摂理 

摂理論1
エデン時代から父祖時代まで。
選民世(ヤコブのエジプト定住から初来まで)。

 神は、「摂理(せつり)」をもって歴史を導いておられる。「摂理」とは、神がご自身の計画をもって歴史に介入し、歴史を導かれることである。
 神は"見えない御手"をもって、歴史の中にご自身のご計画を進めて来られた。この神の摂理を理解することは、神のご計画を知る上で、たいへん重要な意義を持つ。


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一 摂理とは何か


千年ごとの誕生

 神のご摂理の一つの例は、イエス・キリストのご降誕に関することである。
 聖書のマタイ福音書と、ルカ福音書には、イエスの系図が載せられている。イエスの系図中の人物、すなわちイエスの先祖にあたる人物の中で、特に重要な人物が四人いる。
 アダム、ノア、アブラハム、ダビデである。
 アダムは全人類の始祖として、ノアは大洪水後の人々の祖として重要である。また、イエスの先祖としてアブラハムとダビデが特に重要なことは、イエスがマタイ福音書の冒頭に、
 「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト」(マタ一・一)
 と紹介されていることからもわかる。
 さて、これら四人の人物について、聖書の文字通りの解釈と考古学とから彼らの生まれた年代を調べると、上図のようになる。
 すなわち、彼らは約一〇〇〇年を周期に誕生した。そして、その周期の五人目のおかたとして、イエスがご降誕されたのである。
 (アダム〜ノアの期間については創世記五章、ノア〜アブラハムは創世記一一章を参照。またアブラハム〜ダビデ、ダビデ〜イエスの期間については、本シリーズで後に詳しく扱う。)
 この一〇〇〇年ごとの周期は、イエス以前の四人が神のご計画によって起こされ、またイエスが、彼らの指し示していた救い主として神のご計画のうちに来られた、ということを示している。
 これが摂理の一例である。イエス・キリストが来られたのは、決して突発的なことではない。彼は神のご計画によって来られた。
 はじめに計画があり、準備がなされ、ついに「時満ちて」(マコ一・一五)キリストは来られた。
 アダム――ノア――アブラハム――ダビデという系列によって指向されてきた最終目標であるかた、さらにこの系列の最後にして最大の人物が、イエス・キリストだったのである。


摂理とは神の介入

 そのほか、聖書には摂理の例が数多く見られる。
 神の摂理は、たとえば何気ないことのなかにも向けられる。良い例は、ボアズとルツとの出会いであろう。彼らは、ダビデ王から三代さかのぼった先祖である。
 裕福だが誠実なユダヤ人であったボアズは、貧しい異邦の女ルツと出会い、彼女を妻に迎えて結婚した。その子孫の中からダビデが生まれた。
 もし彼らの結婚がなければ、ダビデの誕生もイエスのご降誕もなかった。彼らの結婚は決して偶然ではなく、聖書によれば神の摂理であった。聖書は彼らの出会いの時を、こう記している。
 「ルツは出かけていって、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て・・・・」(ルツ二・三〜四)
 「はからずも」「ちょうどその時」というこのことには、その背後に神の摂理がある。
 神の摂理は人々の日常にあり、神のご計画は見えない御手をもって進められていった。こうして、のちにダビデが生まれ、またダビデの子孫としてイエスが降誕された。
 イスラエル民族の誕生も、またイスラエル民族の中に様々の予型が起こされたことにも、神のご摂理が働いていた。
 しかし神の摂理は、誤解してはいけないが、"世界の歴史におこるすべての事柄が神の直接的な支配のもとにある"とか"すべてが神にあやつられている"ということではない。
 世界におこる出来事や事象のあるものは、天地創造以来の物理的化学的法則の当然の結果として起こっている。
 一方、あるものは人間の本性に発して起こる。人間の罪の行為などは、人間の本性から来たものであって、神の摂理によるものではない。
 しかし歴史上のあるものは、神の直接的な、ときには超自然的な介入によって起こった。イエス・キリストのご降誕や、その生涯は、神の直接的なご介入によったのである。
 イエス・キリストを来たらせるために起こされた様々の予型も、そうである。イスラエル民族が起こされたこと、彼らに様々の預言者が遣わされたこと、そうしたこともすべて神のご介入によるものであった。
 神の摂理は、神の全知および全能のご属性に基づき、ご計画に従って、ご自身の愛の目的のために遂行される。
 神の摂理の最終目標は、イエス・キリストを通してご自身に立ち返る人々を地上に起こし、彼らによってご自身の王国「神の国」を建設することである。神はそのために、人類の歴史上に様々の摂理を展開して来られた。
 だから、歴史はある意味では、人間が神と出会う場であった。神は人類の歴史に、様々の形で関与して来られたのである。
 人類の歴史には、人間の本性が刻まれている。歴史とは、人類が歩んできた足跡である。私たちは歴史を研究することによって、人間とは、人類とは何であるか、また人類の将来はどうなるのか、人間の幸福とは何なのか、等について考えさせられる。
 しかし、歴史には同時に、神のご介入の足跡も刻まれている。歴史は一〇〇%人間の意志であるとともに、一〇〇%神の意志である。


中心摂理と周辺摂理

 神の摂理は、大きく二つに分けて考えることができる。その二つとは"中心摂理"と"周辺摂理"である。
 "中心摂理"は、おもに聖書に記された神の救いのご計画による歴史への介入や、導きをいう。これは人類の救いを目的とし、イエス・キリストの初来や再来にかかわる摂理である。
 一方"周辺摂理"は、その他の周辺的な摂理である。たとえば、私たち一人一人の人生を祈りに基づいて導いて下さる神の摂理などである。
 神はクリスチャン一人一人の人生を、祈りに答え、ご自身の愛の御計画に基づいて、良い方向へと導いて下さる。こうした摂理は、周辺摂理である。
 私たちは以下、とくに中心摂理について詳しく見ていこう。すなわち、人間の本性の展開としての歴史に、神がいかに介入し、いかに今も導いておられるか、についてである。

二 摂理的時代区分


 「神は・・・・それぞれに時代を区分し・・・・」(使徒一七・二六)
 と聖書は記している。
 歴史とは、基本的には人間の本性の展開である。しかし、神はしばしばそこに介入して、時代を区分される。
 ひとりの人間に、幼児期、少年期、青年期、壮年期、老年期といった時期の移り変わりがあるのと同じく、歴史にも時代の移り変わりや区分がある。
 聖書に記された歴史は、大きく次の七つの時代に区分できる。

(1) エデン時代
 アダム創造からエデン追放まで
(2) 原始世(げんしせい)
 エデン追放からアブラハムまで の約二〇〇〇年
(3) 父祖時代
 アブラハムからヤコブまでの約 二〇〇年
(4) 選民世
 ヤコブからイエスまでの約二〇〇〇年
(5) 終末世
 イエスから患難迫害時代の開始まで
(6) 最終末世
 患難迫害時代から新天新地創造まで
(7) 新しい世
 新天新地創造――

 なお本誌の時代区分においては、数千年におよぶ長期間は「〜世」、数十年〜数百年は「〜時代」、数年〜数十年の短期間は「〜期」という言葉で表している。
 これは便宜的なものであって、厳密なものではない。が、混同をふせぐために使い分けているものである。
 以下に示すことは、すべて聖書と歴史学に基づく。
 聖書に、
 「(彼らは)非常に熱心にみことばを聞き、はたしてその通りかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒一七・一一)
 と記されているが、読者も、「はたしてその通りかどうか聖書を調べる」ことを常にしていただきたい。それによってはじめて、以下に示すことの重要性が理解できるであろう。
 世の中ではしばしば、「歴史は繰り返す」と言われる。じつは、聖書に記された歴史においても、歴史は繰り返している
 全く同じ歴史が繰り返すのではないが、いわば"らせん状"に、歴史は発展しながら、同じようなパターンが繰り返されていくのである。


人類の歴史はらせん状に進展しながら繰り返していく。

 私たちはアダム創造から新天新地創造までの全歴史を、これから見ていくことにする。
 最初は(1)「エデン時代」である。


(1) エデン時代

 アダムとエバは、人類最初の男女として神に創造され、エデンの園に置かれた。それは幸福な場所であった。
 しかし二人は、やがて「善悪を知る木」に関する神の命令を破り、罪を犯してしまった。
 神は裁きを宣告し、二人をエデンの園から追放された。私たちはこのように「エデン時代」において、
 幸福な時期→罪→裁きの宣告→追放
 という一つの流れを見ることができる(創世記一〜三章)


(2) 原始世

 さて、アダムとエバのエデン追放後、二人が「善悪を知る木」によって知った「善悪」(道徳的善悪、および自然的善悪である幸不幸)は、人類の歴史の上に展開していった。
 人は、楽園を出た後、いやおうなしに苦しみと悲しみのある世界に、入っていった。それは幸福と不幸、善と悪、祝福とのろい、光とやみが複雑に混在する世界であった。
 彼らは、幸福もあるが不幸もある世界、生もあるが死もある世界、喜びもあるが悲しみもある世界に入っていったのである。
 アダムとエバは、多くの「息子、娘たちを生み」(創世五・四)、またその子たちも多くの子を生んで、人は地のおもてに増えていった。しかしそれと共に、人のなす暴虐や悪も、増大していった。
 やがて、アダムから一〇代目のノアの時代になった。
 この時代に、人々の暴虐と悪は最高潮に達していた。神は、地に大洪水を起こし、義人ヨブとその家族を除いて、全人類を滅ぼされた。
 聖書の文字通りの解釈によれば、このノアの大洪水は、アダムとエバのエデン追放の約一六〇〇年後のことである。
 〔正確には、アダム誕生から大洪水までの期間である一六五六年 (創世記五章) から、エデン時代の長さを引いたもの。エデン時代は一三〇年を大幅に下回る短い年月であったから(創世五・三)、エデン追放から大洪水までは約一六〇〇年だったと言ってよい〕
 大洪水後、人々は再び地上に増えていった。そして大洪水の二九二年後になって、イスラエル民族の父祖アブラハムが誕生した (創世記一一章)
 彼は、はじめメソポタミヤ地方のハラン町(新改訳ではカラン)に住んでいた。しかし七五歳のとき神から召命を受け、西方へ旅をして、カナン地方 (今日のパレスチナ) に移住した。
 アブラハムがカナンに移ってまもなく、その地方に飢饉(ききん)があった。その飢饉は激しかったので、彼はエジプトにしばらく滞在するために南下した。
 「この地には、ききんがあったので、アブラム (のちのアブラハム) はエジプトのほうにしばらく滞在するために下っていった」(創世一二・一〇)
 アブラハムのこのエジプト寄留は、彼が七五歳〜八六歳のことであった。それはまたノアの大洪水の約四〇〇年後のことである(正確には三六七年〜三七八年後――創世一二・四、一六・一六)
 大洪水からアブラハムのエジプト寄留までを、本誌では「父祖時代準備の時代」と呼んでいる。これはこの時代が、父祖アブラハム、イサク、ヤコブの「父祖時代」の前にあたる時代だからである。


(3) 父祖時代

 つぎに、時代は「父祖時代」に入る。父祖時代は、約二〇〇年間続く。
 「原始世」や、後述する「選民世」が約二〇〇〇年であるのに対し、「父祖時代」は二〇〇年で、一ケタ違っている。これは父祖時代が、のちの「選民世」や「終末世」さらに「最終末世」の基本形となる時代だからである。
 「父祖」とは、アブラハムイサクヤコブの三人をいう。神はこの父祖たちを通し、イスラエル民族の基礎をつくられた。
 イスラエル民族は、神がメシヤ(救い主)を全世界のために来たらせるために、そのパイプ役として創始し、育成された民族である。
 父祖時代のはじめ――「不安な時期」から見てみよう。


(A)不安な時期
 アブラハムは、カナンの地の飢饉のためにエジプトに下ったが、彼はそこで非常に不安な時期を過ごさねばならなかった。自分が殺されるのではないか、と思ったのである。
 アブラハムの妻サラ(サライ)は、きわめて美しい女性であった。古代の王は、美しい女性を探し出しては宮廷に召し入れ、その夫を殺す、ということをしばしば行なっていた。それでアブラハムは不安になって、妻サラに言った。
 「エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう」(創世一二・一二)
 そのため、サラはエジプトでの滞在中、自分はアブラハムの妹であると話していた。アブラハムもそうであった。
 これは必ずしもウソではなかったが(サラはアブラハムの異母妹――創世二〇・一二)、いずれにしても、アブラハム夫婦はエジプトで不安な時期を過ごさねばならなかったのである。
 これからもわかるように、アブラハムはきわめて"ふつうの人"であった。しかし、このアブラハムを神はしだいに訓練して、イスラエル民族の父祖、また「信仰の父」と呼ばれる偉大な人物に育てあげられる。


(B)増勢期
 アブラハムはエジプト滞在中、王宮から非常に厚遇(こうぐう)されていた。王宮に召し入れられたサラの兄弟だ、と思われていたからである。
 彼はパロ(エジプト王)から多くの「羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだ」などを与えられた。
 しかしその後、アブラハムはじつはサラの夫である、ということがエジプト王に知れる。
 ところが、そうわかった時、王は彼を殺すことをしなかった。かえってサラをアブラハムに返し、彼らに与えた多くの所有物と共に、彼らをカナンの地に送り返したのである。
 神はこうして、信仰においてまだ未熟だったアブラハムをあわれみ、その生命を守られた。
 アブラハムらがカナンの地に帰ったとき、彼は「家畜と、銀と、金とに非常に富んで」(創世一三・二)いた。
 彼はしだいに、その地で「族長としての勢力を拡大していった。アブラハムは族長として「増勢期」に入ったのである。
 さて、ある日シヌアルの王アムラフェル(古代シュメールの有名なハムラビ王のこと)、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティディアルの四人の王たちと、ソドム・ゴモラや他の地方の王たちとの間に、戦争が起こった。
 その戦争に、アブラハムの甥であったロトの一家が巻き込まれ、捕虜になったことを、アブラハムは伝え聞いた。それでアブラハムは、
 「自分の家で生まれたしもべども三一八人を招集して・・・・追跡し・・・・彼らを打ち破り、親類の者ロトとその財産、それにまた女たちや人々をも取り戻した」(創世一四・一四〜一六)
 このように「増勢期」において、アブラハムの族長としての力は、かなりのものになったのである。


(C)族長アブラハムの盛期
 アブラハムが王たちの軍勢を打ち破って帰ってきたとき、「メルキゼデク」という人物が彼を迎えた。
 「シャレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持ってきた。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。
 『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られたかた、いと高き神より。あなたの手にあなたの敵を渡された神に、誉れあれ』。
 アブラムは、すべての物の一〇分の一を彼に与えた」(創世一四・一八〜二〇)
 メルキゼデクが王であった都市国家「シャレム」は、のちのエルサレムである。その王メルキゼデクは、天地万物の創造主なる神に仕える「祭司」でもあった。
 その彼がアブラハムを祝福した。だから、この時から「族長アブラハムの盛期」が始まったと言ってよいであろう。
 アブラハムの族長としての力は、この時をもって不動のものとなったのである。「族長アブラハムの盛期」は、メルキゼデクの祝福からアブラハムの死の時までと考えると、その長さは約一〇〇年であった。
 [それは次のことからわかる。メルキゼデクの祝福はアブラハムが七五歳以上、かつ八六歳以下の時であった (創世一二・四、一六・一六) 。またアブラハムは一七五歳で死んだ (創世二五・七) 。
 したがって、「族長アブラハムの盛期」は八九年〜一〇〇年間となり、約一〇〇年だったといえる。]



(D)罪と対立の時期
 アブラハムには、一〇〇歳という高齢で奇跡的に生まれたイサクという息子がいた。アブラハムが死んだとき、このイサクは七五歳であった。
 また、イサクは六〇歳のとき妻との間に双子エサウとヤコブを生んだのだが(創世二五・二六)、アブラハムが死んだ時、このエサウとヤコブは共に一五歳の少年になっていた(創世二五・二六)
 エサウは兄、ヤコブは弟である。二人はこの頃から激しく対立し始めた。
 当時の人々は「長子の特権(長男の権利)というものを大切にしていたが、ヤコブは、弟でありながら執拗に「長子の特権」を欲しがった。
 また、兄エサウもエサウで、長子の特権を大したものとは考えず、それを軽んじる傾向があった。
 「 (ある日) ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。エサウはヤコブに言った。
 『どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせておくれ。私は飢え疲れているのだから』――。
 するとヤコブは、
 『今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい』
 と言った。エサウは、
 『見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう』
 と言った。それでヤコブは、
 『まず私に誓いなさい』
 と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。
 ヤコブはエサウに、パンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは、長子の権利を軽蔑したのである」 (創世二五・二九〜三四)
 と記されている。
 その後も、エサウは四〇歳のとき、偶像を拝む二人の異教徒の女性と結婚して、長子としての責任を果たそうとしなかった。これは両親にとって心の痛みとなった(創世二六・三四〜三五)
 一方ヤコブは、謀略によって父の祝福をエサウから取り上げ、長子の特権を実質的に奪い取った。
 このようにこの時期は、謀略、不和、対立、罪などが行なわれた暗い時期であった。そこで本誌では、この時期を「罪と対立の時期」と呼んでいる。
 「罪と対立の時期」は約五五年間であった。
 [それは次のことからわかる。
 アブラハムが死んだとき、ヤコブは一五歳だった。またヤコブは、後述する「選民世準備期」の終わりにエジプトに移住した際に、一三〇歳になっていた (創世四七・九)
 この一三〇歳から、「選民世準備期」の約四〇年、「ハランでの労役の時期」の二〇年、さらに一五年を引くと、「罪と対立の時期」は約五五年間となる。このようにこの時期だけは、半端な年数となっている]。


(E)ハランでの労役の時期
 ヤコブは、謀略によって長子の特権を奪い去ったのち、兄エサウの復讐を恐れて、家を出た。
 ヤコブは長旅をして、ハラン町(新改訳ではカラン)に向かった。ハランには母の兄ラバンが住んでいたから、エサウの憤りがおさまるまでそこにとどまろう、と思ったのである。
 ハラン町は、のちにバビロン帝国(歴史学でいう新バビロニア帝国)が世界を支配したとき、その領土内に位置した町である。
 のちにイスラエルの民が、罪を犯してバビロンに捕らえ移され「捕囚の民」となったように、ヤコブは自分のなした行為のために、そこに移った。そして、そこで不本意な労働をさせられるはめになるのである。
 ヤコブは、ハラン町にいる叔父のもとで「二〇年間(創世三一・四一)働いた。というよりは働かされた
 ヤコブはほとんど二〇年間、叔父ラバンにこき使われたからである。とくにその最初の「七年間」の労役は、ラケルを妻に迎えるという約束のもとでなしたのに、その約束は裏切られた(創世二九・二〇、二五)
 ヤコブは、かつてエサウに対してなした謀略の報いを、ここで受けたのだと言ってよい。ヤコブは自分の蒔いたものを刈り取った。
 しかしこの長い歳月の間に、ヤコブは生ける神への真の信仰を学んでいった。「二〇年」という期間は、彼に対する報いの期間として充分なものであった。こののち、ヤコブはカナン地方へ帰った。


ヤコブはハランにいる叔父のもとで、20年の労役に服した。



(F)選民世準備期
 ヤコブが信仰的にひと回り成長したことは、彼がカナンに帰ったとき、まっ先に家族の間で"宗教改革"を行なったことからもわかる。
 「ヤコブは(カナンに帰ると)、自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者とに言った。
 『あなたがたの中にある異国の神々(偶像)を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私と共におられた神に祭壇を築こう』。
 彼らは、手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪とを、ヤコブに渡した。それでヤコブは、それらをシェケムの近くにある樫の木の下に隠した」(創世三五・二〜四)
 ヤコブは自分の家族に、異教の偶像を捨てさせ、信仰刷新、宗教改革を行なったのである。
 信仰刷新後、神はヤコブに現われ、彼を祝福し、彼の名を以後「イスラエル」と呼ぶように命じられた。ヤコブはその通りにし、自分の名を「イスラエル」と改名した。
 改名は、聖書においては実質の変化を象徴するものである。「ヤコブ」は"押しのける者"という意味の名だったが、彼はこのときから「イスラエル」、つまり"神の人" (または神と争う者) になったのである。


ヤコブは一族の間で、宗教改革を行った。

 彼から生まれ出た子孫が、いわゆるイスラエル民族である。
 彼はかつて、ずる賢い人物であった。しかし、にもかかわらずエサウと比べるなら、メシヤ民族の父としてはるかにふさわしい人物である、と神は判断されたのである。
 エサウは、神を軽視する無宗教的な性格の人物で、「長子の特権」を軽んじ、神の祝福を世界に導入する通路となることを無意味とした。エサウは「長子の特権」を食べ物と交換するほど、あさはかだったのである。
 ヤコブ(イスラエル)も欠点は多くあったが、ヤコブのほうが、聖別(せいべつ)されるとき立派な信仰を持つようになることを、神は知っておられた。それで、神はヤコブを選んでイスラエル民族の父とされた。
 ヤコブがカナンに帰り、家族の間で宗教改革を行ない、信仰を刷新したとき、彼らは「選民世準備期」に入った、と言ってよいであろう。それはこの期間が、次にみる約二〇〇〇年間の「選民世」の前に位置する準備期間だからである。
 ヤコブは、カナンの地で兄エサウと和解した。またヤコブの一二人の息子たち、および娘たちは、元気に育っていった。
 信仰刷新後のヤコブは、立派な信仰を持ち続けた。
 ヤコブがカナンの地に戻ってからそこにいた期間は、約四〇年間であった。その後ヤコブ一家は、当時カナンの地にあった飢饉のゆえに、エジプトに移住した。
 かつてアブラハムが、飢饉の故にエジプトへ行ったように、このときヤコブ一家も、飢饉の故にエジプトへ移住したのである。
 なお、当時カナンに大規模な飢饉があったことについては、聖書のみならず古代エジプトの碑文(ひぶん)にも、記録が残っている。
 ヤコブの信仰刷新からヤコブ一家のエジプト移住までの、この「選民世準備期」が約四〇年であることは、次のことからわかる。
 ヤコブの「ハランでの労役の時期」の一四年目に、ヤコブはラケルをめとった。しかしラケルには長いあいだ子がなく、やっと生まれたのがヨセフという子であった
(創世三〇・一、二二〜二四)
 ヨセフは、「ハランでの労役の時期」のほぼ終わり頃――つまりヤコブがカナンに帰る少し前に生まれた子であった。このヨセフは、ヤコブ一家がエジプトに移住したときには、三九歳になっていた
(創世四一・四六〜五三、四五・一一)
 したがってヤコブがカナンにいた期間は、三九年よりほんの少しだけ短い期間ということになり、約四〇年だったといえる。



 以上が(3)「父祖時代」のあらましであるが、ここにおいて、
 不安な時期→増勢期→盛期→罪と対立の時期→労役→準備期
 というパターンが見られることに、注意してほしい。
 この後、「選民世」「終末世」「最終末世」について見ていくが、それらの歴史の中にも、同様なパターンが繰り返されていくのである。
 アダムとエバの知った「善悪」が、いかに人類の歴史に展開してきたか、という問題を私たちは見ている。すでに私たちは、
(1) エデン時代――人類創造からエデン追放まで
(2) 原始世――エデン追放から アブラハムまで
(3) 父祖時代――アブラハムのエジプト寄留から、ヤコブ一家のエジプト定住まで
 の三つの時代について見た。とくに三番目の「父祖時代」は、基本形となる時代であった。次は、
 (4)「選民世」
 に関してである。これはヤコブ一家のエジプト定住から、イエス降誕までの、約二千年間である。
 私たちはこの「選民世」に、「父祖時代」の歴史が、似たようなかたちで繰り返された事実を見ることができる。選民世は、つぎの六つの時代から成り立っている。
 (A)苦役時代
 (B)未統一時代
 (C)統一王国時代
 (D)最暗黒時代
 (E)捕囚・審判時代
 (F)終末世準備時代


(4) 選民世

(A)苦役時代
 「苦役(くえき)時代」は、約二千年におよぶ選民世の最初の四百年間である。
 紀元前一九世紀に、イスラエル民族の父祖ヤコブは、一家を率いてカナンの地を去り、エジプトに移住した。カナンの地(今日のパレスチナ)に飢饉(ききん)がひどかったので、彼らは穀物の豊かなエジプトに移ったのである。
 エジプトにはまた、ヤコブの愛する息子ヨセフがいた。
 ヨセフはかつてカナンの地にいたとき、兄弟たちのねたみを買い、エジプトに奴隷として売られた人であった。
 ところがヨセフは、エジプトで大変な出世をして、エジプトの宰相の地位にまで上っていたのである。
 宰相ヨセフは、自分の父と家族を、エジプトに呼び入れた。その時のヨセフとヤコブ一家の感動的な再会は、聖書・創世記の三七章〜四七章に記されている。
 ヨセフは、再会の喜びに泣きながら、兄弟たちにこう言った。
 「わたしは、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフである。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神は命を救うために、あなたがたより先に私を遣(つか)わしてくださったのです」(創世四五・四〜五)
 こうしてヤコブ一家は、エジプトに移住した。
 しかし彼らは、カナンの地の飢饉が終わったあとも、カナンに帰らなかった。彼らはエジプトに定住した。
 やがてヤコブが死に、ヨセフも死んだ。
 イスラエル人は多産だったので、エジプトでおびただしく増え始めていた。彼らの存在は、エジプトで無視できない勢力となっていた。
 しばらくして、ヨセフのことを知らない新しいパロ(ファラオ=エジプト王のこと)が、エジプトに起きた。新しいパロ(エジプト王)は、イスラエル人の勢力拡大をおそれ、イスラエル人たちに苦役を課した
 「エジプト人は、イスラエル人に過酷な労働を課し、粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた」(出エ一・一三〜一四)
 イスラエル人は、エジプトで奴隷となったのである。イスラエル人のこの「苦役時代」は、約四百年、正確には四三〇年続いた。
 「イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は、四三〇年であった」(出エ一二・四〇)
 すなわちヤコブ一家のエジプト移住から、「出エジプト」と呼ばれるイスラエル民族のエジプト大脱出までは、四三〇年であった。
 この四三〇年の期間が終わりに近づいた時、神はイスラエル民族を救い出すために、モーセと呼ばれる人物をお立てになった。
 その頃エジプト人は、イスラエル人に男子が生まれると、その赤ん坊をみな殺していた。そのためモーセが生まれたとき、母は赤ん坊のモーセをエジプト人から隠して、育てなければならなかった。
 しかしもはや、隠しきれなくなった。母はパピルス製のかごに防水処理を施して、中に子を入れ、ナイル川の葦(あし)の茂みの中に置いた。
 そのかごは、神の導きにより、ほどなくしてパロの娘に拾われた。
 こうしてモーセは、エジプトの王宮で、パロの孫として育てられた。
 やがてモーセは、成人したとき、自分が本当はイスラエル人であることを知るようになった。彼は同胞の苦しみを思い、心が痛み、何とか助けたいと思った。
 しかし四〇歳のとき、そのことをパロに知られてしまい、エジプトを追放された。
 モーセはミデヤンの地(アラビア半島北西岸)に逃れ、そこで羊飼いとなった。そこで四〇年が過ぎ、モーセも八〇歳の高齢になり、同胞救出の夢は露と消えたかに見えた。
 しかし、ついに神がモーセに現われてくださった。神は彼を、イスラエル人の救出者に任命された。
 モーセはエジプトに行き、力強い神の権威のもとに多くの奇跡を行ない、イスラエル人をエジプトから救出した。これが有名な「出エジプト」の出来事である。
 本誌では、ヤコブ一家のエジプト移住からこの出エジプトまでの約四〇〇年間(四三〇年)を、「苦役時代」と呼んでいる。この時代は、ほとんどがイスラエル民族にとって苦役の時代だったからである。
 「苦役時代」は、本誌先月号で見た父祖時代でいえば「不安な時期」に対応する時代である。かつてアブラハムが、エジプトで不安な時期を過ごしたのと同様、イスラエル民族はエジプトで苦役の時代を経験した。
 イスラエル民族は、エジプトで約四〇〇年間の「苦役時代」を経験し、そののち紀元前一四五〇年頃に出エジプトを敢行した。


 なお、出エジプトが紀元前一四五〇年頃であることについては、次を参照。
 出エジプトが起こった年代に関して、考古学者の間には、おもに二つの見解がある。
 一つは、モーセがエジプトで育った時のパロはラメセスU世(在位紀元前一三〇〇〜一二三五年)であったと考え、出エジプトの時のパロはその後継者メルネプタ(紀元前一二三五〜一二二〇年)だった、とする説である。
 この見解によると、出エジプトの年代は、紀元前一二〇〇年代――つまり紀元前一三世紀ということになる。
 第二の説は、モーセがエジプトで育った時のパロはトゥトメスV世(在位紀元前一五〇〇〜一四五〇年)、出エジプトの時のパロはその後継者アメンホテプU世(紀元前一四五〇〜一四二〇年)であった、とする説である。
 この見解によれば、出エジプトは紀元前一四〇〇年代――つまり紀元前一五世紀ということになる。第一の説と第二の説では、約二〇〇年の差があるわけである。
 聖書を完全には信じない、いわゆる自由主義神学に立つ解説書の多くは、第一の説をとっているようである。
 しかし本誌では、第二の説をとる。出エジプトは紀元前一五世紀――具体的には紀元前一四五〇年頃に起きた、と考えている。
 二つの説のどちらを取るかは、じつはたいへん重要な事柄である。そこで両者の見解を、ここで詳しく検討しておこう。
 まず第一の説である。この説はイスラエル人に対する大圧迫者が、ラメセスU世であったとする説である。
 この説の根拠とされるものは、次のものである。聖書には、イスラエル人は苦役を課せられ、
 「パロのために、倉庫の町ピトムと、ラメセスを建てた」(出エ一・一一)
 と記されている。「ピトム」については、考古学者ナビィルが一八八三年に、
 「私はピトムの町を東の入口に建てた」
 という、ラメセスU世の碑文を発見した。また「ラメセス」の町については、考古学者ピートリー卿が、
 「ラメセスの町は、アジアのセム人奴隷(イスラエル人)によって建てさせた」
 という、ラメセスU世の碑文を発見した(一九〇五年)
 そこでもし、これらラメセスU世の碑文が真実を語っていると仮定すれば、古代エジプトの町ピトムとラメセスの建設者は、ラメセスU世であったことになる。これが第一の説の根拠であるわけである。
 すなわち、イスラエル人に対する大圧迫者はラメセスU世であり、出エジプトの年代は紀元前一三世紀、ということになる。
 つぎに、本誌の支持する第二の説を見てみよう。聖書・T列王記六・一には、こう記されている。
 「イスラエル人がエジプトの地を出てから四八〇年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目に――ソロモンは主の家(神殿)の建設に取りかかった」。
 ここで出エジプトは、ソロモンの治世第四年の四八〇年前であると、述べられている。
 考古学によると、ソロモンの治世第四年は紀元前九七〇年とされている。この年代は、プラスマイナス一〇年以内程度の異論はあっても、ほぼ動かしがたいものである。
 とするとその四八〇年前は、紀元前一四五〇年である。この頃に、出エジプトがあったことになる。つまり聖書の記述を全面的に信頼すれば、私たちは第二の説をとる必要がある。
 では、第一の説の根拠とされたラメセスU世の碑文は、どうなるのか。
 ラメセスU世は、しばしば先人の功績を記した記念碑に、自分の名を刻ませ、自分の功績として書き換えた人物として知られている。彼は先人の功績を、横取りするクセがあった。
 ピトムとラメセスの町を建てたという彼の碑文も、彼よりずっと以前の王がなした功績を、自分の名に書き換えたものと考えられる。
 第二の説の学者は、イスラエル人に対する大圧迫者は、じつはラメセスU世より二〇〇年ほど前のパロ――紀元前一五世紀のトゥトメスV世であった、と考えている。彼はエジプト史上、最大の征服者であった。
 トゥトメスV世は、エチオピアを従え、ユーフラテスまで統治し、エジプトに史上最初の大帝国を建設した人物である。彼は巨大な富を蓄積し、大きな建築事業をなし、その功績を、石壁や記念碑に記録させた。ラメセスU世は、この記念碑を盗用したのだろう。
 実際、他の考古学的証拠の多くは、出エジプトが紀元前一四五〇年頃である、とする第二の説を支持している。
 たとえばカナンの地に、エリコという町がある。エリコは紀元前一五世紀には栄えた町だったが、紀元前一四〇〇年かその頃に、突如として外敵によって完全に破壊されたことがわかっている。
 これは、エルサレムにある英国考古学研究所の所長ガースタング博士らの発掘によって、明らかにされた。聖書によればイスラエルの民は、出エジプト後四〇年目に、カナンの地に入ってエリコを破壊したのである。
 つまりエリコが紀元前一四〇〇年頃に破壊された跡は、イスラエル人の出エジプトが紀元前一四五〇年頃であるという説を裏づけている。
 またもう一つの証拠は、「アマルナ文書」と呼ばれる古代文書である。これはカナンの地の王が、エジプトのアメンホテプV世(在位一四一五〜一三八〇年)に宛てた手紙で、こう記されている。
 「ハビルは、われらの要塞を奪取している。彼らはわれわれの町を、奪おうとしている。われらの統治者たちを、滅ぼそうとしている。王よ、すみやかに軍隊をお送りくださるように。もし軍隊が年内に来なければ、王は(カナンの)全国土を失われるでしょう」。
 ここに出てくる「ハビル」とは、ヘブル民族(イスラエル人)のことである。この手紙は、カナンの地が出エジプト後のイスラエル人によって襲われたことに悲鳴をあげたカナンの王が、エジプトに助けを求めた手紙なのである。
 この手紙が書かれたのは、紀元前一四一五〜一三八〇年の間であった。出エジプトはそれより四〇年前ということになるから、出エジプトが紀元前一四五〇年頃である、という説は妥当なものであることがわかる。
 (詳しくは、ヘンリー・H・ハーレイ著『聖書ハンドブック』聖書図書刊行会 一九八〇年 一〇九〜一一四ページ参照)
 このように本誌では、聖書的根拠、および考古学的根拠の双方によって、出エジプトの年代を紀元前一五世紀(紀元前一四五〇年頃)と考えている。


(B)未統一時代
 さて、出エジプトを敢行したイスラエルの民は、四〇年間シナイ半島の荒野を放浪したのち、カナンの地(パレスチナ)に入った。そしてカナンの地を征服し、そこに定住した。
 イスラエルのカナンの地におけるこの時代が、「未統一時代」である。サウルがイスラエルの王位につくまでのこの時代、イスラエルの全土は、まだ統一されていなかった。
 「そのころ、イスラエルには王がなかった(士師二一・二五)
 イスラエルはまだ、通常の国家としての形態を持っていなかった。特定の政治制度を持っていなかったのである。イスラエル人は"単にそこに住んでいる民"であるに過ぎなかった。
 この時代に関する詳しいことは、聖書『士師(しし)記』に記されている。有名なギデオンや、サムソンなどの士師(イスラエル人指導者)が現われたのも、この時代である。
 この時代にイスラエルは、他民族の侵入を何度も受けた。イスラエルの民が罪を犯し、その審判として神が他民族の侵入を許し、そののち民が悔い改め、士師の指導のもとに他民族を撃退する、ということが何度か繰り返された。
 イスラエルの領土は、この時代に流動的に変化した。しかし、イスラエルはしだいに勢力を伸ばしていった。
 人々はやがて、混乱の時代にあって王となって自分たちを支配し、政治をしてくれる人を欲しがった。そこで彼らの中からサウルが、イスラエルの王となるために選ばれた。
 預言者サムエルは、彼に油を注いで王とした。「油注ぎ」は、神による任命を表す儀式である。イスラエルの「未統一時代」は、サウル王の即位をもって終わった。
 イスラエルの「未統一時代」を、出エジプトからサウル王即位まで、と考えると、その期間は約四〇〇年であった。
 それは次のことからわかる。
 先に述べたように出エジプトから、ソロモン王の治世第四年までが、四八〇年であった。ソロモンはイスラエル王国第三代目の王で、彼の前に、一代目サウル王の在位四〇年、二代目ダビデ王の在位四〇年があった。
 「人々は王を欲しがったので、神はベニヤミン族の人、キスの子サウロを四〇年間お与えになった」
(使徒一三・二一)
 「ダビデは三〇歳で王となり、四〇年間、王であった」
(Uサム五・四)
 そこで、四八〇年からサウルの在位四〇年、ダビデの在位四〇年、それにソロモンの治世第四年までの在位期間約四年を引くと三九六年となり、「未統一時代」はほぼ四〇〇年、ということになる。
 イスラエルのこの「未統一時代」は、父祖時代でいえば、アブラハムの「増勢期」に対応する時代である。

(C)統一王国時代
 紀元前一一世紀になって、イスラエルに最初の王が誕生した。サウルである。
 イスラエルの国は統一され、王サウルのもとに民は一つになった。
 しかしサウルは残念なことに、しばしば神に対する不従順の罪を重ねた。やがて彼は神から退けられ、王位から退けられた。
 第二代の王に選ばれたのが、有名なダビデであった。彼はイエス・キリストの両親ヨセフとマリヤの先祖でもある。
 預言者サムエルは、神の命令によってダビデに油注ぎを行ない、王位につく者として任命した。サウルがまだ王位にある時から、ダビデはしだいに、イスラエルの実権を握り始めた。
 ダビデが正式に王位についたのは、サウルの死後、ダビデが三〇歳の時であった。
 ダビデも、罪を犯した。しかし第一代のサウルの悔い改めが不完全なものだったのに対し、ダビデの悔い改めは深刻で、主の憐れみを受けた。
 ダビデはいくつかの罪を除けば(深刻な罪もあったが)、総体的には神に忠誠を尽くし、神の心にかなう人として歩んだ。彼の心の広さや温かさは、当時のイスラエルの人々に慕われ、また今日の人々にも慕われている。
 ダビデは、単にイスラエルの王としてだけでなく、預言者としても活動を行なった。彼は多くの預言詩を残した。旧約聖書の『詩篇』は大部分、彼の作であり、その中にはキリストの生涯に関する預言詩もある。
 ダビデの死後、第三代目の王ソロモンが王位についた。彼はダビデの息子である。
 ソロモンの名は、今日も「ソロモンの栄華」として知られている。彼の時代に、イスラエル統一王国は最大の領土と、最大の繁栄を誇ったのである。
 「ソロモンは、大河(ユーフラテス川)からペリシテ人の地(パレスチナ)、さらにはエジプトの国境に至るすべての王国を支配した」(T列王四・二一)
 と聖書に記されている。ソロモンの王国は、中東のほぼ全域を支配する巨大なものとなった。これはかつて紀元前二千年頃に、神がアブラハムにお与えになった約束の、成就であった。神はかつてアブラハムに約束して言われた。
 「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を」(創世一五・一八〜二一)
 この約束が、ソロモンの時代に成就したのである。
 ソロモンの時代には、神殿も建てられ、国も豊かになった。近隣諸国との関係も良好で、貿易は豊かに行なわれ、国の富と権力は増大した。


ソロモンの王国は中東のほぼ全域を支配した。

 しかしソロモンは、二つの点で誤りを犯した。一つは、彼が多くの妻やそばめを囲ったことであった。
 その数は総計約一〇〇〇人にものぼった。なかには政治的友好のしるしとして与えられた外国の王女たちも少なくなかった。
 彼女らは、外国の偶像教をイスラエルに持ち込んだ。そしてソロモンは、偶像教の神殿の建設を許したのである。これは神の教えに対する、明らかな背信であった。
 第二は、彼がぜいたくの限りを尽くしたことだった。そのために国民は重税に苦しみ、ついには王に対する国民の忠誠心が、動揺するに至ったのである。
 このためにイスラエル統一王国は、ソロモンを最後に終わった。彼以後、イスラエルは南北に分裂し、分裂国家になったのである。
 イスラエル統一王国の歴史は、旧約聖書の『サムエル記T、U』や『列王記T』『歴代誌T』に記されている。
 「ソロモンがエルサレムで全イスラエルの王であった期間は、四〇年であった」(T列王一一・四二)
 したがって第一代サウルの在位四〇年(使徒一三・二一)、第二代ダビデの在位四〇年(Uサム五・四)と、第三代のソロモンの在位四〇年を合わせると、イスラエルの「統一王国時代」は一二〇年、つまり約一〇〇年続いたことがわかりる。
 約一〇〇年におよんだイスラエルのこの「統一王国時代」は、約一〇〇年におよんだ父祖時代の「族長アブラハムの盛期」に対応するものである。


(D)最暗黒時代
 ソロモンの死後、王国は、南北に分裂した(紀元前九三三年)。イスラエル統一王国は、「南王国ユダ」と「北王国イスラエル」とに分裂した。
 イスラエルという国は、もともと「ヤコブの一二部族」からなっている国であった。イスラエルの父祖ヤコブには一二人の息子がいて、彼らの子孫が、それぞれイスラエルの一二部族を形成していた。
 イスラエル統一王国の分裂によって、ユダ族とベニヤミン族は「南王国ユダ」となり、残りの一〇部族は「北王国イスラエル」となった。旧約聖書では、南王国はしばしば単に「ユダ」、北王国は単に「イスラエル」と呼ばれている。
 南王国が聖書で単に「ユダ」とも呼ばれるのは、ユダ族が王家の部族だからである。ダビデとソロモンは、ユダ族出身だった。ユダ族は、南王国の中心部族だったのである。
 また北王国が聖書で単に「イスラエル」と呼ばれるのは、イスラエルの一二部族中、大半の一〇部族が北王国についたからである。それで北王国は、単に「イスラエル」とも呼ばれている。
 イスラエルが南北に分裂していたこの時代は、イスラエル民族史上、最暗黒の時代となった。
 北王国の創始者ヤロブアムは、エジプトの偶像教である子牛礼拝を、国教として採用した。彼は人々の心に偶像教を深く植えつけた。
 以後、北王国に現われた一九人の王は、みな金の子牛礼拝に従った。ある者は、カナンの偶像教バアル神崇拝も取り入れた。
 バアル神崇拝は、悪名高い王女イゼベルによってもたらされ、三〇年間流行した。預言者エリヤやエリシャは、このバアル神崇拝と戦った。
 北王国の王の中には、民を真の神に連れ戻そうとする者は、一人も現われなかっった。オムリ王、アハブ王などは、最悪であった。
 北王国はこうした数々の悪のために、やがて当時メソポタミヤに勢力を伸ばしつつあったアッシリヤ帝国(アッスリヤ)によって、征服されてしまった(紀元前七二一年) 。民は捕囚となってアッシリヤに連れ去られ、以後離散してしまった。
 南王国にとっても、この時代は最暗黒の時代だった。
 南王国の二〇人の王たちのうち、多くは北王国と同様、偶像を拝した。ヨシヤ王やヒゼキヤ王のような善王が幾人か現われたものの、多くはやはり悪王だった。
 アタルヤ王、マナセ王、アモン王などは、最悪であった。彼らは預言者たちの恐るべき警告に接しながらも、しだいにバアル神崇拝、その他カナンの諸宗教の悪習の深みに沈んでいき、ついにはどうしようもない所まで行ってしまった。
 まさしくこの時代は、「最暗黒時代」であった。この時代はまた、イスラエルが南北の分裂国家だった時代なので、「南北王国分裂時代」とも呼んでいる。
 「最暗黒時代」(南北王国分裂時代)の歴史は、旧約聖書『列王記T、U』『歴代誌T、U』『イザヤ書』などに、詳しく記されている。
 イスラエルの「最暗黒時代」(南北王国分裂時代)は、父祖時代でいえば「罪と対立の時期」に相当する時代である。


(E)捕囚・審判時代
 つぎに、時代は「捕囚・審判時代」に入る。
 紀元前六〇六年、ついに南王国ユダにも、他国によって完全に征服される時がやって来た。
 当時メソポタミヤでは、アッシリヤ帝国を滅ぼしたバビロン帝国(新バビロニア帝国)が、あらたに権力をにぎり、巨大な帝国となっていた。
 バビロン軍は、紀元前六〇六、五九七、五八六、五八一年の四度にわたり、南王国にやってきて国を破壊した。そして南王国の王や王族、また家来たちをバビロンへ連れ去った。
 これが有名な「バビロン捕囚(ほしゅう)」である。残されたのは、貧しい庶民階級だけであった。彼らもバビロンの支配下に置かれた。
 エルサレムの都も、紀元前五八六年に破壊された。
 預言者エレミヤや、ダニエルは、この時代の人である。預言者エレミヤは、南王国がバビロンの手によって捕囚となることを、すでに紀元前六〇六年以前に預言していた。
 エレミヤはまた、バビロンによる捕囚の期間は、「七〇年」であることも、預言していた(エレ二五・一一〜一二)
 その預言の通りバビロン帝国は、第一次バビロン捕囚が起きた紀元前六〇六年のちょうど七〇年後――紀元前五三六年に、ペルシャ帝国によって滅ぼされた。
 バビロンを滅ぼしたペルシャ帝国は、ユダヤの民に対して寛大であった。そのため以後ユダヤの民は、数度にわたって、捕囚先のバビロンからパレスチナに帰還した。
 紀元前五三六年、バビロン帝国滅亡の年に、まず約五万人の人々がエルサレムに帰還した(第一次帰還)。五一六年には、エルサレムの神殿も再建された。
 紀元前四五七年には、ユダヤ人指導者エズラが帰ってきた。四四四年には、ネヘミヤの指導のもとに、エルサレム城壁が再建された。
 さらに紀元前四〇〇年頃(三九七年?)、神の律法に精通した指導者エズラが、民の間に大規模な宗教改革を行なった。人々の信仰は刷新され、以後ユダヤの民が偶像礼拝に陥ることは、二度となかった。
 その詳細は、旧約聖書『エズラ記』に記されている。このエズラによる宗教改革が行なわれた時は、ちょうど旧約時代最後の預言者マラキが活動している頃でもあった。
 このように、南王国の第一次捕囚からエズラによるこの宗教改革までは、約二〇〇年であった。かつてイスラエル民族の父祖ヤコブが、遠い地ハランで二〇年のあいだ辛苦をなめたように(ハランでの労役の時期。ハランは、のちのバビロン帝国の領土内の地)、ユダヤ人はこの時代の約二〇〇年間、辛苦をなめたのである。
 本誌では、この二〇〇年間を「捕囚・審判時代」と呼んでいる。
 また、読者は思いだしてほしい。かつてヤコブの二〇年間の「ハランでの労役の時期」のうち、特にその最初の七年間は、ラケルを妻に迎えるという約束のもとでなしたのにその約束は裏切られた。同様に、イスラエル民族のこの二〇〇年の「捕囚・審判時代」の最初の七〇年間は、とくに苦難の時代だったのである。
 イスラエル民族の「捕囚・審判時代」には、イスラエル民族への審判だけでなく、近隣諸国への審判も集中的に行なわれた
 預言者イザヤ、ミカ、エレミヤ、エゼキエル、オバデヤ、ゼパニヤ等、多くの預言者たちによって繰り返し審判を予言されていた諸国が、この時代に滅亡し、荒廃していった。
 アッシリヤ、エジプト、ペリシテ、モアブ、アンモン、エドム、ダマスコ、ケダル、ハゾル、エラム、ツロ、シドン等の諸国への審判が、次々と行なわれた。
 栄華を誇ったバビロンも、紀元前五三六年にペルシャ帝国によって滅ぼされ、二度と立ち上がれなくなった。旧約聖書の預言書に記されている諸国民への審判の予言の大部分が、この時代に成就したのである。


(F)終末世準備時代
 最後に、紀元前四〇〇年頃のエズラによる宗教改革から紀元前四年のキリスト降誕までの約四〇〇年間を、本誌では「終末世(しゅうまつせい)準備時代」と呼んでいる。
 これはこの時代が、キリスト降誕以後の「終末世」の前にあたる時代だからである。
 この四〇〇年間の歴史については、聖書の中に記述がほとんどない。またこの四〇〇年のあいだ、イスラエルに預言者は現われなかった。
 それでこの時代は、一般に「中間時代」とも呼ばれている。一般にいう「中間時代」と、本誌でいう「終末世準備時代」とは同じものである。
 この時代にイスラエルは、紀元前三三〇年まではペルシャ帝国の属国であった。さらに紀元前三三〇年から一四六年まではギリシャ帝国の属国、紀元前一四六年以降はローマ帝国の属国であった。
 そしてイスラエルがローマ帝国の属国となっていた時代に、イエス・キリストが降誕されたのである。
 ローマ帝国は、「すべての道はローマに通ず」という言葉も生んだように、各地の道を整備した。そのため交通の便はきわめて良く、人々は帝国内を自由に行き来できるようになった。
 またローマ帝国は、ギリシャ語(コイネー・ギリシャ語という)を共通語とした。そのため民族間の言葉の障壁も、なくなっていた。そのため、のちに新約聖書がギリシャ語で書かれたとき、多くの人々がそれを読んで理解することができたのである。
 こうして時は満ちた。そして紀元前四年頃、イスラエルに、イエス・キリストが降誕されたのである。
 イエスは降誕されてまもなく、両親ヨセフとマリヤに連れられて、しばらくの間エジプトに避難された。その頃ローマの悪代官ヘロデが、ユダヤに生まれた二歳以下の男子を皆殺しにしていたからである。
 「ヨセフは立って、夜の間に幼な子(イエス)とその母とを連れてエジプトに行き、ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた」(マタ二・一四)
 イエスのこのエジプト避難までが、「終末世準備時代」である。これは、今まで私たちが見てきた約二千年におよぶ「選民世(せんみんせい)」の、最後の四〇〇年間である。選民世は、ヤコブ一家のエジプト移住に始まり、イエスのエジプト避難に終わる。
 選民世の最後の時代である「終末世準備時代」(約四〇〇年)は、次の終末世を迎えるための時代である。この時代は、原始世でいえば「父祖時代準備の時代」(約四〇〇年) に相当し、父祖時代でいえば「選民世準備期」(約四〇年)に相当する。


「選民世」のまとめ
 以上が、約二千年におよんだ「選民世」の歴史である。
 読者は、もう気づいておられるであろう。先月号に述べたアブラハム、イサク、ヤコブの「父祖時代」の歴史が、同じようなかたちで、この「選民世」に繰り返している。すなわち、

 (父祖時代)               (選民世)
(A) 不安な時期              苦役時代
(B) 増 勢 期                未統一時代
(C) 族長アブラハムの盛期       統一王国時代 
(D) 罪と対立の 時期          最暗黒時代 
(E) ハランでの労役の時期      捕囚・審判時代
(F) 選民世準備期            終末世準備時代

 

 というようにである。
 しかも父祖時代の「族長アブラハムの盛期」が約一〇〇年なのに対し、選民世の「統一王国時代」も、約一〇〇年であった。
 さらに「ハランでの労役の時期」二〇年(その最初は七年)に対し「捕囚・審判時代」は約二〇〇年(その最初は七〇年)、また「選民世準備期」約四〇年に対し「終末世準備期」は約四〇〇年と、対応関係がある。
 ただし、「罪と対立の時期」が五五年間であるのに対し、「最暗黒時代」(南北王国分裂時代)は三二七年と、全く対応関係がない。
 これは罪や、対立、分裂といったものが、神の直接的意志によるものではないからである。しかし、他の事柄については対応関係があり、神のご意志が見られる。
 つまり、歴史上のすべての事柄が神のご意志による、というのではない。神の歴史に対するかかわり方は"介入"である。
 歴史には、人間の意志やサタン(悪の勢力の主体)の意志など、様々なものがからみ合っている。歴史とは人間の本性の発露でもある。
 そうした人間の歴史の中に、神が上から"介入"される。神はご自身の意志により、歴史に介入し、
 「それぞれに時代を区分され(使徒一七・二六)
 ました。もしこの神の"介入"および"時代区分"というものがなかったら、人類の歴史は、おそらく堕落一辺倒の歴史であったろう。
 アダムとエバが「善悪」を知って以来、「善悪」は、人類の歴史に展開した。しかし神は、そうした人類の歴史を放任しておかれたのではなく、「時代を区分」し、しだいに神の王国の実現に向けて歴史を導いておられるのである。
 次ページでは、キリスト初来以後の「終末世」について見よう。私たちは「終末世」においても、今まで見てきた歴史の繰り返しを、見ることができる。

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