死後の世界
人は死後、天国か陰府(よみ)へ行く。それらはどんな世界か
陰府の人々に救いの手を差し伸べるキリスト(ギリシャ正教のイコン。トルコのイスタンブールのカリエ教会)
死の際に魂は肉体から分離する
多くの人は、なるべく死というものを考えないようにしています。「死ぬまでは生きているのだから」と言って、死のことは、生きているうちは考えないようにするわけです。
しかし、死を知らずして、本当の生はありません。誰にでも必ず死がやって来ます。「最終的に人はどこへ行くのか」「自分はどこへ行くのか」を知らないで意義深い人生を送ることはできません。
換言すれば、生存中の人生に関してだけでなく、死後の世界についても本当の幸福をつかまなければ、人間の幸福は確立しません。
聖書によれば、「死」とは"魂が肉体から離脱すること"です。イスラエル民族の父祖ヤコブの妻ラケルが死んだ時のことについて、聖書は、
「彼女が死に臨み、その魂が離れ去ろうとするとき……」(創世三五・一八)
と記述しています。「死」とは、魂が"体外離脱"することなのです。
死の際の魂の体外離脱について、「臨死体験者」は、興味深い事柄を多く語ってくれています。
最近の病院は、人が死んでも、すぐにはあきらめません。アドレナリンを注射したり、体に電極をつけて電気ショックを与えたり、人工呼吸をしたりして、様々な蘇生術を施します。
そうすると、ときに「死んだ人が生き返る」ことがあります。その死んでいた状態に体験したこと――これを臨死体験といいます。
臨死体験者の中には、死の際に自分の魂が肉体から抜け出て、自分の体のまわりで起こっていることを上のほうから見ていた、と言う人がじつに多くいます。また自分の死体のまわりで起こった出来事を、蘇生後に言い当てた、と言う人が多いのです。
たとえば、心臓発作で「死んだ」ある女性は、
「気がつくと自分が肉体から離れて、ベッドの手すりの間を通りぬけたのがわかった」
と述べています。さらには、
「上のほうから病室をながめていて、看護婦が大勢病室に駆け込んでくるのを、見ていた」
とも述べました。交通事故のために三日間「死んでいた」ある日本人男性も、
「(自分の死体のまわりで)起こっていることを、肉体を離れたもう一人のぼくが見下ろしている、としか考えられない状態だった」
と語っています。
死後の世界は実在する
かつてNHKで放送されたドキュメンタリー番組「臨死体験」(一九九一年)の中で、次のような例が紹介されました。
レポーターは、科学ジャーナリストとして有名な立花隆氏。臨死体験者は、アメリカ人男性のアル・サリバン氏(五九歳)です。
サリバン氏は、かつて心筋梗塞で救急病院に運ばれ、その手術中に臨死体験をしました。その際、魂が肉体から離れる「体外離脱」の経験をし、手術室で起きた一部始終を自分で見ていた、といいます。
彼は、体外離脱の間に自分が見たこと聞いたことが、事実だったかどうか確かめたいと、手術を担当した医師に会うことになり、この対面に立花氏が同行しました。手術を担当した医師は、米国コネチカット州の病院に勤務する日本人心臓外科医・高田裕可氏。高田医師が、手術後サリバン氏に会うのは、初めてです。
サリバン氏は、かつて手術の最中に自分が見たことを、高田医師に次のように語り始めました。
「先生は、私の頭のあたりに立っていました」。
「その通りです」。
「私は体をぬけ出し、手術の様子を見ていたんです。最初に見えたのは、目におおいをかぶせられた自分の姿でした」。
「ええ、私たちは目を保護するために特別な紙で、あなたの目をすっぽりおおっていました」。
「それで先生は、このようにして(両手を胸にあて、ひじをつり上げて合図するさま)、まわりにいる助手に指示を出していました
(助手がそばでうなづく)。私は上からながめていて、変な指示のしかただな、まるで鳥が羽ばたいているみたいだ、と思いました。それから先生は、手術用なのかどうかわかりませんが、メガネをかけていました」。
「ええ、私は患部を拡大して見るために、特別なメガネをかけていました」。
「それから手術なのにあまり血が出ていませんでした。それに私の心臓は、赤くなくて、白っぽい紫色でした」。
「たしかに心臓は、白っぽい紫色でした。それは私たちが手術すべき動脈をよく見えるようにするために、あなたの心臓にバイパスをつけて、完全に血をぬいたからです。ですから手術中は、あまり血が出ませんでした。そして心臓はたしかに、あなたの言うように白っぽい紫色に変わっていました」。
ここでレポーターの立花氏が、高田医師に質問しました。
「サリバンさんは、手術の専門知識を持っていないと述べています。それなのに彼は、なぜこれほど自分の手術の時の様子を、正確に語れるのでしょうか」
高田医師は、しばらく考えたのち、こう答えました。
「私には、どうしてこれほど正確に語れるのかわかりません。こういった人間の能力は、とても今の科学では説明できないと思います。私たちが通常基盤にしている科学や、数学の世界とは、別の次元に属するものと思います」。
このように、臨死体験は、死後の魂の存続を確信させるものなのです。サリバン氏のような体験は、「幻」だとか「耳から聞いたことを覚えていたのだ」とか言って説明することは、到底できません。
実際に「体外離脱」をしたサリバン氏が、上から自分で見ていた、としか説明できないのです。魂は物質的肉体を離れても、存在することができるのです。
臨死体験について先駆的研究をなした、米国イリノイ州の家族精神衛生センターの医学部長エリザベス・キューブラー・ロス博士は、こう言っています。
「私は"死"から生き返った体験を持つ数百人の人々に接しましたが、それによって、一片の疑いもなく"死後の生"があることを確信したのです」(ニューヨーク・タイムズ 一九七六年四月二〇日付)。
ボッシュ画のこの絵は、臨死体験者がよく語る
トンネル(この世とあの世の境)のイメージを表している
人は死後、天国か陰府へ行く
さて、聖書によれば、人は死ぬと、「天国」あるいは「陰府(よみ)」(黄泉 ギリシャ語ハデス ヘブル語シェオル)に行きます。最終的には、「天国」あるいは「地獄」になるのですが、現在は、人は死ぬと「天国」あるいは陰府に行きます。
クリスチャンの死後の場所は、「天国」です。それは父なる神様、またキリスト様のおられるところ、栄光に満ち、幸福、喜び、愛が十全に支配する王国です。苦しみ、罪もなく、永遠の命が支配しています。この天国について、キリストの使徒パウロはあるとき、
「むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています」(IIコリ五・八)
と言ったことがあります。それほど、天国はすばらしい場所なのです。私はこれまで、多くのクリスチャンの死をみとってきました。彼らの魂が肉体から離れるとき、その魂がおごそかな中にも天国の栄光と喜びに満ちているのを、いつも感じることができました。
天国は、この地上世界とは比べものにならないほど、至福に満ちています。聖書には、そうした光景が描かれています。クリスチャンは死んで魂が肉体から離れたとき、陰府に行くことなく、すぐさまこの天国にあげられ、神とキリストのみもとへ行くのです。
使徒パウロも、今は果たすべき使命があるからこの地上にいるけれども、すべきことをし終わり、時が来れば、早く天国の安息と至福の中に憩いたい、そういう気持ちでした。
この天国は、霊的な世界ですが、聖書によると最終的には「新天新地」と呼ばれる新世界と合体します。その光景について、新約聖書の『ヨハネの黙示録』はこう記しています。
「『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』……
『わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。』……
都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊(キリストのこと)が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。……
御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」(二一〜二二章)
これは未来の天国の光景を述べたものですが、現在の天国の特長もよくそこにあらわれています。神とキリストを信じる者は、死後、そこへ上げられます。
また天国は、神とキリストを信じる者だけが入れる王国です。なぜなら、神とキリストはそこの支配者ですから、このおかたを信じない者はそこへは入れてもらえません。
そのため、未信者として死んだ人々は、「天国」ではなく「陰府」へ行きます。ただし、この「陰府」はいわゆる「地獄」のことではありません。「陰府」と「地獄」はしばしば混同されてきましたが、別のものです。
「陰府」は一般的な死者の世界であって、最終的刑罰の場所である「地獄」とは違うのです。
陰府と地獄の違い
ここで、「陰府」と「地獄」の違いを少しお話ししましょう。
「地獄」(ギリシャ語ゲヘナ)というものは、"終末的な場所"であって、世の終わりの「最後の審判」以降のための場所です。一方、「陰府」は世の終わりの「最後の審判」までの場所です。
「最後の審判」とは、いわゆる「死後の裁き」(ヘブ九・二七)のことですが、そのとき神がすべての死者を、生存中の生き方に応じて裁かれるのです。しかし、この「最後の審判」は、死の直後に行なわれるわけではなく、「世の終わり」に行なわれます。聖書はそう教えています。そのとき、最終的に神から退けられた人が行くのが、「地獄」です。
「私(ヨハネ)は、死んだ人々が、大きい者も小さい者も、(最後の審判の)御座の前に立っているのを見た。……いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(黙示二〇・一二〜一五)
と述べられています。この「火の池」は、永遠の刑罰の場所であって(黙示二〇・一〇)、いわゆる「地獄」(ゲヘナ)のことです。「地獄」は、世の終わりの最後の審判以後のための場所なのです。
世の終わりの「最後の審判」の法廷で、"裁判"がなされ、人々の有罪・無罪が最終的に確定すると、有罪の者が「地獄」という"刑務所"に行くわけです。裁判もなされていないのに――つまり最後の審判以前に、人が「地獄」という刑務所に送られてしまうことはありません。
すでに地獄は用意はされていますが、現在はそこはまだ空なのです。
ところが残念なことに世の中では、"人は死後すぐさま天国と地獄にふり分けられる――それがキリスト教の教えだ"と思われていることが多いようです。しかし、これは決して聖書の教えではありません。
じつは、こうした間違った理解が広まってしまった背景には、教会にも責任があります。一七世紀に出版された有名な英語訳聖書『キング・ジェームズ・バージョン』(欽定訳聖書)
が、困った誤訳をしてしまったのです。
この英語訳は、陰府(ギリシャ原語ハデス)を
"hell"(地獄)と訳してしまいました。陰府と「地獄」とを混同してしまったのです。
この訳は英語圏の教会で盛んに用いられ、他の言語への翻訳にも、大いに参照されました。原典に忠実な最近の訳は、この間違いに気づいて、陰府と「地獄」を区別して訳すようになりましたが、それでも両者の混同は人々の間から今日もなかなか消えていません。
しかし聖書によると陰府は、明らかに「地獄」とは別のものなのです。陰府は、最後の審判までの一時的な死後の世界であって、最後の審判が終わると、「地獄」に捨てられます。こう記されています。
「 (最後の審判の後) 死とよみとは、火の池
(地獄)
に投げ込まれた」(黙示二〇・一四)。
つまり陰府は、最後の審判が終わると「地獄」に捨てられます。このように陰府と「地獄」は、別のものです。陰府は、世の終わりの最後の審判の時までの、一時的・中間的な死者の場所なのです。
この世では、犯罪人は裁判で刑が確定するまでは、留置場または拘置所に入り、やがて裁判で無罪または有罪が確定すると、無罪なら釈放、有罪なら刑務所に入ります。
同様に、信仰による義を受けていない人は死後陰府に行き、やがて世の終わりに最後の審判という裁判の時を迎えて、神からの最終的な裁定を受けます。そのときになお有罪とされれば、その人は「地獄」という刑務所に行くのです。
このように、天国か地獄かが決まるのは世の終わりの最後の審判の法廷においてであって、それ以前は、人は死ぬと「天国」あるいは「陰府」に行きます。クリスチャンは死後すぐさま天国へ行き、そうでない人は、死後陰府へ行くのです。
陰府はどんな世界か
陰府は一体、どのような世界なのでしょうか。
クリスチャンは死後「天国」へ行き、未信者は死後「陰府」(よみ)へ行く
陰府は一般的な死者の世界です。陰府は現在はクリスチャンでない人が死後に行く場所ですが、聖書によると、「旧約時代」と言ってキリスト以前の時代は、すべての人々が陰府に行きました。
「旧約の聖徒」と言われる旧約時代の神を信じる人も、当時は死後陰府に行ったのです。たとえばイスラエル人の父祖ヤコブは、自分の息子ヨセフが死んだとの報を聞いたとき、こう語りました。
「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下っていきたい」(創世三七・三五)。
ヤコブは、自分の息子ヨセフが陰府に行った、と理解していたのです。
この陰府を、地獄と置き換えることはできません。陰府に行ったというヨセフは、神を信じる信者だったからです。またヤコブ自身、自分は死ぬと陰府へ行く、と理解していました。
この陰府は、天国に置き換えることもできません。ヤコブは、「よみにいるわが子のところに下って行きたい」と言いました。陰府は"下"にあるとされているのです。
イスラエルの王ダビデも、自分の死を感じたとき、
「私の命は、よみに近づきます」(詩篇八八・三)
と語りました。ダビデもまた、自分が死後に行く場所は陰府である、と理解していました。旧約時代、神の聖徒たちも含め、すべての人は、陰府に下ったのです(詩篇八九・四八)。
じつは旧約の聖徒たちは、キリストの昇天の時になって天国に入りました。旧約の聖徒たちですら、キリストの十字架の血潮なしには、天国に入れなかったのです。このことはあとで見ましょう。
聖書は、陰府はきわめて「広く」(ハバ二・五)、また「深い」(ヨブ一一・八)と述べています。そのため陰府は、幾つかの"層"または"場所"に、分かれています。
主イエスの語られた「ラザロと金持ち」の話は、それをよく示しています。それは次のようなものです。
「ある金持ちがいた。いつも紫の着物や、細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人がいて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと、思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに(彼の近くに)連れていかれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、死んで、よみで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。
『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、彼をよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません』。
アブラハムは言った。
『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかしここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです』……」(ルカ一六・一九〜三一)。
金持ちは陰府で苦しみながら、アブラハムとラザロをあおぎ見た。
さて、この話はまだ続きますが、私たちはここに、陰府に属する二つの場所を見出します。
一つは、旧約時代アブラハムやラザロが行った陰府の"慰めの場所"(一六・二五)です。"慰めの場所"には、ほかにもイスラエルの父祖ヤコブや、イスラエルの王ダビデなど、旧約の聖徒たちもいたでしょう。
一方、生存中、利己的な生活を続けていた金持ちは、陰府の「苦しみの場所」(一六・二八)に行きました。彼が陰府の「苦しみの場所」へ行ったのは、金持ちだったからではなく、利己的だったからです。また、神から離れた生活をしていたからです。
これら慰めの場所と苦しみの場所の間には、「大きな淵」があって行き来ができない、と言われています。つまり、陰府には少なくとも、二つの場所があります。
また古代ユダヤ文書には、陰府は四つの場所に分かれている、との記述があります。それぞれの場所の苦しみや慰めの度合いは違い、生存中に行ないによって振り分けられるといいます。
「ラザロと金持ち」の話には、それらのうちの二つの場所が語られている、とみることもできます。
陰府において人生の幸不幸は正される
それはともかく、「ラザロと金持ち」の話に見られるように、陰府の世界に行った人々には心の動きはあります。
しかし陰府には、この地上のような富も、お金も、食べ物も、肉体的快楽もなく、そうしたものとの関わり合いもありません。
金持ちだった者ももはや金持ちではなく、貧乏だった者もそうではなくなります。健常者も障害者も、地位の高い人も低い人もなく、すべての人が人間の最も基本的な姿に戻るのです。
外面的な覆いや仮面が取り払われ、魂は全く裸の状態になります。そうなったうえで陰府に行った人々は、かつて肉体にあったときの生活の幸不幸を、そこで正されることになるでしょう。
アブラハムは金持ちに対して、こう言いました。
「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかしここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです」(ルカ一六・二五)。
生存中、神と共に生きながら貧苦と病にあったラザロは、死後陰府で良い物を受けて、慰められました。
反対に、無慈悲で利己的な生活をし神を離れて生きていたあの金持ちは、死後悪い物を受けて苦しみました。
つまり、人間の幸不幸は、生存中から死後にかけて、最終的にその人にふさわしいものとなります。聖書の言っている通り、
「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになる」(ガラ六・七)
のです。生存中自分で良い物を蒔いた者は、死後良い物を受けて慰められ、生存中悪い物を蒔いた者は、死後悪い物を受けて苦しみます。自分の蒔いたものを、自分で刈り取るのです。
金持ちが陰府で受けた苦しみは、もともと自分の蒔いた物であり、ラザロの受けた慰めもそうなのです。
人々は陰府で最後の審判の日を待つ
陰府は何のためにあるのか――もう一つのことを見てみましょう。
神から離れて生きていたために死後陰府へ行った人々は、やがて審判者なる神の御前に自分が立つ日を、そこで思わなければなりません。陰府での日々は、人々が最後の審判の前に、生存中の自分の行為を振り返るためなのです。
肉体を脱ぎ捨てて純粋な霊となった魂は、肉体にあったときの生活がやがて裁かれる日を、思わなければなりません。
聖書によれば、陰府の苦しみの場所での苦しみは、「懲罰」的な苦しみです。
「主は……不義な者どもを、さばき(最後の審判)の日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられる」(IIペテ二・九)
と記されています。地獄の苦しみが"刑罰"的苦しみであり、裁判後の処置であるのに対し、陰府の苦しみは「懲罰」的なものであり、裁判前の、将来を考えた懲らしめなのです。
たとえば、この世では、犯罪人は裁判の時まで留置場あるいは拘置所に入れられて取り調べを受け、その間に事実関係がより確かなものとされます。
そして罪を犯した人は、そこで人々の非難と、自分の良心の呵責に苦しまなければなりません。そこで反省する人もしない人もいるでしょうが、いずれにしても、その期間はその人への"懲らしめ"の時となるでしょう。
そしてやがて裁判が行なわれ、深く悔いている人は、"情状酌量"となって減刑されることもあります。しかし、なおも有罪とされれば、その人は刑務所に下り、確定された刑を受けるのです。
留置場や拘置所の人が、そこでやがて開かれる裁判の時を思うように、陰府に行った人々は、世の終わりの最後の審判の法廷に立つ日をそこで思わなければなりません。人々は、陰府において、生存中の自分の生活を振り返るのです。
あの利己的な金持ちの生存中の行為は、陰府で炎のようになって彼を苦しめました。そのように、利己的な人々や罪深い人にとって、陰府は懲罰の場所となるでしょう。
そののち世の終わりになって、神の最後の審判の法廷において、彼らの最終的な行き先――天国か地獄か、が決定されます。
"慰めの場所"にいた聖徒たちは今は天国にいる
先に述べたように、旧約時代、神を信じる聖徒たちは、死後陰府の"慰めの場所"に行きました。
しかしキリスト以後、彼らはもう、そこにはいません。キリストは、十字架上で死なれたのち、陰府に下り、彼らを天国に引き上げられたからです。
クリスチャンは、教会で「使徒信条」というものを唱えます。「使徒信条」にも述べられているように、キリストは死後「陰府に下」られました。
キリストは陰府から復活して、やがて昇天される際、陰府にいた聖徒たちを、天国に引き連れて行かれました。こう書かれています。
「高い所に上られたとき、彼(キリスト)は多くの捕虜を引き連れ……」(エペ四・八)。
昇天の際、キリストは単独で天国に行かれたのではなく、「多くの捕虜」を引き連れて行かれました。この「捕虜」は、陰府に「捕らわれの霊」(Iペテ三・一九)となっていた人々――つまり信者のことなのです。キリストは陰府の"慰めの場所"にいた旧約の聖徒たちを、天国に連れて行かれました。
キリスト昇天の際、弟子たちにはキリストおひとりが昇天されるように見えましたが、じつはキリストのまわりには、雲のように多くの霊が伴っていたのです。
キリストは贖い(あがない)のわざを成就したのち、陰府のキリスト信者を、天の御国の楽園に導かれました。陰府はたとえ"慰めの場所"であっても、暗い死者の場所であることに変わりなく、「楽園」には程遠い世界だったからです。
そしてキリストの昇天以後は、キリストにあって死んだ者はみな、すぐさま天の御国に入っています。彼らは、そこで「永遠の生命」に生きているのです。それは苦痛のない世界です。陰府と違って、そこには豊かな生命の躍動と、喜び、また安息があります。
生存中キリストから離れて生活していた者は、死後もキリストに遠い陰府に行き、反対に、キリストと共に生活していた者は、死後もキリストのみそばにいるために「天国」に行きます。
「天国」に行くか、陰府に下るか――それは単に、神が一方的にお決めになっているのではありません。じつは私たち自身が決めているのです。生きているとき神を拒絶していた者は、死後、神から遠い陰府に行きます。
一方、生きているとき神と共に歩んだ者は、死後、神に近い「天国」に行きます。いずれの場合も、本人が好んだ境遇に導かれているにすぎません。
キリストを信じる者は、神の子とされ、天国を保証されています。聖書において神は、「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名のもとである父」(エペ三・一五)と呼ばれていますが、この"天上で家族と呼ばれる人々"とは、すでに世を去って主のみもとへ行ったクリスチャンたちのことなのです。
クリスチャンは、死の直後に天国に入るのです。また聖書の『ヨハネの黙示録』では、死後天国へ行った人々と神との間に会話が持たれている光景が、描かれています(黙示六・九〜一一)。
生涯の初め頃にキリストを信じた人も、生涯の終わり頃に信じた人も、等しく死後は天国に行きます。死の直前に信じた人も、天国に入るのです。キリストの十字架のとき、キリストのとなりで十字架につけられていた盗賊の一人は、死の直前にキリストを信じて天国に入りました。
しかし私はあなたに、死の直前になって信じるのではなく、むしろ今すぐ神とキリストを信じる者となられるよう、おすすめします。死はやがて確実にやって来るものですが、それがいつ来るかは、あなたにはわからないからです。
また、死の直前に信じて天国に入ったとしても、その人にはこの地上で「神の栄光を現わして生きる」という祝福された生き方をする機会は、もはやないからです。
早くからこの地上で神の祝福を受けて、幸福に生きたほうが、はるかに良いではありませんか。神の祝福は、死後になって始まるのではなく、今すぐ始まるのです。
「天国」と呼ばれる神の御国は、「神が人と共に住む」世界です。その原型は、天地創造の時、エデンの園にありました。
かつてエデンの園で、霊的な神の御国は、地上世界と一体でした。しかし人間が堕落したとき、霊的な神の御国は地上世界から切り離され、「天国」となって分離しました。
分離したばかりの「天国」は、「国」というよりは単なる「パラダイス」(IIコリ一二・四)であり、「園」でしたが、今は住人が増えて「天のエルサレム」(ヘブ一二・二二)とも呼ばれるようになっています。
それは立派な"都市国家"に成長したのです。「天のエルサレム」とも呼ばれる天国は、現在、王なる神、王子なるキリスト、また多くの市民を擁する大"都市国家"です。
神を信じキリストの教えに従う者は、死後、みなこの「天のエルサレム」に入っています。それは神・人・(霊の世界の)
自然とが、見事に調和した世界です。
人類がいまだ築き得なかった見事な都市が、そこで発展中なのです。神と共に生きることを喜ぶ者はみな、この世界に迎え入れられるでしょう。じつに、
「私達の国籍は天にあります」(ピリ三・一九)
キリスト者は死後、神のみもと「天国」に導かれ、滅びることなく、「永遠の生命」に生きるのです。このようにクリスチャンは死後「天国」に行き、一方、未信者は死後陰府に行きます。
死んだ者にも御恵みを惜しまれない主
ここで、あなたは質問をなさるかも知れません。
「私がキリストを信じて生きるならば、私は死後、天国へ行けるのですね。でも、私の親や先祖はどうなりますか。
私の両親は、これから私が福音を伝えたいと思いますが、祖父や祖母は、もうすでに世を去っています。彼らはクリスチャンではありませんでしたし、キリストの福音を聞いたこともなかったでしょう。祖父や祖母はどうなるのですか」
しかし、心配はいりません。神の御思いの中では、先祖→自分→子孫という家系全体が一つのセットなのです。ですから、あなたがキリストにあって歩むならば、あなたに対して注がれる祝福は、さらにあなたの先祖や家族、親族、また子孫にも及んでいきます。
「わたし(神)を愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エ二〇・六)
先祖についても、
「主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた」(申命一〇・一五)
と記され、また
「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは、私たちが知っています」(Iテサ一・四)
と記されています。私たちクリスチャンは神に選ばれ、神の民に召し出された者です。そうであるなら、私たちの先祖も神の愛の中に置かれるのです。聖書の中で神は、
「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主」(ルツ二・二〇)
と呼ばれています。神は、すでに世を去ったあなたの祖父や祖母、先祖に対し、御恵みを惜しまれません。それはあなたが神を愛し、神に従って歩むなら、なおのこと「あなたの先祖」だということで、御恵みを惜しまれないのです。
もちろん、これはあなたが、クリスチャンとして歩むなら先祖や親族、子孫が自動的に全員救われます、という意味ではありません。救われるためには、各人が自分の意思で信仰を表明しなければなりません。
しかし、あなたが神を愛し信じて歩むときにあなたに注がれる祝福は、単にあなたにとどまらず、あなたの親族や先祖、また子孫の「千代」すなわち一千世代にまで及ぶのです。その祝福により、彼らの多くが救われる可能性が飛躍的に高まります。あなたは、彼らの救いと祝福のためにも、神を信じ、神に従って生きなければなりません。
キリストは死後なぜ陰府に行かれたか
さて、死者にも恵みを惜しまない神のその恵みは、あなたの先祖に対し、どのように施されていくのでしょうか。
先祖や親族のうち、キリストを信じずに世を去った人々、またキリストの福音を一度も聞く機会のないまま世を去った人々などは、いま陰府にいます。そこは死後の最終状態ではなく、世の終わりの「最後の審判」(神の裁判)の時までの中間状態です。
彼らは、生存中になしたそれぞれの行ないに応じ、陰府の中のふさわしい場所にとどめられ、そこで神からのお取り扱いを受けています。しかし、彼らにも神の憐れみと恵みが注がれます。それはキリストが次のように言われたからです。
「死人が神の子(キリスト)の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。……墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます」(ヨハ五・二五、二八)
ここで「死人」とは単に"霊的に死んだ人"(罪人)の意味ではありません。「墓の中にいる者がみな」と言われていますから、これは肉体的に死んだ人々、陰府にいる人々をも意味していることがわかります。
そして、彼らがキリストの声を聞き、それに聞き従うならば「生きる」というのです。キリストが「生きる」というとき、それは神の前に生きること、永遠の命に生きることを意味します(マタ四・四、二二・三二、ロマ一・一七)。
彼らは救われるのです。このことは二段階にわたって成就(実現)します。
一段階目は、キリストの十字架の死の後でした。キリストは死後、三日間陰府に下り、そこで陰府の死者たちに御言葉を宣べられたのです。
「キリストも一度罪のために死なれました。……その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行って、みことばを宣べられたのです。……昔ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。……死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのです。それはその人々が……神によって生きるためでした」(Iペテ三・一八〜四・六)
陰府の人々に福音宣教をされるキリスト
じつはこの言葉は、多くの人々から誤解されてきました。その人々は、「これは、キリストが死者に福音宣教をなさったという意味ではない」と述べてきました。どうしてかというと、陰府と「地獄」を混同していたので、
「キリストは死後、地獄へ行かれたが、そこで福音宣教をなさったと言ってしまうと、おかしなことになる。だから、死者への福音宣教という解釈は何としてでも避けなければならない」
と考えたのです。そして様々な無理な解釈を施してきました。しかしこの句の意味は、読んで字のごとく、死後陰府に下られたキリストが、死者に福音宣教をなさった、ということなのです。はっきりと「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」と述べられています。
また、みことばを「宣べられた」のギリシャ原語ケーリュソーは、キリストに関して用いられる時はつねに、「福音を宣べ伝える」の意味で使われています。あるいは神の温かい御教えを告げる、宣べるという意味です(単なる「勝利を宣言する」とか、「断罪する」の意味ではありません)。
ただし、このときキリストが福音宣教をなさった死者は、ノアの大洪水以前の死者だけでした。では、大洪水後の死者たちには、いつ福音宣教がなされるのでしょうか。
じつは、今すでに、彼らへの福音宣教は徐々になされつつあります。なぜなら、先の「ラザロと金持ち」の話を思い起こしてください。あの金持ちは、自分が地上で見聞きしたことを、陰府で思い起こしています。
かつて地上で見聞きしたことの記憶は、陰府で思い起こされるのです。ですから、たとえば、クリスチャンになったあなたが、誰かに福音を宣べ伝えます。その人が信じれば、その人は死後天国へ行きます。
もし信じなければ、死後は陰府に下ります。しかし陰府に下っても、その人は、あなたから聞いたキリストの福音を、陰府で思い起こすのです。こうして、福音は陰府において徐々に宣べ伝えられつつあります。
また聖書の「ヨハネの黙示録」によれば、やがて患難時代と呼ばれる終末の苦難の時代に、神の二人の預言者がエルサレムに現われます。彼らは三年半の預言活動ののち、暴君に殺されますが、三日半の後によみがえり、人々の見ている中を昇天し、天国へ行きます(黙示一一章)。
彼ら二人の預言者は、その死んでいる三日半のあいだ陰府に下り、かつてキリストが陰府で福音宣教をされたように、そこで福音宣教をなすであろうと、私は見ています。こうして、大洪水後の死者にも福音が宣べ伝えられるでしょう。これが第二段階目のことです。
そのとき、キリストの福音に聞き従う者たちは「生きる」のです。
福音は陰府の死者のためにもある
実際聖書は、福音は陰府の死者のためでもある、と述べています。
「それはイエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」(ピリ二・一〇〜一一)
この「地の下」とは陰府です。聖書ではつねに、「地の下」は陰府をさしています。福音は陰府にいる人々のためにも存在し、彼らが「イエス・キリストは主である」と告白するためなのです。
この告白は、イエスは「キリスト」(救い主メシヤ)であり「主」(従うべきおかた)である、というものであり、まさに救われる信仰告白そのものです。
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」(ロマ一〇・九)
「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(Iコリ一二・三)
またヨハネの黙示録によれば、終末の時代に、陰府の中から神への礼拝と讃美の声が上がります。
「私(ヨハネ)は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように』」
(ここで「あらゆる」と訳された原語は、一人残らずの意味ではなく、数が多いことの強調で、「非常に多くの」の意味です――ロマ一一・二六、マタ一〇・二二、ヨハ一三・三五等参照)。
この「地の下」=陰府からあがる「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」との讃美の声は、天使たちの讃美の言葉と同様のものです(黙示五・一二、七・一二)。
それは救われた者たちの讃美と礼拝の声なのです。彼らはキリストの福音に聞き従って、「生きる」のです。
この讃美は、悪霊たちが神の力の前に屈服して、神に栄光を帰することとは違います。悪霊が神を心から讃美したり、心から礼拝することはありません。聖書にはまた、地獄行きの人間が神を讃美している例はありません。
ヨハネの黙示録によれば、終末の時代に神への讃美のために呼び出されているのは、「神のしもべたち」です。
「御座から声が出て言った。『すべての神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を讃美せよ』」(一九・五)
聖書では一貫して、神への讃美を捧げる人々とは、救われた人々です(詩篇一四五・一〇、出エ一五・二)。したがって先の聖句に述べられている「陰府の中から讃美礼拝を捧げる人々」とは、キリストの福音に聞き従って救われた人々、と理解することができます。
このように、あなたの先祖や、すでに世を去った親族にも、神の救いの御手が差し伸べられています。これを救いの「セカンドチャンス」といいます。
ファーストチャンスはこの地上の人生、セカンドチャンスは、死後の生活です。ファーストチャンスで信じるのが一番良いのです。その人は、神と共に生きる幸福の道を歩み、死後は、陰府に下ることなく天国へ行けます。
しかし、ファーストチャンスのときに、福音を一度も聞いたことのない人々もいます。そういう人には、神は死後にセカンドチャンスをお与えになるというのが、聖書の教えです。
そして、あなたがこの地上で神と共に歩むなら、神の救いのセカンドチャンスは、あなたの家系のすべての人々に対し豊かに臨むでしょう。
ただし、あなた自身に関して言えば、あなたはすでにこの地上で福音を聞きました。すでに聞いた者には、責任と義務があります。あなたは、聞いた事柄に対して応答しなければなりません。
あなたが信じるなら、祝福と永遠の命が与えられます。しかし信じないなら、あなたは依然として罪と滅びの道にとどまることになります。ですから聖書は私たちに言っているのです。
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』という年月が近づく前に」(伝道一二・一)
神とキリストを信じるのは、早ければ早いほど良いのです。
ここで、幾つかの質問に答えておきましょう。
死後Q&A
質問1
「私は、陰府と地獄は"同じようなもの"と思っていたので、『未信者として死んだ人々にもまだ救いの機会はある』と聞いて驚いています。これは新しい教えですか」
いいえ、新しい教えではありません。この理解は、初代教会にはあったのです。新約聖書の中に、はっきりそういう聖句があるわけですから。
しかしその後、教会は西方教会と東方教会に分かれました。東方教会では、たとえば第一ペテロ三・一八〜四・六について、キリストの陰府での福音宣教という理解は広く説かれていました。たとえばアレキサンドリアのクレメンスもそうでしたし、オリゲネスも、キリストの陰府降下は、
「死者にとっても生者にとっても主となるため」(ロマ一四・九)
だと述べました。しかし西方教会は、死後の救いを述べることをタブー視しました。その背景には、しだいにヨーロッパの異教的な地獄観念が入り込み、陰府と「地獄」が混同されるようになったことがあります。
陰府と「地獄」は同一視され、地獄は死の直後の場所と考えられるようになりました。人間は死んだらすぐに天国か地獄か、そのどちらかに行って、それは永遠に続くという理解です。
この誤った理解のために、西方教会では、死後の救いを説くことは禁じられました。しかし、それは誤った聖書理解の上に立っていたのです。
陰府の人々に救いの手をさしのべるキリスト(正教イコン 14世紀)
質問2
死後にも回心のチャンスがあると思えば、人々は「生きている間は好きに暮らして、死んでから回心すればいい」と考えてしまうのではないでしょうか。それは不都合ではありませんか。
いいえ、死後のことを正しく説くなら、そのようなことは起こりません。
なぜなら、あなたがキリストの福音を聞いて、自分の生きている間にそれを信じたとしましょう。そうすれば、あなたはこの地上において神の子として祝福の中を生き、また死んだ後は幸福な天国へと迎え入れられます。
しかしあなたが、生存中に福音を信じなければ、あなたは罪と滅びへの生活を歩み、死後は陰府に下り、生存中に自分が行なったことをそこで苦しみのうちに刈り取るようになります。それは地上における人生よりも、はるかに長く続くでしょう。
たとえそこで回心の機会が与えられても、それは死の直後ではありません。あの大洪水前の死者も、自分たちが死んでから二五〇〇年以上たってから、ようやくキリストの陰府降りの際に回心のチャンスを与えられたのです(Iペテ三・一八〜二〇。ノアの大洪水は紀元前二五〇〇年頃、キリストの陰府降りは西暦三〇年)。
あなたは自分の人生の何倍にもわたる時間、陰府での苦しみの生活を味わうことになるでしょう。
あなたは、どちらの生活のほうがいいですか。私なら、迷わず前者の生き方を選びます。また私は以前、私が牧師を務める教会で、「死後にも回心の機会はある」と話した上で、
「あなたは死んでから回心すればいい、なんて思いますか」
と皆に聞きました。すると誰もが首を振って、
「とんでもありません。私たちはキリストに生きることの素晴らしさを知りました。生きているうちに福音を聞いたら、生きているうちに回心するのが当然です」
と答えました。死後について正しく説くとき、死んでから回心すればいいなどという考えは、決して生まれてこないのです。
福音の素晴らしさを知るなら、誰もが「生きているときに信じて当たり前」と思うものです。それは自明の真理なのです。
質問3
陰府にいる人は、苦しみから逃れたいと思っているので、みなが信じるのではありませんか。そうだとすると、万人救済説(すべての人が救われる)になってしまいます。
聖書は、万人救済説を否定しています。最終的に、救われる人と滅びる人の双方がいます。信じる者は救われ、信じない者は滅びます(ピリ三・一九)。
陰府にいる人々にも、信仰と回心の機会が与えられます。しかし、みなが信仰に至るわけではありません。なぜなら、信仰とは、神に従い、神と共に生きることです。単に神の存在を信じることではありません。聖書には、
「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが悪霊どももそう信じて、身震いしています」(ヤコ二・一九)
と記されています。また、悪霊たちはイエスが神の子であることを知っています(マタ八・二九)。しかし悪霊たちは、信仰を持っていません。
信仰とは、神の存在を信じたり、イエスが神の子であると認めたりすること以上のものなのです。信仰の本質は、服従にあります。悪霊にはこれがないのです。
もし人間が、心砕かれて悔改め、神の救いに信頼し、神の御旨に聞き従う態度を見せるなら、そのときに初めて、「信仰」と認められます。一方、たとえ苦しみの場所から逃れたいと思っても、真実な悔改めと、信頼と服従の信仰的態度が見られなければ、神はそれを「信仰」とはお認めになりません。
そのような真実な信仰を、だれもが示せるわけではありません。したがって、救われる人と滅びる人の双方がいます。
質問4
クリスチャンが必死に伝道するのは、未信者が死んでからではもう遅い、もう救いのチャンスはないと思うからではないでしょうか。死後にも救いのチャンスがあると思うと、伝道しなくなってしまう心配はありませんか。
あなたがそのような心配をするというのであれば、もう一歩考えてください。
「死んだ未信者はいま永遠の地獄の滅びにおり、二度とそこから出てくることはない」
という理解は、非聖書的(聖書とは違う教え)なのです。地獄にはまだ誰も入っていません。それは終末的な場所なのです。
非聖書的理解をもって真のリバイバル(信仰の覚醒。救いが広がっていくこと)は決しておきません。また、未信者がいま地獄にいるという理解は、
「キリスト教の神は、福音を一度も聞く機会のなかった先祖や親を即、永遠の地獄に落とし、救いのチャンスも与えないで滅ぼす無慈悲な神」
という誤った観念を、未信者に与えてしまいます。それはリバイバルを妨げるものです。とくに、先祖を大切にする東洋においてはそうです。
真のリバイバルは、正しい神観念を基礎にしなければ、決して起きません。それには正しい死後理解が欠かせないのです。
真の神は、福音を一度も聞いたことのない魂をそのまま永遠の地獄に突き落としてしまうような、無慈悲なお方ではありません。そのような神は聖書のいう神ではなく、実在の神でもありません。
聖書の神は、愛と義の神です。生者と死者を共に愛し、共に公正にさばかれる神です。私たちが必死に宣べ伝えるべきは、そのような真の神です。
また福音は、単に死後に天国に行くだけのためにあるのではありません。この地上で神の子として生き、祝福の中を歩み、神の栄光を現わすために存在しています。人がこの素晴らしい福音を知らないことは、なんと可哀想なことでしょう。
それを思うなら、私たちの伝道への情熱は少しも失なわれるものではありません。
質問5
なるほど、よくわかりました。福音はこの地上の人生を豊かに生きるためにもあるのだから、生きている時に聞いたら、生きている時に信じるのが当然ですね。
もう一つ質問なのですが、新約聖書の『ラザロと金持ち』の話に出てくる金持ちは、最終的に新天新地へ行きますか、それとも地獄へ行きますか。
「ラザロと金持ち」の金持ちにも、まだ救われる可能性は残されています。
ラザロは死後、陰府の慰めの場所へ、一方金持ちは、陰府の苦しみの場所へ行きました(ルカ一六・二五、二八)。金持ちは陰府の苦しみの場所で、次のようにアブラハムに言いました。
「お願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」。
この願いは、結局かないませんでしたが、重要なのはこのときの金持ちの心です。
彼は自分でなくてよい、ラザロでいいから父の家に送ってください、と言っています。彼は、今も欲望のおもむくまま自己中心に暮らしている兄弟たちのことを心配して、そう言ったのです。
金持ちのこの言葉には、自分自身の悔改めの気持ちと、兄弟への愛の気持ちが表れています。彼はこう言うことによって、何か得をするわけではありません。それでもこう言っているのは、それが純粋に兄弟を思いやる気持ちから出たという証明でしょう。
こうした愛と、砕かれた態度が、神の憐れみを受けないと考える理由はありません。
聖書によると、世の終末が間近になったとき、エルサレムに「二人の預言者」(黙示一一・三)が現われます。彼らは、その頃世界に台頭するはずの独裁者「獣」に殺されるが、三日半の後に復活します。
その死んでいる三日半の間、彼らは陰府に下ると考えられます。かつてキリストが十字架の死後の三日間、陰府に下って福音宣教をされたように、この二人の預言者も、陰府で福音宣教をなすでしょう。
そのとき、あの金持ちも、きっと福音に接するに違いありません。彼の砕かれた魂が、そのときに回心することは充分にあり得ると言ってよいでしょう。
こうして、あの金持ちが陰府での長い苦しみの後に回心し、最後の審判の座で義と認められ、最終的に新天新地(神の国)に迎え入れられるとしても、決して不思議なことではありません。
「ラザロと金持ち」の話は、イエス・キリストご自身が語られたものです。これは、たとえ話ではなく、旧約時代における実話です。
たとえ話なら、キリストは「ある人」と語られて、「アブラハム」「ラザロ」というような実名は言われなかったでしょう。
この実話は、キリストご自身にとっても、非常に印象的なものでした。金持ちが無私の心で、陰府において示した兄弟への思いやりの心は、キリストのお心を強く打ったのです。
質問6
私は三年前に妊娠しましたが、育てきれないと思い、子どもをおろしてしまいました。あの子は今どこにいるのでしょうか。
堕胎された子、また流産の子は、今は天国にいます。それはイエス・キリストが次のように言われたからです。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ一八・三)。
「子供のようにならなければ……天の国に入ることはできない」は、言い換えれば、子どもの多くは一般的に天国に入れる者たちであるということです。とくに胎児や乳児のうちに死んだ魂は、神のあわれみにより、すぐさま天国に迎えられると考えてよいのです。
彼らは今、神のみもとで安息の中にあります。あなたのお子さんも、天国で神からの慰めを得ていることでしょう。
そうした霊は、決して「浮遊霊」や「不成仏霊」となっているわけではありません。あなたは「水子供養」などといって、高いお金を出して僧侶に供養してもらう必要は全くありません。
かえってそのようなことをすると、その偶像崇拝の罪が、天国にいる子どもを悲しませることになります。
しかし堕胎された子は、この世で過ごすはずであった時を奪われた人々です。やむを得なかった場合もあるでしょうが、もしあなたの安易な決断がそれを奪ったのであれば、あなたはそのことで神の御前に悔い改め、天国での子どもの幸せを神に願い求めなければなりません。
そして、子どもを天国に迎え入れてくださった神に感謝をささげ、ますます神に心を向けて人生を歩んでいくことです。あなたは死んだ子どもの分も含めて、この世の時をますます神のために生きるべきなのです。
これは中絶された子の母親だけでなく、父親についても、全く同様に言えることです。父親も、子どもを天国に迎えてくださった神に感謝をささげ、ますます神に心を向けて歩んでいくことです。そうすることにより、たとえ中絶の際に親に罪があったとしても、子どもは天国で親を赦してくれるでしょう。
もしあなたがそうしないなら、あなたは自分が死んだあと、子どもに会うことができません。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」のです。
あなたが、もし死後に天国に行けなかったら、あなたは愛する子に会えなくなってしまいます。あなたはこの地上で与えられた時を、子の分も含めて、しっかり神と人のために生きなければなりません。そうすることにより、あなたが死んだ時、あなたは自分の子に再会することができます。
あなたの子は、天国で神の愛によって深い慰めを得ているので、あなたとの再会を心から楽しみにしています。神は子どもの心の傷を、すでにいやして下さっています。何があったにせよ、子どもはあなたの子なのです。
あなたは、子どもに再会することを望むでしょうか。もしそうなら、天国と神を見上げて歩んでいくことです。それによって、あなたはやがて天国で子に再会し、楽しく共に生きることができ、神もそれを喜んでくださるのです。
質問7
自殺した人は地獄に行くのですか。
自殺した人は、地獄ではなく陰府に行きます。
先に述べたように、地獄は死の直後の場所ではありません。世の終末以降のために用意された場所です。人間の死後には、中間状態と最終状態があり、中間状態は天国と陰府、最終状態は新天新地と地獄です。
自殺した人は、神によって与えられた生命と人生を放棄した人です。彼らは死後、陰府に行きます。
陰府において死者は、世の終末の最後の審判の時に向けて、自らの人生を振り返る時が与えられます(ルカ一六・一九〜三一)。そののち世の終わりになって、最後の審判の法廷において、最終的に神の判断が下され、最終状態が決まります。
私たちの生命は、神から与えられたものであり、その生命には使命が伴っていますから、決して自分で断ったりしてはいけません。しかし自殺した人には、ほとんどの場合、それに至ったよほどの理由があるものです。
自殺者は、生きることを放棄するという罪を犯したとはいえ、多くの場合、それに至るまでの同情すべき境遇があります。
なかには、あまりの不幸な境遇に耐えきれず、精神錯乱をきたして自殺してしまったケースもあります。このような場合、すでに理性は失われており、自己責任性はうすく、その自殺を「罪」と呼ぶのはあまりに酷であると思われます。
また生きることに目的を失い、厭世観にとらわれ、周囲にキリストの福音を語ってくれる人がいなかったために自殺してしまった人もいます。このような場合も、単に本人の罪責を追求するのではなく、そうなってしまった経緯がよく考慮されなければなりません。
神は全知のおかたですから、そのような自殺者の境遇や、自殺に至ってしまった経緯をよくご存知です。だからそれをふまえた上で、陰府にいる自殺者の霊を、あわれみをもって取り扱ってくださるに違いありません。
そして世の終わりが間近になったとき、エルサレムで死んだ「二人の預言者」が、三日半のあいだ陰府に下って、そこで福音宣教をするでしょう。神を知らずに不幸な自殺を選んでしまった人々が、陰府で預言者の語る言葉に耳を傾け、希望を見いだすことは充分にあり得ることです。
彼らの中には、回心し、続いてなされる最後の審判の座で神に受け入れられ、新天新地に入る者も少なからずいる、と考えることができます。
質問8
私はクリスチャンになりたいと思っています。しかし、一つ気がかりなことがあります。私は三年前に結婚したのですが、その半年後、夫は突然、交通事故で死んでしまいました。夫はやさしい人で、私は悲しみのどん底につき落とされました。彼はクリスチャンではなく、宗教にも全く興味を持っていませんでした。彼はもう救われないのでしょうか。
救われないことはありません。聖書にこう記されています。
「信者でない夫は(信者である)妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです」(・コリ七・一四)
つまり、あなたがキリストに従い、クリスチャンとして歩むなら、あなたの夫だった彼には、神の特別な聖別と顧みが与えられることになります。
彼は今、陰府にいると思われますが、神の憐れみが彼の上に注がれるでしょう。あなたが地上で神を愛しながら生きるなら、神の愛はなおのこと彼の上に豊かに注がれます。
そうやって、彼がやがて陰府において回心して救われ、来たるべき日に天国であなたと再会するようにもなるでしょう。ですから大切なのは、あなたがクリスチャンとなることです。神を愛し、キリストに従って人生を歩んでいかれてください。
質問9
私はキリスト信者です。以前からある人にキリストの福音を熱心に伝道していましたが、その人はまだ信仰に入っていない矢先に、先日交通事故で突然死んでしまいました。彼は死後どうなるのでしょうか。
もしその人が交通事故で死ぬときに、まだ信仰に入っていなかったのであれば、彼は死後、陰府に行ったでしょう。しかし先に述べたように陰府は、人間の死後の最終状態ではなく、中間状態です。
その人は、あなたから伝道されたキリストの福音を、陰府で思い起こすに違いありません。
地上で生きていたときの記憶は、陰府に行っても、魂のうちに思い出されるのです。あの「ラザロと金持ち」(ルカ一六章)の話の中で、金持ちはかつて自分が地上で生きていたときのことを、陰府において思い出しています。
ですからその交通事故で死んだ人も、生きているときにあなたから伝道されたキリストの福音を、陰府において思い起こすでしょう。
そして陰府において神からのお取り扱いを受ける中で、救い主キリストの福音を信じることは、十分あり得ることです。
こうして、あなたが伝道した言葉は決して無駄なものとはなりません。その人は、きっとあなたから受けた伝道を感謝するに違いありません。あなたがその人に再会できる日も、きっと来るでしょう。
ですから伝道というものは、その人が地上に生きているうちに信じようと信じまいと、ともかく語っておくことが大切なのです。
そしてさらに、本書の読者に対しても述べましょう。生存中に福音を聞いたら、できるだけ早くキリストに従う決心をすることです。そうでないと、いつ遅くなるかわかりません。
生存中に信じれば、あなたは残りの生涯を神の祝福の中に歩み、死後は天国に上げられます。しかし、生存中に信じなければ、あなたは罪と滅びのうちにとどまり、死後は陰府に下ります。
そこであなたは、自分がかつて地上で蒔いたものを刈り取る生活をすることになるでしょう。それは苦しいものになるに違いありません。
あなたはどちらの道を選びますか。あなたが迷わず、生きている時に信仰に入り、祝福の生涯を歩まれますよう、願います。生存中に福音を聞いたら、生存中に信じるのが当然なのです。
未信者として死んだ先祖や親族のことも、すべて神におゆだねしてください。あなたが神に従って歩むなら、あなたの先祖も、子孫も、家系全体が神の豊かな顧みと祝福の中に置かれるのです。
「確かに今は恵みの時、今は救いの日です」(IIコリ六・二)
信仰の決断を先に延ばしてはいけません。今、信仰に入りましょう。そして祝福と永遠の命の生涯を、今日から歩まれて下さい。
久保有政著
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