聖書という書物
人生に幸福を与える書物「聖書」
人生の目的は幸福にあります。
しかし、人間の真の幸福とは何でしょうか。
自分自身の問題として考えてみましょう。「あなたにとって本当の幸福は何か」。「どうしたらその幸福をつかめるのか」。
真の幸福は、好きなだけ自由に暮らせる豊かなお金を得ることにあるのでしょうか。それとも名誉を得ることでしょうか。本当にそれが、あなたを真の幸福に導きますか。あるいは、真の幸福はもっと別のところにあるのでしょうか。
さらに、もう一つ重要な問題があります。人間はどこから来て、何であり、どこへ行くのでしょうか。あなたがこの世に生まれた意味は何なのか。
たとえば、こういうことを考えてみてください。あなたが今晩、寝ている間に、突然死んでしまったとしましょう。何らかの原因で――心臓発作あるいは脳卒中――理由は何であれ、突然死んでしまったとしたら、そのときあなたはどこへ行きますか。
どこで目覚めますか。天国ですか。地獄ですか。それとも無に帰すのでしょうか。こうした問題を避けて通るのではなく、ここで少しの間考えてみましょう。
人生の一時期に、この根本問題について真剣に思いを巡らしてみることは、きっと有益なことに違いありません。
そしてそれについて、豊かな回答を述べている書物があります。世界のベストセラー、また「永遠の書物」とも言われる『聖書』です。
偉大な書物「聖書」
聖書とはどんな書物なのかについて、まず見てみましょう。
アポロ一四号が一九七一年に月へ行ったとき、宇宙飛行士は、ある本をそこへ持って行きました。それは、一六か国語で書かれた四五〇〇ページに及ぶ一冊の『聖書』です。聖書は、地球から他の天体に送られた最初の本となりました。
聖書は月にも持って行かれた(アポロ14号)
聖書が偉大な書物であることは、ほぼ万人の認めるところでしょう。それは数千年にわたって、多くの人に影響を与え、偉大な教えを示してきました。
聖書の影響は、あらゆる分野に及んでいます。たとえば、国連ビルの前に立つ銅像には、ある有名な言葉が記されています。それは、聖書にある次の言葉です。
「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを学ばない」(イザ二・四)。
国連は、聖書の描くこの平和を最高の理想として、設立されたものなのです。
みなさんは、国際的に広く人々の救援活動を行なっているあの「赤十字」の十字のマークが、なぜ十字架の形に似ているか、おわかりですか。それは、赤十字の創設者アンリ・デュナンが、キリスト教の博愛精神に基づいて設立したからなのです(スイスの国旗の赤と白を逆にしたものでもあります)。
また、ノーベル賞受賞者の多くは聖書から深い影響を受けた人々であるということも、忘れることはできないでしょう。デュナン(赤十字創設者)、A・シュヴァイツァー(アフリカでの医療)、マザーテレサ(死にゆく人々の看護)、M・L・キング(米国公民権運動指導者)、A・ジッド(文学)、M・ベギン(エジプトとの和平を達成したイスラエルの首相)、H・ベルグソン(哲学)……。これらの人は、みな、聖書から深い影響を受けた人々です。
また、女性がきわめて低い地位に置かれているイスラム教国、仏教国、ヒンズー教国、儒教国等に比べ、一般にキリスト教の影響下にある国では、女性の地位向上運動が盛んで、女性の社会進出も盛んです。これは、聖書が女性を不当に低く見ず、男女の平等を教え、それぞれの適切な役割を教えているからなのです。
あなたは、日曜日が一般に休日とされているのは一体なぜか、ご存知でしょうか。江戸時代まで、日本には七日ごとに休むという習慣はなかったのです。七日ごとに休む習慣は、じつは聖書に由来しています。"一九□□年"という、いわゆる西暦も、キリスト誕生を紀元としたもので、聖書に由来しています。
また"人が国家を支配するのではなく、法が国家を支配する"という法治国家の精神が欧米で発達したのも、もとはと言えば、「十戒」や様々の律法を記した聖書を模範としたものなのです。産業が欧米で発達したのも、「すべての労働は神の御前に尊い」という聖書の教えが背景にあったからだと言われています。
近代科学を興した人々の多くは聖書を信じるクリスチャンたちだった
さらに、近代科学を興した人々の多くは、クリスチャンであり、聖書の信奉者でした。
一六世紀に地動説を説いて迫害を受けたとされるガリレイは、無神論者だったでしょうか。いいえ、彼は熱心な有神論者でした。彼は、自分の地動説が聖書に矛盾しないことを説明する手紙を、当時の大公妃クリスティナと友人カステリに書き送りました。
地動説を説いたガリレイは熱心なクリスチャンであり、聖書の信奉者だった
また、ガリレイに先だって地動説を説いていたコペルニクスは、無神論者だったでしょうか。いいえ、彼も熱心なクリスチャンでした。彼はフラウエンブルグ聖堂の司教でもあり、そのかたわら天文学を研究していたのです。
惑星が楕円形軌道を描く際の法則を発見したケプラーも、熱心な聖書の信奉者でした。彼は、その法則を発見したとき、ひざまずいて創造主の偉大さを讃えたと伝えられています。
不世出の天才と言われ、近代科学を興した中心人物アイザック・ニュートンも、聖書についてこう書きました。
「いかなる世俗の歴史におけるよりも、聖書の中にはより確かな真理が存する」。
神の存在についても、ニュートンはこう記しました。
「太陽、惑星、彗星から成る極めて美しい天体系は、知性を有する強力な実在者の意図と統御があって、初めて存在するようになったとしか言いようがない。……至上の神は、永遠、無窮、まったく完全なかたであられる」(プリンキピア)。
熱力学の分野で偉大な功績を残した英国のケルビン卿も、神の存在についてこう述べました。
「科学は、徹底的に研究すればするほど、無神論というものを取り除いてしまうと、私は信じている」。
そのほか、『昆虫記』で有名なファーブルも聖書の熱心な信奉者でした。電磁気学の草分け的研究をなしたファラデーも、聖書の神を信じていました。
近代科学が、なぜ仏教圏でもイスラム教圏でも儒教圏でもなく、キリスト教圏で興り、発達したか――科学史を研究する歴史家は、それはキリスト教圏においては、
"天地宇宙が神によって創造されたなら、それがどのように造られ、どのような法則によって保たれているのかを具体的に研究することは、価値あることだ"
という信念が存在したからだ、と述べています。
たとえば、物が上から下に落ちる。キリスト教圏以外の地域では、それがごくあたりまえのこととされ、それ以上のことは考えられませんでした。
けれども、聖書に述べられた秩序の神を信じていたニュートンは、そこにはきっと宇宙全体を支配している普遍的な法則が存在するとの信念に立ち、「万有引力の法則」――すなわち物体と物体の間に働く引力の大きさはそれらの物体の質量の積に比例する、という法則の発見に至ったのです。
現代においてはどうでしょうか。二〇世紀に現われた大科学者の中にも、神の存在を信じる人々は、決して少数派ではありません。
相対性理論を生みだし、二〇世紀最大の科学者と言われたアインシュタイン博士は、
「私は神の天地創造の"足跡"を探していく人間である」
と語りました。
量子論の創設者の一人、ドイツの大科学者プランクも、こう述べました。
「理知ある至高の創造者の存在を仮定せずに、宇宙の成り立ちを説明することは、不可能である」。
一九二七年にノーベル賞を受けたアメリカの科学者コンプトンは、聖書についてこう述べました。
「秩序正しく広がっている宇宙は、『はじめに神が……』(聖書の冒頭の言葉)という、最も荘厳な言葉の真実さを証明するものである」。
電気素量や宇宙線の研究に貢献してノーベル賞を受けた物理学者ミリカンも、一九四八年のアメリカ物理学協会の集会で、確信を持って神を「偉大な建築者」と呼び、こう語りました。
「純粋な唯物論は、私にとっては最も考えにくいものだ」。
このように、神を信じ聖書を信じることは、決して"非科学的"なことではないのです。それは理性に反することでもありません。偉大な哲学者フランシス・ベーコンが、かつて言ったように、
「浅はかな哲学は人の心を無神論に傾け、深遠な哲学は人の心を宗教に導く」
のです。これについては、聖書も、
「愚か者は心の中で『神はいない』と言っている」(詩篇一四・一)
と述べています。
聖書は人類に最も大きな影響を与えた
聖書は、文学の分野にも、大きな影響を与えました。
文学界の巨匠、ロシアのドストエフスキーは、
「キリスト……この広い宇宙に、その名によって魂を救うことのできる者は、この人をおいて他にはいない」
と述べました。芥川龍之介も、
「私はやっとこの頃になって、四人の伝記(福音書)作者の私たちに伝えたクリスト(キリスト)を愛し出した。クリストは、今日の私には行路の人のように見ることはできない」
と述べています。ロシアの大文豪トルストイはこう述べました。
「信仰は生の力である」(私の懺悔)。
ドイツの大詩人ゲーテも、聖書についてこう述べました。
「人類の知的文化が進歩し、自然科学が進んでその広さ深さを加え、またいかに人類の心が望むままに広くなろうと、福音書から輝き出るキリストの高潔さと、道徳的修練を越えていくことはないであろう」。
また、奴隷解放で有名なアメリカの偉大な大統領リンカーンのあの堅い信念は、一体どこから来たのでしょう。幼いころ母に聖書を読み聞かされて育った彼は、こう語りました。
「聖書はこれまでに神がくださった最上のギフトであると、私は信じている。世界の救い主から発する一切の良きものは、この書を通して我々に伝達される」。
リンカーンは人生の基盤を聖書に置いていた
イギリスの統治下から、「非暴力抵抗」という手段によってインドに輝かしい独立をもたらした二〇世紀の聖人ガンジーは、聖書についてこう述べました。
「私の生涯に最も深い影響を与えた書物は、新約聖書である」。
聖書は、人類に最も大きな影響を与えた書物である、と言っても決して過言ではありません。
聖書とは、一体何なのでしょうか。それは、架空の「おとぎ話」、または「神話」なのでしょうか。いいえ、そのようなものが、人類にこれほどの影響を持ち得るはずがありません。
聖書は、今日も、信じる者に多大な影響を及ぼし得る偉大な書物です。それは過去のものではなく、永遠の書物なのです。
聖書を信じるクリスチャンは、聖書が単に偉大な書物であるというだけでなく、「神の言葉である」と信じています。では、聖書が神の言葉であるとは、一体どういう意味でしょうか。また何故、そう信じることができるのでしょうか。
聖書が神の言葉であるとはどういう意味か
『聖書』は、旧約聖書三九巻、新約聖書二七巻、計六六巻の書物の総称で、約四〇人の人々の手によって記されました。
それらの著者の中には、王もいれば、農夫も、商人も、医者も、税務官もいました。金持ちもおれば貧乏人もおり、都会人もおれば田舎者もいました。
このように、聖書六六巻の書物を直接記したのは、いずれも人間です。ではなぜクリスチャンは、聖書を神の言葉というかというと、それは聖書を記した究極的な著者は神である、と信じるからです。クリスチャンは、直接聖書を記したのは人間であっても、彼らのペンを導き言葉を与えたのは神である、と信じているのです。
たとえば、もし「大阪城は誰が建てたか」と聞けば、あなたは豊臣秀吉だと答えるでしょう。それは正解です。
しかし、秀吉が実際に大工道具をもって、一人で建てたのでしょうか。いいえ、実際に建て上げたのは、大勢の大工や左官です。では、大阪城を建てたのは大工や左官かというと、やはり秀吉なのです。
聖書の場合も同様です。聖書は、多くの人々の手によって記されました。では、聖書の本当の著者はそれらの人々かというと、そうではなく、実際は彼らを導かれた神なのです。
このことについては、聖書がみずから、
「聖書はすべて、神の霊感によるものである」(IIテモ三・一六)
と述べています。このように、聖書が神の言葉であるとは、聖書が神の霊感を受けて書かれたものであり、神からの書物であるということを意味しています。
聖書が神の霊感を受けて書かれたことはどのようなことが示しているか
まず聖書は、その六六巻が約四〇人の人々の手を通して記され、一六〇〇年以上の長い歳月をかけて執筆されたにもかかわらず、驚くほどの調和と統一性を保っています。
とくに聖書の初めの五巻は、世界で最も古い書物です。儒教の「大学」が紀元前五世紀に記され、ヒンズー教のベーダの中の「知識の書」も紀元前五世紀、仏教の経典「三蔵」は紀元前一世紀、イスラム教の「コーラン」が紀元七世紀、神道の「古事記」「日本書紀」が八世紀に記されたのに比べ、聖書の初めの五巻は、それらよりずっと古く紀元前一五世紀に記されました。
そして聖書六六巻は、紀元前一五世紀から紀元一世紀にわたる一六〇〇年間にわたって記されたのです。聖書の全巻は、日本で紀元三世紀に邪馬台国ができる以前に、すでに完成していました。
聖書の中には、歴史あり、律法あり、詩歌あり、預言ありで、ひじょうに多様です。しかし、一つのテーマによって貫かれ、均衡と統一がとれています。
いまかりに、四〇人の人をいろいろな所から選び、各自に自由な題で文を書いてもらい、それを集めて一冊の本にしたらどうなるでしょう。それは、世界で最も混乱した書物になるに違いありません。ところが聖書は、場所の違いばかりでなく、時代も、身分も違う人々によって書かれたものですが、統一と調和のとれた全く一つの書物であり、一つの矛盾もありません。
これは、たとえば仏教の経典などと比べると、ひじょうに対照的です。仏教の各宗派は、宗派ごとに異なる経典を信奉しています。たとえば日蓮宗、浄土真宗、臨済宗、阿含宗……など、みなそれぞれに経典が違うわけです。それは、各経典の内容がひじょうに異なるため、経典ごとに宗派が生まれることが可能だからです。
しかし、聖書の各巻は全く一つの教えによって貫かれており、六六巻は互いに補足し合って、全巻で完全なものを形成しています。このようなことができたのは、唯一の真の神が聖書の記者を導き、監督してくださったから、と考えるのが最も理にかなっていると言えるでしょう。
聖書は驚くべき記述に満ちている
また、聖書を読んでいて印象深いのは、聖書が数々の驚くべき記述に満ちていることです。
たとえば古代インド人は、地球は一頭の象の背にのっており、その象は一匹の亀の上に、その亀はコブラの上にのっていると考えていました。では、そのコブラを支えているものは何なのか……ということになります。
また古代エジプト人は、地球は五本の柱で支えられていると考えていました。では何がその五本の柱を支えているのか、ということになるでしょう。
しかし現代人は、地球は何もない宇宙空間に浮かんでいて、目に見える何かによって支えられているのではないことを、知っています。ところが、世界で最も古い書物――聖書は、そのことを今から約三千年も前に記していたのです。聖書のヨブ記二六章七節には、こう記されています。
「彼(神)は……地を何もない所に掛けられる」。
これは、もちろん人工衛星もなく、人が地球の外に出て地球の姿をながめることも、不可能な時代に記されたものです。
しかし聖書は、地球は「何もない所」に掛けられているのであり、目に見える何かで支えられているのではないことを、初めから知っていたのです。
また聖書は、地球が"丸い"ものであることを、今から約三千年も前に記していました。こう記されています。
「主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる」(イザ四〇・二二口語訳)。
この「地球」と訳された言葉は、原語では「地の円」であり「円形の地」です。地球は"丸い"ものである、という認識が聖書の根底に流れているのです(ヨブ二六・一〇も参照)。
この「円」は、"丸くて平たいもの"という意味ではありません。というのは神は、聖書の中で地球創造の時の様子を、
「その時、わたしは雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとした」(ヨブ三八・九)
と語られています。この「むつき」とは、生まれたばかりの赤ん坊に首から足まで巻きつけてくるむ、細長い布の産着です。神は生まれたばかりの地球に、黒雲を「むつき」のようにグルグルと巻きつけ、包まれたというのです。
このように聖書の「地の円」は、円い平面よりは、むしろ球形を想定しているわけです。
聖書は、地球は「何もない所」にかけられている「丸いもの」だと述べていた
さらに、"水の循環"に関する聖書の記述も、驚くべきものです。
古代人や中世の人々は、雨は空から降り注ぐと、やがて川となって海に入り、その水は水平線の向こうにあると考えられた「巨大な滝」から流れ落ちているのだ、と考えていました。
もちろん現代人は、海に入った水は「巨大な滝」から落ちていくのではなく、そこで蒸発して、やがて雲を形成し、再び雨を降らせるということを知っています。ところが、このことについて聖書は、今から約三千年も前に次のように記していました。
「彼(神)は、水のしたたりを引きあげ(蒸発)、その霧をしたたらせて(濃縮)、雨とされる(降雨)
。空はこれを降らせて、人の上に豊かに注ぐ」(ヨブ三六・二七〜二八)。
この句の中には蒸発→濃縮→降雨という"水の循環"が、明確に述べられています。このように聖書は、当時すでに、今日の知識から見ても間違いのない記述をしていたのです。
聖書は真理の書
これらのことは、数多くある聖書の驚くべき記述の、一端でしかありません。
聖書はまた、考古学的にも、その記述の正確さが証明されています。不世出の天才と言われた考古学者W・F・オルブライトは、聖書の記述についてこう述べました。
「理性的な信仰をさまたげうるようなものは何一つ発見されず、個々の神学上の説を誤りと断定するものも、全く発見されなかった。……聖書の言語、その民族の生活と慣習、その歴史とその倫理的・宗教的な表象はすべて、考古学上の発見によって数倍も明確にされている」。
また、
「聖書の中の問題となっている大きな点は、全部歴史的であると証明されている」
と述べています。
しかし、考古学的に正確な書物であるにしても、今日のように文化の発達した世界においては、それは私たちの生活には当てはまらない「時代おくれ」の書物でしょうか。
いいえ、聖書の中に記された真理の言葉は、今日も変わらなく重要な意味を持っています。元英領インド総督のアーウィン卿がマハトマ・ガンジーに、
「どうしたら、英国とインドの間の諸問題を解決できるでしょうか」
と言ったとき、ガンジーは聖書のマタイによる福音書を開いて、
「あなたの国とわたしの国が、この山上の垂訓の中のキリストの教えに従って集まるなら、私たちの国の間の問題だけでなく、全世界の諸問題を解決できるでしょう」
と答えたと伝えられています。
「山上の垂訓」に限らず、聖書に記されたすべての教えは、現代に生きる私たちにも、いや、現代に生きる私たちにこそ、必要とされるものです。マルチン・ルター(宗教改革指導者)が言ったように、
「聖書は古いものでもなければ、新しいものでもない。聖書は永遠のもの」
なのです。ですから、あなたは聖書を学ぶことによって、人生で最も大切な真理を見い出すことができるでしょう。
聖書には多くの「奇跡」が記されているので、それを嫌う人も少なくありません。しかし聖書の『福音書』に記された奇跡について、フランスの大思想家ジャン・ジャック・ルソーは、こう述べました。
「福音書――人間に、このようなウソが書けるものではない」
彼は、福音書がウソで作り話だと述べているのではありません。そうではなく、珠玉の教えに満ちた福音書のような書物を、作り話として創作するなどということは人間には到底できない、と述べているのです。
聖書は、神が記した書物です。神が、四〇人のしもべを用いて記した書物なのです。それは神からの、私たち人間への愛の手紙です。
聖書の奇跡には法則性がある
聖書に記された奇跡には、法則性がある、ということも注目すべきことでしょう。
「聖書はどこを開いても奇跡だらけだ」
という考えは、決して正しいものではありません。聖書に記された主要な奇跡は、五つの時代に集中して起きました。第一の時代は、イスラエルの指導者モーセとヨシュアの時代で、紀元前一四五〇年頃です。
みなさんは、映画「十戒」に、イスラエル民族が紅海という海の中にできた道を渡っていく場面があったのを、ご存知かもしれません。あの大奇跡も、この時代に起きました。
第二の時代は、預言者エリヤとエリシャの時代で、紀元前八五〇年頃です。この時代には、らい病人がいやされたり、少女が生き返ったりというような奇跡がなされました。
第三の時代は、ユダ王国のヒゼキヤ王の時代で、紀元前七〇一年のことです。そのとき、日時計の影が十度戻るという奇跡があったと、記されています。
第四は預言者ダニエルの時代で、紀元前五五〇年頃です。三人の人物が燃えさかる炉の中に入れられたのに、火傷一つ負わなかった、というような奇跡等がなされました。
そして第五が、イエスとその弟子たちの時代で、紀元三〇年頃のことです。このときは、病人のいやし、悪霊の追放、死人のよみがえり等、様々の奇跡が数多くなされました。
聖書に記された主要な奇跡は、いずれもこれら五つの時代に集中して起きました。そしてこれら五つの時代は、いずれも特別な時代でした。
時代の転換期、または民族の危機の時代だったのです。つまり、まことの神の特別な導きが必要な時代でした。
しかも、これら五つの時代の間隔を調べてみると、上図のように約六〇〇年、一五〇年、一五〇年、六〇〇年となっています。これらの年代は、聖書の記述と考古学等により、一般的によく認められたものです。
(モーセの時代は紀元前一二〇〇年代との説もありましたが、これは聖書の記述から見ると誤りです――・列王六・一。またそれが紀元前一四五〇年頃だとする説を裏づける考古学的資料が、多数出土しています。)
また、これらの間隔の比率は四・一・一・四であり、それらの比率の数(四、一、一、四)をすべて足すと、一〇になります。一〇は、聖書における、いわゆる"完全数"です。奇跡の時代はこのように、歴史上に美しく対称的に配列されました。
これらの事実は、これらの奇跡が、ある"計画"に基づいてなされたことを示しています。それらは"上からの計画"に基づいて、起こされたものなのです。
聖書に記された過去の主要な奇跡についてはこのようですが、神とキリストを信じる者の上には、今日も、驚くような奇跡が起こることがあります。
教会には、末期ガンからいやされた人、肺浸潤からいやされた人、松葉杖の生活から解放された人、生まれつきの聾唖からいやされた人、そのほか、大勢の奇跡経験者がいます。
しかし、あなたがこれらの奇跡を、今の段階で信じるかどうかは、あまり重要なことではありません。なぜならこれらの奇跡は、キリスト教にとっては、中心的なことでも本質的なことでもないのです。
それは単に補足的なものに過ぎません。キリスト教の中心は、むしろ魂の救いにあるのです。魂が変えられることです。
魂が、死の状態から永遠の生命の状態に変えられることです。罪に汚れた状態から、キリストの清き光に照らされることです。不幸にまみれた状態から、神の子の幸福を体感するようになることです。
それこそ"奇跡中の奇跡""最大の奇跡"であると、クリスチャンは考えます。この奇跡なくしては、他の一切のものは色あせてしまいます。
この"奇跡"は、人が望むなら誰でも体験できる、と聖書は述べています。聖書は、この奇跡を人々に体験させるために、記されたものなのです。
聖書を学ぶには……
聖書を学ぶには、どうしたら良いのでしょうか。「キリスト教国」へ行ったら、聖書の良い学びができるでしょうか。
そうとは限りません。いわゆる「キリスト教国」へ行ったからといって、聖書の良い学びに出会える保証は何もありません。
たとえ「キリスト教国」と呼ばれていても、その国の隅々にまで聖書の真の精神が行き渡っているとは限りません。いや、一部にだけ見られる場合のほうが多いでしょう。
また、聖書を持っている人がいても、すべての人が聖書を読んでいるとは限りません。さらに、聖書を読んでいるとしても、その人が聖書の教えを行なっているとは限りません。
「論語読みの論語知らず」ではありませんが、聖書を読みながら、聖書がわかっていない人々も、この世には少なくないのです。
もし、あなたが聖書の教えを知りたいなら、いわゆる"キリスト教国"へ行く必要はありません。あなたは日本にいても、聖書の真の教えに出会えるのです。
学者のところに行く必要もありません。あなたはむしろ、聖書の教えを信じて行なっている人のところへ行くことです。そういう人こそ、聖書という偉大な書物の真の意味をよく知っている人々だからです。
本書も、そうしたあなたの一助になるために、書かれました。次の章から、聖書の中心的教えの幾つかを学んでいきましょう。あなたは読み進む中で、あなたの人生で最も大切な事柄にふれることになるでしょう。
久保有政著
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