七重の福音
新生・聖霊充満・神癒・経済的祝福・家系的祝福・天国・再臨の福音
復活の主イエスと弟子たち
一、新生の福音
「福音」とは、「イエス・キリストの良き知らせ」=グッド・ニュース(Good
News)のことをいいます。それは私たちの真の幸福の源泉です。
「イエス・キリストの福音」は、おもに七つの部分から成ります。これを名づけて「七重の福音」と呼ぶことができます。
その第一は、「新生の福音」です。先に学んだように、
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハ三・三)
人は神の命により、新しく生まれて初めて真の世界、神の世界、永遠の世界を知ることができます。
一度イモムシとして生まれたものが、サナギを経てもう一度チョウとして生まれる必要があるのと同じく、人間にも第二の誕生が必要なのです。
第一の誕生は肉体的誕生です。母の胎からあなたが生まれたことです。
一方、第二の誕生は、神を信じキリストを救い主として受け入れたときに与えられる霊的な誕生――新生をいいます。これは「永遠の命」への誕生です。
永遠の命は、私たちがこの地上に生きているときから与えられ、地上の人生を力強く切り開く力を与えてくれるものです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(IIコリ五・一七)
新生は新創造でもあり、キリストを信じたその日から、あなたには新しい人生が与えられるのです。
新生の際には、ほかにも幾つか大切な事柄が伴います。その一つは、義認ということです。
私たちは、生まれながらにして罪人であり、そのままでは神の御前に出られる者ではありません。しかし、罪のない神の御子キリストが私たちの身代わりに十字架にかかり、罪の刑罰を一身に引き受けてくださったので、私たちの罪はキリストにあってすでに罰せられたのです。
それで私たちは、キリストを救い主として受け入れるなら、すべての罪を赦され、神の前に義と認められる、と聖書は述べています。
「すべての人は……ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ロマ三・二三〜二四)
これを義認といいます。義認ということをわかりやすくするために、例を一つあげてみましょう。
ある人が車を運転していて、事故を起こし、誤って人をひいてしまいました。事故を起こした人は逮捕されて、裁判を受けることになりました。
しかし幸いにも、被害者側から一億円で示談にするという申し出がありました。とはいえ、加害者側の家族にとって、一億円は大金です。
一億円を作るためにあちこち走り回りましたが、用意することはできませんでした。しかし、ある金持ちが現われて、その一億円を払ってくれました。
それで裁判長は、事故を起こした人を釈放して、無罪を宣告しました。彼はもう法的には罪人ではなく、義人になったからです。
これと同じく、私たちは罪人でしたが、イエス・キリストが代わりに私たちの罪の代価を支払ってくださったので、裁判長である神から「義人」と認められるようになったのです。
「罪から来る報酬は死です。しかし神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ロマ六・二三)
キリストは、「罪から来る報酬」「罪の代価」である死を、私たちの代わりに支払ってくださいました。それによって私たちに義認と、永遠の命への新生が与えられたのです。
新生はまた、神の子の身分を与えられることでもあります。
「しかしこの方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハ一・一二)
私たちは滅びの子でしたが、救い主イエス・キリストに対する信仰により、「神の子」とされたのです。
私たちはイエス・キリストを、「神の子」「神のひとり子」「神の御子」と呼びます。キリストは単独で「神の子」です。しかし、私たちは単独で「神の子」なのではありません。キリストを通して、あるいはキリストにあって「神の子」とされた者たちです。
キリストは神の子なので、キリストに連なるすべての人をも、神は「神の子」として認定してくださったのです。したがって私たちは、キリストは離れては神の子ではありません。
神の子になったというのは、神の子としての権利を持つようになったということであり、養子としての側面を持っています。
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」(ロマ八・一五)
この世でも、養子縁組をすれば、養子になった人は法的に子どもとして受け入れられるようになります。同様に、神は恵みと、私たちの信仰により、養子縁組をして神の家族の一員としてくだったのです。
しかし単なる養子ではなく、実子としての側面も持っています。
「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです」(Iヨハ五・一)
「生まれた」という以上、単なる養子ではなく、実子的側面をも持っていることがわかります。神の子の生命、永遠の命に生まれたことによって、私たちは神の子とされました。
ただし実子といっても、イエス・キリストが神の直接の実子であるのとは違い、私たちは御子キリストを通して間接的に神の実子なのです。信仰者は、イエス・キリストにあって生み出された神の子です。イエス・キリストを抜きに、私たちが神の子とされることはありません。
このように私たちは、イエス・キリストを救い主として信じたその日に、すべての罪を赦され、義と認められ、永遠の命と、神の子の身分を与えられ、その祝福の中に生きていくことができるのです。新生によって、あなたは新しい人生を与えられるのです。
二、聖霊充満の福音
イエス・キリストの福音の第二は、聖霊充満の福音です。
私たちは新生によって、神の子として新しい人生を歩み始めますが、それでも行ないや思いの点で、すぐに完全な人間になるわけではありません。
私たちは力強く人生を切り開いていくために、「聖霊」が必要なのです。聖霊は父なる神の霊であるとともに、キリストの霊でもあります。
もっと正確にいうと、聖霊は、父なる神からキリストを通して信者に注がれた霊です。
「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」(使徒二・三三)
聖霊は、三位一体の神の第三位格のお方でもあります。第一位格が父なる神、第二位格は子なる神キリスト、第三位格が聖霊なる神です。
聖霊は、自分を隠す方であり、父なる神およびキリストを前面に出される方です。しかし聖霊ご自身が、人格を持っておられます。
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」(エペ四・三〇)
聖霊にはご人格があり、悲しみ、喜び、怒り、楽しむことのあるお方です。聖霊は、単なるエネルギーや、力とは違うのです。ですから私たちは、ご人格を持ったお方として聖霊をお迎えする必要があります。
聖霊は目には見えないので、クリスチャンになったばかりのときは、よくわからないかもしれません。しかし、力強いクリスチャン生活を歩むためには、聖霊と親しく交わることが大切です。
あなたは、もう天の神様を「天のお父様」と呼んだでしょうか。もし呼んだならば、それは聖霊の働きによります。
「あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました」(ガラ四・六)
神を「天のお父様」と呼ぶようになれたのは、あなたのうちに神の霊、またキリストの霊である「聖霊」が宿ったからです。
聖霊は、神・キリストと、あなたの間で、愛と生命の交わりを行ないます。これを「聖霊の交わり」といい、その中に神の永遠の命があります。
たとえば扇風機を回すときに、プラグをコンセントに入れてあれば、電気が入り、電気的交わりがなされるので、扇風機はいつまででも回っています。同じように、私たちは聖霊によって神と交わることにより、神の永遠の命の中に生き続けるのです。
聖霊があなたの内に宿っていることが、あなたに永遠の命があるということです。またあなたが神の子とされているということであり、あなたが救われているということです。
けれども、聖霊が単に内に「宿っている」状態と、聖霊の「満たし」とは違います。
たとえばコップの中に少し水が入っている状態と、縁まで一杯に入っているのとでは違います。それと同様です。あなたがクリスチャンとして歩み始めたならば、あなたは聖霊の満たしを求める必要があります。
神の霊があなたの内を満たし、あなたの思いが神の思いと一つになり、あなたが神の聖徒とされるためです。
「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」(使徒一・八)
聖霊の満たしにより、私たちは人生を力強く切り開いていけるようになります。また、キリストの救いを証しする大胆な愛、知恵、言葉、勇気が与えられます。
私たちは、信じたときだけでなく、毎日、聖霊の満たしを求める必要があります。聖霊により、私たちの心はきよめられ、神の思いが人生を支配するようになります。キリストの使徒パウロは、
「もはや自分が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラ二・二〇)
と言いました。これが、聖霊に満たされて生きた人の境涯です。自分中心な、また利己的な自己は去り、神と人のために生きる聖徒に変えられるのです。
罪から離れ、愛に満ち、ただ神の栄光が現わされること、神があがめられることを求め、神の御教えの実践、愛の行為をせずにはいられなくなります。聖霊の満たしにより、私たちは力強いクリスチャンになることができるのです。
聖霊に満ち、病人をいやす使徒ペテロ
三、神癒の福音
イエス・キリストの福音の第三は、神癒(しんゆ)の福音です。神癒とは、神の力によって病が癒されることをいいます。
イエス・キリストとその使徒たちの時代、また初代教会においては、病のいやしの奇跡が多く行なわれました。
その後、中世の時代などには、病のいやしがあまり見られなくなったと言われましたが、これは信仰も後退したからです。
しかし、信仰の見られる所には、病のいやしの奇跡が起こります。教父アウグスチヌス(四〜五世紀)も、自分が目撃した驚くべき病のいやしの奇跡について記しています。今日も、信仰の見られるところには、いやしの奇跡が起こります。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブ一三・八)
キリストは十字架にかかり、私たちの罪とその刑罰を一身にひき受けてくださいました。それだけではありません。彼は私たちの病も担ってくださったのです。
「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った』」(マタ八・一六〜一七)
キリストは多くの病をいやされましたが、それはキリストの十字架を預言したイザヤ書五三章の言葉の成就なのです。キリストは私たちの罪を背負われただけでなく、病をも担われました。ですからキリストを信じる者は、病をキリストに取り去っていただくことができます。
そのためには第一に、病のいやしは神のみこころだと信じることが大切です。
「わたしは主、あなたをいやす者である」(出エ一五・二六)
あなたが健康に生き、その生涯を通して神の御教えを実践して、神の栄光(素晴らしさ)を現わすことは神のみこころなのです。
第二に、その信仰に立ち、ますます神に仕えるために、主のいやしを受け取らなければなりません。
「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(マコ一一二四)
私が牧師をしている教会に来ているSさんは、以前、まだ未信者だったときに、医者からガンの第三期と診断されました。彼はその告知を受けて、あわてふためきました。
しかし、彼の奥さんは長年のクリスチャンでした。奥さんは落ち着いて祈り、「この病はいやされる」との確信を神様からいただきました。そして、
「神様、夫の病をいやして下さったことを感謝いたします」
と祈りました。現実には、まだ見えるところでは病は治っていなかったのですが、すでにいやされたことを主にあって感謝したのです。信仰によって、いやしを受け取ったのです。
夫のSさんは、そんな信仰があるのだろうかと、驚きました。そして実際、その信仰の通り、短期間のうちにガンが全くいやされてしまったのです。
それには医者も驚きました。自分の診断が間違っていたのだろうかと、あわてさせてしまったほどです。でも、診断が間違っていたのではなく、本当にいやされてしまったのです。
その後、再発もありません。このいやしを通し、Sさんは神を信じ、救い主イエス様を受け入れてクリスチャンになりました。神様にとっては、風邪を治すのも、ガンを治すのも同じです。Sさんは元気に教会で主イエスに仕えています。
第三に、いやされたことを通し、ますます神の道を歩まなければなりません。いやしてくださった神への感謝を忘れるようであっては、いけません。いやされる前から神に感謝し、ますます神のために生きる心を持つなら、神はすみやかにいやしてくださいます。
四、経済的祝福の福音
第四に、神はあなたの経済的生活をも祝福することができます。
「あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである」(申命八・一八)
神は、ご自分の民に、「富を築き上げる力」をお与えになっています。私たちはそれを用いることができます。
キリスト者のお金に対する態度は、「お金に生きず、お金を生かせ」ということです。お金、富は、私たちの人生の目的ではなく、手段価値です。
富はうまく役立てるなら、愛の道具となります。私たちは富に生きるのではなく、富を愛のために生かす人生を送りたいものです。
そのために神はあなたに、「富を築き上げる力」をお与えになりました。また、あなたが幸福に生き、神の教えを実行し、人々に愛を行なうために必要な一切を備えてくださる方が神です。
「神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリ四・一九)
イエス・キリストはまた言われました。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのもの(衣食住や必要なお金)はすべて与えられます」(マタ六・三三)
神は経済的にも、キリスト者を祝福してくださるのです。
キリスト者の生き方には、おもに二つのものがあります。一つは、清貧に生きることです。
これは物質的な執着心から離れて生きるためには効果的です。清貧を通し、私たちは物質や財産に望みをおかずに、神に生きることを訓練されます。
清貧に生きても、神の約束により、必要なものは一切神から与えられて生きることができます。清貧の中にも、つねに経済的な祝福が伴います。そうした理由から、清貧という生き方を人生の一時期に体験することは、生き方の良き訓練になります。
しかし、キリスト者は常に清貧に生きなければいけない、というものではありません。お金持ちになっても、神に仕えることはできるのです。キリストの使徒パウロは、
「私は貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています」(ピリ四・一二)
と言いました。「豊かさの中にいる道」とは、富に溺れず、富を自分の快楽や欲得のためではなく、神と人のために豊かに用いる生き方をいいます。つまり、先ほど述べた「お金に生きず、お金を生かす」という生き方です。
それがもう一つの生き方です。それができるなら、あなたはいくらお金持ちになってもよいのです。実際、そのような富を築き、神と人のために巨額の富を役立たせたクリスチャンたちが、たくさんいます。
彼らは、大きなお金を動かします。自ら大金をかせぎ出し、必要があれば貯蓄もしますが、自分の欲得のためではありません。神の事業と、人々への愛のために捧げ、また用いるために大金を動かすのです。そのためには、どんな苦労も惜しみません。
そういう人には、神はますます多くのお金を与え、まかせてくださいます。大切なのは、富というものは神からあなたに託されたものだ、と考えることです。あなたはそれを有効に用いなければなりません。
そして、富がどのように使われていくかを自分の目で確かめ、隣人と社会を潤していく状況を自分の生涯の中で確認することです。そのような人には、神はますます多くの富をまかせてくださいます。
しかし、富んでいるときも、そうでないときも、常にあなたが神を愛するなら、神はあなたの必要の一切を満たしてくだいます。それが経済的祝福の福音です。
「神の国とその義とをまず第一に求める」なら、単に神の国と義があなたに与えられるだけでなく、それらに添えて、衣食住や、そのほか生活と事業に必要なお金、アイデア、協力者など、あなたに必要な一切のものが与えられるのです。
福音は、単に魂の救いのためだけではありません。それはあなたの地上における生活の祝福のためでもあるのです。
五、家系的祝福の福音
第五に、あなたがイエス・キリストに従って生きることは、あなたの家系全体に豊かな祝福をもたらします。
「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エ二〇・六)
と神は言われました。信仰者への神の恵みは、単にその信仰者だけにとどまりません。その人に連なる家族・親族の一千世代にまで及ぶものです。これが家系的祝福の福音です。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒一六・三一)
神の救いは、必ずしも一〇〇%個人的なものではないのです。個人にとどまらず、その恵みは家系にまで及びます。つまり多分に共同体的なのです。
西洋のキリスト教においては、個人主義が強かったために、あまり家族や親族の救いということが言われませんでした。しかしヘブル人、ユダヤ人の考え方は違います。旧約から新約に至るまで、聖書中のあらゆるところで、救いの恵みは多くの場合、信者の家系全体に及ぶことが示されています。
かつてノアが神の前に正しく歩むと、彼が救われただけでなく、彼の妻、および息子たち、またその息子の妻たちが大洪水から救われ、さらにその子孫全体が大洪水後の世界に生きることができました。
またアブラハムが神の前に正しく歩むと、甥のロト一家は、あのソドム・ゴモラの破滅の中から救出されました。
「神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた」(創世一九・二九)
と記されています。
アブラハムが祝福されると、イサクが祝福され、ヤコブが祝福され、アブラハムの別の子イシマエルの子孫も祝福されました。
さらに、聖書にこう記されています。
「主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた」(申命一三・六)
すなわち、イスラエルの人々が全世界から選ばれたことは、その先祖が神によって愛されたことを示していました。私たちクリスチャンも、神によって選ばれた者たちです。
「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています」(Iテサ一・四)
つまり、私たちが神によって選ばれた者であるなら、私たちの先祖も神の愛の中にあるのです。「千代に至る神の祝福」は単に子孫にだけ及ぶのではなく、先祖にも及びます。
聖書の教えはつねに、先祖→自分→子孫という一連の家系全体を念頭におき、それを非常に大切に扱っています。先祖・自分・子孫は個別のものではなく、聖書の中では、一つのセットなのです。
ですから自分がキリスト者として選ばれたことは、先祖も子孫も家族もみな、神の愛と祝福の中に置かれることを意味します。あなたに与えられる神の恵みは、あなたに対してだけでなく、さらに彼ら全体にまで浸透していくのです。
これは必ずしも、あなたの先祖や子孫の全員が、即、自動的に救われるということではありません。しかし、あなたが神の教えに歩むなら、あなたは来たるべ神の国において、自分の親族、子孫、先祖の多くと会うことができます。
人々の中には、
「先祖や親を抜きにして、自分だけが天国に行くことはできない」
という人も少なくないでしょう。しかし心配はいらないのです。あなたが神を愛し、キリストを信じて歩むなら、神は豊かにあなたの先祖、子孫、親族に恵みを施してくださいます。
そしてあなたがキリストにあって生きれば生きるほど、彼らに対する神の祝福は強くなります。あなたはキリストの福音によって、自分の魂の救いだけでなく、多くの親族の魂を勝ち得ることでしょう。それに関するさらに詳しいことは、次章でみましょう。
六、天国の福音
イエス・キリストの福音の第六は、天国の福音です。
クリスチャンは、肉体の死を迎えると、神とキリストのおられる天国に上げられ、その至福の中に入ります。これが「天国の福音」です。
クリスチャンが天国に入っていることは、たとえば次の聖句からもわかります。
「あなたがたは……天にあるエルサレム(天国)……に近づいているのです。また天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに新しい契約の仲介者イエス……に近づいています」(ヘブ一二・二二〜二四。そのほかIIコリ五・六〜九、黙示六・九、八・三なども参照)
「天にあるエルサレム」とも呼ばれる天国には、神、イエス、および「天に登録されている長子たちの教会」「全うされた義人たちの霊」がいます。クリスチャンたちは死後、天国に入っているのです。
一方、未信者は、肉体の死後は、「陰府」(黄泉とも書く。ヘブル語シェオル、ギリシャ語ハデス)と呼ばれる死者の世界に行きます。これは広く、暗い一般的な死者の世界です。
未信者は、地上に自分が生きていたときに蒔いたものを、その世界に行って刈り取ります。ある者はそこで懲らしめを受け、またある者には慰めがあります。
世の終わりの時まで未信者は、陰府の世界に留め置かれ、自分がかつて自分が地上でなした行為について振り返る時を与えられます。この陰府という死者の世界については、次章で詳しく述べましょう。
世の終わりになると、神の御前で「最後の審判」と呼ばれる裁判の法廷が開かれます。それは未信者の最終的な行き先を決めるためのものです。その裁判の法廷で、最終的な行き先――「神の国」(新天新地)か「地獄」かが決定されます。
クリスチャンは、この「陰府」にも「地獄」にも行くことがありません。キリストの使徒パウロは、
「私たちが肉体にいる間は、主から離れていることも知っています。……むしろ肉体を離れて、主のみもと(天国)にいるほうがよいと思っています」(IIコリ五・六〜八)
と述べました。クリスチャンは肉体を離れれば、すぐキリストのみもと、天国に上げられるのです。
そこは神の恵みと、キリストの愛、聖霊の命にあふれる至福の世界です。地上のような悪や、罪、汚れ、苦悩、悲しみなどが一切ない、輝く栄光の場所です。
七、再臨の福音
イエス・キリストの福音の第七は、再臨の福音です。
再臨とは、キリストの再来のことです。ただし、再臨の「臨」は、単なる「来」よりも強い意味があり、圧倒的な力を持って到来することを意味します。キリストは、世の終わりにもう一度来られるのです。
人々の中には、キリストの再臨とか世の終わりという言葉を聞くたびに、「こわいなあ」と思っている方々もいます。しかしキリストの再臨も、世の終わりも、キリスト者にとっては恐れるべきものではなく、むしろ待ち望むべきものです。
キリストは再臨されると、地上のすべての悪に終止符を打たれます。そして「千年王国」と呼ばれるご自身の王国を、この地球上に確立し、世界を支配されます。
それはかつてのエデンの園の幸福な状況を世界大に拡大したものです。天国のクリスチャンはその千年王国開始時に、体を与えられて復活し、キリストと共に王国の指導的立場に着きます。キリストの千年王国は、至福の王国です。
「終わりの日に……主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり(繁栄を表すヘブル語の常套句)、彼らを脅かす者はいない」(ミカ五・一〜四)
これは平和と繁栄、至福の時代なのです。それは現在の地球上に実現する未来の世界王国です。
一千年におよぶこの至福の時代が地球上にあったあと、万物更新があり、古い天地は過ぎ去って、新天新地が創造されます。それは根底から新しい秩序になった、新世界、新宇宙です。
「私は新しい天と新しい地を見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」(黙示二一・一)
その新天新地は神と人が共に住む世界であり、人間の創造目的が十全に回復した至福の世界です。これが、いわゆる「世の終わり」の真相です。
新天新地の中心「新エルサレム」の光景を
預言的幻のうちに見せられる使徒ヨハネ
世の終わりは、人類絶滅の時とか、世界の破滅の時とか思われていますが、聖書のいう世の終わりは、決してそのようなものではありません。
聖書のいう世の終わりは、現在の世界が終結し、新しい世界が始まるその境界をいいます。またそのときに、全人類が絶滅することはありません。
生き残る多くの人々がいるのです。それは神を愛し、キリストを救い主として信じる人々です。
彼らは、世の終わりが近くなった時代の患難を乗り越え、再臨のキリストと共に至福の世界へ入ります。クリスチャンを待っているのは、最終的に、そのような幸福な世界です。
ですから、世の終わりも、キリストの再臨も、クリスチャンにとっては恐れるべきものではなく、待ち望むべきものなのです。
久保有政著
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