終末論

終末の時代に起こること 第6章

終末の独裁者「獣」とは?

「獣」と象徴的に呼ばれる患難時代の独裁者とは何者か?

(その1)エピファネスの再来 


紀元前2世紀にユダヤの神殿を荒らした
アンティオコス・エピファネスの肖像のある銀貨

終末の時代に現われる暴君「獣」

 つぎに、十か国の同盟国と共に終末の時代に現われると聖書が預言している、世界的独裁者「獣」について、詳しく見てみましょう。復興ローマ帝国は、「獣」と呼ばれるひとりの強力な独裁者を頭としているのです。
 「あなた(使徒ヨハネ)が(預言的幻のうちに)見た十本の角は、十人の王たちで、彼らはまだ国を受けていませんが、獣とともに一時だけ王の権威を受けます。この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威をその獣に与えます」(黙示一七・一二〜一三)。
 先に見たように、ダニエル書においては、ローマ帝国が「第四の獣」と言われ、国が「獣」と言われていました。しかし、黙示録が預言している「獣」は国ではなく、ひとりの人間です。それは「人間(a man)をさしている」と黙示録は述べています(黙示一三・一八)。
 暴君「獣」は、終末の時代に力を持って現われ、国々を侵略して征服し、イスラエルをも手中におさめるはずです。彼は、聖なる都エルサレムを悪と淫乱の都に変え、いと高き神に挑戦し、クリスチャンを迫害するでしょう。
 さらに、その頃エルサレムに建てられているはずのユダヤ教神殿に、「荒らす憎むべきもの」を設置します。「獣」は、患難時代に世界に台頭する暴君です。
 「ここに知恵がある。思慮ある者は、その獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六六六である」(黙示一三・一八)。
 象徴的に「獣」と言い表された者は、その名を数字に換算すると六六六になります。
 旧約聖書の原語であるヘブル語や、新約聖書の原語であるギリシャ語では、アルファベットはみな、それぞれ数字に対応しています。たとえばギリシャ語のαは一、β=二、γ=三、δ=四、ε=五、ζ=七、η=八、θ=九、ι=一〇、κ=二〇、λ=三〇、μ=四〇、ν=五〇、ξ=六〇、ο=七〇、π=八〇、ρ=一〇〇、σ( )=二〇〇、τ=三〇〇、υ=四〇〇、φ=五〇〇、χ=六〇〇、ψ=七〇〇、ω=八〇〇というように、アルファベットがみな数字代わりにも使われるのです。
 それで、人の名前のアルファベットそれぞれに対応する数字をみな足して、その数値を出すという事が行なわれました。たとえば、主キリストの御名「イエス」(Iησου )の数値は、一〇+八+二〇〇+七〇+四〇〇+二〇〇=八八八になります。同様に「獣」に関しても、その人物の名前をギリシャ語(あるいはヘブル語)で表して、その数値を足すと六六六になるということなのです。
 ある人々は、六六六の数値を持つ「獣」は「コンピューター」のことだとか、「フリーメーソン」のことだとか、腐敗した中世の教皇たちの「ラテン王国」のことだとか想像してきました。
 しかし、それらはみな間違いです。なぜなら、先に見たように「獣」は一人の人間(a man)だからです。それは機械や団体ではありません。
 では、黙示録のいう「獣」としてしばしばささやかれてきた、一世紀の暴君ローマ皇帝ネロについては、どうでしょうか。黙示録は、「獣」についてこう言っています。
 「獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上ってきます」(黙示一七・八)。
 「獣」は、黙示録の執筆された時代より昔にいた人物で、黙示録の執筆された当時にはおらず、やがて再び来る者だというのです。つまり「獣」は過去にいた人物の再来です。聖書によれば、キリストの再臨がある前に、反キリストの再来があるのです。
 ネロは紀元六八年に死に、黙示録は紀元九〇年頃記されましたから、ネロは黙示録の執筆時代から見て、確かに「昔いたが今はいない」人物です。しかし、そのネロが再来して、終末の時代に世界を荒し回るのでしょうか。
 その可能性はきわめて薄いと思われます。なぜなら、もし「獣」がネロなら、黙示録にはネロに関して、もっと直接的な多くの記述が残されたはずです。しかし黙示録、また聖書全体が、ネロに関して直接的には何も記していません。
 「獣」は、皇帝ネロではないでしょう。
 「獣」は誰の再来なのでしょうか。その答えは、旧約聖書・ダニエル書が与えてくれます。ダニエル書によれば、「獣」はじつは、紀元前二世紀の暴君アンティオコス四世・エピファネスの再来なのです。


暴君エピファネス

 アンティオコス四世・エピファネスという名を、知らない人も多いかも知れません。しかしこの悪名高い名は、ユダヤ人の間では、忘れようとしても決して忘れられない名です。
 エピファネスは、紀元前二世紀にユダヤの聖なる神殿を荒らした人物で、そこにギリシャの神ゼウスの偶像という「荒らす憎むべきもの」を設置した者です。
 今日もユダヤ人は、毎年一二月頃に「ハヌカ」と呼ばれる「宮きよめの祭」をもっています。これは、かつてユダヤの神殿を、暴君エピファネスから解放し、清めた時のことを記念した祭です。
 「宮きよめの祭」は、イエス初臨の時代にも、ユダヤで毎年守られていました(ヨハ一〇・二二)。ユダヤ人は暴君エピファネスのことを、つねに心に刻み込んできたのです。
 さて、ダニエル書の預言を見る前に、エピファネスがどういう人物だったかということを、詳しく見ておきましょう。
 紀元前三三一年、あの有名な古代の王アレキサンドロス大王は、破竹の勢いで中東一帯を征服し、ギリシャ帝国を建設しました。
 しかしそのギリシャ帝国も、大王の死後は、四つに分裂。ギリシャ、小アジア、シリア、エジプトの四つの国に分かれました。
 アンティオコス四世・エピファネスは、このうちのシリアを治めた、歴代の君主たちの一人です(在位紀元前一七五〜一六三年)。
「アンティオコス」の名を冠した君主は、全部で二六人います。エピファネスは、アンティオコス四世として君臨したのです。
 「エピファネス」の名は「現神王」の意味で、その名のとおり彼は自分を神とし、自分を神と崇めるよう人々に強要しました。しかし人々は彼を皮肉って、「エピマネス」(狂人の意)とも呼びました。
 エピファネスが支配したシリアという国は、ユダヤの国の北隣に位置しています。一方、南隣には、やはりギリシャ帝国から分かれ出たエジプトの国がありました。
 それで旧約聖書のダニエル書の中では、エピファネスをはじめとするシリアの王は「北の王」と呼ばれ、一方エジプトの王は「南の王」と呼ばれています。
 さて、紀元前一七五年にエピファネスは、裏切りによってシリアの王位を手に入れました。その後彼は、南のエジプトに対する優位を決定的なものにするために、エジプトに出兵。エジプトを手中におさめました。
 この頃からエピファネスは、ユダヤのエルサレム神殿の調度品に、手を出していました。
 彼はかさむ戦費をまかなうために、その神殿から、多くの金の調度品を盗み出しました。しかも、異邦人には禁制の場所であった神殿の内部にまでも足を踏み入れ、神殿を汚したのです。
 当時、エルサレムにあった神殿は、「第二神殿」(ゼルバベル神殿)と呼ばれるものでした。
 エピファネスは、紀元前一六八年になって再度エジプトに侵入しました。しかしこの時は、ローマの艦隊の介入があり、撤退を余儀なくされました。
 エピファネスは腹いせに、エルサレムに戻り、その城壁をこわして家々に火を放ちました。また八万のユダヤ人を殺し、四万人を捕囚とし、さらに四万人の女・子どもを奴隷として売り払いました。
 彼は、反抗するユダヤ人を徹底的に弾圧。ユダヤ人に対して、神殿での犠牲の奉献や、安息日の遵守、割礼の執行、律法の書の所持などの行為のすべてを、禁止しました。そしてこれらの命令に背く者に対しては、死罪をもって報いたのです。
 しかもエピファネスは、エルサレム神殿に、ギリシャの多神教の主神である「ゼウス神」を祭りました。彼はその偶像を聖なる神殿に置き、その祭儀に人々が参加するよう強要したのです。


ゼウス神の像。エピファネスはエルサレム神殿を
荒らしたうえ、ゼウス神の偶像をそこにすえた

 こうして彼は、神聖なユダヤの神殿を無残にも踏みにじった悪名高い人物として、すべてのユダヤ人の間で記憶されています。


ダニエル書には、エピファネスに関する預言がある

 この当時の歴史については、「マカベア書」という古代ユダヤ文書に、とくに詳しく記されています。
 最近プロテスタントとカトリックの学者が共同で訳した「新共同訳聖書」には、旧約聖書の続編として、この「マカベア書」が入っています。
 「マカベア書」というのは、旧約聖書の正典に組み入れられなかった書物ですが、当時のエピファネスの行動を知る上で、重要な歴史書です。またこの書には、エピファネスの支配下からエルサレムを取り戻し、神殿を清めたユダヤ人の英雄「マカベアのユダ」についても記されています。
 旧約聖書の正典にも、エピファネスのことが記されています。旧約の『ダニエル書』には、彼のことが預言の形で記されているのです。
 ダニエル書は、紀元前六世紀に、預言者ダニエルが記したものです。
 近代の懐疑的な批評学者の中には、この書は紀元前二世紀に書かれたと主張した者もいますが、この書が事実紀元前六世紀に記されたことは、多くの学者の研究によって充分立証されています。ダニエル書は、エピファネスより四百年も前に記された、預言の書なのです。
 さてダニエル書には、エピファネスとその前後の歴史について、次のように記されています。

 「私ダニエルにまた、一つの幻が現われた。・・・・見ると、なんと一頭の雄羊(ペルシャ帝国をさす)が川岸に立っていた。それには二本の角があった(ペルシャ帝国がメディアとペルシャの連合体であったことをさす)。・・・・
 私が注意して見ていると、見よ、一頭の雄やぎ(ギリシャ帝国)が、地には触れずに、全土を飛び回って、西からやって来た。その雄やぎには、目と目の間に、著しく目立つ一本の角(アレキサンドロス大王)があった。・・・・
 雄やぎは雄羊に近づき、怒り狂って、この雄羊を打ち殺した(ペルシャ帝国の滅亡)。・・・・この雄やぎは非常に高ぶったが、その強くなった時に、あの大きな角が折れた(アレキサンドロス大王の死亡)。
 そしてその代わりに、天の四方に向かって、著しく目立つ四本の角が生え出た(ギリシャは四つの国に分裂した)。
 そのうちの一本の角(シリアの王)から、また一本の小さな角(エピファネス)が芽を出して、南(エジプト)と、東と、麗しい国(ユダヤ)とに向かって、非常に大きくなっていった。
 それは大きくなって・・・・軍勢の長にまでのし上がった。それによって、(エルサレム神殿の)常供のささげ物(犠牲)は取り上げられ、その聖所の基はくつがえされる。軍勢は渡され、常供のささげ物に代えて、そむきの罪がささげられた。
 その角は真理を地に投げ捨て、ほしいままにふるまって、それをなし遂げた」(ダニ八・一〜一二)。

 ダニエルが見たこの夢に関して、ところどころに( )をして説明を入れましたが、これは私が勝手に入れたわけではありません。ダニエル書自体が、夢の意味について次のような解き明かしをしているので、それに基づいて入れたものなのです。

 「あなたが見た雄羊の持つあの二本の角は、メディアとペルシャの王である。
 毛深い雄やぎはギリシャの王であって、その目と目の間にある大きな角は、その第一の王(アレキサンドロス大王)である。
 その角が折れて、代わりに四本の角が生えたが、それはこの国から四つの国が起こることである。しかし第一の王のような勢力はない。
 彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王(エピファネス)が立つ。
 彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼はあきれ果てるような破壊を行ない、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。
 彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶり、不意に多くの人を滅ぼし、君の君(神)に向かって立ち上がる。しかし人手によらずに、彼は砕かれる」(ダニ八・二〇〜二六)。
 このような預言が、エピファネスの現われる四百年も前に記されていたとは、まことに驚くべきことです。
 この預言の中で、帝国は"動物"で象徴され、王はその「角」で表されています。そして最後に現われた「小さな角」は、やがて大きくなり、高ぶって卑劣なことをなしました。
 この最後の「角」こそ、アンティオコス四世・エピファネスのことなのです。


エピファネスはユダヤ神殿に「荒らす憎むべきもの」を据えた

 ダニエル書一一章にはまた、エピファネスの行動について、さらに詳しいことが預言されています。こう書かれています。

 「ひとりの卑劣な者(エピファネス)が起こる。・・・・
 彼は再び南へ攻めていくが(エジプトへの二度目の侵攻をさす)、この二度目は、初めの時のようではない。
 キティムの船(ローマの艦隊)が彼に立ち向かって来るので、彼は落胆して引き返し、聖なる契約(モーセの契約)にいきりたち、ほしいままにふるまう。
 彼は帰って行って、その聖なる契約を捨てた者たちを、重く取り立てるようになる(エピファネスは、ユダヤ人背教者を重く取り立てた)。
 彼の軍隊は立ち上がり、聖所(エルサレム神殿)ととりで(エルサレム城壁)を汚し、常供のささげ物を取り除き(いけにえを禁止)、荒らす忌むべきものを据える(エピファネスによって神殿に置かれた偶像のこと)」(ダニ一一・二一〜三一)。

 このようにダニエル書は、ギリシャ帝国から分かれ出た四つの国のひとつから「ひとりの卑劣な者」が起こること、また二度目のエジプト侵攻の後に彼は神殿を汚すこと、また神殿に偶像を置くことなどを、預言していました。
 これらはみな、紀元前二世紀のアンティオコス四世・エピファネスの出来事として成就したのです。
 しかし、ダニエルの預言がもし単にこれだけなら、私たちはこれを過去に成就した預言の一例として、心にとどめて終わりになるところでしょう。
 ところが、ダニエル書によればこのエピファネスに関する預言は、単に紀元前二世紀の出来事をもってすべてが成就し尽くしたのではなく、なお、
 「終わりの定めの時にかかわる」(ダニ八・二〇)
ことだと言われているのです。紀元前二世紀のエピファネスの出来事は、預言成就の"第一段階"にすぎない。"第二段階"あるいは"最終段階"の成就は、世の終末が間近になった時代に起こる、というのです。
 これは、私たちの主イエス・キリストの御言葉も裏づけています。キリストは、終末が間近になった時代のことについて、次のように語られました。
 「それゆえ預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべきもの』が、聖なる所(神殿)に立つのを見たならば・・・・」(マタ二四・一五)。
 この「荒らす憎むべきもの」と、先の「荒らす忌むべきもの」とは、単なる訳文の違いで、実際は同じく偶像のことです。先に述べた通り、エピファネスは紀元前二世紀にエルサレム神殿に、ゼウス神の偶像という「荒らす憎むべきもの」を据えました。
 これは、ダニエル書の預言の成就でもありました。しかしキリストは、この「荒らす憎むべきもの」に関するダニエルの預言が、なお終末の出来事にかかわっている、と言われるのです。
 紀元前二世紀のエピファネスの行為ですべてが成就し尽くしたのではなく、全く同じようなことが終末の時代にも繰り返される、というのです。
 実際、『ヨハネ黙示録』や『テサロニケ人への手紙』によれば、終末の時代にエルサレムは異邦人に踏みにじられ、その神殿内に偶像が置かれるはずです。
 『この獣(終末の時代に現われる独裁者)は・・・・その口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち天に住む者たちをののしった。・・・・
 (この獣の部下である親衛隊長は)剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。・・・・また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた」(黙示一三・六、一四〜一五)。
 「彼(獣)は・・・・神の宮(エルサレム神殿)の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します」(二テサ二・四)。
 神殿に設置されるこの偶像の「座」こそ、「荒らす憎むべきもの」なのです。
 このように、エピファネスが紀元前二世紀に行なったと同じことが、やがて終末の時代に再び「獣」によって行なわれるでしょう。
 エピファネスがエルサレムを踏みにじった期間は、約三年半であったことが知られています(紀元前一六七年の中頃〜一六四年一二月)。それと同様に終末の時代にも、エルサレムは「三年半の間」踏みにじられるのです(黙示一三・五)。


エピファネスの死に方は、ダニエル書に記されたものとは違った

 また、終末の「獣」がエピファネスの再来であることを示す、もう一つの重要な事柄があります。それは、
 "紀元前二世紀のアンティオコス四世・エピファネスの死に方は、ダニエル書一一章に記されたものとは全く違った"
 ということです。
 ダニエル書一一章には、先に見たように、エピファネスの行動が記されています。それは史実にピタリと一致しています。
 しかしそれは三五節までのことで、残りの三六〜四五節は、紀元前二世紀のエピファネスの行動と全然一致していません
 紀元前二世紀のエピファネスは、二度目のエジプト遠征のあと、先に見たようにエルサレムを攻撃し、そこを占領して神殿を荒らし回りました。しかしやがてユダヤ人による反乱が起き、マカベアのユダという指導者の手によってエルサレムは奪回され、神殿も清められました(紀元前一六四年一二月)。
このときエピファネスは、東方に兵を進めていたので、ユダヤの反乱については彼の部将にまかせるしかなかったのです。ところがエピファネスは、その陣中で、ある日急死しました。
 紀元前一六三年春のことです。マカベアのユダが神殿を清めてのち、わずか数か月後に、エピファネスは何の戦功をおさめる間もなく、急死したのです。
 これはダニエル書一一章三六〜四五節の記している姿と、全く違っています。それらの節には、
「終わりの時に、南の王が彼と戦いを交える。北の王は・・・・彼を襲撃する。彼は麗しい国(イスラエル)に攻め入り、多くの国々が倒れる」(ダニ一一・四〇〜四一)
 と記されていますが、こうしたことは紀元前二世紀のエピファネスには起こりませんでした。したがって、これは終末の時代に再来するエピファネスがなす行動、としかとれないわけです。ダニエル書も「終わりの時に・・・・」と言っています。エピファネスは終末の日に再来して、これらのことをなすのです。
 エピファネスは、その再来の際に、おそらく通常の人間のように女の胎から生まれるでしょう。しかし彼は、紀元前二世紀のエピファネスの「霊と力をもって」再来するのです。
 ちょうど、バプテスマのヨハネが預言者エリヤの「霊と力をもって」(ルカ一・一七)現われ、エリヤの再来と言われたように(マタ一一・一四)、終末の「獣」はエピファネスの再来と言われるでしょう。


バプテスマのヨハネ。彼がエリヤの再来と言われたように、
終末の「獣」はエピファネスの再来と言われるであろう

 旧約時代の「エリヤ」は、新約時代において再来して「バプテスマのヨハネ」という名を持ちました。同様に、再来したエピファネスは終末の時代にあって、新しい名を持つでしょう。
 しかしその「霊と力」は、かつてのエピファネスのものなのです。彼の新しい名は、数字に換算すれば「六六六」になるでしょう。


エピファネスは再来する

 黙示録は、エピファネスの再来である「獣」について、こう言っています。

 「あなた(使徒ヨハネ)に、この女(大バビロン)の秘儀と、この女を乗せた、七つの頭と一〇本の角とを持つ獣の秘儀とを話してあげましょう。
あなたの見た獣は、昔はいたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所(よみ)から上って来ます。そして彼は、ついには滅びます。
 地上に住む者たちで、世の初めからいのちの書に名を書き記されていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現われるのを見て驚きます」(黙示一七・七〜八)。
 人々は、紀元前の人物エピファネスが「獣」として再来するのを「見て驚く」のです。さらに黙示録は述べています。

 「ここに知恵の心があります。(獣の)七つの頭とは、この女(大バビロン)がすわっている七つの山で、七人の王たちのことです。
 五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりはまだ来ていません。しかし彼が来れば、しばらくの間とどまるはずです。
 また、昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。
 あなたが見た一〇本の角は、一〇人の王たちで、彼らはまだ国を受けていませんが、獣と共に、一時だけ王の権威を受けます」(黙示一七・九〜一二)。

 ここに出てきた「女」とは、終末の時代に世界に君臨する悪の都のことで、黙示録では象徴的に「大バビロン」の名で呼ばれています。
 大バビロンは、じつはエルサレムのことだと思われます。聖都エルサレムは、たいへん悲しいことですが、終末の時代に悪人たちによって踏みにじられ、恐ろしい悪の都と変えられてしまうのです(黙示一一・二、八)。
 エルサレムの地を支配した異邦人の世界帝国は、これまでに七つあります。
  (1) エジプト帝国(紀元前一六〇〇〜一四〇〇年)
  (2) アッシリヤ帝国(紀元前七二一〜六〇七年)
  (3) バビロン帝国(紀元前六〇六〜五三六年)
  (4) ペルシャ帝国(紀元前五三六〜三三〇年)
  (5) ギリシャ帝国(紀元前三三〇〜一四六年)
  (6) ローマ帝国(紀元前一四六〜紀元一四五三年)
  (7) トルコ帝国(一〇三八〜一九二二年)

 〔トルコ帝国は、セルジュク・トルコとオスマン・トルコ。なお、トルコ帝国と同じイスラム教国であるサラセン帝国(六六一〜一二五八年)も、しばらくエルサレムを支配しましたが、サラセン帝国は東ローマ帝国からのキリスト教巡礼者たちに対しても寛大で、交易を行なっていました。それで、上の七つの国からは除外してあります。しかしトルコ帝国は、巡礼者たちを排し、エルサレムを専有したので、第七番目の国としてあげました〕。
 これら七つの帝国が、エルサレムのすわった「七つの山」であり、「七人の王たち」です。
というのは、黙示録では「王」は単に個人をさすとは限らず、しばしば「国」の同義語としても用いられています(黙示一七・二)。したがって「七人の王たち」といえば、この場合、「七つの国」と同じ意味と考えてさしつかえないのです。
これら七つの国のうち、黙示録の記された時代は、(6)のローマ帝国の時代でした。それで、
 「五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりはまだ来ていません。しかし彼が来れば、しばらくの間とどまるはずです」
 と言われています。黙示録の記された当時、エジプト、アッシリヤ、バビロン、ペルシャ、ギリシャの五帝国は、「すでに倒れ」ていました。そして六番目のローマ帝国が「今おり」、やがて七番目のトルコ帝国が来ようとしていたのです。
 黙示録はさらに記しています。
 「昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます」。
 終末の時代に「獣」は、八番目の帝国をつくるのです。そしてエルサレムを支配するようになります。しかし、じつを言えば彼は先の七つの国の王たちの一人でもある、というのです。
 アンティオコス四世・エピファネスは、(5)ギリシャ帝国の王の一人でした。ギリシャ帝国の分国の王だったのです。その意味で彼は、
 「先の七人のうちのひとりです」
 という黙示録の言葉と合っています。
このように終末の「獣」は、エピファネスの再来なのです。

久保有政

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