なぜでしょうか?
科学と人生
山形大学工学部元講師:月岡世光
英語版もあります。→English
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私たちは、日常、身のまわりに起きている自然現象をあたりまえのように思ってすごしていますが、そのひとつひとつを、なぜだろうか? と、よく観察してみると、その中から今まで気づかないでいた、すばらしいものを見出すことができます。
それによって、ものごとの本質がわかり、生きがいのある人生を見出すことができましょう。
また、この世限りのように思われていた、尊い生命が、死後にも永遠に生きる道のあることを、発見することができるでしょう。
あなたのご生涯で、最も大切なこれらのことを、宇宙時代の科学を通してよく考えて見ましょう。
1.なぜ地球には引力があるのでしょうか?
ニュートンは、りんごが木から落ちるのを見て、地球に引力のあることを発見しました。では、この地球にはなぜ引力があるのでしょうか?
しかも、もしこれ以上引力が強かったら、私たちの体もなにもかも、重くなって不自由です。また、もし地球の引力が今より少なかったり、なかったとしたら、みんなフワフワ浮き上って困ります。
私たちの生活にちょうどよい引力、この不思議な引力が、なぜあるのかということは、どんな科学者にも解らないナゾです。
2.なぜ地球は回るのでしょうか?
毎日一回転するので、昼と夜があって私たちの生活に便利です。
一体なにが原動力になって、地球は回っているのでしょうか?
あなたの時計は、正確に回っているでしょうが、ネジを巻くか電池の原動力を与えなければ動きません。
そして、どんなに正確といっても、1ケ月に1秒や2秒の狂いはあるでしょう。ところが、地球は太陽のまわりを1年間に9億1千万キロメートルも回って、もとの位置にもどってくるのに1秒の狂いもないのです。
だから、何年の何月、何日、何時、何分、何秒には、地球のどこの地点で日食が見えるとか、月食が見えるということが前もってわかるのです。
またこの地球は、23度半という傾きを保ちながら回っているので、春夏秋冬の変化があって、1年の生活にうるおいがあります。
3.創造か偶然か
時計でさえも、歯車を作る人、ゼンマイを作る人、針をつくる人、組立てる人・・・・と、大勢の人たちによって作られています。
その時計よりも、もっともっと正確で、すばらしく出来ている地球が、ただひとりでに偶然に出来あがるわけがありましょうか。時計でも、ひとりで偶然に出来るわけはないのです。
4.人工衛星と神工衛星
人工衛星について考えてみましょう。
人工衛星は、大勢の科学者たちが知恵をしぼって造り上げた、いわば現代科学の成果と言えるでしょう。
しかし、その人工衛星は、何人かの人を乗せて飛ぶのが、せいイッパイです。しかも、乗っている人は、空気も引力もないところで不自由な思いをしながら生きているのです。
それにくらべて、この地球は、なんと50億人以上もの人々を乗せたうえに、海や山やその他、いろいろなものを、たくさん乗せ、しかもその周囲は空気の層につつまれているので、宇宙服のような窮屈なものは着なくてすみます。
また、空気は、無数の流れ星が、私たちの住む地球に当たらないように守ってくれますし、昼と夜とで温度が急変しないためにも役立っています。
私たちが呼吸をするためにも、音の聞える世界のためにも、空気の恩恵は、はかり知れません。
また、太陽の光と熱は、生物の成長に欠くことのできないものですが、もし地球の平均気温が、わずか30度でも高かったり、または、低かったらどうなるでしょうか。焼け死ぬか、凍ってしまいます。
表面温度6千度の太陽からの平均距離も、ちょうどよいわけです。
また、地球には、適当な強さの引力があるので、生活も便利です。
このように、よく考えてみると、あたりまえに思っていたことが不思議なことであり、はかり知れない恩恵に浴していることがわかってまいります。
人工衛星でさえも、大勢の科学者や、技術者たちが科学技術の成果を集めて造ったのですから、それよりも、もっとすばらしいこの地球が、ひとりでに出来あがったなどと、どうして考えられるでしようか。
天地万物、すべてを造ることのできる神がおられて、その神が、このすばらしい地球をも造られたとしか考えられません。
人の造った人工衛星に対して、この地球は、神の造った神工衛星といえるでしょう。
5.あなたは今、宇宙旅行!
現代の人々は、宇宙旅行を夢のように考えていますが、あなたは今、これを読んでいる間も、宇宙旅行をしているのです。
神の造られたすばらしい神工衛星に乗って、宇宙の空間を、1秒間になんと30キロメートルという猛烈なスピードで走っているのです。
30キロというと、東京駅から横浜駅までの距離ですが、その間を、たった1秒の間に今飛んでいるのです。時速では10万8千キロの速さです。
また、地球のまわりをまわる人工衛星は、わずか4万3千キロの軌道ですが、私たちの乗っている地球は、その2万倍もある長い長い軌道をまわっているのです。
6.詩篇と宇宙
宇宙は、時間的にも空間的にも、絶対に無限です。
私たちは毎日、目先のことに追いまわされて暮らしていますが、たまには、目を夜の星空に向けてみようではありませんか。
そして、この宇宙旅行の現実を味わい、神のすばらしい御わざを偲ぼうではありませんか。聖書の詩篇に
「もろもろの天は神の栄光を現わし、大空は御手のわざを示す」
と記されています。神は、目には見えませんが、天地万物すべての造り主です。
7.科学の基本法則
私たちは、科学が発達すれば何でも解けるようになると思いますが、
なせ引力があるのだろうか?
なぜ地球が回るのだろうか?
と、科学の基本法則をなぜかなぜかとたずねていったら、みんな不思議なすばらしい出来ばえに驚くばかりです。
天体ばかりでなく、植物についても、動物についても、また物理でも、化学でも、すべて基本法則というものがありますが、それぞれの基本法則を「なぜだろう?」と深く研究すればするほど、そこに天地万物すべてを造り、これを統轄している神の存在を認めないわけにはいかなくなります。
たとえ、そこにどんな過程があったとしても、そのすばらしい出来ばえと秩序正しい働きを見るとき、それが神の御わざではなくて偶然に出来たものだと、どうして考えられるでしょうか。
8.電気の作用
これらの科学のひとつひとつについて考えてみましょう。
まず、科学技術の先端をいく電気については、その基本法則に、オームの法則をはじめとして、レンツの法則や、フレミングの法則などがあります。
たとえば、磁石の間に電線をまいたコイルをおき、これに電流を流すとコイルが動く作用を利用して、スピーカーをならしたり、モーターを回して、電気洗濯機や水揚げポンプ、その他工場の機械を動かす原動力に利用されております。
また、これらの基本法則を組み合わせることによって、ラジオが聞こえたり、テレビが見えたりします。
しかし、これらの基本法則を『なぜ、そのような作用が起こるのだろうか?』と探求していくと、万物に共通な同性反撥、異性吸引の整然と統一された+−の現象を見いだすことができます。
9.物質はエネルギー
化学実験でも同じです。
原子がプラスとマイナスのバランスがとれるように、分子式や化学方程式が成り立つではありませんか。
私たちは、化学実験をしても、そこには、一つの間違いもない整然と統一されたものを見出します。
この+−の関係は、電気や化学ばかりでなく、動物や植物についても同じことが見られますし、また物質を細かく分析した原子についても同じことです。
即ち、プラスの原子核のまわりを、マイナスの電子がグルグル軌道を回っています。
それは、あたかも、太陽のまわりを回る地球や、その他の惑星にも似ています。
その原子核も電子も、物質ではなくて、エネルギー(勢力)ですから、私たちが物質と思っているものは、物ではなくて、エネルギーであることがわかります。
あなたの体も、あなたのまわりの品物も、すべてエネルギーであるというのが、原子力時代の今日の科学です。
このエネルギーや、+−の根本的な秩序正しい働きを見るとき、この世の中のすべてのものは、なんの秩序も働きもない、でたらめな偶然と偶然の重なり合いで出来ているものではなくて、天地万物を造られた秩序正しい神の力によって、統一されて出来あがっていることを見い出すことができるでしょう。
10.不思議な種
植物の大部分は、種から成長しています。
小さな種つぶの一つ一つを手にとってごらんなさい。リンゴの種、ミカンの種、ナシの種・・・・
小さなリンゴの種を地にまけば、スクスクのびて、やがてリンゴの木になって、毎年たくさんのりンゴがなります。
ミカンの種はたくさんのミカンに、柿の種も大木となって、たくさんの柿が、私たちの食べものとして与えられます。
種の一つ一つをよく観察すれば、みんなすばらしい不思議な種ではありませんか。
私たちが生きるために、毎日食べている御飯もお米のタネです。
一粒のお米の種・・・・。それを地にまけば、何百倍にもふえるからこそ、私たちは、それを食べて生きていくことが出来るのです。
どんなに偉い植物学者や科学者でも、これらの生命のある種をつくり出すことは出来ません。
お百姓さんは、ただ、それらが育つのを助けているだけです。
私たちは「働くことによって食物を得る」といいますが、食物そのものは、やはり神によって造られていることが、わかります。
したがって私たちは、食べ物を食べるとき、造り主の神に、感謝せずにはいられなくなりましょう。
11.すばらしい果実
果物屋さんの前を通ると、新鮮なよい香りがします。
その果物の一つ一つを手に取って、よく観察してみましょう。
リンゴには、リンゴ特有の美しい色とよい香り、また、リンゴしか持っていないおいしい味、また、バナナにはバナナ、ミカンにはミカンといった特徴のある美しい色と香り、そして、それぞれ特有のおいしい味をもっています。
そのうえじつに、食べよく出来ていることに気がつくでしょう。
ミカンはその汁を味わう果物ですが、外の皮をむいたとき、中にジュースのような汁がいっぱいつまっていたら、すぐにこぼれて食べにくいでしょう。中には、いくつもの袋があって、袋の中には、汁が細長い細胞に包まれているので、汁をこぼさないで味わうことが出来るのです。
私たちに与えられた果物の数々・・・・造り主に感謝しましょう。
12.感謝の心で
日常食卓にでてくる野菜についても同じことです。
ニンジン、ゴボウ、ダイコン、トマト、ナス、キュウリ・・・・。その一つ一つが、それぞれ特有の色と、香りと、よい味を味わわせてくれます。栄養にも欠かせません。
造り主である神に、まず感謝しましょう。つぎに、それが育つ手助けをしてくれたり、運んでくれたり、料理をしてくれた人々に感謝しながら、いただこうではありませんか。
ものごとの本質がわかって感謝の心で食べるとき、その味は、また格別なものです。
13.神の芸術品
また、神はすばらしい美術家であり、芸術家でもあります。
道ばたに咲く花にも、それぞれの美しさと、香りがあって、人がまねても、その生きた美しさと香りをつくりだすことはできません。
神はこの地上にいろいろな美しい花を咲かせて、私たちを楽しませてくれています。
また、同じ花ならどの花も、花ビラの数からメシべ、オシべの数まで全部同じということも、創造主のすばらしさを、物語っています。
美術館の風景画や、裸体の彫刻は、すばらしい芸術品です。
しかし、神のつくられた実際の風景や生命のあふれる肉体の方が、もっとすばらしく出来ていることは、いうまでもありません。
私たちは、一人一人、神の芸術品です。
鏡に向かって自分をよく観察してみましょう。
14.目とカメラ
私たちの目は、小さな結晶体などからできていますが、まわりのものを総天然色に、しかも立体的に見ることができます。
カラーテレビには、数百個以上の部品が用いられていますが、人の目ほどに完全な天然色にはうつりませんし、まして、立体的には見えません。
力ラーテレビよりもはるかに小形で、すばらしいこの目!! また、どんなに精巧なカメラでも、目にはとても及びません。
あなたが今、これを読んでいるとき、目のレンズは自動的にこの書にピントを合わせていますが、つぎの瞬間遠くの景色に目を向けると、目のレンズは自動的にピントを何百メートルでも先の景色にあわせます。
その目にくらべて、カメラはどうでしよう。
どんな高級品でも、いちいちレンズを前に出したり、引っ込めたりして、ピントを合わせてやらなければなりません。
また新型のカメラには、自動絞り装置がついていて、明るさに応じて自動的に絞りが開いたり閉じたりするようになっていますが、薄暗いところでは、シャッターがきれません。
それに比べて、私たちの目はどうでしよう。
目の瞳孔は自動的に大きく開いて、薄暗い所はもちろん、もっと暗い所でも見えます。
明るい所に出れば、自動的に調節してくれます。
そして、現像、焼付も一瞬間もかからないすばやさで、やってのけるあざやかさは、どんなに精巧な撮影機と映写機を組み合わせたものよりも、はるかにすばらしいではありませんか。
小さいけれどもすばらしいこの目!!
15.耳や舌も
耳・・・・その動きは、小さな鼓膜の振動によるものですが、正常な人は、1秒間に16回から2万回までの振動を、左右の耳で立体的、即ちステレオで聞くことができます。
あなたは、ステレオ電蓄の音響を素晴らしいとお思いになるでしょうが、大小いくつものスピーカーを合わせても、耳の鼓膜の振動範囲には及びません。
耳からは、二万四千本もの神経の糸が脳に通じています。
小さいけれども、すばらしいこの耳!!
舌……もまた、すばらしいです。
食物を味わったり、噛むときに上下の歯の間に送ってやったり、のみこませたり・・・・、また、話をするにも舌がなければ、しゃべれません。
目でも耳でも、そのついている場所が、ちようどよいところについているではありませんか。
もし、目が背中についていたり、口がオヘソの辺についていたら、どうでしよう。
16.脳
頭の中にある脳は、もっとすばらしいです。
一瞬一瞬過ぎ去っていく何年何十年もの間のことを、その程度の差はあっても、次々記憶(記録)していって、必要に応じてすぐに思い出す(引き出す)ことができます。
また、考えたり、計算したり・・・・。
「私の頭はよくない」などという人がおりますが、すばらしいものです。脳には140億もの神経細胞が、互いに連絡し合って働いています。
コンピューターはすばらしい機械ですが、そのコンピューターを考案した脳の方がもっとすばらしく、小型で精巧にできているではありませんか。
17.造られ生かされている
そのほか今日の文明を築き上げた手や、複雑巧妙な体の内部器官の構造や動きの、ひとつひとつをよく観察すれば、どこもかしこも、すばらしくよく出来ていることに、気がつくでしよう。
こんなにすばらしくできている私たちが、環境や偶然で、ひとりでに進化して出来上ったなどと、どうして考えることが、できるでしょうか。
私たちの体も、神によって造られ、生かされているのです。
あなたは、生まれてから今まで、眠っているときでも、呼吸を止めたことはないはずですが、自分の努力によって息を吸ったり、はいたりしているのでしようか。
「ゆうべは疲れて呼吸するのを忘れた」ということがあったらどうなるでしょう。
また、あなたは、生まれてから今日まで、心臓の鼓動が止まったことはないでしょうが、これも、あなたの力によって心臓のポンプを動かしているのでしようか?
このように、自分自身をよく観察するとき、自分というものを造り、そして生かしている本当の意味の親のあることがわかります。
この親である神のことを、「天の父なる神!」とも呼び、ひとり静かに祈ることによって、この愛にみちた父なる神に、通じることができます。
18.聖書と世界の終極
聖書は、歴史的に、最も古くから人類の祖先に伝わってきた、古今東西を通じて、変ることのない真理で、神の言葉と言われています。
聖書には、人生の真の目的や、本当の幸福を得る方法、さらに、死をも越えて永遠に生きることのできる道が書かれております。
また、何千年も前に書かれた聖書の予言は、その後の世界の歴史を見るとき、その予言の通りになってきているのです。これは、歴史が証明しています。
聖書は、この世の終りが近づくと、犯罪と災害の多い現在のような世の中になって、最後に、この世界が火で焼かれることを予言しております。
それは、原始時代にエデンの園で、神にそむいて禁断の知恵の実を食べて、人類は知恵を得たが、その知恵と罪のすえに原水爆を造り、お互いに滅ぼし合う結果になるのかも知れません。
過去の世界歴史が、ことごとく聖書の予言通りになってきたのですから、この最後の予言が的中することは間違いないでしょう。
そして世の終わりが来ても、神に従った生者は救われ、死者も神によって復活させられて、共に新天新地で永遠の命と幸福が与えられます。
一方、真の神から離れていた人は、永遠の火と硫黄の燃える池で、自分の罪の報いを受けることが予言されています。
19.死
死ということは、考えるのもイヤなことですが、誰でも必ず直面しなければならないことであり、老若男女を問わず、いつ直面するかも知れないので、解決しておきましょう。
私たちは常に、押ボタンによる原水爆戦争の危機にさらされております。また、個人的にもいつ死ぬかわかりません。
死ねば、二日もたたないうちに腐りはじめるので、火で焼かれるか、土の中にうめられてしまいます。
最も尊くて、はかないのはこの命です。
この尊い命は、死によって滅亡してしまうものか、それとも、死後において永遠の命を与えられる道があり得るものか、一番大切なことですから、真剣に考えていきましょう。
20.いままでのことから
私たちの住む地球が、神の造られたすばらしい神工衛星であることがわかりました。
また、自然界の法則や科学の基本法則が、私たちの生活に、すばらしい恩恵を与えていることも知りました。
野菜でも、果実でも、日常の食べ物、すべてが、神によって造られ、与えられていることがわかりました。
そして、自分自身を鏡に写してよく観察するとき、目がどんなに精巧なカメラよりも、はるかにすばらしくできていることをはじめ、体の各器官が実に精巧にできていて、神によって造られていることが、わかりました。
しかも、呼吸や心臓の鼓動を考えるとき、自分の意志によってではなく、神によって生かされていることがわかりました。
21.永遠の生命
このように、私たちを造り生かしている天地万物創造の神は、全能で、なんでもできますから、たとえ私たちが死んでも、再び私たちを造り生かすことは、たやすいことです。
神はあなたにすばらしい人生を経験させたいと願っておられます。
それによってあなたは、この世で本当の幸せを受けるばかりでなく、たとえ死んでも、生みの親である神のもとに帰れるのです。
そして永遠の命が与えられて、すばらしい神の国で住めることを、神の言葉である聖書は約束しています。
22.罪の重荷
しかし、私たちは、心静かに過去をふり返ってみるとき、親不孝をしたこともあれば、人をにくんだり、ねたんだり、という心の中の罪をはじめ、さまざまな、目に見えない罪を犯してきていることに、気がつくでしょう。
そこで神は、私たちを罪の重荷から解放するために、聖書の予言にもとづき、神のひとり子といわれるイエス・キリストを、この地上に送ってくださいました。
23.十字架
キリストは聖書に書かれているように、私たちに本当の幸福と永遠の生命が与えられる道を教え、最後に神を信じる人々の罪を全部背負って、十字架の極刑にかかってくださいました。
そして、神の子みずから尊い血を流して、私たちの罪をあがなうために犠牲の死を遂げて下さいました。
それでイエスさまを、自分の罪を清めて下さった救い主(キリスト)と信じるなら、あなたの罪はゆるされて、人生の生きがいを見いだし、神のひざもとへ帰ることができるようになりました。
24.復活
キリストは、十字架の上で犠牲の死を遂げられましたが、予言されていたとおり、3日目に復活し、40日間大勢の人たちの中に現われて、神が御子イエス・キリストを通して、「死んだ後よみがえる」事実を証明されたのです。
それで、キリストを迫害した人たちまでも、キリストが神の子であることを信じるようになりました。
全能の神にとって、復活は容易です。
25.昇天と再臨
その後キリストは、神への信仰をもち続けた人たちを、神の国である天国へ導くために、世の終りの時に再び来ることを予言して昇天されました。
それまでの間、キリストに代わる聖霊が、私たちを導くようになりました。聖霊は私たちの「助け主」です。
26.科学の基本法則と奇跡
聖書の奇跡についても、前にお話ししたように科学の基本法則を「なぜだろうか?」と深く追求すれば、みな不思議な神の御わざを見出すだけですから、なんでもできる全能の神が奇跡を行なわれたり、神の御子であるイエス・キリストが奇跡をなさったりしたからといって、特に不思議なことではありません。
27.神とともに
今までのお話で、真の神について、よくわかったことと思いますから、幼な子のような純真な心になって、神を慕い求め、そして神に祈りましょう。
そうすれば、神はあなたを特に愛し、あなたの祈りも聞かれましょう。
全知全能の神の前に、私たちの知識は小さなもので、部分的にはわからないことがたくさんあります。
しかし、基本となる根幹をしっかりつかめば、枝葉のことは自然に理解されましょう。
28.真の生きがい
私たちは、何のために勉強しているのでしょうか。また、何が目的で毎日働いているのでしょうか。
究極の目的は「生きがいを得る」ことではないでしょうか。
本当の生きがいを得る鍵は、聖書の中にあります。富や名誉では、ほんとうの生きがいは得られません。
私たちはまず、幼な子のように純真な気持ちで、一人ひざまずいて、心静かに過去をふりかえってみましょう。そして神にこう申し上げましょう。
「私は罪人(つみびと)です。キリストが私のために十字架で、ご自分の命を捨てて下さったことを信じます」。
そうすれば、あなたの過去の罪は神からゆるされて、いつもあふれるほどの喜びを実際に与えられるとともに、永遠の生命も与えられるのです。
「この幸せ」「この喜び」は、あなたの体験によって、あなたのものにして下さい。
29.おわりに
私たちは父なる神の前に、みなひとしく兄弟姉妹なのです。
どうか、ひとりも滅びることなく、ほんとうの幸福と永遠の生命を得ることが出来ますように、心からお祈りしております。
万物は神からいで、神によって成り、神に帰するのである。
あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。(聖書)
●英語版へ
●このトラクト「なぜでしょうか?」には、続編があります。月岡世光著「創造か進化か」をご覧になれば、進化論が科学の健全な証拠に全く基づいていないことが、おわかりになるでしょう。
科学と人生の聖書通信講座を無料でお送りします。
「聖書通信講座希望」「インターネットで見ました」と書き、ハガキ、電話、FAX等で、下記へお申し込み下さい。
992-0022 山形県米沢市花沢町1-10-24 聖書通信協会
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トラクト「なぜでしょうか?」は、カラー印刷された冊子があります(A5判8ページ)。これを伝道配布用に使いたい方も、上記へお問い合わせ下さい。1部あたり6円程度で入手できます。
私たちは、聖書を正しく学ぶキリスト教プロテスタントですから、お気軽にお便り下さい。
[統一協会(原理運動)、ものみの塔(エホバの証人)、モルモン教(末日聖徒)とは関係ありません。]
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