その他 

マルチン・ルーサー・キング
非暴力により黒人の公民権獲得運動を展開し、
それに成功した人物

非暴力による黒人解放運動

 マーティン・ルーサー・キング牧師(一九二九〜一九六八年)は、米国の黒人解放運動、公民権(こうみんけん)運動の指導者であり、その功績により、一九六四年度のノーベル平和賞を受賞した。
 アメリカの黒人は、一八六三年のリンカーン大統領による「奴隷解放宣言」によって、奴隷の身分からは解放された。しかし黒人への人種差別は、その後なくなったわけではなく、人々の間に根強く残っていた。
 キング牧師の時代に、黒人の子は白人の子と共に遊ぶことを禁じられ、レストランもトイレも「白人用」と「黒人用」とに分けられていた。黒人は各地で、いわれなき虐待を受けていた。
 キング牧師は、このような人種差別に対して立ち上がったのである。彼は人種差別の撤廃をかかげ、白人と同等の法的権利を黒人にも認めてもらおうと、公民権獲得のために尽力した。
 彼がそのためにとった手段は、「非暴力(ひぼうりょく)」運動であった。
 「非暴力」運動は、日本ではかつて「無抵抗主義」と訳された。この訳は適切ではない。
 「非暴力」運動とは無抵抗のことではなく、暴力を使わない抵抗運動のことだからである。またそれは、暴力を用いずに社会の不正をただそうとする、闘争手段でもある。
 「非暴力」の武器は、「敵への愛」である。相手の悪に対して、善をもって報いるのである。迫害する者のために祈り、いかなる苦難をも甘受(かんじゅ)する。
 「非暴力」は、真の勇気と愛を必要とする。キング牧師は、この非暴力運動の実践的方法を、インドの偉大な改革家ガンジーの著書に学んだ。
 ガンジーは、非暴力の根本思想を、キリストの非暴力の教えとヒンズーの不殺生(ふさっしょう)の教えから得た人である。彼はそれを社会改革の手段に応用し、その非暴力抵抗運動によって、インドを独立へ導いた。
 キング牧師は、その方法を学び、それを黒人解放運動に用いたのである。
 その運動の最初は、「バス・ボイコット運動」(一九五五年) であった。これはある黒人女性に対する人種差別的事件をきっかけにして、始まった。
 その黒人女性は、バスで帰宅途中に運転手から白人に席を譲るように命じられたのだが、これを拒否したため、市の条例違反で逮捕されたのである。
 この事件をきっかけにしてキング牧師は、同市の黒人市民らによる、集団的な「バス乗車拒否運動」を展開。今までバスを利用していた黒人らは、歩いたり、自家用車を出し合って乗り合うようにした。
 バスの乗客はそれまで、黒人が大多数だったため、この乗車拒否運動によってバスはガラガラになってしまった。おかげでバス会社の収入は激減した。
 そのためこの運動の最中、キング牧師の家には爆弾が投げ込まれたり、白人たちによって様々な妨害が加えられた。しかし運動は、同市の黒人から一〇〇%近い支持を得て、一年あまりにわたって続けられた。
 ついに米国の連邦最高裁は、バスの人種差別をしているアラバマ州、およびモントゴメリー市の法規を、憲法違反であると判決。さらに差別停止命令を発したので、差別は取り除かれた。
 こうして、キング牧師らによる黒人解放運動は、最初の輝かしい成果をおさめた。
 以後もキング牧師は、非暴力的方法によって、黒人解放運動を展開。その運動は炎のように全米に広がり、やがて黒人はもちろんのこと、白人も数多く運動に参加するようになった。
 その結果一九六四年には、公共施設や就職関係の人種差別撤廃をねらう「公民権法」が成立、翌六五年には、選挙権行使上の差別をなくす「投票権法」も成立した。
 キングは、六八年四月四日に、暴徒の凶弾(きょうだん)に倒れ、世を去った。しかし彼の残した足跡は、非暴力が社会の不正をただす有力な手段となり得るという、輝かしい実例として今も光を放っている。


 ここに、彼が生前に行なった説教の一つを紹介しよう。説教題は「汝(なんじ)の敵を愛せよ」、聖書テキストは次の箇所である。


〔聖書テキスト〕
 「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたし(キリスト)はあなたがたに言う。
 敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである」(マタイ五・四三〜四五)


〔メッセージ〕 キング牧師

 主イエスの御教えの中で、「汝の敵を愛せよ」のご命令は、従うことが大変むずかしい教えです。
 ある人々は、この御教えを現実に行なうのは無理だ、と感じてきました。
 「自分を愛してくれる人を、愛することはできる。しかし、公然と暴力をふるってくる者たちを、どうして愛することができようか」
 というわけです。また、ほかの人々、たとえば哲学者ニーチェのような人々は、次のように言いました。
 「敵を愛せよ」というイエスの教えは、キリスト教の倫理が、強い者や勇敢な者のためにあるのではないことを示している。キリスト教倫理は、弱者や臆病者のためのものなのだ、と。
 あるいは、イエスは現実から遊離した理想主義者だったのだ、と批判する人もいます。
 批判をする人は多くいますが、それでも、主イエスのご命令は新しい緊迫さをもって、私たちにチャレンジしてきます。
 世界は今も、多くの争いで満ちています。これは近代人が、憎しみの道を歩んでいることを示してはいないでしょうか。私たちは破壊と、滅亡への道のりを歩んでいる者たちのようです。
 「敵を愛せよ」というイエスのご命令は、決してユートピア的"夢想"などではありません。それどころか、私たちの生存のために絶対必要な教えなのです。
 "敵をすら愛する"ことこそ、世界の諸問題を解決するカギです。
 イエスは夢想家だったのではなく、むしろきわめて実際的な、現実主義者であられました。
 私は、敵を愛することの困難さを主イエスはよく理解しておられた、と信じています。彼は、上流階級の人々のように道徳について安易なことをあれこれ言うことは、なさいませんでした。
 純粋な愛の行為は、終始一貫、神に服従していくことによって育まれていくことを、彼は知っておられました。「汝の敵を愛せよ」と語られた時、イエスはこれに伴う困難をも、意識しておられたに違いありません。
 しかし主イエスの御教えは、その一言一句が真剣なものでした。この御教えの真の意味を見いだし、それを私たちの日常生活に熱心に生かすことは、私たちキリスト者の責任と言わなければなりません。


赦すこと

 実際的に考えてみましょう。私たちはどのようにして、自分の敵を愛するのでしょうか。
 第一に、人の悪事を赦(ゆる)す能力を発展させ、赦すだけの度量を持つことによって、私たちは敵への愛を持つに至るのです。
 (訳者注:日本語で「悪をゆるす」という場合、二種類の意味があります。「赦す」(forgive)は、人の罪悪を帳消しにして、もはや罰を加えたり、復讐をしないことです。一方「許す」(permit)は本来、許可し許容するの意味であり、人の悪をなすがままにさせることです。そこで本書では、前者の意味で「赦す」と訳出しています)
 人を赦す度量に欠けている者は、愛する力にも欠けています。害悪や危害を加える人々の罪を、何度でもゆるす必要性をあなたが理解していなければ、敵を愛するという行為を始めることすら不可能です。
 人を赦す行為は、虐待された者、損害を受けた者、不正を受けた者、しいたげられた者自身から、始められなければなりません。
 悪事をした人が、赦しを求めてくるかもしれません。あの「放蕩息子(ほうとうむすこ)」のように、心をふるわせながら、赦しを求めて、ほこりだらけの道を進んでくるかもしれません。
 その人に対して、温かい赦しの大水を注ぎ出せるのは、故郷にいる愛する父、あの傷つけられた隣人だけです。
 赦しは決して、自分に対してなされた悪事を無視することではありません。相手の行為の上に、別のレッテルをはることでもありません。
 私たちは赦すことによって、人の悪事はそれ以上自分との交わりをはばむことはできない、と表明するのです。それは新しい出発、新しい人間関係に必要な雰囲気をつくり出す"触媒"(しょくばい)なのです。
 私たちは赦すことによって、友情をはばんでいる障害物を取り去ります。また負債を帳消しにするのです。
 人々の間では、しばしば次のように言われます。
 「私はあなたをゆるします。しかし、あなたのしたことは決して忘れないでしょう」
 しかしこれは、本当の赦しではありません。
 一つの記憶としては、相手のしたことを自分の中から完全に消し去ることは、できないかもしれません。けれどもその人のした悪事は、新しい友情を築く際の障害とはならず、無関係なのだという意味で、私たちは相手の悪事を忘れなければいけないのです。
 また本当の赦しは、
 「わたしはあなたをゆるします。しかし私はあなたと、これ以上何のかかわりも持たないでしょう」
 とも言うことができません。赦しとは、和解です。それは再びその人と共にいることを、意味します。
 これらのことをぬきにして、私たちが自分の敵を愛することはできません。人をどこまで赦せるかという度量の大きさが、敵への愛の大きさを決定するのです。


人の善性を信じること

 第二に、敵対する隣人がなす悪事や、私たちに対する危害は、決してその人のすべてを表しているのではない、ということに私たちは注意しなければなりません。
 善性の要素というものは、必ずや、どんな悪人の中にも見いだされるものです。私たち人間はみな、悲しくも心のどこかで分裂していて、二面性を持っているのです。
 善悪の葛藤(かっとう)は、すべての人の心のうちに見られるものです。かつてローマの詩人オヴィディウスが、それを思ってこう嘆きました。
 「私の心はより良きものを見、かつ認める。しかし、より悪しきものに従ってしまう」。
 哲学者プラトンも、同様のことを言いました。人間の心は、一人の御者(ぎょしゃ)のようなものだ。二つの異なる思いという、互いに反対方向に行こうとしている二頭の強情な馬を御(ぎょ)している、御者のようなものであると。
 キリストの使徒パウロも、
 「私の欲している善はしないで、私の欲していない悪は、これを行なっている」(ロマ七・一九)
 と述べています。これはわかりやすく言えば、私たちの心の最も悪いときにも、良いものがあるということです。また、私たちの心の最も良いときにも、悪いものが見られる、ということです。
 人間の心のこの二面性を知るなら、自分の敵を憎もうとすることも、その分少なくなるのではないでしょうか。
 衝動によって悪事を働いた人も、一皮むいてその内面を見れば、多少なりとも善の芽のあるのが見えるのです。行為の不道徳さや、邪悪さが、その人のすべてを完全に表しているわけではないのです。
 私たちは、新しい光のもとに、人間を理解しなければなりません。
 人の行為は、しばしば無知、偏見、誤解、恐れ、傲慢などによって引き起こされます。しかしそうでも、その存在の内には、尊い「神のかたち」が今も刻まれているのです。
 いかなる人も、"完全に悪い者"ではあり得ません。神の贖罪愛(しょくざいあい)を受ける資格のない人は、一人もいません。
 私たちはこのことを確信することによって、敵を愛する愛に至るのです。


友情を勝ち取ること

 第三に、私たちは敵を打ち負かそうとしたり、復讐したりするのではなく、その人の友情や理解を勝ち取るよう努力しなければなりません。
 私たちにも、敵に屈辱を与えるだけの力はあるかもしれません。敵の力の弱まるときは、必ず来るでしょう。もし私たちが望みさえすれば、その人のわき腹に敗北の槍(やり)を突き刺すことも、できるかもしれません。
 しかし、そんなことをしてはならないのです。私たちの一つ一つの言葉と行為は、その人との和解のために役立てなければなりません。
 私たちのなすべきことは、頑固な憎しみの壁を打ち壊すことです。私たちの巨大な善意の貯水池を、放水することです。
 みなさんは「敵への愛」を、センチメンタルな感情の一種と混同してはいけません。それは好きなものに対する単なる愛情とか、情愛より、もっと深いものなのです。
 ギリシャ語では、「愛」を表す言葉が三つあります。新約聖書はギリシャ語で書かれたのです。
 まず、ギリシャ語のエロスという言葉は、一種の美的な、ロマンチックな愛を意味します。プラトンの対話篇では、エロスは、神的なものの王国に対する魂の憧憬(しょうけい)の意味で用いられています。
 第二の言葉はフィリアです。これは一種の相愛です。人と人との親密な情愛や、友情などを意味します。私たちは自分の好きな人を愛します。また、愛されるから愛します。これらはフィリアの愛です。
 第三の言葉はアガペーです。これは万人に対する理解であり、建設的・贖罪(しょくざい)的な善意です。報いに何ものをも求めない、あふれるばかりの愛です。
 アガペーの愛は、人間の心に働く神の愛なのです。この段階の愛になると、私たちが人を愛するのは、もはやその人が好きだからでも、魅力的だからでもありません。
 その人が立派だからでもありません。神がすべての人を愛しておられるから、私たちも、その人を愛するのです。その人のなした悪い行為は憎むけれども、その人自身は愛するのです。
 イエスが「汝の敵を愛せよ」と言われたのは、このアガペーの愛で愛せよ、ということです。
 イエスが「汝の敵を好きになれ」とおっしゃらなかったのは、私たちの幸いとするところでしょう。"どうしても好きになれない人"は、いるものです。
 「好きになる」ことは、センチメンタルな愛情の一種です。しかし、私たちに危害を及ぼし、私たちの存在を否定するような人々を、どうして好きになることができるでしょう。
 私たちの子どもをおびやかし、家に爆弾を投げてくるような人を、どうして好きになることができるでしょう。それはもちろん不可能です。
 イエスは、「愛する」ことは「好む」ことより偉大であることを、示されたのです。「敵を愛せよ」とイエスが言われるとき、それはエロスの愛でも、フィリアの愛でもありません。
 万人に対する理解、また建設的・贖罪的な善意を意味するアガペーの愛で愛せよ、とおっしゃっているのです。この愛によって人を愛せる者となるとき、私たちは真に、天にいます我らの父の子となるのです。


憎しみは憎しみを生む

 "どのようにして敵を愛するのか"ということを、私たちは見てきました。つぎに、"なぜ自分の敵を愛すべきなのか"ということを見てみましょう。
 敵をも愛すべき第一の理由は、明白なことです。憎しみに対して憎しみをもって報いることは、ますます憎しみを増すからです。それはすでに星のない夜に、なお暗黒を加えることなのです。
 暗黒は、暗黒を駆逐(くちく)することができません。それはただ、光だけができることです。憎しみは、憎しみを駆逐することはできません。ただ愛だけが、それをなし得るのです。
 憎しみは憎しみを生じ、暴力は暴力を生み、かたくなさはかたくなさを増して、一路"破壊"へと向かっていきます。ですから、イエスは「汝の敵を愛せよ」と言われることによって、私たちが決して無視してはならない重要な訓戒を述べておられるのです。
 私たちは現代世界にあって、大きな行きづまりに直面してはいないでしょうか。憎しみは憎しみを生じ、戦争はより大きな戦争を生むといった悪循環が起こっています。
 これは「敵を愛する」という、愛の実践行為によって、断ち切らなければなりません。そうでなければ、私たちはいずれ、絶滅という暗黒の奈落(ならく)の底へ落ちていくに違いないのです。


憎しみは自分の魂を傷つける

 なぜ敵を愛さねばならないか――その第二の理由は、憎しみは自分の魂に深い傷あとを残すということです。それは私たちの人格をゆがめるのです。
 私たちは、憎しみが悪であり危険な力であると知っていますから、それが相手に対してどういう影響を与えるか、ということばかりを考えがちです。
 事実、憎しみはその犠牲となった相手に、償うことのできないほどの損失をもたらします。
 それは、憎悪にとりつかれたヒトラーというあの一人の狂人によってなされた、六〇〇万人のユダヤ人大虐殺においてしかり。また、血に飢えた暴徒たちによって黒人になされてきた、言語を絶する暴力においてもしかり。
 戦争という暗黒の恐怖においても、さらには圧政者たちによって数多くのクリスチャンになされた、いわれなき侮辱や不正においてもしかりです。私たちは、その結果を見ています。
 しかし、私たちが見過ごしてはならない、もう一つの面があります。憎しみは、憎しみを抱く当人にとっても、全く同様に有害なのです。
 憎しみは、恐ろしいガンの病のように、憎むその人の人格を侵します。それは人の心の奥底を、急激に腐らせてしまうのです。
 憎しみは、人の健全な価値観を破壊します。美しいものを醜いものと思わせ、醜いものを美しいものと誤解させます。さらには真実を虚偽と、虚偽を真実と混同させるのです。
 社会学者E・フランクリン・フレイジア博士は、『人種的偏見の病理学』という興味深い小論の中で、次のような白人の例をあげました。
 この白人の人々は、他の白人との日常の関係においては、きわめて正常な振る舞いをしていました。愛嬌もあり、気の合った人たちでした。
 しかし、こと黒人の話題になると、信じられないほど不合理な態度をとりました。人種差別はいけない、というようなことを言われると、彼らは異常と思えるような取り乱し方をして、反発したのです。
 これは彼らの心の奥底に、「憎しみ」が巣くっていて、容易に取り去られないことから来ていました。
 精神医学者たちは、人の潜在意識下におこる内面的葛藤や異常な行動は、多くの場合「憎しみ」に根ざしていると報告しています。彼らは患者に、
 「人を憎むのではなく、愛するようにしなさい。さもなければ自分が死んでしまうよ」
 と教えています。現代の心理学は、二千年前にイエスがお教えになったことの真実さを、認めているのです。
 憎しみはこのように、憎しみを抱くその人の人格を破壊します。しかし愛は、驚くべき仕方で人格を回復させるのです。


愛は敵を友に変える

 なぜ私たちが自分の敵を愛すべきなのか、という第三の理由は、愛は敵を友に変え得る唯一の手段だからです。
 私たちは、憎しみに対して憎しみをもって立ち向かう限り、絶対に敵を除くことはできません。自分の心から敵意を取り除くことによってのみ、私たちはすべての敵を取り除くことができるのです。
 憎しみは、そもそもその本質からして、破壊と分裂をもたらします。一方、愛は、その本質からして、創造し、建設します。愛はその贖罪的な力によって、世界を変え得るのです。
 あのリンカーン大統領は、この愛をめざし、歴史上にすばらしい和解のドラマを残しました。
 彼が大統領選の選挙運動をしていた時のことでした。リンカーンの大敵のひとりに、スタントンという名の男がいました。彼は、あることからリンカーンを憎んでいました。
 スタントンは、リンカーンの評判を公衆の面前で落とさせようと、全精力を使いました。彼は根深い憎しみのゆえに、リンカーンの身体の風采(ふうさい)をあげつらったり、その他あらゆる点で非難をあびせては、困惑させようとしました。
 しかしそれにもかかわらず、結局リンカーンは、米国の大統領に選ばれました。
 その後、リンカーンが組閣をする時がやって来ました。内閣は、リンカーンの計画を実行に移すために、彼の最も親しい人たちから成るはずのものでした。
 リンカーンはいろいろな閣僚候補者を、あちこちから選び始めました。やがて、非常に重要な陸軍長官のポストにつくべき人を選ぶ日が、やって来ました。
 リンカーンはこのポストに、誰を選んだと、みなさんは想像するでしょうか。
 それは、スタントンだったのです。このニュースが広がり始めた時、内部の人々の間には、すぐさま大騒ぎが起こりました。忠告を与える人が次々に現れ、こう言いました。
 「大統領閣下、あなたは間違っておられます。あなたはスタントンという男を、ご存じのはずです。彼があなたについて言った数々の不快な言葉を、思い出してください。
 彼はあなたの敵なのです。彼はあなたの計画を、きっと邪魔するでしょう。閣下、どうか考え直してください」。
 しかしリンカーンの答えは、簡潔で要領を得たものでした。
 「ええ、私はスタントン氏を知っています。彼が私について言った恐ろしい事柄も、すべて知っています。しかし国全体を見渡した後、私は彼が、この仕事に最適な人間だということを発見したのです」。
 スタントンは、アブラハム・リンカーンのもとで、陸軍長官に就任しました。そして彼は、その国家と大統領のために、はかり知れないほど良き奉仕をなしました。
 さて、その後何年もたたないうちに、リンカーンは暗殺されました。リンカーンについて、多くの称賛すべきことが語られました。
 今日でさえ数多くの人々が、彼をアメリカにおける最も偉大な人物の一人として、尊敬しています。歴史家H・G・ウェルズは、歴史上最も偉大な六人の人物として、その中にリンカーンをあげたほどです。
 しかし、リンカーンについて述べられた言葉のうちで、スタントンの語った言葉以上に卓越したものはないでしょう。
 スタントンはリンカーンの遺体の前に立って、こう述べました。リンカーンはこれまでに生まれた人間の中で、最も偉大な人物の一人だった、そして、
 「彼は今や万世に生きるものです」
 と語ったのです。
 もしリンカーンが、スタントンの憎しみに対して、憎しみをもって応じていたならば、二人とも互いに敵として、自分たちの墓場へ下ったことでしょう。しかしリンカーンは、愛の力によって、一人の敵を友と変えたのです。
 南北の人々が憎み合っていた南北戦争の最中にも、リンカーン(北部)は、あるとき南部に関して思いやりのある言葉を語りました。それをはたで聞いていたある婦人が、ショックを受けて、
 「どうしてそんなことが言えるのですか」
 と問いただしました。するとリンカーンはこう答えました。
 「奥さん。敵を友に変えてしまったら、それは敵を滅ぼしたことになるのではないでしょうか」。
 これが、贖罪愛の力というものです。


神の子となるために

 これらが、「なぜ敵を愛すべきか」ということの理由です。
 しかしこれらの事柄は、じつは私たちが敵を愛すべきだということの"第一の理由"ではありません。第一の理由は、イエスの言われたように、
 「天にいますあなたがたの父の子となるため」
 なのです。私たちは、神との親密な関係に入るために、この困難な仕事に召されているのです。
 私たちはもともと、神の子となる潜在力を持っています。その潜在力は、愛によって、はじめて現実のものとなるのです。
 私たちは、自分の敵を愛さねばなりません。それは愛することよってのみ、私たちが神を知り、神の聖性の美を体験できるからです。


人種問題とのかかわり

 最後に、今までに私が言ったことと、人種問題とはどうかかわってくるのでしょうか。
 人種問題は、しいたげられている人々が自分の敵を愛する能力を身につけるまでは、その恒久的解決を見ることはないでしょう。人種的不正義という暗黒は、ただ、赦(ゆる)しの愛の光によってのみ追い払われるのです。
 三世紀以上にわたって、アメリカの黒人は、圧迫という鉄の鞭(むち)により、さんざんに打ちのめされてきました。耐えられないほどの不正義によって、昼は絶望し、夜は惑い、ひどい差別の重荷に悩まされ続けてきました。
 あさましい状況に生きることを余儀なくされ、心は恨みに満ちました。人々の憎悪に対して、憎悪をもって報いたい誘惑にかられました。
 しかし、もしそれをしてしまえば、私たちの求めている新しい平和の秩序は、あの古い死の秩序とほとんど変わらないものとなるでしょう。私たちは勇気と、謙遜をいだき、愛の力に立って、憎しみに立ち向かわなければならないのです。
 ある人は、それは実際的なことではない、と思うかもしれません。人生とは、恨みを晴らし、打ってくるものには打ち返し、同族相食(あいは)むといったものだ、と言うかたもおられるでしょう。
 私は主イエスの御教えにより、自分たちを傷つけ虐(しいた)げる者たちを愛さねばならない、と主張してきました。この私の主張は、たいていの説教者たちと同じように、理想主義的な話・非現実的な話に聞こえるでしょうか。
 ある人は、
 「おそらく非暴力の考えは、遠いユートピアのようなところでは、役に立つかもしれません。しかし私たちの生きている冷酷無情な世界では、ダメでしょう」
 と言うでしょう。
 しかしみなさん、私たちはこれまでにあまりにも長い間、安易な方法ばかりを追求してこなかったでしょうか。そのために、ズルズルと、一層深刻な混乱と無秩序に陥ってしまったのです。
 現代世界は、憎しみと暴力に屈服して崩壊した、数多くの社会の残骸で満ちています。私たちは、国家を救い、人類を救うために、別の道を求めなければなりません。
 これは、自分たちの正当な努力を放棄することではありません。むしろ、私たちはこの国から人種差別という悪夢を払いのけるために、全精力を傾けるべきなのです。
 私たちは、「愛する」ことの権利と、義務を放棄してはなりません。人種差別を嫌悪しつつ、一方では、人種差別主義に陥っている人々を愛するのです。
 このことこそ、愛に満ちた社会を築く唯一の道なのです。


愛の力を信ぜよ

 私たちは、私たちに悪事をもっていどんでくる敵対者に対して、次のように宣言しましょう。
 「私たちは、苦難を負わせるあなたがたの力に対し、苦難に耐える私たちの力をもって対抗します。
 あなたがたは、私たちに、したいことをすればよいのです。私たちは、あなたがたを愛します。
 私たちは自分の良心のゆえに、あなたがたの不正な法律には従いません。悪に協力しないことは、善に協力することと同様に、私たちの道徳的義務だからです。
 私たちを刑務所に放り込むというなら、そうすればよいでしょう。私たちはあなたがたを愛し続けます。
 私たちの家に爆弾を投げ、私たちの子どもをおどしたいなら、そうすればよいのです。私たちはあなたがたを愛します。
 また、覆面(ふくめん)をした暴徒たちを私たちの中へ送り込み、私たちを半殺しにするというなら、そうすればよいのです。私たちはあなたがたを愛します。
 あなたがたは、私たちの耐え忍ぶ能力によって、いずれ摩滅し尽くすでしょう。いつの日にか、私たちは自由を勝ち取ります。
 それは、私たちのためだけではありません。私たちはその過程で、あなたがたの心と良心に、強く訴えかけます。そしてあなたがたを勝ち取るでしょう――友として。こうして勝利は、二重のものとなるのです」。
 愛は、この世で最も永続的な力です。それは私たちの主キリストのご生涯によって、きわめて美しく例示されています。
 愛の創造的な力は、人類の平和と安全を確保する、最も強力な手段となるものです。あの天才的な軍人ナポレオン・ボナパルトは、往年に自らを回顧して、こう言ったと伝えられています。
 「アレキサンダー大王、シーザー、シャルルマーニュ、そして私は、巨大な帝国を建設した。しかしこれらは、何に依存したのか。武力に依存したのだ。
 しかし何十世紀も前に、イエスは、愛の上にご自身の王国を建設された。そして、今日に至ってもおびただしい数の人々が、彼のためには命をささげるのである」。
 だれが、この言葉の真実性を疑うことができるでしょう。
 過去の軍人や王は去り、彼らの帝国は崩壊し、灰じんに帰しました。しかし愛を基盤に建設された、堅固なイエスの王国は、なおも拡大しつつあります。
 それは、神に身をささげた少人数の集団から始まりました。彼らは主の力を受けて、ローマ帝国の城門のちょうつがいをはずし、やがて全世界に福音を告げ知らせました。
 いまや地上の巨大なキリストの王国は、九億人以上に達し、あらゆる国土、あらゆる種族をおおっています。私たちは今日、再び勝利の歌を聞くのです。
 「日が連綿(れんめん)と旅を続けるいずこにても、イエスは治めたまわん。津々浦々(つつうらうら)、月の満ち欠けの絶(た)ゆるまで、イエスの御国は広がりゆかん」。
 もう一つのコーラスが、喜ばしく唱和します。
 「キリストにありては、東も西もなし。主にありては、南も北もなし。あまねく地に、大いなる愛の交わりこそあらん」。
 イエスは、とこしえに真実です。人類の歴史は、彼に耳を傾けることを拒んだ人々の、野ざらしになった白骨で満ちています。
 願わくは、二〇世紀において私たちが、手遅れにならないうちに、イエスの御言葉に聞き従いますように。そして自分の敵を愛し、迫害する者のために祈るまでは、私たちは決して「天の父のまことの子」とはなり得ないことを、おごそかに自覚することができますように。

                                                                                               久保有政著  

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