メッセージ(日本)

利他的生き方 
それが人生を永遠にする


イエスは利他的生き方を教えられた。
それが本当の自利の道だからである。


[聖書テキスト]
 「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」(マタイの福音書七・一二)


[メッセージ]

 今日の題は、「利他的生き方」となっておりますが、これは「利己的生き方」の反対を言ったものです。イエス様は、
 「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」
 と言われました。これは、利他的生き方です。あなたの愛を待っている他の人がいます。あなたの愛を必要としている他の人がいます。だから自分にしてもらいたいことを、他の人にもそのようにしなさい、というメッセージです。そして、他人に利益になるようなことを考えることが、じつは本当は自分のためにもなるんですよ、という教えです。
 与えるならば、与えられる。相手の立場に立って、相手がこういうことをしてもらいたいと思うようなことをしていくなら、それが結局あなたに返ってくるのです。親切の押し売りではいけませんが、相手の立場に立って考える。そうすると、その人だけでなく、あなた自身が祝福されるということを教えています。
 「これが律法であり預言者です」。
 旧約聖書のはじめに「モーセ五書」というものがあります。創世記から申命記までです。これをユダヤ人は「律法の書」(トーラー)、または単に「律法」と呼びます。
 また旧約聖書の後半は、預言者たちの書が載っています。これをユダヤ人は、単に「預言者」とも呼びます。つまり「これが律法であり預言者です」とは、旧約聖書の教えの要約が、
 「何事でも自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」
 という短い言葉の中にあるという意味です。これは積極的な行動を教えたものです。また一方では、その消極面つまり、
 「自分にしてもらいたくないことは、ほかの人にもしてはいけない
 ということも含んでいます。

「従軍慰安婦」はうそだった

 今から二〇年以上前、一九八三年に、ここでは著者の名前を「Y」としておきますが(吉田清次)、『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』という本が出版されました。これは、
 「私は日本軍の命令によって、朝鮮人女性205人を強制連行して、従軍慰安婦にした」
 という内容の告白書です。またそれからしばらくたって、反日的新聞の代表格である朝日新聞がこれを大々的に取り上げて、いわゆる「従軍慰安婦」の話を広めました。そして、これでもか、これでもかと慰安婦の話を取り上げました。
 これが、今日もさわがれる「従軍慰安婦」の話の発端です。それ以前は、従軍慰安婦などという話はまったくありませんでした。韓国側からも出たことはありません。日本側にもありませんでした。Yという人の著書がすべての始まりだったのです。 
 ところが、後にこのYの話はまったくのデタラメであることが、判明しました。そしてY自身も、それを認めたのです。じつは、Yは詐話師でした。詐話師とは、作り話をして儲ける人のことです。
 彼が書いた『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』は、一九八九年に韓国語に訳されました。ところが、Yが韓国人女性たちを強制連行したという韓国の済州島では、その内容に疑問を持った人がいたのです。そして『済州新聞』が調査して、Yの話は作り話であるという記事を発表しました。記事には、
 「二五〇余りの家しかない村で一五人も徴用したとすれば、たいへんな大事件だけれども、当時そんなことはなかった」
 といった村人の証言などが載せられています。また日本の現代史家の秦郁彦教授も、済州島に渡って、Yの話がでっち上げであることを証明しました。それが雑誌の『正論』(一九九二年六月号)に発表されました。こうしてYのウソは、ばれてしまったのです。


韓国の済州島。「従軍慰安婦」に関するYの
話は作り話であることが、ばれてしまった

 Y自身、『週刊新潮』(一九九六年五月号)の誌上で、あれは作り話だったと告白しました。しかしそのときYは、謝ることもなく、
 「本に真実を書いても何の利益もない。……新聞だってやることじゃありませんか」
 と開き直ったのです。自分の利益のためなら、ほかはどうでもいい。平気でウソを言い広める。そのウソのために、どれほど社会に混乱がもたらされたか知れません。ここに、利己的な生き方があります。
 また、Yは共産党員だそうですので、「日本は悪者だったという観念を広めよ」という昔からの左翼的イデオロギーに基づいて、平然とウソを書いたようです。しかし、こうしたことは本当に困ったものです。
 今日も、「昔の日本軍には強制的に連行された朝鮮人女性の従軍慰安婦たちがいた」という話を本気で信じている人たちが大勢います。しかし、その元となった話は全くの作り話であったことを、少なくともみなさんはよく知っておいていただきたいと思います。

慰安婦はいたが、強制的な「従軍」慰安婦はいなかった

 戦場に慰安婦たちがいた、というのは事実なのです。しかし、日本軍に「従軍」と名のつくようなものではありませんでした。そんな言葉も実態も存在しなかったのです。これは従軍看護婦などの言葉と混同されたものと思いますが、従軍というのは、あたかも軍が強制連行したかのような印象を与える言葉です。しかし、強制連行はありませんでした。
 むしろ慰安婦たちは、金になるからと言って、自ら進んで戦場で商売をしていました。彼らを取り仕切る朝鮮人の業者もいたのです。軍はその業者に営業を許可していたにすぎませんでした。兵士たちは金を払い、慰安婦たちはそれを受け取って商売をしていたのです。
 私のお世話になったある年輩のクリスチャンは、かつて戦争に行った経験があります。彼は、戦場に慰安所があったという話をしてくれました。こう言っていました。
 「戦場の慰安婦はどこの国の軍隊にもあるものですが、日本軍にも慰安所が設けられていました。彼女たちは高い料金設定で商売をしていました。私はそこへは行きませんでしたけれども、兵隊は明日をも知れぬ命です。列をなして順番を待っている者が多くいました」。
 つまり、他の地域よりも戦場のほうが、危険はあってもはるかに儲かったから、そこに慰安所の業者が入っていたのです。慰安婦の中には、当時の大卒者の給料の一〇倍、兵隊の一〇〇倍の収入を得ていた者も多くいました。二〜三年で故郷に家が建ったのです。
 私は他の元慰安婦たちの証言も読みましたけれども、強制連行などではなく、みなお金になるから自発的にやっていたと言っています。 ところが、Yの本が世に出るや否や、韓国では、
 「私は強制連行されて、無理矢理、慰安婦にさせられた。日本政府よ、賠償せよ」
 と主張する女性たちが突然、現われました。それまでは、そんなことを言う人は誰もいなかったのにです。彼女たちはテレビに出て、涙ながらに「日本軍の横暴」を訴えたのです。彼女たちの迫真の演技に、
 「ああ本当に無理矢理、慰安婦にさせられた女性がいたのか」
 と思った人たちも多くいました。しかしそういう訴えを起こした女性たちのほとんどは、事実を言ったのではなく、結局、補償金目当ての金欲しさでした。かつて日本大使館前で、元慰安婦の女性たちが、抗議デモを行なったことがあります。そのとき、ある韓国人女性は、
 「私は一九歳で、学校を卒業する二五日前に日本軍に引っぱり出され、仕方なく慰安所に行ったんだ! やっぱりあの時死んどきゃよかったんだ。もう死んでやる。殺してくれ!」
 と叫びました。また「私自身が日本の横暴な従軍慰安婦の証拠だ!」と言いました。その顔がテレビで大写しに放映されました。しかしこの女性は、知る人ぞ知る、証言がころころ変わることで有名な人でした。
 一九九三年に日本政府も、一六人の元慰安婦の女性たちにヒヤリングを実施しました。また、ほかに一〇人の元慰安婦の証言集があって、計二六人を調べましたが、その中に信憑性のある者は一人もいませんでした。二六人のうち「強制連行された」と証言した人が八人いましたけれども、このうち二人は、証言に食い違いがあって信用できませんでした。また四人は韓国人の研究者グループから、話の前後のつじつまが合わなくて、調査が難しいとされました。
 また残りの二人も、慰安婦にされたのが戦地でなくて、ただの遊郭で働いていたものでした。このように、慰安婦というものはいても、自発的に金儲けのための女性たちがいただけでした。強制的な「従軍慰安婦」というものではなかったのです。

日本政府のまずい対応

 話がここで終わればまだ良かったのですが、その後の政府の対応が非常にまずいものでした。いくら探しても強制連行による慰安婦というものが見つからなかったにもかかわらず、困ったことに日本政府は、目先のことだけを考えて、韓国人をなだめようと安易に韓国政府に対して謝罪したのです。
 それに先だって、じつは韓国政府から、「金銭的補償は求めないから、慰安婦の『強制連行』があったということにしてほしい」と要望があったといいます。それに対して日本政府は、
 「調査したところ強制連行の例は見つからなかったが、韓国がそう言っているのだから、この際、強制連行があったことにしよう
 と言って、安易な謝罪会見をしてしまいました。こうして日本は、ありもしない従軍慰安婦という汚名を着せられてしまったのです。世界に類を見ない性犯罪国家ということになってしまいました。以来、
 「日本人はとんでもない人々だ。日本政府も認めた」
 という話が世界をかけめぐりました。たとえば一九九六年、国連人権委員会でスリランカのクマラスワミ女史が、先ほどのYの著書や日本政府の謝罪会見をベースにして、日本軍の性的奴隷制度を断罪する報告書を提出しました。
 また、その二年後の一九九八年にも、アメリカのゲイ・マクドガル女史が、再びこの問題を取り上げて日本の歴史を非難しました。このように日本の安易な対応が、あとあとまで尾を引いているのです。日本の政府関係者には、日本の歴史をきちんと勉強してもらわなくては困るなあ、という感じです。迷惑を受けるのは国民です。
 一部の利己的な人間がついたウソが、こんなにまで大きな問題に発展してしまいました。「自分さえ得をすれば他はどうでもいい」という利己的な生き方は、小さな世界であろうと大きな世界であろうと、あとあとまでも害悪をもたらすのです。

利己的生き方から利他的生き方へ

 世の終わりが近くなると、多くの人が利己的になると聖書は言っています。
 一方、私たちが今日見たいのは、利他的生き方というものです。
 つまり、自分を愛するように、隣り人を愛する。自分にして欲しいと望むことを、他の人にもしていく。そこに与えられる神の祝福に生きる生き方が、利他的生き方です。聖書ははっきりと、そういう者は祝福を受けると述べているのです。ここで「他の人」とは、別の言葉でいえば「公」ということです。この世界は、「私」と「公」で成り立っている。「公私を区別する」「公私にわたりお世話になりました」などというときの「公」と「私」です。
 ユダヤ人も、日本人も、昔からこの「公」ということを強く意識した人々でした。日本人にも、先ほど述べたYのように、利己的な人間はいました。しかし一般的には、日本人は「公」というものを非常に大切にしてきた民族です。
 「これも国に対する、社会に対するご奉公の一つだ
 と言って働いてきたのが日本人です。日本には「滅私奉公」という言葉もあります。クリスチャンも、神に対する滅私奉公、人類に対するご奉公、また自分の住む社会に対するご奉公ということを大切にしていきたいものです。内村鑑三先生は、
 「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、そしてすべては神のために
 と言いましたが、これは公のために生きる生き方を述べたものです。


内村鑑三。「私は日本のために、日本は世界のために、
世界はキリストのために、そしてすべては神のために」

 ところで、沖縄から海を南に行ったところに、台湾という大きな島がありますね。昔、台湾は非常に原始的な、未開の土地でした。疫病と、アヘンと、盗賊の跋扈する地でした。
 しかし日本統治時代に、疫病はなくなり、アヘンは姿を消し、盗賊はいなくなり、学校や病院や産業が起こされて、大きく発展しました。台湾は日本の植民地でした。国際条約の結果、そうなったのです。
 植民地というのは、だいたい四つの型があります。第一に略奪型。これはスペインなどがやったもので、手当たり次第に富を奪っていく。要するに国をあげて強盗をしていたのです。
 第二に、搾取(さくしゅ)。イギリスの植民地などはそうでした。現地人を働かせて、そこで生まれる富を吸い上げ、本国を富ませるやり方です。現地人には利益は還元しないし、現地人を生かさず、殺さずの状態におきます。
 第三に、利用型です。アメリカの植民地などはそうでした。たとえばアメリカは、フィリピンを軍事基地として利用しましたけれども、現地人には教育を与えませんでしたし、現地人のためのインフラは整備しなかったのです。

利他的だった日本の植民地

 そして第四は、日本がとった投資経営型の植民地政策でした。ちょうど、破産した会社を別の会社が買い受けて、それを建て直すようなやり方です。人を送り、お金をつぎ込んで、ひとり立ちできるまで助け、育てるのです。
 日本が台湾になした植民地政策は、そのようなものでした。それは「公」の考えに基づくものでした。日本は台湾を、内地の延長と見ていたのです。内地と同じレベルにまで引き上げようとして、人を送り、お金をつぎ込み、現地人に教育を与えた。
 ほかの西欧諸国は、植民地をたくさん持っていましたけれども、決して教育は与えませんでした。現地人を愚かなままにして、そこに君臨し、支配しようとしたのです。すべては自分の利益のためでしかなかった。利己的なものです。
 しかし日本は、台湾でも朝鮮でも、現地人に日本国内と同じ教育を与えました。そのような植民地経営の仕方をやったのは、世界広しといえども日本だけです。そうやって日本の教育を受けた台湾の人たちが、最も感謝することは何でしょうか。それは「公」の観念だといいます。日本人は、台湾の人々に「公」という観念を教えてくれたと。
 それまでは「私」という観念しか知らなかった。けれども、「私」を越えたもっと大きなものがある。「公」です。そして日本の教育は、人々のため、社会のために「ご奉公する」という精神を、ことあるごとに教えてくれた。それが台湾に秩序ある法治社会をつくって、人々を幸せにし、台湾を発展させてくれましたというのです。台湾のかたがそう書いています。
 中国では昔から、
 「太陽が昇れば田畑を耕し、沈めば一日は終わる。天は手の届かない高いところにあり、また皇帝も我々とは遠くかけ離れた場所にいる。どうしてそんな天下国家と我々が関わりあろうか」
 と言われてきました。つまり、私たちの日常生活と、天下国家とはまったく関わりがない。権力者にも「公」はなく、「私」しかない。庶民にも「私」しかない。みんな自分のことしか考えていませんでした。台湾の人々も、中国と同じく、「私」というものしか知らなかった。しかし日本統治時代に、はじめて「公」というものの大切さを教えられました。それが台湾発展の基礎になった、と感謝してくれているのです。
 たとえば日本は、児玉源太郎、明石元二郎、後藤新平といった偉人たちを次々に台湾に送り込んで、台湾を近代化していきました。台北の鉄筋コンクリート製の下水道施設などは、東京市(当時)よりも早く整備されたほどでした。そうやって劣悪だった衛生状態が改善されて、伝染病が一掃されたのです。


後藤新平。台湾近代化に大きく貢献した。

 そして、あらゆる身分の人に教育を与えました。貧しい家庭には金を与えてまで学校へ行くことが奨励されたのです。このようなことは、西欧諸国の植民地では決してみられないことでした。そこには「公」のため、「ご奉公する」という観念が生きていたのです。自分にしてほしいと望むことを、台湾にもしてきました。

「公」に目覚めた朝鮮の人々

 では、朝鮮ではどうだったでしょうか。台湾はよかったけれども、朝鮮は悪かったと言われることがあります。しかし、そうではありません。朝鮮でも、日本は台湾以上の投資経営型の統治を行ないました。
 朝鮮はかつて破産状態にありました。ひとり立ちして生きていけない状況にあった。それで日本は朝鮮を建て直すために、朝鮮を併合して、日本と一つの国にしました。それは当時の国際社会の支持のもとに行なわれたことです。
 日本は、朝鮮を近代的な国家にするために、また西欧諸国や中国、ロシアに侵略されない強い国家にするために、様々な努力をしました。そのとき、日本は常に持ち出しでした。人を送り、お金をつぎ込んで、朝鮮を建て直していったのです。日本は、朝鮮を建て直すことが目的でしたから、優秀な朝鮮人は積極的に採用しました。朝鮮の県知事に相当する道長官一三人のうち、日本人は七人、朝鮮人は六人いました。また、町長や村長は原則朝鮮人がしていました。
 また日本の国会議員にも朝鮮人がいましたし、日本陸軍の中将にも朝鮮人がいました。しかも朝鮮名で通していました。日本の軍隊に入りたいという朝鮮人の志願兵も、あるときは六二倍もの倍率で殺到するほどでした。
 日本が、朝鮮語を禁止したことも一度もありません。朝鮮人が校長の学校では朝鮮語をやめさせようとしたこともありましたが、日本人が校長の学校では朝鮮語や朝鮮文化を大切にしました。いま、韓国人が世界に誇ってやまないハングル文字も、日本統治時代に民衆の文字として使われるようになったものです。また朝鮮語の辞典を初めて作ったのも、日本人でした。
 ところが、
 「朝鮮の人たちは日本の統治に反対して、各地で常に猛烈な抵抗運動を繰り広げた」
 と言われることがあります。あたかも、朝鮮の人たちが常に日本の統治を嫌って、血みどろの戦いをしていたかのような言い方です。しかし、これは事実ではありません。朝鮮で起こった抵抗運動は、非常に散発的で、小規模なものでした。回数も少なかった。朝鮮の民衆の大多数は、日本の統治を受け入れて、日本人ときわめて仲良くやっていました。
 朝鮮で起こった抵抗運動で最大のものは、「三・一独立運動」と言われます。韓国の人々はこれをよく言いますけれども、これは彼らがいうような大規模なものではなくて、一部の人たちの運動にすぎませんでした。


三・一独立運動。しかしそのリーダーたちは、
のちに熱烈な日本の愛国者となった。

 まず一九一九年の二月に、在日朝鮮人の留学生たちが朝鮮の独立運動を起こしました。それが朝鮮半島にも広がって、三月一日には独立宣言書が読み上げられました。この運動は当初、非暴力主義を標榜して行なわれたのですが、次第に暴力化してしまいました。
 そして警察署や、村役場などが打ち壊されたり、学校が焼き討ちされたり、警官が殺害されるなどのテロ行為が行なわれました。
 それで日本政府は、やむなく彼らの行為を取り締まりました。けれども、運動に参加した人々への処罰は非常に軽いものでした。運動に加わったというだけで逮捕された者は、一人もいなかったのです。この事件で有罪となったのはわずか三七人でした。また最も重い主犯でも懲役三年という軽いものでした。内乱罪の適用は見送られました。
 そして「三・一独立運動」の首謀者たちが、その後どうなったか。そこが重要です。韓国の人たちはそれを知りません。学校では決して教えない。
 しかし、三・一独立運動の首謀者たちは、その後、熱烈な日本の愛国者となったのです
 その中心人物のひとり崔 麟は、大東亜戦争が始まると日本人と共に米英を相手に戦おうと、朝鮮人の決起を訴えました。また李光洙も、朝鮮の青年たちに日本の軍隊に入って米英を打倒することを訴えました。なぜ朝鮮の独立運動の首謀者たちが、その後、熱烈な日本の愛国者となったのか。それは次第に、日本人も朝鮮の人々も同じだ。我々は仲間だ、という観念が広がっていったからです。
 そして、朝鮮半島の中だけで考えているのではなく、世界から朝鮮半島をみるなら、日韓併合もやむを得ないことだった、最善の道だったことが理解できたからです。こうして崔 麟も、李光洙も、「公」ということに目覚めたのです。「私」を越えた「公」です。目先の狭量なことではなく、大きな世界のために生きることに目覚めたのです。
  
「私」よりも大きな「公」の価値 
    
 「公」に生きる、ということが人間を変えます。私たちにとって大切なのは、「私」よりも大きな価値である「公」に目覚めることです。「私」は一時的なものにすぎない。しかし「公」はいつまでも続きます。
 だから、「私」のために生きるか、それとも「公」のために生きるかは人間にとって非常に大きな決断なのです。神は、その決断を注意深く見ておられます。「公」のために、また神のために生きるとき、あなたの生き方は永遠の価値を持ちます。松下電器をつくった松下幸之助さんは、あるとき、米子に主張したとき、宿泊した旅館の人から、
 「ここは働く場所がなくて、若い人はみんな土地を離れていく」
 という悩みを耳にしたそうです。それで松下さんは、何か自分にできることはないか、と思いました。彼はのちに米子に工場をつくりました。そのおかげで、その町は生き返りました。
 私は「公」のために何ができるのか、それを問うたのが松下幸之助という人でした。ただの経営者ではなかったのです。またかつてアメリカのジョン・F・ケネディは、大統領になった就任演説で、
 「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを問おうではないか
 と国民に呼びかけました。有名な言葉です。私のための「公」ではなく、「公」のための私。それに目覚めるとき、人生は偉大なものになっていくのです。永続的な価値を持つものになります。


J・F・ケネディ。「国があなたのために何をしてくれるかではな
く、あなたが国のために何ができるかを問おうではないか」

 私たちも、日本という国が私のために何をしてくれるかではなく、「私は日本のために何ができるのか」を問うていく。また世界のために、キリストのために、神のために、何ができるのかを問うていく。
 神が私に何をしてくださるのか、を問うのは悪いことではありません。しかしそれを問う以上に、私が神のために何ができるのか問うていく。そのとき、神は惜しみなくあなたの人生を祝福されるのです。聖書の中に、イスラエルの第三代の王様でソロモンという人が出てきます。ある日、神が夢の中に現われて、ソロモンに言われました。
 「ソロモンよ、あなたに何を与えようか。願え」
 そのときソロモンは、何を願ったでしょうか。神様が何でも下さるというのですよ。しかし、そのとき彼は、自分のために富を求めたのではありませんでした。長寿や名声を求めたのでもなかった。彼は民のために、民を正しく治めるための知恵を神に求めました。
 「その願いは神のみこころにかなった
 と聖書は記しています。「神は彼に仰せられた。『あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。
 あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう」(第一列王三・一一〜一四)
 ソロモンは王様になったとき、「私」の利益を求めるのではなく、「公」を第一にしました。それが神に喜ばれて、神は彼の願い事をかなえてくださったのです。

天の御国は「公」の国

 また聖書の中に、コルネリオという人が出てきます。
 「カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。
彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた」(使徒一〇・一〜二)
 と書かれています。彼はローマ人であり、異邦人でしたけれども、神と「公」のために生きていました。そしてユダヤ人の間にも評判のよい人でした。それで神はコルネリオと家族を祝福して、彼から異邦人伝道がスタートしていったのです。
 それまでは、ユダヤ人が異邦人と一緒に食事するなんて、あり得ないことでした。しかし、使徒ペテロが初めてこの異邦人コルネリオと一緒に食事をしました。そしてコルネリオにキリストの福音を伝えた。このコルネリオから、ローマ人にキリストの福音が爆発的に広がっていったのです。神は、公のために生きるこのコルネリオという人をお用いになったのです。
 天の御国は、「公」の国です。天の御国では、ひとりはすべての人のために、すべての人はひとりのために存在しています。私たちのこの地上での「公」の生き方は、天の御国にまで通じるのです。聖書の中に、タビタという女性が出てきます。
 「ヨッパにタビタという女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた」(使徒九・三六)
 と書かれています。彼女も、神と「公」のために生きる人だった。タビタはそののち病気になって死にました。皆が悲しみました。人々は、タビタが生きていたときに作ってくれた下着や、上着の数々を、泣きながら見せるのでした。そのくらい皆に慕われていた。
 ところがそこに使徒ペテロが来て、彼女をよみがえらせたのです。
 「ペテロは……『タビタ。起きなさい』と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった」
 と記されています。神は、「公」のために生きる人に、大きな恵みを施して下さるのです。
 昔から、日本人の特長は、「公」を大切にするということでした。それは他の国にはなかなか見られない、世界的にみて非常にきわだった特長でした。日本で明治維新が成功したのも、武士たちが「私」の利益でなく、「公」を第一に考えて自分を犠牲にしたからこそできたのです。
 中国でも、かつて日本の明治維新のようなことをしようとしたことがあります。孫文の辛亥革命です。しかしその革命をになった人々は、お金次第でどうにでもころぶ人たちでした。例外はいますが、多くは「私」の利益しか頭にない人たちだった。それで中国の明治維新は結局失敗したのです。
 けれども、日本でも今日、「公」を大切にする心が失われてきています。私たちはその心を取り戻さなければいけないと思います。
 かつて、イギリス出身の女性旅行家で、イザベラ・バードという人がいました。彼女は、明治時代の日本を旅しました。彼女はわざと三等列車に乗って、日本の平民がどのようなものか観察しました。すると、その三等列車の中で彼女は、礼儀正しく親切な日本人たちにただただ感心するばかりであったのです。
 平民だけでなく、お巡りさんも親切でした。日本のお巡りさんはいつも頼りにされていると記しています。また物を失って困っていたら、夜にもかかわらず一里も歩いて届けてくれた人がいました。しかも謝礼も受け取らなかった。その誠実さや、奉仕の精神に、彼女は感動の連続だったと書いています。こうしたことは、他の国では考えられないことだったのです。
 私たちはそういう国に生まれました。これは神の恵み以外の何ものでもないと思います。日本人が優れているからとかではありません。神はこの国を深く愛してくださったのです。私たちは神の恵みを覚え、ますますこの国を愛して、その恵みに生きていきたいものです。

中国でも「公」を大切にした日本人

 かつて西郷隆盛が尊敬してやまなかった人々に、中国の伯夷と叔斉という兄弟がいます。
 昔々、中国の殷から周の時代にかけての人たちですけれども、一地方の君主の子でした。彼らは君主の地位継承をお互いに譲り合って、ともに国を去りました。彼らは周の国の文王という王様を慕って、周に行きました。
 やがてこの文王が死に、その子の武王が君主の地位をつぎました。武王は、天下を取りたくてたまらなかった。彼は殷の国を倒そうと、兵をあげました。そのとき伯夷と叔斉は、武王が臣下でありながら主君を討伐しようとしているとして、その非をなじりました。
 やがて周の武王は、殷を倒して天下を取りました。しかし伯夷と叔斉は、周の食べ物を食べるのを拒み、山にこもって、そこでワラビを取って食べていましたが、そののち餓死しました。
 彼らは、「私」ではなく「公」を第一とし、非礼を行なわず、清廉潔白な生き方をしようとした人々だったのです。また孔子や孟子など、「公」に生き、社会の秩序や慈愛を大切にした人々がいました。
 日本人は昔から、こうした中国の英雄や聖人たちの伝記を喜んで読み、感化を受けてきました。紫式部の源氏物語でさえも、純然たる日本文学と言われていますが、もとはといえば、漢文学をベースにして、それから脱皮し、発展させたものです。
 一徹短気で名高かった赤穂浪士の竹林唯七は、孟子の子孫だとも言われています。薩摩の島津家も、日本の中国地方の大名・大内氏も、遠くその祖先をたどれば、朝鮮を経て日本に渡ってきた中国人(シナ人)だったとも言われています。
 このように、中国と日本は昔から大きなかかわりがあります。だからこそ、日本人は中国の悲惨な状況を見て、見ぬふりをすることはできませんでした。
 一九四二年、すなわち大東亜戦争の最中に、中国の北部一帯が大ききんに襲われたことがありました。約三〇〇万人の餓死者が出ました。しかしそのとき、飢えた中国の民衆を助けたのは、蒋介石の国民党でも、毛沢東の共産党でもありませんでした。彼らを救ったのは日本軍でした。日本軍が放出した軍の食糧で、多くの中国人が生き延びたのです。そういうことを、北京に住む中国人作家の劉震雲さんが、詳しく調べ上げて書いています(『温故一九四二』)。
 これは映画化も予定されていると聞いています。これは戦争の美化ではなく、歴史上の事実を言っているのです。日本が中国に入り込んだのは、侵略したいからでも、征服したいからでもありませんでした。
 日本が中国に足を踏み入れたのは、内戦に明け暮れる中国人同士の殺し合いをやめさせ、そこに秩序をもたらしたかったからです。そして、西欧諸国の侵略に負けない中国をつくることを手助けしようとしたのです。だからこそ、中国の民衆を日本軍は必死に助けた。
 しかし、やがて日本はアメリカとの戦争に負けたことで、中国から引き上げました。日本が引き上げて、日本という力がなくなった途端、中国は再び内戦の泥沼と化しました。内戦で中国の民衆がまた何千万人も死にました。内戦で勝ったのは毛沢東の共産軍でした。
 アメリカはかつて、中国という広大な土地と利権を手に入れたくて、日本と戦争をしたのです。けれどもそのアメリカも、こうして中国を失いました。中国は毛沢東によって共産化されてしまったからです。毛沢東は、
 「私が天下を取るためなら、中国の民衆がいくら死んでもかまわない」
 という言葉を残した人です。そうした体質が、今も共産党一党独裁の中国で生きています。そこには、もはや「公」の心はありません。

「私」の世界から「公」の生き方へ

 今から七年前、一九九九年に、マグニチュード七・七の大地震が台湾を襲いました。多くの人が死にました。台湾は、災害義援金用の口座を銀行に開設して、外国からの寄付金を募りました。日本人も、多くの人が被災者のために寄付をしました。ところがそのとき、中国の駐日領事館が、同じ銀行にまぎらわしい名前の口座をつくって、寄付金を集めようとした事件がありました。
 台湾を助けるためではありません。どさくさに紛れて、あわよくば日本人の寄付金を横取りしようとしたのです。なんと中国の領事館がそんな小細工をやった。ふだんから台湾いじめをするだけでなく、他人の不幸を喜び、被災者のための義援金にまで手を出そうとしたその行為に、非難が集まりました。
 一方、そうした中、台湾の大地震の報を聞いて最初に駆けつけたのは、日本の救援隊でした。彼らはハイテク機器を駆使して、瓦礫の下から生存者を捜しだして、昼夜を問わず救助活動を続けました。
 その一方、運悪く助からなかった遺体の前では頭を垂れて、哀悼の意を表しました。その姿は被災地の人々に感動を与えたのです。日本の救援隊が台湾の空港をあとにしようとするとき、税関職員は全員総立ちになって最敬礼して見送ってくれました。
 また空港でごったがえしていた出入国客全員が、拍手で見送ってくれたのです。その光景をロビーで見て、感涙にむせぶ人もいました。台湾の作家が、そのように感激をもって書いてくれています。
 このように日本がこれからも、「公」のために生きるなら、神はこの国を決してお見捨てにならないでしょう。そして日本のクリスチャンは、その先頭に立って、神と「公」のためにご奉公していきたいものです。
 何事でも自分にしてもらいたいことは、人々にもそのようにしていくのです。
 日本という国がこれからも「公」を大切にする心を失わず、また日本のクリスチャンが神にあって利他的生き方をしていくなら、神はこの国を必ずや守り、祝福へと導いてくださいます。
 もう一度言います。「私」は一時的であり、「公」はいつまでも続きます。「公」は、「私」よりも大きな価値なのです。「私」のための生き方は一時的でいずれ消え失せ、「公」のための生き方だけがいつまでも残ります。
 神はそうした生き方を愛し、その人に恵みを惜しまれないのです。そしてこの世界が今必要としているのは、「公」を大切にする人々、「公」のために私は何ができるかを問う人々、「公」に貢献する国家です。
 「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」。
 これは神の預言として私たちの心に迫ってくるのです。「公」を大切にして、自分にしてもらいたいと思うことを、他の人にも、この社会にも、この国にもしていく。自分と同じように周囲を愛していくのです。いや、この国、この世界こそが自分なのだ。だからこの世界を愛することが、本当の意味で自分を愛することである、という真理に目覚めていくのです。
 それが利他的生き方です。そのとき、あなたの人生は永遠になります。あなたは神と共に永遠に生きるのです。イエス様は、そうしたあなたを祝福してやみません。

久保有政

日本の戦争に関する真実な歴史の解説

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