
人類の歴史は、エデンの園にあったあの「善悪を知る木」に始まりました。エバが「善悪を知る木」に近づいた時、サタンはすでに堕落して悪の代表と化していました。
人類の歴史の初めに、サタンは悪の勢力の主体として現われました。堕落前の状態があったとはいえ、サタンは人類にとっては、当初から悪しき偽り者だったのです。
ですから、「初めから」という言葉と、サタン=堕落天使説とは必ずしも矛盾しない、と考えられます。
堕落前のサタンはエデンの園を守っていた
旧約聖書エゼキエル書二八・一二〜一六の次の聖句には、サタンの堕落のことが、二重写しに語られていると考えられています。
「神である主は、こう仰せられる。あなたは全き者の典型であった。・・・・あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。・・・・わたしはあなたを、油注がれた守護者ケルブと共に、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。
あなたの行ないは、あなたが造られた日から、あなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。・・・・あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして、神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた」。
この聖句によると、サタンは堕落前に、エデンの守護天使ケルブと共に、エデンの園にいました。守護天使ケルブと共にエデンを守る役か、管理する役にあたっていたのでしょう。
「わたしはあなたを・・・・守護者ケルブと共に、神の聖なる山に置いた」。
この「聖なる山」とは、天界にある聖なる山シオンのことでしょう。
黙示録によると、天界には神の聖なる山「シオン」がある、と言われています(黙示一四・一、ヘブ一二・二二)。堕落前のサタンは、天界のその聖なる山シオンに置かれ、エデンの園を見守っていたのです。
現在の世界は、天界と地上界とが分立して存在しています。しかし当時のエデンの園は、天界と地上界が一体化していました。
創世記二・一五には、
「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」
と記されています。エデンの園の地上的部分は、アダムによって守られました。しかし天界部分については、堕落前のサタンや、守護天使ケルブが守ったのでしょう。
「ケルブ」はひとりの守護天使を表し、「ケルビム」はその複数形です。「ケルビム」は、アダムとエバのエデン追放の際の記事に、出てきます。
「こうして神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと、輪を描いて回る剣を置かれた」(創世三・二四)。
この「ケルビム」は、守護天使「ケルブ」の複数形なのです。エデンの園は、アダムとエバの追放以前においても、その天界部分において複数の守護天使が守っていたに違いありません。
新改訳(日本聖書刊行会訳)では、先のエゼキエル書二八・一四の言葉は、
「わたしはあなたを、油注がれた守護者ケルブと共に、神の聖なる山に置いた」
と訳されていますが、これは「七〇人訳」(旧約聖書の古代ギリシャ語訳)を参考に訳したもので、じつは原語のヘブル語では、次のようになっています。
「あなたは、油注がれた守護者ケルブ。わたしはあなたに与えた。あなたは神の山にいて、火の石・・・・」(新改訳・欄外注参照)。
この言葉からすれば、サタンは守護天使ケルブ(ケルビム)のひとりであった、という意味に取れます。堕落前のサタンは、天使のひとりであり、しかも長のような存在であったのでしょう。
彼は、すぐれた知能を持つ者であり、多くの権限が与えられていたに違いありません。
サタンは自分が拝まれることを欲した
しかし彼は、やがて「罪を犯し」ました。彼はどうも、天使としての身分を越えたことを行なったようです。
新約聖書によると、サタンはイエス初来時に、荒野の試練にあったイエスに対して、
「もしあなたが私を拝むなら・・・・」
と誘惑しています(ルカ四・七)。サタンの欲したのは、自分が拝まれること、つまり神のように崇拝されることでした。
サタンは、かつてエデンの園にいたときに、「仕える者」という天使としての身分をわきまえず、自分が拝まれることを望んだのでしょう。彼は高慢になって、「いと高き方のようになろう」(イザ一四・一四)と欲したのです。
そして他の天使たちに、
「もしあなたが私を拝むなら・・・・」
と誘惑しました。この誘惑にのって、天使たちの一部はサタンに従いました。サタンに従った天使たちは、現在「悪霊たち」と呼ばれる者であって、サタンの配下で手下として活動しています。
あの「レギオン」(大勢の意)と呼ばれた男にとりついていた大勢の悪霊たちは、この堕落した天使たちの末路でしょう(マコ五・九)。そして、彼ら悪霊たちのかしらがサタンなのです。
サタンは、「悪霊どものかしらベルゼブル」(マタ一二・二四)とも呼ばれています。「ベルゼブル」は、サタンの別名なのです。イエスは、ベルゼブルとサタンを同一視されました(マタ一二・二四、二六)。
ベルゼブルとは、「地に落ちた主」または「地に落ちた神」の意味です。彼は堕落して悪の首領となりました。
しかしサタンは、単に他の天使たちを堕落させただけでは終わりませんでした。彼は人間をも、巻き添えにしたのです。
それは、神の愛の対象である人間を堕落に巻き込むことによって、神に対する切り札を得ると考え、自身の存在を長らえようと計ったからです。
サタンは、自分が堕落したすぐあとに、人間を堕落の巻き添えにすることに着手しました。彼は蛇の姿をとってエバの前に現われ、
「(善悪を知る木から取って食べれば)あなたがたは神のようになり、善悪を知るようになる」(創世三・五)
と言って誘惑しました。
エデンの園でサタンは二人を罪へと誘惑した
サタンは、自分が「神のようになろう」と思うことによって堕落したので、この堕落に人間を巻き込むために、エバに対しても「あなたがたは神のようになる」と誘惑したのです。
アダムとエバは、このサタンの計略にはまり、堕落しました。そしてエデンの園を追放され、以来、人類の苦難の歴史が始まりました。サタンは、人間を同罪にすることに成功したのです。
サタンは神の支配権について異議を唱えた
アダムとエバが堕落したとき、彼らを堕落させた悪しきサタンを、神が滅ぼすことはできませんでした。
これは、「サタンと神のどちらが強いか」というような力の問題ではありません。サタンは人間を巻き添えにして堕落させたので、もしサタンを滅ぼすなら、同罪の人間をも絶ち滅ぼさなければならなかったからです。
もしサタンだけを滅ぼして、人間を滅ぼさないなら、公正であるはずの神はそしりを受けなければなりません。また神は、人間を愛しておられたので、人間を滅ぼすことを望まれませんでした。
神は、いずれサタンを滅ぼすにしても、人間は救いたいと願われました。
というのは、サタンは誘惑者なしに自ら堕落しましたが、人間は誘惑者にあって堕落したからです。サタンはいずれ滅ぼされるべきだとしても、人間は憐れみを受ける余地がありました。
また神は、「神のかたち」に造り、ご自身の子どもたちとなるべく造った人間たちを、滅ぼすことをお望みにならなかったのです。
神は人間を救うために、ある計画を立てられました。それは、サタンの存在をしばらくのあいだ許容し、その間に人間の救いを達成しよう、というものでした。
そして、人間の救いが完成したとき、サタンを葬ると、心に決められたのです。
さらに、神はサタン許容の期間内に、ある事柄を明らかにしようとされました。それは、サタンの提出した異議に関係しています。これについて見るために、サタンがエデンの園でアダムとエバを誘惑したときの言葉を、もう一度検討してみましょう。
サタンがエデンの園で発した誘惑の言葉は、
「あなたがたは(禁断の実を食べても)決して死にません」
そして、もしその実を食べれば、
「あなたがたは神のようになる」
でした(創世三・四〜五)。
まずサタンは、「それを食べると必ず死ぬ」と神が言われた木の実を食べても「決して死にません」と言うことによって、神をウソつきとしました。サタンは、神の命令や助言、導きなどは、不用のものとしたのです。
言い換えれば、人間は神の命令や導きに従わなくても生きることができると、異議申し立てをしたのです。
次にサタンは、この木の実を食べるなら、「あなたがたは神のようになる」と誘惑しました。「神のようになる」は、他に依存しない、主権者としてふるまう者になる、という意味です。
それは次のことからわかります。神は、エジプトの王パロの圧政下からイスラエル民族を救出するために、モーセをお立てになりましたが、その時モーセに言われました。
「見よ。わたしはあなたを、パロに対して神のごときものとする」(出エ七・一)。
この「神のごときもの」とは、他に支配されず、自らの意志を貫く主権者を意味しています。すなわちサタンは、「あなたがたは神のようになれる」と言うことによって、次のようなことを言おうとしたのです。
「あなたがたは、神(God)の支配なしでも幸福になれます。私の言うようにすれば、あなたがたは神の支配など受けずに、独立して、自分が神(a
god)のようになれるのです。そうすればあなたがたは、自分の好きなことをすることができ、賢い、力ある主権者として、ふるまうことができます。ですから、そのようにしなさい」。
何という巧妙な誘惑でしょう。サタンはこうして、まことの神の支配や導きを拒んで、独立するよう誘惑したのです。サタンは、神中心でなく、自己中心な生き方こそ、幸福の道だとしました。
神中心に生きる必要はない。神の支配や導きのもとにいる必要はない。自分で、自分たちの社会を築きなさい。人間自身が神になってこそ、幸福になれるのだ、というかのようにです。
サタンは、人間の命や幸福が神の支配や導きに依存していることについて、異議を唱えたのです。
このように、サタンがエデンの園で発した誘惑の言葉は同時に、神の支配や導きの妥当性に関する、神への異議申し立てでもありました。
神は、この異議に対し、全被造物の前に疑問の余地なく明らかにすることを望まれました。すなわち、人間が命を保ち、真に幸福になるためには神の支配や導きが絶対的に必要であることを、天地を証人に、その前に実証することを望まれたのです。
このために、ある程度の時間がかかることを、神はご存知でした。人間の世界でさえ、裁判で一人の人物に関することが決着するために、数十年の歳月を要することがあります。
ましてや神の支配権に関するこの重要な問題が、疑問の余地なく決着するために、ある程度の長い時間が必要であることは明らかでした。
しかし、この問題が全被造物に対して明らかな形で決着を見れば、それは結局人間の幸福と繁栄を確立するものとなることを、神は知っておられたのです。
神は「女の子孫」と呼ばれる人々のことを念頭においておられた
神はこのとき、「女の子孫」(創世三・一五、黙示一二・一七)と象徴的に呼ばれる人々のことを、念頭に置いておられました。これは、キリストを頭とするクリスチャンたちのことです。
神は、彼らがつねに神の御言葉を大切にし、神を真実とし、神の支配と導きに従うこと、そしてついには永遠の命と真の幸福に至ることを、ご存知でした。彼らはサタンに屈せず、苦難に負けず、神を愛して栄光に至るのです。
神は、サタンを許容している間に、この神の民を創始し、育成することを計画されました。そして、神の民が完成したとき、サタンを滅ぼすと決意されたのです。
神はまた、キリストを頭とする神の民に、サタンを滅ぼすこの仕事をゆだねられました。それは、神の民自身がサタンを滅ぼすことによって、サタンの提出した異議に最終的な決着をはかることができると考えられたからです。
すなわち、命と幸福は神にあることを、神の民自身が実証することになるのです。そして神の民自身が悪の勢力を排除したとき、神は彼らの間に、真の平和と繁栄と幸福を確立することができます。
このことは、人間の堕落後、神がエデンの園で蛇に言われた次の言葉に見ることができます。
「わたしは、おまえと女の間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼(女の子孫)は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとにかみつく」(創世三・一五)。
これは「原始福音」と呼ばれる聖句で、聖書の一番最初に出てくるキリスト預言と言われています。この聖句には、単なる蛇と女の関係だけでなく、キリスト預言の言葉が二重写しに語られています。
ここで「おまえ」すなわち「蛇」は、サタンを意味しています。これは黙示録に、
「この巨大な竜、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は・・・・」(黙示一二・九)
と言われていることからもわかります。
一方「彼」は、「女の子孫」のことですが、キリストを意味しています。あるいは、キリストを頭とするキリスト者たちのことです。それは黙示録の次の言葉から明らかです。
「女は男の子(キリスト)を生んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。・・・・竜(サタン)は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った」(黙示一二・五、一七)。
「彼」「女の子孫」は、キリスト、またはキリストを頭とするキリスト者たちのことなのです。さて原始福音は、
「おまえ(蛇)は彼のかかとにかみつく」
と述べています。これは、サタンによるキリストの受難を意味しています。十字架上の受難です。しかし一方では、
「彼はおまえの頭を踏み砕き・・・・」
とも言われています。「頭を踏み砕く」ことは、致命傷です。これはキリストがサタンに致命傷を与えることを、意味しています。キリストは十字架の死によって、罪と死の力を持つ者=サタンに、致命傷をお与えになったのです。
板前はウナギを料理するとき、ウナギの頭をキリで、まな板にさします。すると、ウナギはしばらくはジタバタしていますが、やがて静かになります。
「あの古い蛇」であるサタンも、キリストの十字架によって、頭に致命傷を負いました。しばらくはまだジタバタしていますが、やがて完全に死に絶える時が来るのです。
こうして神は、サタンを滅ぼす仕事を、神の民の代表であるキリストにゆだねられました。キリストは、神の民を率いて、最終的にサタンを完全に絶ち滅ぼすでしょう。使徒パウロは言っています。
「平和の神は、サタンをすみやかに、あなたがたの足の下に踏み砕くであろう」(ロマ一六・二〇)。
また黙示録には、
「私は、開かれた天を見た」(黙示一九・一一)
とあり、天が開けてキリストがその姿を現わし、再臨される光景が描写されています。
「(彼は)義をもって裁きをし、戦いをされる。・・・・天にある軍勢は彼につき従った」(黙示一九・一一、一四)。
クリスチャンたちは、大将である再臨のキリストに「つき従い」、サタンと悪の勢力を滅ぼすために出陣するのです。このように神は、サタンを滅ぼす仕事を、キリストを頭とする神の民におゆだねになりました。
神の民自身が悪の勢力を滅ぼすことによって、神は彼らの間に真の平和と繁栄と幸福を、永遠に確立する基盤を得られます。神は喜んで、彼らに永遠の命を与え、ご自身の幸福を分かち与えられるでしょう。
神は、サタンの存在を一定の期間許容されましたが、長い目でみれば、こうして天上天下最大の問題に決着がつくことになります。またそれは、最終的に人間の平和と幸福と繁栄を確立するものとなることを、神は知っておられたのです。
最終的にキリストがサタンを滅ぼされる ブロック画
神は「女の子孫」に、サタンを滅ぼす仕事をおゆだねになった
そのために、神は今、ご自身の民の育成に努めておられます。そして神の民の数が満ち、完成したとき、神はキリストを再臨させ、彼によってサタンを滅ぼされます。
それまでの間、サタンは、最後の抵抗を見せるでしょう。事実、聖書の預言によれば、世の終末が近くなるに従い、サタンの活動はさらに活発になり、悪は最高潮に達するはずです。
サタンは聖書で、「空中の権を持つ君」また「今も不従順の子らの中に働いている霊」と呼ばれています(エペ二・二)。サタンは霊界において、人々に対して不断の働きかけをなしているのです。
ある人々は、このサタンの活動している霊界は、「第二の天」と呼ばれるところである、と考えています。
聖書の原語では、「天」という言葉は複数です。そこで第一の天は鳥の飛ぶ所(創世一・二〇)、第二の天は宇宙空間(創世一・一四)およびサタンの活動している「空中」(エペ二・二)、そして第三の天以上は神の住んでおられる天(二コリ一二・四)、と考えられています。
サタンは第二の天で活動しており、人々の心に働きかけている、と考えられているのです。その活動は、世の終末が間近になったときに、最後のピークを迎えるでしょう。
サタンは、自分の終わりの近いことを知って、最後の力をふりしぼってきます。黙示録にこう述べられています。
「さて、天に戦いが起こって、(天使長)ミカエルと彼の使いたちは、竜(サタン)と戦った。それで竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
こうしてこの巨大な竜、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれて、全世界を惑わすあの古い蛇は、投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
そのとき私(ヨハネ)は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
『今や、私たちの神の救いと力と国と、また神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟の告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
兄弟たちは、小羊(キリスト)の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまで、命を惜しまなかった。
それゆえ天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ってきたからである』」(黙示一二・七〜一二)。
終末が間近になったとき、サタンは第二の天にもいることができなくなり、地上に下ってくるでしょう。
そのとき、サタンが乗り移って悪の権化と化した独裁的人物が、地上に出現します。それは黙示録では、象徴的に「獣」と呼ばれる者で、あらゆる悪の限りを尽くすとされています。
この「獣」は、サタンの野望を体現する者です。彼は、「自分こそ神であると宣言し」(二テサ二・四)、人々に自分を礼拝するよう強要するでしょう。サタンの野望は、あの堕落の時から変わらず、自分を神とすることなのです。
かつてエデンの園で、人はサタンの惑わしにのり、罪を犯しました。エデンでは、サタンは蛇の姿で現われました。しかし終末においてサタンは、「獣」と象徴的に呼ばれる獣的人物の姿で、人々の前に現われるでしょう。
そして多くの人々を惑わすに違いありません。しかしそれは神の民にとっては、かつてのアダムとエバの失敗を取り戻し、サタンの提出した異議に決着をつける機会となるのです。
すなわち神の民が、サタンの惑わしを拒み、試練の中でも神とその教えを捨てず、神を愛し人を愛して生きることにより、彼らはかつてのアダムとエバの失敗を取り戻すことになります。
また、サタンの提出した異議・・神の命令に背いても命と幸福を保って行ける、という考えを排除し、命と幸福は神に従うことにあるということを、全被造物の前に実証することになるでしょう。
サタンの最期
聖書では、この「獣」の主要な活動期間は「四二か月」、すなわち「三年半」だと予告されています(黙示一三・五)。
かつてイエスが初来の際に三年半の公生涯を送られたのに対抗し、この反キリストは、終末の時代に三年半にわたって世界を荒らすでしょう。それは決して長い期間ではありませんが、悪の勢力と神の勢力の対決期となるのです。
その三年半の後、キリストは再臨されて、ハルマゲドンの地で獣とその軍勢とを打ち破り、彼らを滅ぼされます。
また、獣の背後にいたサタンを捕らえ、千年王国ののち最終的に滅ぼされます。
「彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは、獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける」(黙示二〇・一〇)。
これが、サタンの最終的な姿です。サタンは、「火と硫黄との池」すなわち地獄(ゲヘナ)に投げ込まれると、もはやそこから出ることはありません。彼は「永遠に」、そこで苦しみを受けるのです。
それは、彼が滅ぼしたすべての魂の苦しみが、彼の上にのしかかるからです。こうしてサタンは、最後に地獄の底に沈み、人々の前から永久に姿を消します。
サタンは現在、「この世の神」(二コリ四・四)と呼ばれています。彼は霊界においてこの世の人々を惑わして支配し、また人間たちを"小さな神々"にしてきました。真の神に背く、自己中心な人々を育ててきたのです。
しかしその日、サタンは滅び、全地は真の神と、真の神を愛する民だけになります。そして真の神が、完全な支配の御手を全地にのばされます。預言者ゼカリヤは、その日について預言して言いました。
「主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる」(ゼカ一四・九)。
この神に対し、神の民は、自分たちの永遠の命と幸福が神にあることを表明するでしょう。神はそれに応え、彼らをご自身の永遠の命と、その偉大な幸福にあずからせて下さるのです。
こうして人類は、定められた期間、苦難にあったのち、真の平和と幸福と繁栄を、神にあって永遠に確立するのです。
久保有政著
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