その他 

ある死刑囚の手記
獄中で回心し、死に至るまでに
多くの囚人をキリストに導いた人物


 これは、殺人の大罪を犯して死刑囚となったある人物の、獄中での手記である。彼の名は家族のご意向により伏したが、彼は獄中で聖書にふれ、キリストへの信仰を持って生まれ変わった。この手記には、その信仰への心の道程が、切々と記されている。


[手記]

 心に神なき悲しさ――私は、人殺しの大罪を犯し、死刑の宣告を受け、獄舎(ごくしゃ)の独房で心静かに処刑の日を待ちつつある者であります。
 私は罪を犯して、未決監(みけっかん)(未決囚を入れておく監房)につながれ、絶望の淵(ふち)に苦悩していた時、奇(く)しくも神の御手にとらえられて、神の子とされました。今は、罪赦(つみゆる)された安けさの中に、主にお会いできる喜びをもって、感謝と讃美の日を過ごさせていただいております。
 この私の犯罪から入信、そして今日まで辿ってきました道程を記して、懺悔話(ざんげばなし)といたします。


殺人の大罪を犯して監房へ

 話は、一〇年前にさかのぼります。
 昭和二四年一二月、私は、かねて返済を約束していた知人宅に、お金を受け取りに出向きました。しかし友人古沢は、密貿易に失敗。借金の返済どころか、このままでは年が越せない、何とかしてあなたの顔を貸して一商売させてくれと、泣きつかれました。
 そこでその商談のために、私は相手方に出向きました。ところが雑談の中に、相手の男が、多年怨み重なる仇(あだ)であることが判明しました。
 私は二、三の口論のすえ、前後の見さかいのつかないほどに、激昂(げきこう)しました。そして、一瞬にして二人の尊い生命を奪ってしまいました。
 人殺し――このような恐ろしいことは、夢にだに思ったことのない私でありました。それだけに自分が人殺しをしたと気づいた時、ただ茫然(ぼうぜん)として虚脱状態でした。
 私は悔い悩んだあげく、このうえは死んでお詫(わ)びのほかなしと考え、幾度か銃口を喉にあててみました。しかしそのつど、幻に私の二人の子どものあどけない姿や、年老いた両親の姿がまぶたに浮かんできました。
 私はついに自殺を果たせずに、未決監に収容される身となりました。唯一の道を決意して計った死から切り離された私は、冷たい獄舎で独り、生ける屍(しかばね)の捨て場に苦悶(くもん)しました。
 その当時の心境は、とてもこの私の重いペンでは、書き表すことができません。人をあやめた罪の報いとして、死刑は当然のこと、これには微塵(みじん)の不平も不満もありません。
 けれども幼い子どもの行く末、年老いた両親の悲しみを思うと、身を八つ裂きにされる思いで、絶望のうちに苦悩するのでした。突然の、あまりに大きな出来事に、家族も知人もみな呆然(ぼうぜん)として、なす所を知りませんでした。
 私は、悔いても返らぬ自己の罪業(ざいごう)に悩まされました。さらに、親族一同が世間の人から冷たい目で見られて、暗い茨(いばら)の道を歩まねばならないことを思っては、いちだんと悶(もだ)え苦しみました。


クリスチャンの姉からの手紙

 その頃まで私は、面会も文書も読書も、禁じられていました。しかしある日、係り検事の前に呼び出された私は、検察庁の用紙に走り書きした一通の手紙を、渡されました。それは、次のような文面でした。
 「私たちは一人で生きているのではないことを、考えてみてください。一つの大きな力によって、一切が支配されていることも考えてみてください。
 それが神様です。その神こそは、すべてを隠すことも偽ることもできない、ということを考えてください。
 私たちがこの世でどんなに苦しくても、何十年とは続きません。幸福もその通りです。
 でも、私たちの魂は不滅です。私たちは、罪人(つみびと)の死後の霊魂の苦しみが、永遠に続くことを聞かされております。天国の幸福も、それと同じく永遠です。
 まだ神を知らない貴方(あなた)には、私の気持ちはわかってもらえないと思いますけれども、死ぬまでにたとえ何をしても、神に対して告白し、はっきりこの世でなすべきことをしなければなりません。
 あなたの今度なされたことを、何故されたのかと責めるのではありません。
 私たちは、いつかは一度は、みな死ななければなりません。そして来世でも、親子一族がまた楽しく天国で暮らせるのに、あなた一人が地獄の苦しみを受けている姿を見なければならないかと思うと、それが悲しまれます。・・・・
 よく気持ちを落ちつけて、考えてください。私は朝に夕に、そればかり祈っております」。
 それは、以前から熱心なクリスチャンだった、一人の姉がしたためた手紙でありました。
 家族の中から一人の犯罪者が出ると、だれでも恥ずかしくて、世間に顔向けができぬようになります。ことに田舎ほど、その傾向は強くあります。
 犯罪者の身の上を案じつつも、世間ていを先に考え、自己保全策に頭を悩ます者も多くいます。世間に顔向けができなくなったと悪口し、果てはそっぽを向いて、身内であることすらひた隠しにします。
 自分が関係のない者であるかのように装うのが、犯罪者の家族に多いのです。私の場合もまた、大同小異でありました。
 しかし幸いなことに、数多い親類知人の中にただ一人、キリストの信仰を持つ姉がいました。これは、今日あるを知っておられる神が、私のために備えてくださったのだと、今は新たなる感謝で祈っております。
 仏教徒であり、とくにお寺に関係深い家柄である私どもも、姉がクリスチャンであることは問題にしませんでした。しかし彼女は三〇歳を越してまもなく、主人を亡くし、そののち女の細腕でよく四人の子どもを育てました。
 そして、それぞれ恥ずかしからぬ教育を仕上げました。みなは、これは信仰によると、キリスト教に対して好感を持っていました。
 しかし一つ難を言えば、何事にも地味で、表面に出るのを嫌っていました。祝い事があっても、時間を無駄にする空費と思われることには同意しないので、用事が済むとさっさと引きあげるのでした。
 これが、田舎の根強い因習にこだわる人たちには、喜ばれていなかったのです。


姉との面会

 家族も友人も、まことに突然の私の大事件に全く驚き、みな呆然としていました。新聞は、先を争って、有ること無いことを書きたてました。
 それで世間の人の悪罵(あくば)の声は日ごとに高まり、家族は一同いよいよ処置に困って、迷いました。ところがこの時に、すべてに控え目であったクリスチャンの姉が、皆の口をふさぎ、
 「弟の世話は、私がいたします」
 と自ら進んで引き受けたのです。その毅然(きぜん)たる態度は、みなの目を見張らせました。
 その頃、私はまだ検事の取り調べがすんでおらず、面会も通信も全く禁じられていました。しかし姉は単身、私の事件担当の検事の部屋をたたいたのです。
 「私は弟を救わねばなりません。ご無理とは存じますが、どうか弟に面会させてください」
 と姉は検事に懇願(こんがん)しました。すると検事は、
 「救おうとおっしゃっても、これだけ証拠があがっていては、あなたにそれが出来ようとは思われませんが」
 と答えました。姉は、
 「いいえ、私が救いたいと申しますのは、法律に関することではありません。弟の犯した罪を明確に認めさせ、自ら静かに反省する心の眼を開けてやりたいのです」
 と二度三度願い出ました。検事は、容易には聞き入れませんでした。
 姉は何度拒絶されてもひるまず、しつこいと思われるほど懇願しました。さすがの検事も、弟を思う姉の必死の願いに、心動かされ、
 「どれほど言われても、今のところ面会を許すわけにはいかぬから、この用紙に用件だけを書きなさい。さしつかえなければ、私が本人に読んで聞かせてあげよう」
 と言いました。そうして与えられた用紙一枚に鉛筆で走り書きしたのが、まえに述べた姉からの便りでした。
 検事は私を呼び出し、この事情を話して、姉の手紙を渡してくれました。この手紙を読んで、私の態度は変わってきました。
 私は警察官に対する感情から、黙秘権を使って、取り調べをさんざん手こずらせてきました。しかし、検事にだけは話す気になりました。
 でも姉は、これで満足はできず、さらに検事のところに日参し、熱心に面会を懇請しました。ついに、検事室で特別面会がゆるされました。
 姉がこれほどの思いでいることは、私もまだ知りませんでした。わけも言われず検事室に呼び出された私は、そこに姉の姿を見て驚きました。
 私は頭を深く垂(た)れました。姉の眼には、涙が光っていました。それは私の犯行を、神と人とに詫(わ)びるものでありました。
 しかし信仰をまだ知らない私は、私の罪に対する無言の抗議としか受け取りませんでした。私は、きっとキツイ意見を聞くものと、覚悟を決めていました。
 ところが姉は、自己の信じるキリストの教えを、じゅんじゅんと語るのみでした。私の犯した罪に対して責めないのみか、一言もふれませんでした。
 私の犯行を知らない者のように、ただ御教えを説き聞かせるのでした。私はそのとき、姉の語るキリストの教えにもまして、重罪人の弟を持った悲しみを顔にも出さず、多忙な身で熱い愛情を注ぎ続ける、姉の真心に打たれました。
 検事の前で、臆(おく)することなく信仰の道を語り続ける姉の勇気に、驚きました。信仰に生きる者の、何事にも動ぜぬたくましい魂を、姉に見ることができたのであります。
 私は、かよわい姉を、このように強い者に育てたキリスト教に対して驚異を感じ、心ひかれるようになりました。そして私は、別れを告げて検事室を出ようとする姉に、追いすがるようにして、
 「姉さん、私も早く聖書を読んでみたい!」
 と言ったのです。


聖書をむさぼり読む

 この私の言葉は、翌日の新聞記事になりました。
 それを見た未知の一人の信者さんから、聖書と、数冊の参考書が送り届けられました。その頃まで読書を禁じられていた私は、無理に願って聖書だけ許され、文字通りむさぼり読みました。
 こうして闇の子は、姉がもたらした光に眼を開き、信仰を求める身となりました。
 高い所に小窓一つしかない古い獄舎監房は、昼でさえ薄暗く、夜は、高所に取りつけた五燭(ごしょく)(光度の単位)くらいの電灯でぼかし出していました。
 その房で、私は文字通り血眼(ちまなこ)で、聖書の真理を探しました。夜を徹して読み続けたことも、幾度となくありました。役人たちは、極度に充血し真っ赤になった私の目を見て、
 「そのように無理をすると、目がつぶれるぞ。早く寝ないか。言うことを聞かないと、聖書は取り上げるぞ」
 と幾度となく注意しました。しかし私は、この肉眼がつぶれても、心の眼が開けて魂の救いを得るまではと、決心をひるがえしませんでした。私は、役人を拝むようにして断り、読みつづけました。
 その頃はまだ、文通も、他の本を読むことも許されていませんでした。特別に許可された聖書一冊だけで、それを読む以外には、だれも教えてくれる人もいませんでした。
 何の参考書もなく、ただ聖書のみによって、自分で永遠の生命をつかまねばなりませんでした。
 繰り返し聖書を読んでいるうちに、深く自己を反省するようになりました。すべての罪を告白し、悔い改めて神を信じ、主イエスを救い主として受け入れる者は救われる、ということはわかりました。
 しかし、私のように重罪を犯した者が、とうてい人並みのことで救われるはずがないと思い、深い失望にかられることがしばしばでした。私はそのつど、聖書のどこかに、きっと私のように罪深い者のための特別な償(つぐな)いの道が教えてあるに違いない、と考えました。
 そこを探し出そうと、私は勇気を出して、繰り返し読みつづけました。


人をあやめた者でも救われるのか

 ある日のこと、私は『ルカによる福音書』二三章二九節〜四三節の記事にとらえられました。そこにおいて、かの残酷な十字架にイエスと共につけられた盗賊は、もう一人の盗賊に向かって、
 「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだから、(こうなったのは)当たり前だ。だが、このかた(イエス)は、悪いことは何もしなかったのだ」
 と言っています。またイエスに向かって、
 「イエスさま、あなたが御国(みくに)の位(くらい)にお着きになるときには、私を思い出してください」
 と訴えています。これはまさに、私の魂の叫びそのものでありました。つづいて、
 「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます」
 との、慈愛あふれる主の御声が、私の魂の奥底にまで響きました。
 かくして私は、自分のような大罪人でも、すべての罪を告白し、神を信じて全く悔い改め、イエスを救い主として受け入れて、
 「主よ救いたまえ」
 とすがるなら、無条件で赦(ゆる)しを与えられることを知りました。私は感謝と感激のあまり、同囚の面前も忘れ、思わずその場にひれ伏し、泣きながら祈りました。
 それからまもなく、面会や読書や通信の禁も解かれ、参考書や信仰に関する本を読むことも、許されました。姉や、聖書を送ってくださったかたなどとの面会も、繁くなりました。
 やがて受洗の心構えもでき、私は洗礼を願い出ることになりました。
 それまでは、未決監における被告の洗礼は前例がなく、いろいろと困難もありました。けれども私のたっての願いが入れられ、一九五〇年五月一三日、未決監において前例のない、初の洗礼式が許されました。
 私は、在日四〇年という宣教師の司式により、待望の洗礼を授けられました。一切の罪汚れは洗われ、罪赦された神の子として、新生(しんせい)することができました。
 ああ、何という喜びだったでしょう。私は泣いて喜びました。その日の喜びを、私は当日の日誌に、次のように記しています。
 「ああ、私は救われたのである。私の罪のすべてが赦されたのだ。まだ喜びの涙は止まらない。あまりの喜びと感激で、筆も進まない。
 渇ききったわが魂は、主イエス・キリストから流れて尽きぬ生命の泉を、むさぼるように飲む。ここにわが魂は、過去の一切の罪汚(つみけが)れを洗われ、清められた者として新生した。
 ああ、この喜びは、本当に渇きをおぼえた人にしか、話してもわかるものではあるまい。かつてなき喜びがわき、平和が宿り、絶望が希望と変わり、私は真に救いの喜びを体験した」。
 洗礼によって神の子とされた私の心は、平和と、歓喜に満たされました。内に満たされた私は、初めて周囲を見る余裕が出てきました。私はまず、近い者の救霊につき考え、祈りました。
 一番気になっている妻子を、クリスチャンとして強い信仰によって生きぬく者としたい、まだ私のことを知らない二人の子を、神の子として育てあげたいとの念願から、私に洗礼を授けてくださった宣教師に、このことを打ち明けました。
 宣教師はこころよく引き受けて、力強い返事をくださいました。そこで私は大きな希望を持って、さらに深い信仰に入るべく、熱心に祈りつつ勉強を続けました。
 かつては墓場でしかなかった獄舎が、希望に生きる私の修練の場所と変わりました。この尊い宝を独占していることに、苦痛をおぼえるほどでありました。
 洗礼のとき姉は、心から祝福の言葉を述べた後、
 「あなたは今罪ゆるされて神の僕(しもべ)となりましたが、これでよいと安心してはなりません。ご聖霊を失わないように、ご恩寵(おんちょう)の衣を汚(けが)さないように、日々祈りに励んでください。
 神の僕とは、神に従う者ということです。また神は、あなたに大きな仕事を与えられています。それはこの刑務所のなかで、あなたのまわりの悩める人々に、神の福音を伝えて救いに導くことです」
 と力強く励ましてくれました。またそのためには、どんな応援でもすると約束してくれました。事実、私の周囲は、かつて私が悩み苦しんだのと同じように、希望をなくしてもだえ苦しんでいる者ばかりでした。
 獄中における異例の洗礼など、私の洗礼のことが新聞に報じられたために、たくさんのクリスチャンの方々から励ましの手紙や、いろいろな宗教雑誌などももらいました。
 その中に、長崎の原爆の聖者として海外の人にまで尊敬された永井隆(ながいたかし)博士(クリスチャン)の、寄稿しておられる記事がありました。私は、それにひどく心を引かれました。
 博士は、原爆症の白血病におかされ、爆心地に近い焼け跡の急造バラック建て三畳一間の病床に、仰臥(ぎょうが)している身でした。その不自由な重症の身で、月々寄稿しておられました。
 「私は喜びをもって、死を待っています」
 というような記事に、私は心を打たれました。私は繰り返し噛(か)みしめて味わい、深く読まされました。


残された自分の子どもたちはどうなるのか

 けれども、本当にそうだ、私もそうでなければならない、そうありたいと願う自分の心に、言い聞かせ、納得しているつもりでも、何かまだ、モヤモヤとした不安な思いから抜けることができませんでした。
 親の悪行のために、何も知らぬ二人の幼子たちが、大きくなっても安らかな状態で過ごすことができるであろうか? たとえ子どもがそうであっても、社会はあたたかい懐(ふところ)につつんでくれるであろうか? 
 私は、考えまいとすればするほど、わが子の行く末のことがしつこくまつわりついて、眠れぬ夜もありました。こうした私の慰めのために、同囚が貸してくれた雑誌の中に、誌上封切りとしてたまたま「長崎の鐘(かね)(映画)が出ていて、その数場面の写真が掲載されていました。
 日頃から私の尊敬していた永井博士の著書「長崎の鐘」(博士自身の生涯を書いたもの)の映画物語でありました。私は、その一場面に息をのみました。
 それは、あの聖堂の三畳一間の病床に横たわる博士の枕もとで、二人の愛児たちが、積木遊びをしている場面でした。その絵の中には、
 「私が去ったあと、この部屋で子どもたちは、誰と語るであろうか」
 とタイトルの文字が書いてありました。私はたまらなくなって、その上にうっぷしてしまいました。博士の子ども誠一さんとカヤノさんの姿は、私の二人の子どもに変わり、私の心は激しく動揺しました。
 博士は世のため人のために、身も魂もささげつくして召天されるが、私は世人(よびと)に唾棄(だき)される罪人の頭だ。世の人に恐れられる、殺人の大罪を犯した男である・・・・。
 私は矢も楯(たて)もたまらなくなって、自己の苦衷(くちゅう)を、病床の博士に書き送りました。博士からは、おりかえし毛筆の硯書(けんしょ)が届けられました。
 「一九五〇年一一月二四日 永井隆
 神の計画には誤りがない。その計画はすべて、愛に基づいている。神は私に、ある物を与え、また取りあげる。それも、すべて計り知れない愛によって行なわれる。
 私がこれを手に入れ、また失う――すべて、それは神の愛の計画によって起こる。だから何事が起ころうと、みな大きな愛のあらわれと考え、何もかも神に感謝してさえいれば、過ちはない。
 肉身の光栄ある復活を、堅く信じよう。日々深く反省し、罪の悔い改めによって、罪そのものは赦され、霊は清浄潔白である。主のご光臨のとき、公審判の後ふたたび人間となりて、主のもとに光栄ある永遠の生活を営むのだ。
 二人の子どもが後に残るのは、私の魂の平安をこの世から祈ったり、私の償いの足らざるところを補ってくれるようにとの、神の愛の計画によるものである。
 私は、子どもに伝える気持ちを書いて残す。それを子どもに読ますか否かは、後日周囲の人が考えて決めるであろう」。
 私はこの手紙をおしいただき、博士の厚い友情に泣きました。そしてその涙は、私の心の騒ぎを静めました――キリストがお静めになるように。
 永井博士の徹底した心境を知らされた私は、すっかり、心の落ち着きを得ました。博士は、この親書と一緒に、重き病床から、
 「しらゆりの花より香り立つごとく」
 としたためた短冊を、同封してくださいました。私はこの短冊を壁にかけ、日夜博士に接する思いをこめて祈り、信仰に励みました。


「覚めて祈れ」

 それから五か月をすぎた、一九五一年五月一日のことでありました。
 そのころの私は、祈りを終えて頭を枕につけると、ただちに深い眠りに入るのが常でした。夜寝つかれないことなど、救われて以来なかった私でした。
 ところが、体に何の異状もなく、何の思い煩(わずら)うこともないのに、その夜に限ってどうしても寝つかれませんでした。私はとうとう起きて、聖書を読み明かしました。
 たしか、二時を過ぎ三時に近いころだったと思います。そのとき私は、『マタイによる福音書』二六章――ゲッセマネの園において主が血の汗を流して祈られた所を、瞑想しつつ心静かに読んでいました。
 万物寂(せき)とした真夜中、主イエスのおそばにいるような気がして、ご心痛のほどに瞼(まぶた)を熱くしました。ことに、
 「あなたがたはそんなに、一時間でも、わたしと一緒に目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マタ二六・四〇〜四二)
 との御言葉にとらえられ、私の祈りの生ぬるいことを、深く反省させられました。私はマルコ・ルカ両福音書の同じ箇所を読み返し、祈りと瞑想を続けました。
 ようやく夜明け近くなったので、床を上げ、洗面を終え、机の前に座して朝の祈りをしました。その後、昨夜不思議に眠れなかったことについて考えていました。
 そこへ、まだ起床時間にも職員の出勤時間にもならないのに、私どもの直接の係りの看守部長さんが出てきました。
 「君、もう起きているね」
 と戸の外から声をかけられたので、私はドキッとして、不安に胸が騒ぎました。
 もしかしたら、郷里に何か不幸なことが起きたのではないか? 電報でも持って来られたのだろう。出勤にはまだ一時間以上早いので、ただ事ではない、と私は直感したのです。
 「何事でしょうか」
 と尋ねましたが、部長さんの返事はありませんでした。ただ静かに戸を開いて、机の前に掲げている永井博士の短冊を、じいっと見つめておられました。やがて、
 「君があんなに尊敬していた永井博士が、きのうの夕方召天されたという記事が、今朝の新聞に出ていたんだよ。君に早く知らせようと思って、朝食もせずに、官服の袖を通すのももどかしくやって来た。
 新聞は、あとで所長殿のお許しを受けて見せていただくことにするが、博士は主の御名をたたえつつ、安らかに召天(しょうてん)されたと出ていたよ。本当に惜しいことであったね。よくお祈りしなさい」
 と言って、短冊に向かって頭を下げ、去っていかれました。
 私は、博士の短冊(たんざく)の下で机の前に座し、頭を深く垂れて、
 「ああ、そうであったか! 昨夜私があのように一夜眠れなかったのも、博士との友情を、主がよみされたからに違いない。不自由な身体を離れた博士の霊が、第一番にこの獄舎に来て、『覚(さ)めて祈れ』との主の御言葉を教え、励ましてくださったのだ」
 と思い、感謝の涙を押さえることができずに祈りました。
 博士との交わりは、半年ちょっとという短期間、それも、数通のたよりでありました。しかし、当時私どもの取りかわす手紙の検閲(けんえつ)にあたっておられた職員が、博士の真心こもる親書に心を動かされ、教会の門をくぐるようになりました。
 このかたはまもなく受洗し、今は良きクリスチャンとして教会の中堅となり、よき奉仕に励んでおられます。これも神の良き僕(しもべ)、愛の人――永井博士の誠心と、熱心な祈りのおかげでしょう。
 私はこの時から、肉体を離れた博士の霊魂をいつも身近に感じて、獄舎生活が明るく平和に満ちたことを喜ぶようになりした。そしていちだんと、祈りに励む者となりました。


同囚に福音を語り始める

 前にも述べましたように、姉はわたしの受洗の時、祝福の言葉の後に、
 「あなたは神のしもべとされたのだから、神のご栄光のために働かなければなりません。周囲の悩める友の救霊のために祈り、福音を語らねばなりません」
 と申しました。そのとき私は、私のような者にそのようなことが出来るか、と思いました。
 ところが、受洗後まもないある日のことでした。一緒に運動に出て体操が終わった後、わずかの自由時間の時に私が他の同囚と雑談していると、一人の看守部長が来られました。
 「君、君はこのあいだ洗礼を受けたそうだが」
 と言って、動機や心境を聞くのでした。私は、問われるままに答えました。
 そうやって問答をしている間に、一緒に運動に出ていた四〇〜五〇名の被告たちが、私ども二人を取り囲んで、熱心に聞いていました。その翌日からは、運動のあとの一五分の自由時間になると、いつも三〜四名の者が私のまわりに集まってきました。
 そして、いろいろと自己の悩みを打ち明け、信仰による解決を求めてきました。
 私は、彼らの力となるような答えはすぐにはできませんでしたし、またその勇気もありませんでした。そこで答えはみな、翌日にすることに約束しました。
 私は、聖書を引いて夜を徹することもありました。答えができないときは、牧師を呼んで指導を受けました。
 私は、「良い」程度の答えはできないものかと、ひじょうに努力しました。聖書のことは、聖書の御言葉をもって語りました。
 私は、福音を語ることは、じつは人に教えを語っているのではなく、私自身に語っていることなのだ、と知りました。また、それは私の信仰を深めていくことなのだと知り、それからはそれらの兄弟たちと共に、祈りをもって努力してまいりました。
 そのうちに、熱心な求道者が現れました。そうした兄弟たちは皆一様に、日々の生活が改まりました。一人の反則者もなく、短時日のうちに他の同囚の模範となりました。
 そのため所長殿をはじめ、他の職員方一同のキリスト教に対する理解は深まりました。月に何回か聖書を学び、祈りを共にすることが許されるようになりました。
 こうして、一〇か月の間に四名の受洗者、また一〇名以上の受洗希望者が、熱心に聖書の勉強に励みました。
 しかしようやくこれからだと思うとき、私は第二審の公判のために、福岡高等裁判所に近い拘置所に移されました。私は後事を牧師にお願いして、そこへ移りました。
 そこはわずか三か月の独房生活でありました。しかし一人の友を導いたので、牧師を探して、彼のことをお願いしました。


福岡刑務所でも多くの受洗者が起こされる

 その後、私が今いる福岡刑務所に送られてきました。ここの建物は、新築になったばかりの獄舎で、今までの所とはまったく感じの違う明るい監房でした。
 真新しい建物に、同時に四人の死刑囚が送られてきました。ここがその死刑囚の収容所となりました。
 みなは一緒に運動、その他の行動をすることになり、私が福音を語るのに万事好都合に運びました。前にいた刑務所からの申し送りでもあったのか、職員の方々の理解も深くありました。
 また私は同囚の中で年長であったので、みな良く歩調を合わせてくれました。みなはそれぞれ熱心に聖書を学び、相次いで洗礼を受けました。
 そのうち人員も増してきて、ここに初めて「カルバリ会」なるものが誕生しました。
 そもそも私は、あのカルバリの丘において、主イエスの十字架のかたわらで十字架につけられた盗賊と、同じ運命にあった者です。しかし、主の流された尊い御血潮によって、罪をあがなわれました。
 その限りない神の御愛と恵みとを、かたときも忘れることができません。また兄弟一同も、等しい運命の下にあります。
 だから私たちは、十字架の一人の盗賊のように、十字架上の主にすがる者の集(つど)いという意味で、「カルバリ会」と命名したのです。
 兄弟一同が、熱心に聖書の勉強に励むようになったので、指導牧師の刑務所出入りも許され、数々の便宜も与えられました。だんだんと同囚の数も多くなり、召されて御国に帰る者もありますが、数が増して一〇名近くの人員となりました。
 それら兄弟がみな受洗し、やがては死刑囚だけでなく、同じ建物にいる一般の被告人たちの中にも、信仰を求める者が日々多くなりました。これら兄弟の中より、罪ゆるされて社会復帰した者は、立派に更生(こうせい)しています。
 教会礼拝に欠かさず出席し、一家そろってクリスチャンとなり、教会活動の先駆者となっている者もおります。服役中の兄弟は、模範囚と呼ばれ、また処刑を受けた兄弟たちは、主にあって真に平安に御国に凱旋していきました。
 これらの召(め)されて行った兄弟たちのほとんどが、犯罪ゆえに世人に捨てられ、身寄りもない者でした。あるいは、親族が世間ていを恐れて顧みてくれないので、さびしさから世を呪(のろ)い人を呪って、自暴自棄(じぼうじき)となり、全くの無法者となっていた人たちでした。
 そうした兄弟たちに福音を語ることは、じつに容易なことではありません。急に神だ仏だと信仰的な話では、ダメです。
 いろいろと今日まで無駄な労をも体験しましたが、三、四、五、六、年と長い間多くの兄弟姉妹たちと接していくうちに、兄弟たちに接近していくコツも手段も、主の導きによって教えられてきました。そしてだんだんと、会得することができました。
 どのようにすさんだ無法者の死刑囚でも、つねに愛の心をもっていたわり、何事も味方になってあたたかく接することでした。また乏しき物も分かち、愛と真心をもって忍耐強く続けていくことでした。
 そうすると、いくら強情に見えても、もともと愛に飢えかわいた淋しさからの仕業(しわざ)です。愛の真心は、必ず通じます。
 このような兄弟たちが一度信仰に心が向くと、もともと激しい性格の持ち主であり、時も迫っているだけに、その熱心は驚くほどです。わずかの運動時間や、月数回の集会、牧師の説教では満足できません。
 幸いここは木造建てで、隣房との境は板壁になっており、隙間が多くあります。隣室との話は、ふすま一重隔てた隣と話すも同然です。
 熱心な兄弟たちは、無理に願って、私の左右両隣の房の者と入れかわってもらい、勉強するといった有り様でした。板壁が二重になっていて相手の姿が見えないために、両隣から同時に問いかけられたりすることもありました。
 私がどんなに急用で手が離せない場合でも、おかまいなしに語りかけられて、閉口することもありました。
 このようにして「カルバリ会」一同の信仰が確立すると、しぜんに他の刑務所や、癩(らい)・結核等の療養所のお気の毒な人たちとの交わりが、始まりました。それらの人たちと相助け、励ましあって、お互いの家族や他の兄弟姉妹、その家族たちへと、福音を伝えるようになりました。
 福音のタネは、意外に多くの良き実を結び、その交わりは日ごとに大きくなって、「小菅のカルバリ会」「何々のカルバリ会」というようになってまいりました。


困難を乗り越えて

 このように申しますと、いかにも何の妨げもなくカルバリ会の発展を見たように思われますが、それまでには言い知れぬ数々の試練にも会いました。
 場所がら、物品の授受、書籍の貸与についても非常な困難がありました。不自由な場所だけに、相手の要求に応じることができない場合もあり、誤解を生じることもありました。
 そのようなとき、すぐ面と向かって話し合えたらわかることが、独房にかたく閉ざされて語り合う機会がありません。時が流れて解決が困難になり、問題がこじれてしまうこともありました。
 信仰薄く、無学無能な罪深き私には、まったくの重荷でした。失敗を演じて思い悩むことも、一通りではありませんでした。しかしこのような時にも、謙遜に神の御導きと助けとを祈り求め、祈りの中に示された道を、力の限り善処してまいりました。
 失敗はかえって兄弟の一致を増し、相和するの結果となりました。
 「神がすべてのことを働かせて、益としてくださる」(ロマ八・二八)
 の御言葉にありますように、今日まで私がたどってまいりました八か年の信仰生活の歩みを顧(かえり)みると、何もかも御言葉の通りであった、と思います。失敗も成功も、御言葉のとおり「益」となって、ただ感謝と讃美あるのみです。
 「私は、キリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラ二・二〇)
 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」(エペ一・二一)
 これらの尊い御言葉によって、私はただもう主の御栄光のためにと、祈り努めてまいりました。しかし顧みてみますと、"死刑確定後六か月以内に処刑される"という規定がありますのに、その期間を過ぎてまさに七年です。なんと奇しいことでしょう。
 限りなき御恩寵に感謝し、いちだんの祈りをもって精進(しょうじん)を決意し、
 「あなたがたは聖霊の宮である。身をもって神の栄光を現せ」(Iコリ六・一九〜二〇参照)
 の標語をかかげて、努力してまいります。またピリピ三・一四の御言葉のように、目標をさして天国の門にいたるまで、走り続ける決心です。
 私自身としては、語るほどの何ものも持ちあわせていませんけれども、これまで交わってきた多くの兄弟姉妹は、みなそれぞれ素晴らしい良き証しをもっております。
 あの「ぶどう園に夕方遅く雇われた人」(マタ二〇・九)のように、あとに信じて、先に御国に帰った兄弟たちもいます。彼らが主にあって、まったく平安に、讃美歌を歌いつつ召されていったその勝利の凱旋は、まことに良き信仰のしるしでございます。
 これらの兄弟たちの入信から召天(しょうてん)までについては、私のこの眼で見、この耳で聞いたままを一つ一つ、後日時間の許すかぎり申し上げてみたいと思います。このことをお約束して、あまり長くなりますから、まとまらないままに、ひとまずこの稿を終えることにします。
 この拙文を、最後までお読みくださった皆様に心より感謝申し上げます。神の愛と、主イエスの恵みと、御聖霊の親交とが、豊かに皆様の上にありますようお祈りして、筆をおきます。 一九五八年三月五日 福岡刑務所にて


 ――本手記の筆者は、この翌月に刑の執行を受け、天に召された。以下は、受刑当日に、友人にあてた手紙である。

 「井上様、ハレルヤ、ただ今お召しを受けて、御国に行ってまいります。先ほどお便りをしたためたばかりのところです。本当に地上のことは、一寸先がわかりません。しかし主に抱かれて歩く私は、平安です。
 どうか進藤様、新里貫一先生、井神照子様、その他教会の皆々様に、よろしく申し上げてください。ゆるゆるしたためる間もありませんので、これで失礼いたします。お先に行って待っています。天国から祈っています。
 どうか子どものためにも、さらに祈ってください。では平安を祈りつつ、また会う日まで。 一九五八年四月一四日」


 (本手記は、一九五八年にクリスチャン社より『闇から光へ』と題して出版された。なお文中の聖句引用は、原文では文語訳だが、新改訳に替えさせていただいた。)

                                                                                               久保有政著  

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