聖霊

聖霊の脈打つ場
聖霊のフリークエンシーの波に出会う。


パウロのために祈るアナニヤ



[聖書テキスト]

 「これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。
 『主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。あなたは聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。
 「なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。」
 事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。
 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。』
 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」
 (使徒の働き四・二四〜三一)


異なるフリークエンシー

 お読みしたこの箇所の三一節に、
 「その集まっていた場所が震い動き」
 とあります。今日は、この「震い動き」という言葉を中心に、"聖霊の脈打つ場"と題して、ご一緒に恵みを受けたいと思います。
 先日、今世紀最大の物理学者アルバート・アインシュタインの本の中に、このようなことが書かれておりました。
 「(肉体の死を迎えて)私たちのいる地上を去って行った者たちは、私たちから遠く離れているのではない。ただ、私たちとは異なった"フリークエンシー"において在るだけである」
 フリークエンシーとは、振動数、周波数のことです。ラジオやテレビの放送局は、ある特定の周波数の電波に乗せて番組を放送しています。目には見えませんけれども、その電波が私たちの周りを縦横に飛び交っています。
 たとえばテレビのスイッチをひねって、チャンネルを放送局の周波数に合わせますと、番組を見ることができます。別の周波数に合わせますと、また別のプログラムが入ります。フリークエンシーごとに、別の番組が放送されています。
 私は以前、東京に住んでいましたので、テレビはVHF放送でした。一チャンネルから一二チャンネルです。ところが、そののち埼玉県の児玉に引っ越しまして、東京から持ってきたテレビをそこに設置したんですが、映らないんです。
 やっぱり田舎だということでしょうか、近所の人に聞きましたら、ここはUHF放送ですよと言う。たとえばNHKは33チャンネル、日本テレビは25チャンネルを使っているといった具合で、周波数が高い。フリークエンシーの高いチャンネルなんですね。
 それでUHF放送用のアンテナを買って、そのチャンネルに合わせて、ようやく見ることができたというわけです。このように同じ番組でも、フリークエンシーが違うと、見ることができません。
 また、ここを照らしているスポットライトの光――可視光線も、またラジオやテレビの電波も、同じ電磁波と呼ばれるものです。可視光線も電波も同じ電磁波だけれども、フリークエンシー、周波数が違うだけなんです。
 またH2Oという物質は、零度以下では氷になります。常温では解けて水となり、百度以上になると水蒸気に変化して、もはや肉眼では見えなくなっていまいます。
 これは、H2Oという物質の内なる熱エネルギー、すなわちフリークエンシーが変化するために起こる現象です。氷よりも水、水よりも水蒸気のほうが、フリークエンシーが高いわけです。
 私たちは、自分の知っている人が死んでしまったようなとき、
 「ああ、あの人はどこに行ってしまったのだろう」
 と思います。けれどもアインシュタインは、いや遠くにいるのではない、異なるフリークエンシーにおいて在るだけだ、と言うのですね。


フリークエンシーの高い世界

 トーマス・エジソンという人がいますが、彼は二〇世紀の文明を切り替えたと言われるほど、偉大な天才発明家でした。
 ところが彼は小学校に入った時に、「一足す一は二」ということがどうしても分からないで、三ヶ月で退学させられてしまったそうです。それで小学校も卒業しませんでしたが、母親に、
 「したいことをすればいいよ」
 と言われて育てられまして、新聞の売り子などをしながら少年時代を過ごしました。
 彼は普通の人間とは違ったコースを歩きましたから、いろいろ違った発想が出来まして、次々と驚くべき発明をしました。
 電灯や、蓄音機を発明したのも、彼です。エジソンのことを思ったら、人間、絶望することはないですね。
 彼は、科学者としての名をあげ、巨万の富を成し、恵まれた生涯を送りました。彼は来世の知識を持っているとは思えませんでしたので、臨終の時には近親者たちは心配でした。エジソンは教会にも行っていませんでしたし、いわゆる宗教というものを持っていなかったからです。
 ところが、いよいよ危篤の時になりまして、病床でさかんに身体を揺すって起きようとします。それで夫人は医者を呼んで、
 「どうか身体を支えてやって下さい。あの世に行こうとしているのです」
 と言いました。医者が彼の身体をもたげますと、エジソンは理性的な心を失わず、澄んだハッキリした眼差しで天を見つめながら、
 "Oh! It is very beautiful over there!"(おお、向こう側の何と美しいことよ)
 と言って息を引き取りました。
 それまでは物質の研究ばかりして、信仰の世界とは没交渉の生活でありましたのに、死を覚悟すると急に身体をねじらせるようにして、彼岸を眺めて絶え入るばかりになりました。
 エジソンは夜中に息を引き取りました。しかし、向こう側は真昼のように美しいと言ったのです。フリークエンシーの高い世界では、すべて真昼のように輝いて見えます。


エジソン

 死というのは、ちょうど水が蒸発して水蒸気になる時のように、フリークエンシーが切り替わる時です。そういうときに、肉体にちょっとショックがあるかも知れませんけれども、異なるフリークエンシーの存在に移るだけです。


高い生命の振動

 今では、空を超音速旅客機が飛び交っています。昔は、この音速の壁を越えるというのが大変でした。音速を越えるとき、強烈な衝撃波が起きて、飛行機がガタピシ揺れるのです。
 しかし、いったん音速を越えてしまうと、もうスイスイと飛んでいきます。人間も、このフリークエンシーが切り替わるときは、ちょっとショックがあるかも知れませんが、一瞬のことです。あとは、肉体のしがらみから解放されて、次の状態に入っていきます。
 私たちの知っている人々の中にも、もうすでにこの地上世界を離れて旅立った人々がいます。しかし、遠くに行ってしまったのではありません。
 異なるフリークエンシーにおいて在るだけす。聖書には、彼らは競技場の観客のように私たちを取り巻いて、見てくれていると書いてあります(ヘブル一二・一)
 先日、新幹線に乗っていたときのことです。窓側の席にすわって、外の景色を眺めていました。そのとき、猛烈なスピードで通過する列車とスレ違いました。
 景色と自分の間に列車が入り込んだんですから、もう景色が見えなくなるかと思いましたが、これが意外によく見えるんですね。
 速度が早ければ早いほど、振動数が高ければ高いほど、物質的な障害が多少あっても、向こう側が見える。


速度が早ければ早いほど、振動数が高ければ高いほど、
物質的な障害が多少あっても、向こう側が見える。

 ちょうど、扇風機のファンが止まっているときは、その向こうがよく見えませんけれども、扇風機が勢いよく回り出すと、向こう側が見えますね。それと同じです。
 入り込んできた列車の向こう側の景色がよく見えました。畑で農作業している人の姿も、車も、よく見えました。
 さえぎるものがあっても、スピードがあると、さして気にならない。フリークエンシーが高くなっているからです。
 同様に、すでにこの世を去った人々は、フリークエンシーの高い世界に入っているんです。向こう側から見ると、こちらの世界はよく見えます。しかし、こちら側から見ると、見えません。
 畑で農作業していた人は、新幹線の中にいる私を見ようとしても、よく見えないでしょう。しかし、私のほうからはよく見えました。
 スピードが速く、フリークエンシーの高い世界からはよく見えます。けれども反対側からは、よく見えないのです。
 向こう側の世界からは、こちら側はお見通しです。それは向こう側はフリークエンシーが高いからです。霊の世界にいる人々は、私たちよりも、もっと生き生きした生命の振動に乗っているのです。


霊的フリークエンシーの共鳴現象

 天国というのは、この地上よりももっと高いフリークエンシーを持った生命の世界です。そこには振動数の高い霊の波、生命の波が満ちています。
 神様を知るというのは、私たちが地上に生きながらにして、この天国のフリークエンシーを持つことです。
 そのとき、私たちは天国の恵み、命、愛、喜び、力を受信することができます。
 受信機が放送番組の周波数に合っていなければ、いくら待っても番組を受信できません。人生も同じです。神様の周波数、天国の周波数に心を合わせると、地上にいながらにして、天国の喜びや愛に生きることができるのです。
 「信仰とは何ですか」
 とある人は聞きます。でも、なにも難しいことはないのです。難しい神学書をマスターすればよいのではありません。なにかの教理や、信仰箇条を頭に詰め込まなければならないのでもありません。


受信機が放送番組の周波数に合っていなければ、
いくら待っても番組を受信できない。

 信仰とは、心のフリークエンシーを神様に合わせることです。神様を愛し、信頼し、その教えに従うことです。
 そのときフリークエンシーが合います。そして神様から命と、愛と、恵みが脈脈と流れてきて止まらなくなるのです。
 私たちはそれによって、この地上を歩みながら、たとえその地上がどのような所であろうと、いつも力強く歩んでいけます。まわりの環境がどうであれ、境遇がどのようであれ、心に平安と脈打つ喜びを抱いて生きていけます。
 そしてしばしば、天国をかいま見ることさえあるのです。いまだそこに行っていなくても、しばしばかいま見るようになります。私たちにとってこの地上の生活と、天国での生活は、一本の線の上にあるからです。
 ペンテコステのしばらくあと、キリストの弟子たちに迫害が始まりました。すると弟子たちは、心を合わせて神様に祈りました。二四節に、
 「これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った……」
 とあります。彼らは心のフリークエンシーを一つにして祈りました。
 一つにすると、共鳴現象が起きます。二つ以上の波が、周波数を同じくして重なり合いますと、その波はものすごいうねりとなります。ものすごいエネルギーを発するようになります。これを共鳴現象といいます。
 彼らの祈りも、そのような共鳴現象をひき起こしました。誰か一人の信仰深い人が祈ったというのではない。われわれと同じような普通の人々が祈ったのですけれども、心を一つにして、フリークエンシーを一つにして、ただ神を思って祈った。
 すると、そのうねりは天にまで届いたんですね。
 「主よ、いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちに、みことばを大胆に語らせて下さい。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせて下さい」(二九〜三〇)
 と彼らは祈りました。
 「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した」(三一)
 彼らが祈ると、神は天国のフリークエンシーを彼らに送って下さいました。だから、「その集まっていた場所が震い動」いたという。
 これは彼ら弟子たちの心のフリークエンシーと、聖霊のフリークエンシーが合ったからです。だから、その間に共鳴現象が起きて、このようなことが起きた。
 そして彼らは、神様からの聖霊に満たされました。聖霊に満たされるためには、心が聖霊のフリークエンシーに合わせられる必要があるのですね。
 私たちは聖霊に満たされた集会に出ますと、その集会所全体が震い動いているような感じを覚えることがあります。そしてそこには、巨大な目に見えない霊の流れがあると感じます。
 集会において大切なのは、そういうことです。私たちはなぜ集会に来るかと言えば、そういう巨大な霊の流れ、命の流れにふれるからです。
 なまぬるい信仰生活を送っていたとしても、そうした集会に出ると、目が覚まされる。ビンビンと聖霊のフリークエンシーにふれて、自分もそのフリークエンシーに目覚めていくのです。
 集会というのは、本来そういう相互作用の場なんですね。聖霊のフリークエンシーに目覚めるというのは、自分の努力や何かでできるものじゃありません。
 やはり私たちが聖なるご臨在のもとにあるときに、そういうフリークエンシーに目覚めていけるのです。


聖霊のフリークエンシーに目覚める

 聖霊のフリークエンシーに目覚めるために、私たちに必要なものは何でしょうか。
 第一に、心を空にして、霊の流れに身体をゆだねることです。
 みなさんは、プールで泳いだことがあると思います。泳ぎを習いたての頃に先生から教えられることは、浮こう浮こうとしてはいけませんよ、ということです。浮こう浮こうとすると、かえって沈んでしまいます。
 水に身体を完全にまかせると、かえって浮いていられるんですね。私たちも聖霊の流れの中に、身体を完全にまかせる必要があります。


泳ぎを習いたての頃に先生から教えられることは、
浮こう浮こうとしてはいけませんよ、ということ。

 自我を張って浮き上がろうとしていると、かえってボクボクと沈んでしまいます。身体を放下(ほうげ)してしまうことです。大の字になって横たわってしまう。
 自我を捨てて、心を空にして、聖霊の御旨の中に生きることを欲する。そうすると、聖霊のフリークエンシーの高さにまで引き上げられていきます。
 自由な聖霊のみわざの中に、自分をゆだねる。聖霊の御働きの中に、自分を明け渡すのですね。
 今私たちが使っている五千円札の顔にもなっています新渡戸稲造(にとべいなぞう)先生は、若い頃に孤独になったとき、不思議な経験をしました。
 東京から北海道に行って、札幌農学校に入学して、上級生にならってキリスト教信仰に入られた。ところが二年生になると、信仰に確信を失って、疑惑がわき上がってきました。
 わけても夏休みになると、友人たちはみな帰省して、自分だけが一人ぼっちになってしまった。学生同士で一緒にいるときは、信仰上の疑問があっても、互いに祈り合って解決がつくけれども、一人では誰に訴えようもない。
 彼は学校の実習農園の草取りなどをしていましたが、心身ともに疲れ果ててしまいました。夏休みも終わろうとする八月三一日のことです。
 こんな自分ではたまらないと、夜一人静かに星空を仰いで祈っていますと、急に「天の光」に包まれる経験をした。すると、魂の内側から急に喜びがわいてきてたまらなくなったといいます。
 心のフリークエンシーが高められて、神の世界に引き上げられた。
 新渡戸先生はアメリカに渡って、留学生活の中途においても、しばしば神の光に照らされ、心の内奥で神の声を聴く経験を持たれました。
 それからというもの、新渡戸先生は教理的な理屈の信仰ではなく、一生涯、神の光に導かれて神の声を聴く者となられたのです。
 「神の声を聴く者は強い!
 と言っておられます。人々は「神の声を聴ける」などというのはウソだとか、それは特殊な人間のことだとか言うかも知れません。
 しかし、たとえ一人ぼっちであっても、心のフリークエンシーが澄み渡るとき、神様の「静かな細き御声」(T列王一九・一二)が聞こえるというのが、じつに新渡戸先生の信仰だったのです。


若き日の新渡戸稲造(1883年)



魂が震い動かされる聖霊経験

 本当に大きな働きをした人々の人生を見てみると、人生のどこかで必ず、こういう聖霊経験を持っていますね。
 そしてこういう聖霊経験は、本当に危機的な状況において起こるものなんです。平穏無事という時ではない。自分はどうしたらいいんだ、もうにっちもさっちもいかない、といった危機的な状況です。
 挫折、孤独、不安、恐れ、お先真っ暗。孤寥(こりょう)やるせなく、夜も眠れない。宗教書をあれこれ読むが、答えが見つからない。夜更けまで考え込むが、悩みは深まるばかり……。
 人生にはそういう時があります。しかし、心の貧しい者は幸いです。そういうときに、忽然として開ける世界がある。
 祈っていると突如として天の光に包まれて、身の置きどころもなくなり、身の内から光が感ぜられて、十字架のキリストが目の前に現存するのを感じる。魂の奥底から贖罪愛の喜びがつき上げてきて、天にものぼる境地となる。
 私にもそういう経験があります。これは悩みに沈んだとき、聖霊のみわざによって聖霊のフリークエンシーと私たちの心のフリークエンシーが、突如として共鳴現象を起こすからです。


新渡戸の妻となったメアリー

 かつてキリストの弟子達が祈ったときに、その集まっていた場所が震い動いたように、その孤独な魂が震い動かされるという経験があります。ブルブルと魂が揺り動かされたかと思うと、一挙に神の国のフリークエンシーにまで引き上げられる。
 一度こういう経験をすると、もはや神の国の実在を疑うことはなくなりますね。
 「聖霊の喜び」と言葉で言っても、初心の方にはなかなかわからないかも知れません。これは知識ではなくて、体験的な事柄だからです。
 私たちは、個人個人がこの聖霊に満たされるという体験をする必要があるのです。
 新渡戸稲造先生は、クェーカー派という派に属していました。昔、クェーカー派の人たちは、讃美歌も歌わず、じっと瞑想し、何時間も祈ったものです。すると、体中がクェーク、つまり揺れ動くくらいに歓喜がこみ上げてきました。
 それでクェーカーと呼ばれたのですけれども、これは聖霊による一種の共鳴現象だったわけです。現在のクェーカーは変わってしまったようですが、一九世紀頃まではそのような聖霊の喜びを伝えたものでした。
 水はそのままでは水のままです。熱して八〇度、九〇度、九九度になっても液体です。しかし一〇〇度になると、沸騰して気体となって飛んでいきます。
 水の本質は同じですけれども、状況は変わってきます。同様に、私たちもいい加減な求め方をしても、信仰は十年、二〇年やっても同じままです。
 しかし、あるところで聖霊の共鳴現象に出会いますと、信仰は沸騰して、もはやぬるま湯ではなくなる。どこにでも飛んでいける信仰となります。
 ある一関を突破すると、すべてのしがらみから解放されて、真の自由を感じるようになる。どんなことでもそうですけれども、とりわけキリストに生きる信仰は、ある域を急激に脱することが大切です。
 それは心の明け渡しと、聖霊による満たしによってなされます。そうすると、それまで地を這っていた信仰は、大空をはばたくようになるのです。


新渡戸稲造



より高いフリークエンシーの波に出会う

 第二に、私たちは、より高いフリークエンシーの波に出会うことによって、成長していくことができます。
 人生で大切なのは、自分よりも高いフリークエンシーにふれていくことです。人生は出会いで決まります。
 私たちが読んだこの聖書箇所において、この場所に集まっていた人たちの中には、キリストの使徒のペテロがおり、ヨハネがいました。一二弟子のそのほかの人たちも、みないたことでしょう。
 これより少し前、ペンテコステの日には、あの「屋上の間」にイエス様の母マリヤやイエス様の兄弟たちもいた、と書いてありますから(使徒一・一四)、彼らもこのとき一緒にいたと思われます。
 そこには高いフリークエンシーが満ちあふれていました。そこにはレベルの高い出会いがあった。私たちも人生の各局面で、より高いフリークエンシーの波に出会いたいものです。
 一九世紀のヨーロッパに、ブルムハルトという一人の牧師がいました。彼は生真面目な人で、熱心に祈る人でした。
 あるとき、精神異常の女の人が教会に連れてこられました。彼女は悪霊にさいなまれて大変苦しんでいました。
 そこでブルムハルトは、彼女のために一生懸命祈りました。一ヶ月も二ヶ月もその人のために祈りました。
 しかし、治りませんでした。あるときなどはひどく暴れ回るのです。それでほとほと手を焼いて、
 「神様、私は一生懸命祈りました。けれども、人間の祈りの力はいかに悪霊的なものに対して弱いか、そして霊的なものがいかに人間をさいなむものであるかを知りました。
 もうこれ以上は、私がどれだけ祈っても、悪霊につかれたこの女性が鎮まるわけではありませんから、祈るのをやめます。このうえは、神様、あなたご自身がお働きになる番です」
 と言って、すべてを神様にお任せしました。すると突然、その悪霊につかれた女が、
 「イエス様、あなたがお勝ちになりました」
 と言って、とたんに癒されてしまったというのです。そのときブルムハルトは、
 「これは偶然ではない。その意味することろは何だろう」
 と深く考えました。そして彼は、
 「神はすべてを任せた者に、ありありと働いて下さることを知った」
 と言いました。この経験が基礎になって、後の彼の信仰はすっかり変わってしまったのです。彼の霊的なフリークエンシーは、非常に高められました。
 彼の神学の基調は、「勝利者キリスト」です。
 「キリストの驚くべき勝利の御霊は、もろもろの悪霊を踏みつけて粉砕する不思議な力を持っている」
 と彼は言いました。こうしてブルムハルトは、霊的な伝道者として立つようになりまして、後年に至るまでずいぶん大きな影響を多くの人に与えました。
 高いフリークエンシーの波は、一所にとどまっていません。周囲に広がっていきます。
 スイスに、メンネドルフという村がありますけれども、そこにドロセア・ツルーデルという一人の女の人がいました。彼女も、ブルムハルトの影響を深く受けた人です。
 彼女が祈るとどんどん病気が治るので、何千人もの人が彼女のもとに来るようになりました。そして祈りを通して多くの人が癒されていきました。
 そのほか、バルト、トゥルナイゼン、ブルンナーと言った有名な神学者も、みんなブルムハルトの影響を受けたといいます。
 有名な『眠られぬ夜のために』という本を書いたカール・ヒルティも、ブルムハルトの影響を受けた一人です。ヒルティは、
 「一九世紀に、三人の偉大な神の人がいる。一人はロシアのトルストイ、もう一人は救世軍の創立者の妻キャサリン・ブース夫人、もう一人はブルムハルトだ。まことの伝道者を見ようと思うならば、このブルムハルトを見よ」
 と言っています。これは、人間が高い霊的なフリークエンシーの波に出会うと、いかに変えられるかということを示しています。それは多くの人の人生に深い影響を与えてやみません。
 私たちにとって大切なのは、こうした聖霊の高いフリークエンシーにふれることです。聖霊の脈打つ場に自分を置くことです。
 そうすることによって、私たちの魂は引き上げられていくのです。


最後に残ったこの一枚

 以前、賀川豊彦先生を個人的に知っている方が、こんな話をなさっていました。
 賀川先生は若い頃、肺病持ちの体で、本当に弱って青ざめた顔をしていました。しかし、
 「俺はもうすぐ死ぬんだから」
 と言って、貧民窟に入って、捨て子を次々に集めては育てていました。また行路病人の女を看取ってあげたりもしていました。
 そんな中に、あるクリスマスの頃、明治学院時代の同級生が賀川豊彦のことを思い起こしました。
 そうだ、あいつは自分が病気で、顔も真っ青だというのに、この寒い時にも寒さに打ち震えながら頑張っている。あいつに新しいメリヤスのシャツでもプレゼントしよう、と思って賀川豊彦にプレゼントしました。
 「賀川君、これは君へのクリスマス・プレゼントだ。貧民窟の貧民にじゃなくて、君にやるんだから、これを着てどうか体を大切にしてくれ」
 と言って渡したそうです。
 ところが数日後、賀川豊彦は何だか言いにくそうに、彼にこぼしたそうです。
 「どうも済まん。じつはあのシャツは、私が世話している病人に着せてやった。それがこの前死んだ。夜中に死んでな、お湯を沸かしてその体を拭きあげてやった。棺桶がないので、酒樽につめて葬った。かわいそうなことをしたが、せめて君のおかげで、きれいなシャツを着せてやれた……」
 そう言われて、その友人はもう二の句が継げなかったそうです。このときの経験は、彼にとっても忘れられないものとなりました。純粋で愛に満ちた心のフリークエンシーにふれた経験です。
 賀川先生も、この時のことを回想してか、後にこんな歌を詠みました。
 「一枚の最後に残ったこの衣
 神のためには
 なお脱がんとぞ思う

 これはただの歌ではないですね。どんなに貧しくても、どんなに自分の状態がきつくても、神のためには最後の一枚も脱ぎましょうという。
 私はこの歌に出会ったとき、より高いフリークエンシーの波にふれた思いでした。
 私も、レムナント誌を書いてきましたけれども、印刷代を捻出するのがきつくて、今まで何度も「やめようか」と思いました。しかし、
 「一枚の最後に残ったこの衣
 神のためには
 なお脱がんとぞ思う」
 と言った賀川先生に、少しでも倣(なら)いたい、その一心で続けて来ました。そうすると神様が祝福して、続けさせて下さったんですね。


賀川豊彦への彼のクリスマスプレゼントは、
メリヤスのシャツだったが・・・

 私は、人生でこのように、より高いフリークエンシーの波にふれるということが、どんなに大切かと思います。それは人生を引き上げてくれるんです。そして神の国をかいま見させてくれます。
 より高いフリークエンシーの波に出会うとき、私たちが地上で流した涙は拭い去られます。そしていかなる境遇にあっても、力強く人生を切り開いていけるようになるのです。
 信仰の生涯とは、つまるところ、これだと思います。神のみもと、天の御国から脈脈とやって来るこの高いフリークエンシーの波に、ふれていくことなんです。
 それに浴し、その中で引き上げられていくことです。ああ、みなさん、生きる希望がわいてきませんか。
 この神のみもとから来る高いフリークエンシーの波を知ったら、私たちの生命は躍動し、輝き、豊かに実りあるものとなっていくのです。主イエス様があなたと共におられるのです。
 私たちは彼から、神の国のフリークエンシーを、ビンビン感じながら生きていくことができます。この地上にあるいかなる困難も、悲しみも、不安も、孤独も、恐れも、試練も乗り越えて、力強く生きていくことができます。


どんな人生も引き上げられる

 この高いフリークエンシーに出会ったら、どんな人生も引き上げられます。
 みなさんの中には、自分の人生はつまらないものだった、と思っている方もいらっしゃるかも知れません。しかし、自分は何も持たない、自分には何もなかったという人の方がかえって、神様のフリークエンシーに共鳴しやすいのです。
 ここに集っていた弟子たちというのは、社会的には何の名誉も地位もない人々です。ペテロもヨハネも、一介の漁師にすぎませんでした。ほかの人々も、ごく普通の人々です。
 しかし、聖霊のフリークエンシーに共鳴したとき、彼らの人生は力強いものとなりました。そしてついには世界を変えてしまった。
 自分の過去には何もなくてよいのです。過去はつまらなくてもよい。大切なのは神様のフリークエンシーに、今共鳴する心を持つことです。
 この前、人気グループであったXジャパンのギターリスト、ヒデが自殺してしまいました。残念なことです。
 泥酔した中での事故かも知れませんけれども、彼の死の数週間前、彼はラジオの深夜番組に出ていまして、その番組の中で自分の死の暗示ともとれる言葉を言っていたそうです。
 「もうこれで自分の三十何年間かの人生を語り尽くしました。薄っぺらな人生でした」
 と。人間、より高いフリークエンシーに出会うことができるか、それとも出会わないかで、大きな違いが出てしまいます。
 自分の人生は薄っぺらだった――そうわかった人のほうがかえって、より高いフリークエンシーの波に共鳴しやすいのです。
 私だって、自分の人生は薄っぺらだったとわかったとき、神様のフリークエンシーの波の中にある命の輝きに目覚めることができました。そして救われた。
 みなさんもそうではありませんか。自分の過去は薄っぺらだった。誇れるものがなかった。それでいいんです。いや、かえって何か誇れるものがあるほうがよくない。
 そういうものがあると、かえって神様の救いということがわかりません。過去はつまらなかった。薄っぺらだった。しかし、いったん神様の高いフリークエンシーの波にふれる経験を持つと、もう喜びを抑えられない充実した人生が始まります。


神の光に包まれる経験

 ロシアの大文豪で、レフ・トルストイという人がいます。トルストイは、キリストの山上の垂訓を地で行こうとしたような人でした。
 このトルストイが、ある時期、問題に行きづまって、ひどく悩んでいました。
 ある日、彼は自分の憂鬱な気持ちを消そうしていて、森の中を歩き始めました。すると、丸太の木の上に腰をかけて粗末な黒パンを食べている年寄りの木こりに出会いました。
 その木こりは、姿は乞食のようにみすぼらしいけれども、うれしそうに顔を輝かせて食べている。それでトルストイが、
 「どうしてあなたは、そんなに喜んでいるのですか」
 と聞きますと、彼は答えました。
 「私が街の雑踏の中を歩いていたとき、突然、神の光に包まれる経験をしました。そして私は、うれしくてありがたくてたまらなくなりました。それからというもの、何を失ってもこの喜びは失うまいと思い続けてきました」
 と。これを聞いて、トルストイは自分の家に帰りました。
 そして何日も過ぎましたが、彼の憂鬱な気持ちは晴れません。しかしあるとき、その木こりの姿を思い浮かべていましたら、トルストイも神の光に包まれる経験をした。
 以来、トルストイも、どんな状況にあっても尽きることのない喜びというものを知りました。そして彼は優れた後半生を送りました。


トルストイは木こりに、「どうしてあなたは、
そんなに喜んでいるのですか」と聞いた。

 ある方々は、信仰とは「ああしなければならない」「こうしなければならない」ということだと思っておられるかも知れません。けれども、信仰とは道徳ではありません。
 信仰が一種の道徳のようなものであるうちは、人はまだ天上の喜びというものを知りません。信仰とは、天の世界が開かれる経験です。
 天の世界が自分の真上にウワーッと開かれて、自分が神の光に包まれ、高いフリークエンシーの世界に引き上げられる。だから、もう嬉しくて、ありがたくてたまらなくなる。
 どんな境遇にあっても、その喜びが魂の奥底からコンコンとわき上がってきて、止まらない。そういう境涯に入ったとき、信仰は私たち自身の生命となります。
 信仰とは、「ああせねば」「こうせねば」という道徳ではありません。信仰とは神様の命にふれて、私たちの命に、あふれる躍動と輝きが与えられることです。


神の光の中を歩み続ける

 第三に大切なことは、私たちが、神の光の中を歩み続けることです。そのとき、より高いフリークエンシーの人生を歩むことでできます。
 私は以前、神学校の学生だったとき、自分を訓練する意味で、"財布を持たない伝道旅行"というのをやったことがあります。財布を――もちろんその中身もですが――持たずに四日間、田舎の町々を歩いて伝道してまわったんです。
 福音書を読みますと、あるときイエス様は、弟子たちを訓練するために、七〇人の弟子たちを二人ずつ組にして伝道旅行に送り出しています。そのときイエス様は、弟子たちに財布を持たせなかった。
 弟子たちは一銭もお金を持っていけませんでした。イエス様は、彼らに服の着替えも、旅行カバンも、持たせなかったんです。そういう話が、ルカの福音書の一〇章に書いてあります。
 彼らはイエス様から送り出されて、伝道旅行に旅立ちました。しばらくして、彼らは帰ってきました。みなが「喜んで帰ってきた」と記されています。
 彼らは、伝道旅行中、何も乏しく感じることがなかった。みなが嬉しくて嬉しくてたまらないといった表情で、帰ってくることができたのです。
 私は、仲のよかった同級生にこの聖書箇所を読んで、
 「これと同じことを、今度の春休みに二人でやってみないか」
 と持ちかけたんです。彼はウンと言いましたから、二人で奥多摩に伝道に行きました。
 持っていったのは、奥多摩までの片道の電車賃と、聖書だけです。奥多摩駅に着いたとき、私たちは無一文でした。そこから、私たちの伝道旅行が始まったのです。
 奥多摩の坂道をのぼりながら、村から村へ歩きました。そろそろお腹が減ってきました。そういうときに、道ばたに――誰が落としたんでしょう――一個のみかんが落ちていたのです。私は一瞬拾おうかと思いましたけれども、このときはそれを我慢して、拾いませんでした。
 一軒一軒、私たちは玄関のドアをたたきながら、イエス様の福音を証ししてまわりました。多くの人は玄関払いですけれども、私たちは喜んで伝道してまわりました。
 ここらへんは教会がないんです。少しでも福音を伝えられればと思いました。
 あるところに来て、中学生に「四つの法則」(伝道用の小冊子)を用いて福音を伝えました。彼は素直に信じました。
 そのあと、私と一緒に伝道していた彼が、疲れていたのか、ある家の前で道端にすわりこんで、吐いてしまったんです。吐いたといっても、しばらく何も食べていませんでしたから、あまり出ませんでしたが。
 ちょうどそのとき、その家の奥さんが帰ってきました。「あら、どうしたの?」というわけで、心配してくれて、家に上がらせてくれました。
 それで、その奥さんとゆっくり話すことができて、二人でイエス様の福音を証ししました。すると、スポンジが水を吸収するように、福音がその心に浸透していくんですね。
 「イエス様をあなたの罪と滅びからの救い主として受け入れますか」
 と聞きますと、「はい」と言います。私たちは信仰の決心のお祈りを導いてあげました。
 その方が救われたことで、私たちの喜びは言いようもないものでした。そして、その家で初めて食事にありつくことができたんです。
 感謝でしたね。そしてまた、次の家々に伝道してまわりました。
 やがて夜が来ました。春のことですけれども、こういう田舎は夜は寒いです。それに野宿の用意もしていません。近くにキャンプ場があったので、事情を話したら、ただで泊めてくれました。
 ああ、主イエス様が共にいてくださるんだなと感謝しました。ある日は、教会に泊めてもらったこともあります。
 毎日、違う場所に行って伝道しました。ずいぶん、たくさんの人に声をかけました。四日間だけでしたけれども、四人の人が信仰の決心をしましたよ。それに私たちも、ちゃんと毎日食事ができました。
 ヒッチハイクをして、車の中で運転手に伝道したこともあります。帰りの電車賃は、出会ったある方がくれました。
 そういうわけで、帰ってきたときは、大喜びで帰ってきたんです。あの弟子たちの喜びもこういうものだったんだろうな、と思いました。


神のもろもろの善を喜びながら

 こういう経験は、今も私の人生に生きています。私は、人生というのは旅だと思っていますから、ある意味では、あの伝道旅行は今も続いていると思っているんです。
 日々、主の導きに従って生きていく。そういうことは、あのときも今も変わりません。主の教えを実践すると、不思議な高いフリークエンシーの波が自分を取り巻く、ということがわかりました。
 これは伝道旅行に関してだけではありません。人生のいずこにあっても、神様の光の中を歩み続けますと、イエス様から来る高いフリークエンシーの波があなたを取り巻きます。
 そして不思議な導きと祝福が、あなたを包むようになるのです。これは経験した人でないとわかりません。あなたは、それを感じたことがあるでしょうか。
 かつて神様は、モーセに対して言われました。
 「わたしは、わたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう」(出エ三三・一九)
 と言われました。神様は私たちの前を進んで下さって、私たちの前に「もろもろの善」を通らせて下さいます。私たちは、それを人生で楽しみ喜びたいと思います。
 人生とは、神様の良きものを楽しみ喜ぶためにあります。私たちの人生は、神様のもとにある、より高い生命への階段なのです。
 私たちはその階段を、信仰をもって一歩一歩踏みしめながら、上っていきます。そして上るに連れて、終着点の明かりは、より輝きを増して見えてくるのです。
 私たちは誰でも、いずれこの地上の人生の旅を終えて、別の次元のフリークエンシーにおいて存在するようになる日が来ます。
 そのとき、イエス様に贖われた者たちは、天国の輝くフリークエンシーの波に出会って、全くそれと同化させられます。一つになります。
 地上において流した涙はすべて拭い去られて、歓喜と愛があなたを包むようになります。私たちを最終的に待っているのは、死もなく悲しみもない、喜び尽きない新天新地と呼ばれるふるさとです。
 永遠の命という、驚くべき輝きを持った、最高のフリークエンシーに躍動する生命です。
 そういうものが私たちを待ち受けている。それがクリスチャンの最終状態であると知ったら、この地上にある少しばかりの試練や艱難辛苦など何でしょうか。
 大切なのは、来たるべき神の御国の高い生命のフリークエンシーにふれながら、高められながら生きることです。二千年前にあの集会場を震い動かした聖霊様は、今もあなたの魂を震い動かして脈打つのです。

                                  久保有政(レムナント1998年8月号より)

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