本間俊平とその妻・次子
不良少年感化・刑務所伝道に尽力した人物
石材工場
山口県の秋吉台(あきよしだい)で、本間俊平(ほんましゅんぺい)は、大理石発掘の仕事をしながら、不良少年の更生(こうせい)事業にたずさわっていた。
彼は、片山東熊博士の願いを受け、一家をあげて秋吉台に入り、大理石の発掘に従事したのである。大理石を掘り出しては、東京の芝浦製作所に送り出していた。
本間一家の住む家は、雨露をしのぐ程度の、そまつなバラックであった。彼は、一日の労働の前に聖書を読み、神に祈ってから、労働に従事していた。
彼の石材工場に働く労働者の多くは、荒れすさんだ前科者や、世間から見捨てられた不良少年、あるいは精神修養のために自ら奉仕する学生などであった。労働の間に、彼の家には絶えず数十人の若者が出入りして、教えを乞うていた。
日曜ごとに、バラック工場の一部屋は、おごそかな礼拝堂と化した。何キロも離れた所から、本間の説教を聴くために、山や谷を越えてやって来る求道者も多かった。
彼は人々から「秋吉台の聖者」と呼ばれていた。事実、そのかざらない生活は「聖者」という言葉がふさわしいものだったと言えるだろう。
彼は自分の全生活をささげ、不良少年を更生するために働いたのである。
このような人がかつて日本にいたことは、今の日本人には想像しがたいことであるかも知れない。しかし大正や昭和の初期に、本間俊平の名は知る人ぞ知るものであった。
神の祝福
大正の初めのこと、ついに大理石の山も掘り尽くしてしまった。もう鉱脈がありそうにない。事業も成立しないから、いよいよこれを最後に閉鎖して、方々から集まった人たちも解散しよう、という時があった。
それで最後の祈祷会をするために集まり、
「神様、今まで守ってくださって、ありがとうございました。しかも刑余者を集めて仕事に尽かせてくださったこと、感謝です」
と言って、皆で感謝の祈りをささげた。
すると、急に地震がおきた。皆は、
「こんな恐ろしい地震まで起きたんでは、これは、この仕事はやめだ、という神様のお告げに違いない」
と言って、いよいよ腹を決めた。
ところが翌朝になって、坑道に入る小屋などがつぶれているので、
「きのうの地震はひどかったなあ」
と言って調べに行くと、岩盤が崩れている。なお、のぞき込むと、崩れた向こう側に、新しい鉱脈が現われているではないか。
それを見て、皆がびっくり。それも立派な、大理石の大きな鉱脈が現われたのだから、
「当分これは大丈夫だ」
ということになって、心機一転、仕事を再開した。それからというもの、彼の事業はひじょうに祝福された。
本間はこの時の経験を、
「祈りは不思議な力だ」
と、よく人々に語っていた。
相川勝治の回心
本間の働きは、付近の刑務所にいる受刑者などにも、よく知られていた。
彼が刑務所に伝道に行くと、多くの者がすすんでその話を聴きにきた。彼は受刑者にも父のように慕われていたので、刑務所の職員にも信頼があつかった。
しかしその事業も、夫人の理解や協力がなかったら、決してうまく行かなかっただろう。なにしろ、彼の石材工場で働いていた人々の多くは、不良少年や荒れすさんだ前科者であった。何があるかわからない。
本間の妻・次子(つぎこ)は、いわゆる女傑(じょけつ)型ではなかった。至ってつつましい女性だったが、陰の力となって貧苦の中にも本間を助け、愚痴(ぐち)をこぼさず、笑顔で仕事や伝道を助けていた。
ところがある日、本間のところに一人の厄介(やっかい)な男がやって来た。相川勝治(あいかわかつじ)という男である。
相川は、もと警官の職にありながら、ドロボウを働き、強盗をして投獄され、刑務所では脱獄まで企てた人物であった。
本間は、それまでにも数多くの刑余者の面倒を見てきたが、このような荒らくれ者をあずかるからには、万一を考えねばならないと思い、妻の次子にその決心をうながした。
彼女は同意したので、その日から相川は、二〇人余りの若者の仲間に入った。ところが彼は「殿様勝治(とのさまかつじ)」のあだ名を持つほどの怠け者で、また短気であった。
ある日、相川は血相を変えて、夫人に、
「若い仲間のひとりを、ただちに山から追い出してほしい」
と、するどく迫った。彼女はしばらく考えて、
「あなたの気にいらないような人間は、まだ社会へ出せません」
とキッパリ断った。すると彼はカッとなり、大理石を磨く刃物で、
「女のくせに生意気だ」
と、やにわに彼女の左腕に切りつけた。傷は骨まで達した。
彼女は、流れる血を右手でおさえながら、なおも相川のために祈り続けていた。急報でかけつけた本間は、とっさに相川の前に手をついて、
「相川! お前が殺したいほど憎かったのは、この本間だ。ゆるしてくれ!」
と言って土下座した。
相川は、ふたりの態度を見て、自分の非を悟った。本間は、相川と共に、傷ついた夫人を背負って病院へ運んだ。
病院に着くと本間は、自分の行為をひどく悔やんでいる相川の姿を見て、医者には、
「不注意でケガをしたので、頼みます」
と言い、治療をまかせた。そして相川ひとりに妻の看護をまかせて、帰っていってしまった。
相川は、一瞬とまどった。先ほどケガを負わせたばかりの男に、なぜまかせたりするのか・・・・。相川にとって、このように信頼されたのは初めての経験だった。
夫人も重傷の痛みをこらえながら、やさしい、いたわりの言葉を相川にかけ、彼の身の上を案じるのだった。その日相川は、本間とその妻の、自分を責めて人を憎まぬ精神にふれ、本心に立ち返った。
彼は真人間として更生した。その後は、短気をおこして暴力をふるうことはなかった。
また本間夫妻を通じてキリストの愛を知り、信仰に入った。そしてついに、本間とは年来の信仰の友であった牧野虎次牧師のもとで、罪を告白し、キリストへの信仰を表明して、洗礼を受けた。彼の妻子たちも、共に受洗した。
相川はそののち長く、東京の博愛更生保護団体の責任者として働いた。
校長への手紙
また、こんなこともあった。
長崎県のある学校でのこと。夏休みに、四名の生徒が遊廓で遊んだことが発覚した。
それが職員会議にのぼって、四名とも退学処分にしよう、ということになった。ところがその学校にいたあるクリスチャンの先生が、手紙を書いて、事情を本間に訴えてきた。
本間はそれを読み、思うところあって、さっそくその学校の校長宛てに手紙をしたためた。
本間の手紙が届いた時、長崎の校長室では、今まさに四名の生徒が、退学宣告を受けようとするところだった。そばには教頭と、学級主任が立ち会っていた。
校長室に運ばれてきた手紙の表には、墨痕あざやかな堂々たる筆跡で、
「大至急、親展」
と朱書きしてあった。その大きな文字が、校長の気を引いた。校長は封を開き、なにげなく読み始めた。
「九九匹の羊も大切だが、迷える一匹をも救うのが教育ではないか。かねて、どんな教育をしていたのか。校長の本分は十分だったか」
と、いさめの言葉が書いてある。
校長が手紙に見入っているので、一体退学処分の宣告はどうなったのかと、教頭と学級主任が不思議な面持ちで見つめた。
「どうされました。どういう手紙ですか」
校長は、考えこんだ。四人の生徒も、校長の様子に不安げである。
「むう、退学は取り消しだ。おれが悪かった」
と校長はいう。教頭は声を荒げて、
「先生、どうされました。会議の結論でしょう。困るではありませんか」。
しかし校長は、
「いや、もう一度考える」
の一点張り。そして四人の生徒たちに対し、
「諸君、今夜五時に僕の家に来てくれ」
と言った。
夜になって、くだんの生徒たちは校長宅にやって来た。校長は生徒たちを上座にすわらせ、自分は下座について、
「悪かった。ぼくの教育が足りなかった。ゆるしてくれ。僕が悪かった」
と泣いて謝るのだった。驚いたのは生徒たちである。キツネにつままれたような思いであった。
しかし、校長が自分は安易に退学を決めてしまったと言い、愛がなかったと自分を責めるのを見て、生徒たちは初めて、素直に自分の行為を反省し、あらたにやり直す思いになった。その日、校長と四人の生徒たちの心は、一つに溶け合った。
数日後、本間俊平のもとに、五通の手紙が届いた。校長と四人の生徒たちの、それぞれが差し出した手紙であった。それらはどれも、本間に対する感謝の言葉で満ちていた。
久保有政著
|