至福の千年王国
キリスト再臨後に樹立される世界
絵: Adverick
患難時代のあと、キリストの再臨に続いて樹立されるキリストの「千年王国」について見てみましょう。それは、エデンの園以来、人類が長く経験することのなかった真の楽園です。
現在の地上に真の楽園はない
千年王国について見るために、まず「真の楽園」とは何なのかということを、考えてみましょう。
現在の地上に、真の楽園はあるでしょうか。言うまでもなく現在の地上には、永続的に人を幸福にする真の楽園は、存在しません。
聖書に出てくる古代イスラエルの王ソロモンは、今日でいえばあのブルネイの王族のように、豪勢な生活をしていました。彼の宮殿には、毎日のように多くの美女と紳士が集い、美食と、踊りと、豪華絢爛(ごうかけんらん)たる装飾品とに囲まれていました。
ソロモンは、欲しいものは何でも手にいれることができました。宮殿における彼の生活は、誰もが"楽園"と思ったことでしょう。しかし彼は、その生活に幻滅してこう書きました。
「私は心の中で言った。『さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい』。しかし、これもまた、なんとむなしいことか。・・・・
私は、私の目の欲することは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。じつに私の心はどんな労苦をも喜んだ。・・・・
しかし、私が手がけた事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には、何一つ益になるものはない」(伝道二・一〜一一)。
彼はさらにこう言いました。
「空の空。すべては空」(伝道一・二)。
ソロモンはすべての快楽を手に入れたが、
そこに真の楽園はなかった
インドのゴータマ・ブッダもそうでした。彼はシャカ族の王子として、宮殿で豪勢な生活をしていました。しかし、人間の生老病死という苦の現実にふれ、すべてが虚しくなり、ついに出家したのです。
この地上に、人を永続的に幸福にする真の楽園は、存在しません。
現代においてもそうです。人々は、高度に発達した文明を持つ現代にあっても、様々な精神的葛藤、苦しみや、ストレスをかかえています。
しかし、こののち人類の科学や医学、社会機構や経済がさらに進歩していけば、やがて世界に理想郷(ユートピア)が出現するのでしょうか。地上の真の楽園は、人間の努力と汗によって築かれるのでしょうか。
いや、それは無理と言わなければなりません。なぜなら、人間には悪の性質があり、それは時代が進んでも決して消え去るものではないからです。
また、人間は豪勢な生活を「楽園」と思いこんでいますが、それは必ずしも真の楽園ではないのです。
豪勢な生活、欲しいものが何でも手に入る生活、好きなものに取り囲まれている生活というものは、その幸福の基盤を欲望に置いています。欲望を満たすことを幸福と考え、外部の所有物に幸福を依存しているのです。
しかし、欲望を満たすことによる幸福、外部の所有物による幸福は、一時的であり、刹那(せつな)的です。それは決して永続的な幸福とはなり得ません。
ソロモンやゴータマが、宮殿の生活にやがて幻滅を感じるようになったのは、そのためです。
では、地上の真の楽園というものを、人間はこののち決して経験することがないのでしょうか。
かつて神は、私たち人類の最初の両親アダムとエバに、エデンの園の楽園を経験させられました。アダムとエバは、神に従順なうちは、その楽園の祝福を経験できました。
同様に、神はご自身に従順な人々のために、未来の地上における真の楽園を用意しておられます。その地上の楽園とは、来たるべき「千年王国」です。
千年王国の前に第一の復活がある
千年王国とは、キリスト再臨後にキリストが樹立される地上の王国です。聖書にこう記されています。
「第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては第二の死(地獄の滅び)は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間王となる」(黙示二〇・六)。
千年王国が、地上の王国であることは、この聖句の前後関係から明らかです。その住人は、肉体を離れた霊たちではなく、「第一の復活」によって体に復活した人々、および、千年王国以前から地上にいた人々とによって成り立っているのです。
第一の復活は、千年王国開始前に起こる復活であり、それにあずかる者たちは、それまで天国にいた人々です。患難時代の終わり頃にキリストの再臨があり、続いて第一の復活があり、続いて地上のキリスト者の携挙があります。それまで地上にいたキリスト者は、復活したクリスチャンたちと共に天に引き上げられ、「空中で主と会う」のです(一テサ四・一六〜一七)。
第一の復活にあずかる人々は、全時代の全クリスチャンでしょう。旧約の聖徒たちをはじめ、初代教会から終末の時代までの、神を愛する全世界のクリスチャンたちが復活して現われると思われます。使徒ヨハネは、それを預言的幻の中に見て、
「私は多くの座を見た」(黙示二〇・四前)
と記しました。そのときにはまた、患難時代中に死んだクリスチャン殉教者たちも復活します(黙示二〇・四後)。
彼らは千年王国において、大王なるキリストのもとで、各地方を治める「王」となります。指導的立場につくのです。
一方、千年王国後になって"第二の復活"があります。このとき復活する人々は、ハデス(よみ)にいた人々です。
「死もハデスも、その中にいる死者を出した」(黙示二〇・一三)
と記されています。第二の復活は、クリスチャンでない人々の復活なのです。この復活は、最終的に彼らの"天国か地獄か"を決定する「最後の審判」のために起こります。
このように第二の復活は、クリスチャン以外の人々の復活であり、そのことからも、千年王国前の「第一の復活」が、全クリスチャンの復活であることがわかります。
全時代の全クリスチャンは、千年王国が始まるときに体に復活し、千年王国で"治める側"につくのです。
では、彼らが千年王国における"治める側"なら、"治められる側"の人々は誰でしょうか。それは、千年王国の前の「ハルマゲドンの戦い」に参加せずに生き残った地上の人々です。
ハルマゲドンの戦いは、「獣」と呼ばれる世界的独裁者の率いる同盟軍と、再来のキリストとの戦いです(黙示一六・一六、一九・一九〜二一)。その戦いは、キリスト側の勝利に終わり、「獣」とその同盟軍は皆死に絶えます。
しかし、この戦いに、全世界のすべての人間が参加したとは到底考えられません。ハルマゲドンとはイスラエル北方の一地区であり、その場所に全世界のすべての人間が集結したとは考えられないのです。とくに、戦いに参加しなかった女・子供なども大勢いたはずです。
そうした人々は、主の恵みによって生き残り、千年王国の国民として生きるでしょう。クリスチャンたちは、彼らを指導しながら、一大家族のようにして生きるのです。
千年王国は、世界の一地域における王国ではありません。それは全世界を支配する王国です。その日、世界はただ一つの国になるのです。
千年王国は、新天新地が造られる前に、現在の地上において実現する、至福の世界王国です。
それは荒廃の時代ではありません。聖書では、キリストまた神による完全な「支配」は、つねに平和と繁栄と祝福を意味しています。
「ベツレヘム・エフラタよ。・・・・イスラエルを治める者(キリスト)が、あなたのうちから、わたし(神)のために出る。彼は立ってその群れを養い、彼らを安らかにおらせる。いま彼は大いなる者となって、地の果てにまで及ぶ」(ミカ五・二〜四)。
また、こう預言されています。
「末の日になって、主の家の山はもろもろの山のかしらとして堅く立てられ・・・・多くの国民は来て言う、
『さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。彼はその道をわれわれに教え、われわれはその道に歩もう』
と。・・・・彼(主)は多くの民の間をさばき、遠い所まで強い国々のために仲裁される。そこで彼らはつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国に向かってつるぎをあげず、再び戦いのことを学ばない。
彼らは皆そのぶどうの木の下に座し、そのいちじくの木の下にいる(繁栄を意味する常套句)。彼らを恐れさせる者はない」(ミカ四・一〜4)。
キリストの完全な地上支配は、平和と繁栄と幸福な時代をもたらすのです。
(第二歴代誌三六・二一の
「この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た」
の句から、千年王国は「地の荒廃の時代」と解する人々もいます。しかし、この句はバビロン捕囚時のイスラエルをさして言ったものであり、将来の千年王国に関するものではありません。)
こうして旧天旧地における最後のときに、一定期間そのような至福の時代が持たれなければならないのは、神の経綸においては必然的なことです。
なぜなら、神はかつて天地の初めに、エデンにおいて、しばらくのあいだ楽園を持たれました。その楽園を、天地の最後の時代に回復することなく、過ぎ去らせてしまうことは、神の救いの計画を不完全なものにしてしまいます。
ですから、新天新地の造られる前、この天地の最後の時代に、一定期間、エデンの楽園の状況を世界的規模で回復する必要があるのです。
絵: EL MALETIN DE FOTOS
再臨のキリストによって世界的キリストの楽園が回復される
(画家のこの絵には残念ながら白人しか描かれて
いないが、実際はすべての人種がいる。)
千年王国に関するイザヤの預言
千年王国については、じつは旧約の預言者イザヤも預言しています。
イザヤの預言の中には、千年王国に関するものも、またその後の新天新地の新エルサレムに関するものも、出てきます。しかしイザヤは、まだ旧約時代の預言者であるため、それらをしばしば二重写しに語っています。
それはちょうど、隔たった二つの山を遠くから眺めると、ほとんど同じような位置に見えるのに似ています。イザヤの預言の中では、千年王国と新エルサレムという遠くの二つの"山"が、ほとんど重なって預言されていることがあるのです。
新エルサレムのことが語られたかと思うと、続いて千年王国のことが語られたり、千年王国のことが語られたと思うと、続いて新エルサレムのことが語られたりしています。しかし、イザヤの次の預言は、千年王国に関するものと考えられています。
「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。
わたし(神)の民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を、存分に用いることができるからだ。
彼らは無駄に労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らと共にいるからだ。
彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない」(イザ六五・二〇〜二五)。
将来の至福の時代に関して述べたこの部分が、なぜ来たるべき新天新地ではなく、その前の千年王国の時代に関するものだと言えるのでしょうか。
新約聖書・黙示録によると、新天新地には、「死がない」(黙示二一・四)と言われています。しかし右の聖句で言われている時代においては、死は少ないとはいえ、あるとされています。
「百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる」。
ですからここで語られている時代は、新天新地の前の千年王国時代であることがわかります。
千年王国には、ハルマゲドンの戦いに参加せずに生き残った未信者も、国民として生きています。彼らも、主のあわれみにより千年王国で生きることができますが、そのなかで千年王国以前に大きな罪を犯した人は、途中で死ぬことがあるでしょう。
とはいえ、彼らは死ぬまでの期間、千年王国の恵みを豊かに体験することが出来るのです。
クリスチャンは復活して千年王国で指導的立場につく
一方、千年王国で指導的立場につくクリスチャンたちは、千年王国中に死ぬことはありません。いや、彼らはそののち、決して死なないのです。
「わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく・・・・」。
「樹木」というものは、地球上の生命で最も長寿のものです。現在地球上には、樹齢四千年を越える樹木も多数生きています(アメリカ)。
しかし植物学者は、樹木は環境さえ整えば、数万年、あるいはそれ以上生きてもおかしくはない、と述べています。クリスチャンたちの寿命は、千年王国において「木の寿命」に等しくなるのです。
実際、彼らは数万年どころか、以後永遠に生きることになるでしょう。聖書は、キリスト再臨時にクリスチャンには、キリストと同じ様な永遠の命の体が与えられる、と述べているからです(ピリ三・二一、一コリ一五・五四)。
今日、「老化」と「死」のメカニズムは、科学者にもよくわかっていません。様々の説がありますが、どれも決定的なものとはなっていないようです。
とはいえ、環境の質が寿命に大きな影響を与えていることは、多くの科学者が認めています。
今日の地球は、ノアの大洪水以前と違い、宇宙から多くの放射線が地表に降り注いでいます。とくに「宇宙線」と呼ばれる放射線です。
これは、あらゆる方向の遠くの銀河から飛んでくる高速の微粒子で、そのために人体がこうむっている放射線損傷は、小さなものではありません。こうした細胞の損傷は、積もり積もって、現在の人間の寿命を短くしています。
しかしノアの大洪水以前は、地球の上空に「大空の上の水」(創世一・七)と呼ばれる水蒸気層があったので、地表に降り注ぐ宇宙線は、今よりずっと少ない状態にありました。
それで聖書によると、ノアの大洪水以前に生きた人々の平均寿命は、約一千年におよびました(創世五章)。良好な環境が、彼らの寿命を長くしていたのです。
同様に千年王国では、エデンの園の時代の環境が世界的に回復するため、良好な環境が住人全体の寿命をきわめて長いものにするでしょう。
しかも、千年王国の期間中、サタン(悪の勢力の主体)は獄に閉じこめられています(黙示二〇・三)。そのため、サタンの誘惑はなく、人々の罪は極度に減少することでしょう。
聖書によれば、人類に死が入ったのは、人類に罪が入った結果です。千年王国には、罪がほとんど存在しないため、ほとんどの人はその期間中に死ぬことがありません。
また、とくにクリスチャンたちは永遠の命の体に復活しているため、罪を犯すことができません。それで、彼らはそののち決して死を経験することがないのです。
平和と繁栄に満ちたパラダイス
千年王国の幸福は、どのような幸福でしょうか。
第一にそれは、平和と繁栄に満ちたパラダイスの実現による幸福です。
そこでは、人間の幸福を限定するあらゆるものが取り除かれ、文字通りの「楽園」が出現します。その日、天にあるパラダイスは地上と交わり、地上に真の楽園が出現するのです。
全地は、真の平和に満ちるでしょう。
「狼と子羊は共に草をはみ」(イザ六五・二五)。
「狼は子羊と共に宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく」(イザ一一・六)。
動物たちの間にも、真の平和が支配しまず。それはすべての動物が、草食になるからです。
絵: EL MALETIN DE FOTOS
「獅子は牛のように、わらを食べ……」
「小さい子どもがこれを追っていく」
「獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない」(イザ六五・二五)。
「雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う」(イザ一一・七)。
弱肉強食はなくなり、すべての動物は仲良く暮らします。また、動物たちは人間に害を与えることなく、本能的に人間を敬うでしょう。そこでは人間の子がライオンと共に戯れ、蛇と共に遊ぶ姿が見られるのです。
「乳飲み子は、コブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」(イザ一一・八〜九)。
もちろん、人の間にも真の平和が支配します。
「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」(イザ二・四)。
千年王国には、もはや戦争が存在しないのです。
ある歴史学者によると、有史以来、世界のどこにも全く戦争が存在しなかった期間は、約四〇年程度に過ぎなかったといいます。しかし千年王国が地上を支配するとき、あらゆる戦争は、全世界から一千年にわたって完全にやむのです。
その時、あらゆる武器は、平和的な道具に打ち直されます。すべての銃器や剣、また核兵器や化学兵器も解体され、人々はそれらの兵器の恐怖から解放されるでしょう。
今日の世界は、軍事費に毎年莫大なお金をつぎ込んでいます。しかし千年王国では、それらをすべて平和産業のために転換できるのです。人々はもはや、軍事費のための重苦しい税金に悩むことはありません。
死体がちまたにころがる恐ろしい光景を見ることもありません。子供を殺された母親の嘆き声を聞くこともありません。
人々は、もはや軍事基地を見ないでしょう。ジェット戦闘機の爆音に悩むことも、徴兵もありません。あらゆる戦争はもはやなく、軍人や警察官は、世界からいなくなるのです。
その日、自然界も、理想的な状態となるでしょう。
「荒野と砂漠は楽しみ、荒れ地は喜び、サフランのように花を咲かせる。・・・・
荒野に水がわき出し、荒れ地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり、潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる」(イザ三五・一〜七)。
自然界は、美しく、また豊かに産するようになるのです。それはそこに住む人間の理想的な環境となり、人々の楽しみとなるでしょう。
生命が充実・躍動する世界
第二に、千年王国の幸福は、生命の充実また躍動による幸福です。
「そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もいない」(イザ六五・一九〜二〇)。
「子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らと共にいるからだ」(イザ六五・二三)。
私たちは、不慮の事故や、病、老化から解放されます。そこでは、子どもが病を持って生まれてくることはありません。子どもが突然死んで、母親の悲しみと叫びになることもありません。
また人々、とくにクリスチャンは、老化から解放されるでしょう。彼らは何歳になっても、いつも若々しく、強靭な体力を保持するのです。
腰の曲がった人、耳の遠くなった人、痴呆の人、ヨボヨボ歩く人を、見ることはありません。神の民は、みな若々しくなります。「わたし(神)の民の寿命は木の寿命に等しく」(イザ六五・二二)なるからです。
千年王国に、病人や障害者はいません。
「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う」(イザ三五・五)。
現在、病気や障害を持っている者も、復活して千年王国に現われると、健康体に生きることができます。そこではもはや、松葉杖も、盲導犬も、補聴器も必要ありません。
もはや陰気な病院に閉じこめられることもありません。病院はなく、医者も、看護婦も、病人を助けるボランティアも必要なくなるのです。みなが生命力あふれる健康体を保持するようになります。
人々は、生命の充実と躍動を、豊かに体感することでしょう。人々は内側からわきあがってくる豊かな生命力によって、様々なわざをすることができるのです。
そして、行動を積み、生活を営むごとに、それはますます幸福を倍加させるものとなるでしょう。
「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることもない」(イザ六五・二一〜二二)。
そこには、私たちの物を盗む泥棒も、搾取する圧政者もいません。横領する者も、不正な利益を追求する者もいません。私たちは、自分の労の実を自分で豊かに味わうことができるでしょう。
「私の選んだ者は、自分の手で作った者を、存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく・・・・」(イザ六五・二三)。
そこには、私たちの幸福を限定したり、傷つけたりするものが存在しません。私たちの労働や行動は、ますます私たちの幸福を倍加させるでしょう。私たちは、生命を萎縮させるすべての悲しみから解放されるのです。
人間の創造目的の回復した世界
第三に千年王国の幸福は、人間の創造目的が回復したことによる幸福です。
人間の創造目的は、"神が人間によって喜びを受け、人間が神によって喜びを受ける"ことにあります。それが千年王国において、豊かに回復するのです。
その日、神は人のわざを喜び、人は神ご自身を喜ぶでしょう。人は神の幸福となり、神は人の幸福となるのです。
「わたしは・・・・わたしの民を楽しむ」(イザ六五・一九)。
「(あなたがたは)わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ」(イザ六五・一八)。
もはや、神と人の間の障壁はなく、神と人は一大家族のようになります。人々は神の子として、自由に、のびのびと生きることができるのです。
ちょうど親が子どもたちの成長を楽しみにするように、神は人々の自由な生活と、わざを楽しみとされるでしょう。そして人々は、恵みと愛を惜しみなく注がれる神に、感謝と讃美をささげるのです。
世界は神の家となり、家庭の理想的な姿がそこに見られるでしょう。全地は神の家の広大な庭であり、国境線によって区切られていることがありません。
人々はその庭の中で、ある時は子どもたちとたわむれ、ある時は労働と創造的わざとに従事するでしょう。そこには、いつも明るい会話と歌声が、こだまするでしょう。
また、神と人との間のコミュニケーションは万全で、つねに愛に満ちたものとなります。
「彼らが呼ばないうちに、わたし(神)は答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」(イザ六五・二四)。
人々はそうした中で、欲望を満たすことよりももっと深く、真実で、永遠的な幸福というものを発見するでしょう。虚しさを伴わない幸福、躍動する幸福というものを、人々は実感するのです。
それは、内側からわきあがってくる幸福です。人は神との間に、愛と生命の交わりを豊かになすので、魂の奥底から幸福を感じることができるのです。
「あなたがたは(慰めの乳房から)乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰める」(イザ六六・一三)。
神はあなたを、愛する子として扱われ、慈母のようにご自身の恵みを最大限に注がれるのです。「あなたがたはこれを見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように生き返る」(イザ六六・一四)。
千年王国では、ただ一つの宗教のみが世界を支配します。
「ヤハウェを知ることが、海をおおう水のように地を満たす」(イザ一一・九)。
あらゆる偽りの宗教、哲学、思想、また邪教・邪説は消え失せ、真の神の教えのみが全地を支配します。全地はただ一つの教えとなり、真の教えのみとなるのです。
これが、神を愛する者たちに用意されている、未来の楽園です。神を愛し、キリストを信じる者は、その楽園に期待することができます。
千年王国は、霊の世界ではなく、地上に現実にもたらされる世界です。それは、天国が地上化したものなのです。
神はその世界を、やがてキリスト再臨の後に実現されます。それは何と素晴らしい希望でしょうか。キリストに従うあなたは、やがてその世界に復活し、その幸福を体験するのです。
久保有政著
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