メッセージ(日本)

慈愛のキャッチボール 

日本が海外となした心と心のキャッチボール。
そして神と人の間のキャッチボール...


1890年に、トルコのエルトゥールル号は海難事故を起こした。
そのとき、必死に乗員たちを救ったのは日本人たちだった。
そのためトルコ人は、いつか日本へ恩返しをしたい
という思いを抱き続けてくれた。

 今日は、人と人の間の心のキャッチボール、また神様と私たちの間の愛のキャッチボールということについてお話ししたいと思います。


テヘラン空港で立ち往生した日本人たちを救いに来たのは……

 一九八五年、イランのテヘラン空港に日本人二〇〇人以上が立ち往生した事件がありました。当時は、イラン・イラク戦争の真っ直中でした。いわゆるイラ・イラ戦争です。当時のイラクの大統領は、サダム・フセイン大統領。彼はその年の三月に、イランに対して総攻撃体制に入りました。フセイン大統領はその一環として、テヘラン上空を航行する飛行機はいずれの国のものであろうと撃墜する、という方針に出たのです。その期限は三月二〇日午後二時。
 それまでには、日本人たちもイラン国内から出ないと、戦争の真っ直中に置かれてしまいます。イランにいた他の外国人も次々に出国しました。しかし、自分の国の人たち優先ということで、日本人ははじき出されてしまいました。なかなか出国できない。日本の外務省は、救援機を派遣してくれと日本航空に依頼しました。ところが、「帰る際の安全が保障されません」と言われて、ことわられてしまった。日本の救援機は飛ばなかったのです。こうして日本人二〇〇人以上が、テヘラン空港で立ち往生しました。期限の時間は迫ってきます。
 「ああ、もうだめだ。万事休す」「我々は日本から見放され、戦場に取り残されたのだ」
 と思われたその瞬間、その日本人たちを救おうと、救援機が飛んできました。それは日本の飛行機ではなかった。それはトルコ航空機でした。トルコの人たちが救援機を飛ばしてくれて、彼ら日本人二一五人を、あっという間に救出してくれたのです。
 なぜトルコの人たちが、危険を冒してまで日本人たちを助けてくれたのでしょうか。当時、この出来事を報道した朝日新聞の記事はひどいものでした。「日本がこのところ対トルコ経済援助を強化していることなどが影響しているのでは?」といった当て推量を書いておしまいだった。
 しかし、トルコの人たちが日本人を助けてくれたのは、そんなことではなかったのです。彼らのうちには、「いつか日本人に恩返しをしたい」という思いが昔から強く働いていたのです。

エルトゥールル号の海難事故

 それについて、駐日トルコ大使のヤマン・バシュクット氏は、産経新聞の取材に対しこう語っています。
 「救援のために特別機を派遣した理由の一つは、トルコ人の親日感情でした。その原点となったのは、一八九〇年のエルトゥールル号の海難事故です」
 「エルトゥールル号の海難事故」といっても、多くの日本人は知らないでしょう。しかしこの出来事は、一二〇年近くたった今でも、トルコ人の間で知らない人はいない出来事です。この出来事のゆえに、トルコの人たちは今も深く日本に感謝しているのです。
 一八九〇(明治二三)年にトルコの国から、軍艦エルトゥールル号がトルコ使節団を乗せ、はるばる日本にやって来ました。そしてトルコと日本の友好を深めました。三ヶ月後、エルトゥールル号は日本を離れました。しかし和歌山県の沖合で台風に遭い、沈没してしまいました。この事故で乗組員のうち六〇〇人近くが死亡しました。
 しかし、日本の地元民たちが必死に生存者たちを救助し、結局六九人の命が助かったのです。救助したのは、和歌山県の沖合に浮かぶ大島の島民たちでした。おりからの台風の直撃を受けて、救助活動は至難をきわめました。けれども彼らは必死に救助を続けて、六九人の命を助けたのです。当時の記録が残っています。
 「まず生きた人を救え! 海水で血を洗い、包帯をせよ。泣く者、わめく者を背負って二百尺の断崖をよじのぼる者は無我夢中だった……」
 島民たちは、生存者を助けると彼らを背負って断崖をよじのぼり、火をおこすこともままならない中、ふるえる彼らを人肌で温めて、精魂の限りを尽くしたのです。島民たちは、非常用の食べ物を出してきて、彼らに食べさせました。島にはわずか四〇〇戸しかありませんでしたから、島はたちまち食糧が欠乏してしまいました。そこまでしてでも、彼らはトルコ人たちを助けたのです。そののち、生存者たちは病院で手厚い看護を受け、日本の船に乗せられて無事トルコに帰国しました。さらに日本国内では、犠牲者と遺族への義援金も集められました。そして遭難現場付近の岬と、地中海に面するトルコ南岸の双方に、慰霊碑が建てられたのです。
 このエルトゥールル号の事故と、日本人たちの献身的な救助活動は、トルコでは歴史教科書にも記されました。だからトルコの人たちは、いつか日本人にこの恩返しをしたいと思ってくれていたのです。それが、あのテヘラン空港の日本人救助となってあらわれました。
 なんという美しい話ではありませんか。私たちはこういう話を聞いて、何を思うでしょうか。

恩のキャッチボール

 たとえば、今どきの高校生でありましても、エルトゥールル号のような史実にふれると、大きな感慨を抱くものです。多くの高校生は、ゆがんだ歴史教育が教える自虐史観の中におかれています。でも、エルトゥールル号のことを聞いたある高校生は、こんな感想文を書きました。

 「私は日本人でありながら、日本人という人間があまり好きではなかった。私も含めて日本人は、冷酷で自己中心的で、自分の幸せだけを見つめて生きていく人間だと思っていたからだ。
 自分の国の人たちが、今にも攻撃され死んでいくという危機の中、日本人という奴は見捨てたのだ。自分の命一つが惜しいがために、二一五名の尊い命を見捨てたのだ。信じられないと思った反面、日本人なんて、そんなものさという思いもあった。ところが、そんな絶望の淵に立っていた日本人たちを救ったのは、トルコ人だった。私は最初、どうしてトルコ人がこんなことをするのかわからなかった。……トルコ人は善意の人たちだった。
 しかし、それよりもさらに善意の人たちだったのは、私が今までさんざん毛嫌いし、見下してきた日本の大島の島民たちだった。鎖国が開けてすぐの日本人だ。この話を聞いて、私は鳥肌がたった。日本人という人間がこんなに素晴らしかったなんて……。本当に心から救われたような気がした。そして、その恩を返すべくトルコ人の日本人救出の飛行機……。まるで恩のキャッチボールではないか。
 今、そのボールは日本にある。……はたして私たちにどんなことができるのか、それを考えなければならない。何ができるか。何かしなければ……。私のボールはまだ私のグローブに収まったままだ」

 この高校生は、エルトゥールル号の話を聞いて、自分の生まれた日本への見方がまったく変わってしまったのです。そして人生で最も大切な事柄を学びました。心と心の間のキャッチボールです。恩のキャッチボール、慈愛のキャッチボール、本当の心のふれあいです。
 これが本当の教育というものですね。ボールをいかにして返すことができるか、何ができるのか、それをこの高校生は考えるようになったのです。人が生きるうえで、最も大切な問いです。エルトゥールル号に関してだけでなく、私たちの人間関係は、心と心のキャッチボールで成り立っています。それが慈愛に満ちたキャッチボールとなるとき、人生は本当に豊かなものとなります。人間の間だけではありません。神と人間の間にも、慈愛のキャッチボールがあります。いや、神と人の間の慈愛のキャッチボールに私たちが目覚めるとき、私たちは最も大切な人生の真理を知ることになります。

心の交流

 イエス様のもとにある日、ひとりの女が、たいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってきたことがあります。彼女は、食卓に着いておられたイエス様の頭に香油を注ぎました。弟子たちはこれを見たとき、憤慨して言いました。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに」
 しかしイエス様はこれを知って、彼らに言われました。
 「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」(マタ二六章)


インド人画家が描いたイエスと、香油をぬる女。
女は何か恩返ししたいという思いでやって来た。

 この女は、何かイエス様にしてあげたい、という思いにかられていたのです。それで大変高価な香油を頭に注ぎました。それは髪の毛の手入れをするという意味もありますけれども、もう一つ、隠された意味があります。それは、もうすぐ十字架にかかろうとしていたイエス様にとって、これはメシヤとしての油注ぎの儀式ともなったことです。「メシヤ」というのは、ヘブル語で「油注がれた者」という意味です。これをギリシャ語にするとキリストになります。
 まさにイエス様は、十字架の死を前にして、改めてここで油注がれたのです。この女は、その意味を知らなかったでしょうが、神ご自身が彼女を使わして、彼女を通してイエス様に油をお注ぎになりました。彼女は何という光栄な仕事をすることができたでしょうか。この女の名前は記されていません。しかし一般的には、ヨハネの福音書八章に出てくる姦淫の女ではないか、といわれています。
 彼女は、かつて姦淫の現場、おそらく不倫の現場を律法学者たちに捕らえられて、連れて来られました。イエス様を試すために、律法学者たちは、この女を利用したのです。姦淫をした女は、ユダヤの律法で石打ちの死刑と決まっています。ですから、イエス様が彼女を「許せ」と言えば、イエス様はモーセの律法に反することになります。一方、イエス様が「この女を死刑にしてよい」といえば、イエス様は愛のおかた、赦しのお方ではないことになって、民衆はもはやイエス様を信じないことでしょう。イエス様は、
 「あなたがたで罪のない者が最初の石を投げなさい」
 と言いました。すると年長者から一人一人、みな去っていったのです。そこにはイエス様とその女だけが残された。イエス様は彼女に言われました。
 「わたしは世の光です。わたしに従う者は決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハ八・一二)
 イエス様は、石を投げていいと言ったのです。しかし罪のない者が最初の石を投げよと言われたら、人々は一人一人出ていってしまった。イエス様は、裁いた上で罪の赦しをお与えになりました。女の命は救われた。そしてイエス様は彼女に、「わたしは世の光です」、わたしを見つめなさい、わたしについてきなさいと言われました。イエス様につき従っていくなら、闇の中を歩むことはないのだ。いのちの光を持つのだと。

イエス様の慈愛のボール

 この女は、そうやってイエス様に命拾いをしていただいた経験がありますから、なんとかその恩返しをしたいと思っていました。イエス様が私を救ってくださったのだから、イエス様に何かしてさしあげたい、そういう思いです。そしてイエス様の十字架の前に、高価な香油を頭にそそぐという油注ぎの光栄にあずかることができたのです。そしてイエス様から、この上もない優しいお言葉をいただくことができました。
 この女は何と幸せなことだったでしょう。イエス様と自分の間に、慈愛のキャッチボールをすることができました。この慈愛の思いこそが、あなたの心の内にも輝く「いのちの光」なのです。あなたは、この「いのちの光」を感じているでしょうか。イエス様との慈愛のキャッチボールをなさっておられますか。
 イエス様は、約二〇〇〇年前の春、ユダヤ暦ニサンの月の一四日に、十字架にかかられました。そして私たちのために、贖い(救い)の死を遂げられました。イエス様の十字架のもとには、「マグダラのマリヤ」も付き添っていました(ヨハ一九・二五)。イエス様に七つの悪霊を追い出してもらったという女性です。姦淫の女と同じ女性ではないだろうか、と考える人もいます。別人かもしれないけれども、いずれにしてもイエス様との間に、心温まる親しい慈愛のキャッチボールを持った女性です。
 またイエス様の十字架のもとには、母マリヤと、弟子のヨハネもいました。イエス様は、マリヤに、「女の方。そこにあなたの息子がいます」(ヨハ一九・二六)と言われました。イエス様は、ここでマリヤを「女の方」と呼んでおられる。イエス様は全人類のためのメシヤとして十字架にかかり、今や息絶えようとしています。そこでイエス様は、マリヤをあえて「女の方」と呼び、彼女をヨハネの世話にゆだねたのです。
 イエス様はヨハネに対しては、「そこに、あなたの母がいます」と言われました。それでヨハネは、以後マリヤを自分の母として家に引き取り、世話をするようになりました。ここに、イエス様の愛情細やかな配慮をみることができます。自分の死のあとの母マリヤのことも、きちんと考えておられた。愛情豊かな心のキャッチボールですね。
 続いて、イエス様に死が訪れます。死の間際にイエス様は、
 「完了した」(ヨハ一九・三〇)
 と言われました。ギリシャ語でテテレスタイ、口語訳では「すべては終わった」と訳されていますけれども、新改訳では「完了した」。贖いのみわざが今や完了した。
 聖書には、「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」と書かれています。イエス様は、私たちの罪の赦しのために、ご自分のきよい血潮を流してくださったのです。罪のある私たちが死んでも、それは自分の罪への罰でしかない。しかし罪のない方が、私たちのために身代わりに死ぬことによって、私たちの罪が赦され、私たちは罪と滅びから救われる。
 それが神がとられた方法でした。私たちはただ、このイエス様を信じ、お従いしていけばよい。そうすればイエス様の十字架上の贖いがあなたのものとなります。
 「わたしは世の光です。わたしに従う者は決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」
 と言われたイエス様の御言葉は、私たちに対してのものでもあります。あなたへのものでもある。イエス様を信じ、お従いしていくなら、あなたは罪が赦され、滅びから救われ、闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。イエス様の慈愛のボールは、あなたに対して投げられました。あなたはそれを受け取って、今度はどのようにお返ししますか

あなたは私のために何をなすか

 かつてツィンツェンドルフという人は、あるときイエス様の十字架のお姿を描いた絵を見て、大きな衝撃を受けたことがありました。その絵が素晴らしかったこともありますけれども、その絵の下にこう書いてあったのです。
 「わたしはあなたのために命を捨てた。あなたは私のために何をなすか
 ツィンツェンドルフは、その言葉の前に釘付けになってしまいました。ああ、イエス様は、私のような者をも救うために、あの十字架の苦難を忍び、命を捨てて下さった。私は、これまでの人生の中で、イエス様のために何かをしたことがあるだろうか。


十字架の絵の前でツィンツェンドルフは、大きな衝撃を受けた。
「わたしはあなたのために命を捨てた。
あなたは私のために何をなすか」

 もちろん、教会には行っていました。聖書も読んでいました。お祈りもしていました。しかし自分の犠牲を払って、なにかをイエス様のためにしたことがあるだろうか。そうしたことを考えたのです。彼はその絵の前で、何時間も考えていました。そしてついに、自分の生涯をイエス様の福音を伝えるために捧げることを決意したのです。ツィンツェンドルフは、その後、宣教団体のモラビア兄弟団というものを組織して、すばらしく霊的な伝道者となっていきました。
 彼の影響を深く受けた人に、ジョン・ウェスレーがいます。ウェスレーは、「イギリスを救った」といわれる大リバイバリストです。彼の説教を通して、イギリス中に、信仰の炎が燃え上がっていった。このようにして、一人のうちに灯った「いのちの光」は、次々に燎原の炎のように燃え広がっていくのです。
 ツィンツェンドルフも、ウェスレーも、慈愛のキャッチボールを神と自分の間でやった人々でした。私たちはどうでしょうか。神様から受けた慈愛のボールを、私たちはどのようにしてお返ししたらよいのか。各自が、それを祈りの中で示されていきたいものです。

ポーランドの子どもたちを救った日本

 ここで幾つか、慈愛のキャッチボールの例をもう少しあげてみたいと思います。
 東ヨーロッパに、ポーランドという国がありますね。この前までローマ法王だったヨハネ・パウロ二世は、このポーランド出身でした。ポーランドは、かつて一八世紀に、国土を三分割されてしまうという悲劇にみまわれた国です。ポーランドは三分割されてしまって、それらをロシアとプロイセン、そしてオーストリアに取られてしまった。
 つまりポーランドは、すべての国土を失ったのです。そこでポーランドの愛国者たちは、地下にもぐって独立運動を展開しました。しかし、そのたびに逮捕されて、家族もろとも、流刑の地シベリアに次々に送られました。ちょうどバビロン捕囚時代のユダヤ人たちのように、シベリアへ流刑となったポーランド人たちは、その苛酷な地にあって祖国を思って涙を流しました。
 一三〇年の月日が流れました。シベリアの地のポーランド人たちは、長い間、肩を寄せ合い、寒さと飢餓と伝染病と戦いながら、かろうじて生きていました。とくに親を失った子供たちは、悲惨きわまりない状態におかれていました。
 第一世界大戦が終わって、一九一九年に結ばれたベルサイユ条約によって、ようやくポーランドは独立を回復することになりました。しかし、シベリアにいたポーランド人たちは祖国に帰れなかったのです。
 ロシアで革命が起きてソ連が誕生したのですが、翌年にポーランドとソ連の間に戦争が始まって、唯一の帰国方法であったシベリア鉄道が危険地帯となったからです。こうしてシベリアのポーランド人たちは、再び絶望に陥りました。世界に向かって救援を求めましたが、ことごとく失敗しました。
 しかし、このとき「よし、手を貸そう」と名乗り出た国が唯一存在したのです。それが大正時代の日本でした。具体的には、日本赤十字社と、シベリアに出兵していた日本陸軍の兵士たちです。彼らの行動は機敏でした。彼らはただちに救出活動に入ったのです。
 彼らは極寒のシベリアに入り込み、せめて親を亡くしたポーランド人孤児だけでも助けようと、悪戦苦闘を続けました。彼らは、救出した孤児たちを保護しながらウラジオストックまで行き、そこから東京と大阪へ船で次々に送り出しました。彼らは三年近くにわたってその活動を続けて、合計七六五名の孤児たちをシベリアから救出したのです。
 しかし救出はしたものの、ほとんどの孤児たちは重い伝染病と、飢餓で衰弱しきっていました。大量の孤児たちを受け入れた日本国内の施設では、看護婦がつきっきりの看護にあたりました。腸チフスのために衰弱しきっていた子供の看護にあたった若い看護婦は、ついに自分が腸チフスに感染して、殉職しています。
 彼らはみずからの命を捧げてまで、異国の不憫な子供たちに尽くしたのです。看護婦だけではありません。彼ら孤児たちの惨状は、日本国中の人々の同情を呼びました。多くの人たちが慰問の品々を持ってきてくれました。無料で歯の治療や、理髪を申し出る人たちもいましった。
 音楽会を孤児たちのために開いてくれる人たちもいました。寄附を申し出る人たちも数多くいました。また皇后陛下(貞明皇后)も、孤児たちと親しく接して、彼らを抱きしめられました。こうした中で、彼らの健康や心の傷はしだいに回復していきました。のちに回復した子供から順次、八回に分けて彼らを祖国ポーランドへ送り届けました。横浜の港から船が出るとき、幼い孤児たちは泣いて乗船するのを嫌がったそうです。
 親身になって世話をしてくれた日本人たちは、孤児たちの父となり母となっていたからです。

恩返しをしてくれたポーランドの人々

 そのとき、ポーランド極東委員会の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、日本に次のような感謝の手紙を送ってきました。
 「日本は、わがポーランドとはまったく異なる地球の反対側に存在する国です。しかしわが不運なるポーランドの児童に、かくも深く同情を寄せ、心から憐憫の情を表してくれました。われわれポーランド人は、肝に銘じてその恩を忘れることはありません。
 われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、はては指輪までも取ってポーランドの子供たちに与えようとしました。
 一度や二度ではありません。こんなことがしばしばありました。……ここにポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたいと思います」
 このとき助けられたポーランド孤児たちのうち、幾人かはまだポーランドで生きているそうです。彼らは今も覚えている「君が代」や「うさぎと亀」を口ずさむという。
 さて、この出来事から七五年の歳月が過ぎた一九九五年のことでした。一月一七日、この日本で、神戸などを中心に大地震が起きました。阪神・淡路大震災です。そのとき、真っ先に被災者の救済に飛んできてくれたのは、誰だったか。ポーランドの人たちでした。またポーランドの人たちは、その大震災のあと、孤児となった人たちをたくさんポーランドに招いて激励会を開いてくれたのです。
 三〇名ほどの被災した家庭の子供たちを、夏休みにポーランドのワルシャワに招いてくれたのです。そうした企画をしてくれたのは、日本のポーランド大使館に勤務していたフィリペック博士でした。彼は、かつて日本がシベリアのポーランド人孤児たちをたくさん救ってくれたことを、知っていました。そして、
 「いつかポーランド人として、この恩返しをしたい
 と心に念じていたのだそうです。こうしてポーランドと日本の間にも、慈愛のキャッチボールが行なわれました。こうしたことが、本当の平和の基礎ですね。日本は、どれほど素晴らしいことをしてきたことだろう、と思います。こうした慈愛のキャッチボールが、国と国、人と人の間に豊かに行なわれれば、本当の平和がやって来ます。
 これからの日本も、そうありたい。そして、それをなすのは私たち一人一人なのです。

日本精神に学んだユダヤ人

 最後に、もう一つ、慈愛のキャッチボールに生きた人のお話しをしましょう。
 昔、ヨセフ・トランペルドール(トロンペルドール)というユダヤ人がいました。彼の名前を知っている日本人は多くありません。しかし、イスラエルでは知らない人はいません。トランペルドールは、イスラエル建国の英雄なのです。


トランペルドール。日本を手本とした
ユダヤ国家建設を目指した。

 彼ははじめ、ロシアに住んでいました。二〇世紀のはじめに、日本とロシアの間に日露戦争がありました。そのとき、ロシア軍の一員として、トランペルドールも参加しました。しかしユダヤ人はロシアで差別を受けていたので、決して将校になることはできませんでした。けれどもトランペルドールは大変勇敢に働いて、伍長に抜擢されました。
 日本とロシアの戦闘で、ある日、トランペルドールは日本の捕虜になってしまいました。彼は、他のロシア人捕虜約一万人と共に船に乗せられて、大阪の捕虜収容所に連れてこられました。しかし捕虜収容所とはいえ、待遇はとてもよかったのです。収容所は海岸から近くて、まわりの景色はとてものどかな所でした。また日本の家屋にはまだ電灯が普及していない時代でしたのに、収容所の建物にはどこも電気がついていました。捕虜は、それぞれの宗教によって分けられたので、約五〇〇人のユダヤ兵たちは同じ建物で暮らすことができました。
 捕虜によるパン工場もつくられました。新鮮な肉や野菜がふんだんに支給されて、食糧事情はよかったのです。そのうえ将校には当時のお金で月額で三円、兵には五〇銭が支給されました。
 トランペルドールは、日本人の所長にかけあい、収容所の中に学校をつくる許可を求めました。所長はそれを許可してくれました。トランペルドールは、捕虜たちにロシア語の読み書きや、算術、地理、歴史を教えました。
 トランペルドールが、ユダヤ人のために収容所内で、過越の祭をしたいと言うと、所長は横浜のユダヤ人社会と連絡をとってくれて、ユダヤ人捕虜のために種なしパンの粉と、パンを焼くためのカマドを取り寄せてくれました。
 そういう中で、トランペルドールは思ったのです。日本は、何という文明国だろう。敵の捕虜たちに対してさえ、これほどに親切に接してくれる。どうして日本のような小さな国が、大国ロシアを相手に勝つことができたのか。それはこの日本人たちの心がこんなにも豊かだからではないか。日本人は、規律が正しく、勤勉で、愛国心が強く、互いに私欲を捨てて公のために生きている。
 トランペルドールは、じつはシオニストでした。ユダヤ人は今は世界に流浪の民となっていて、自分もロシアに生まれたけれども、やがてユダヤ人はパレスチナに帰って祖国を再建しなければならない。その再建されるユダヤ国家は、どのような国家でなければならないか。トランペルドールはやがて、新しく生まれるユダヤ国家は、日本のような国家でなければならないと、心に思うようになったのです。

日本的国家を目指したユダヤ国家の建設

 日露戦争が終わり、捕虜達は順次、帰国できることになりました。トランペルドールはロシアに帰りましたが、ユダヤ国家再建のために、やがてパレスチナに渡りました。当時パレスチナはまだ、オスマン・トルコ帝国の領土でした。トランペルドールはそこで、イスラエル建国運動の中心的なリーダーになりました。そして、
 「イスラエルの地に、日本を手本としたユダヤ人国家を建設する
 ことを夢見たのです。これは彼自身の言葉です。
 彼は一九一三年にオーストリアのウィーンで開かれた世界シオニスト会議にも出席しています。ユダヤ人たちは、続々とパレスチナに入ってきました。しかしそうしたユダヤ人入植者たちが、アラブ人によって襲撃されるという事件も、たえず起こっていました。
 やがて一九二〇年、トランペルドールがパレストナのガリラヤ地方にいたときに、アラブ人の武装集団がやって来て、銃撃をしてきました。トランペルドールも撃たれて、息を引き取りました。最期の息を引き取るとき、トランペルドールは、ヘブル語で、
 「アイン・ダバル! トフ・ラムット・ビアード・アルゼヌ」(俺に構うな! 国のために死ぬほどの名誉はない
 と言いました。この「国のために死ぬほどの名誉はない」という言葉は、彼が大阪で日本人兵士から教えられた言葉でした。今日、トランペルドールの記念館がイスラエルにあります。そこに彼が書いた文章や遺品が展示されていますが、その中でトランペルドールは、
 「新しく生まれるユダヤ国家は、日本的な国家となるべきである」
 と書いているのです。このように、イスラエルと日本の間にも深い慈愛のキャッチボールが存在しました。神の恵みのもとで、そのような不思議な結びつきが与えられたのです。イスラエルの建国精神の中に、日本精神も生きています。
 神様のなさることは本当に不思議です。イスラエルと日本、この二つの国は地理的にはものすごく離れていますけれども、神の恵みによって不思議につながっている。
 私もクリスチャンになってから、イスラエルを愛する者となりました。そして日本を愛しています。日本もイスラエルも、神に愛された国ですから、私も愛するのです。

ユダヤ国家建設のために祈り続けた日本人

 私は日本ホーリネス教団の神学校を出ました。東京の東村山にあります。私は今は単立・超教派で活動していますが、この教団は中田重治という先生の流れを汲むものです。
 中田重治先生は、明治・大正・昭和初期の時代にかけて活躍した大伝道者です。東洋宣教会ホーリネス教会というものをつくりました。私自身は、中田重治先生の生のお話を聞いたことはありませんけれども、説教集を読んだことがあります。先生は本当にカリスマ的な働きをした人でした。今の時代にも、中田先生のような偉大な伝道者が現われてくれればと思います。


中田重治師。イスラエル共和国建国の10年も
前から、イスラエル建国のために祈った。

 じつは中田先生は、イスラエルが実際に建国される一〇年も前から、イスラエル建国のために祈ろうと言った人です。そして中田先生の弟子たちは、みな熱心にイスラエル建国のために祈りました。世界のどこを見渡しても、イスラエル建国のためにこれほど熱心に祈った人たちはいません。当時、彼らと接したユダヤ人たちは、相手がクリスチャンなのにもかかわらず感激して涙を流しました。
 そして、イスラエルは実際に一九四八年に建国されました。イスラエル共和国の独立を宣言した。世界の奇跡と言われた出来事です。なぜそれが起きることができたのか。やはりその背景の一端に、あの中田先生の弟子たちの熱烈な祈りが神に覚えられたことがあると思います。
 みなさんも知っていると思いますが、リトアニアの領事だった杉原千畝によって、かつてたくさんのユダヤ人たちが救われました。杉原さんが発行してくれたビザによって、彼らはナチス・ドイツのいるヨーロッパを離れ、ロシア経由で日本にやってくることが出来ました。
 彼らは神戸にしばらく滞在しました。そこで彼らユダヤ人たちの世話を献身的にしたのが、この中田重治先生の弟子たち、ホーリネス教会の人たちだったのです。彼らクリスチャンたちが、こんなにも私たちユダヤ人を愛してくれるなんて、と言って彼らユダヤ人たちは涙を流して感謝したのです。
 今から考えると、中田先生は本当に偉かった。また先生の精神を汲んだクリスチャンたちは、世界史的にみて、どれほど大きな働きをなしたかしれません。その根底にあったのは、神様があれほどの愛を示してくださったことに、なんとかお応えしたいという思いです。
 イエス様があの激しい苦難を忍んで十字架にかかり、「完了した」の宣言をして私たちの救いを完成してくださった。そのご愛に、少しでも私たちはお応えしようではありませんか。そして今も生きて、私たちと共に歩んでいてくださる。私たちを愛し、導いてくださっている。そのご愛に、なんとかお応えしたいのです。
 私たちの先輩たちも、ほんとうによくやってきてくれました。今生かされている私たちは何ができるのでしょうか。慈愛のキャッチボールを続けましょう。
 これはあなたの人生に問われている大きな問いです。クエスチョン、またチャレンジです。
 「わたしはあなたのために命を捨てた。あなたはわたしのために何をなすか」
 私たちは、イエス様のご愛にお応えしていくような人生を歩んでいきましょう。祈りの中で、きっと神様が私たちの行くべき道、あなたの生きるべき生き方を示して下さいます。神様のふところで、神様の御思いに耳を傾けましょう。

久保有政

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