未生(みしょう)以前の幸福
人間の本当の幸福とは何か。
コレッジオ画「籠の聖母」
[聖書テキスト]
「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。あなたがたはこれを見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように生き返る」。(イザヤ六六・一三〜一四)
[メッセージ]
私は以前、本当にあったこんな話を聞いたことがあります。
アメリカ・オレゴン州に住むある男性の話です。彼はそのとき、五〇歳でした。
幼ないときに、彼は孤児院で育てられました。その後、ある人にもらわれて、養子となって育てられました。彼は非常に幼い頃に孤児院に入れられてしまったために、自分の本当の生みの親の顔を覚えていませんでした。
彼の育ての親となった人は、亡くなる直前に、彼に生みの母親の名前を初めて教えてくれました。しかし生みの母親は、彼がいくら探してもなかなか見つかりませんでした。
こうして、彼は自分の生みの母親の顔を知らぬまま、約半世紀を生きてきたのです。そのあいだ、彼はこんな人生観を抱きながら、生活していました。
「私の実の母親、生みの母親は、私を育てもせずに、捨ててしまった。きっと私を必要としなかったからだ。だから私を孤児院に入れてしまって、私をルーツのない人間にしてくれた」。
ラファエロの生家にある壁画
よみがえった記憶
彼はいつも劣等感や、疎外感の中に悩まされながら生きていました。旅をするたびに、育ての母親が最後に教えてくれた彼の生みの母親の名前を頼りに、電話帳を調べて、それらしき人に全部電話をかけました。しかし、すべては徒労に終わっていました。
そうした涙ぐましい努力を、彼はもう四、五年も続けていました。しかしあるとき、何気なく見ていたあるテレビ番組が、彼の生涯を決定的に変えたのです。
そのテレビ番組で放映されたのは、ある孤児院での事件でした。その孤児院の院長は、社会からは慈善事業家として尊敬されていた、ある一人の女性でした。
ところが、その女性院長が亡くなってからわかったことは、じつは慈善事業家とは聞こえのいい表看板にすぎないということでした。実際は、彼女は何人かの部下を使って、闇市の子供売買をしていたのです。
彼女は、自分の目をつけた子供を、つぎつぎと遊び場から誘拐して、車を使って連れ去りました。そして子どもの欲しいカップルに、高額の手数料をとって売りつけていたのです。
孤児院とは表向きの看板で、実際はそこは、子供を売り払うまでの一時的な留置場にすぎませんでした。テレビ番組では、彼女の死後に判明したこの彼女の正体を、リポートしていました。
その番組を見ていた彼は、テレビに放映されたその孤児院の光景に、一瞬、目が釘づけになりました。なぜなら、その孤児院の建物や、部屋、階段の光景などは、彼の記憶の中に覚えのあるものだったのです。
それまでは存在しているとは思わなかった彼の記憶が、うずもれた心の奥から少しずつ表面に浮かび上がってきました。そうです。彼はかつて、その孤児院に入れられていたのです。
彼の心によみがえった記憶は、次のようなものでした。
彼は四歳の頃、ある日、兄弟や近所の友達と一緒に、戸外で遊んでいました。そのうち、黒い車がゆっくりと近づいてきました。後ろの座席には、ある女性が座っていて、子供たちを観察しているのが見えました。
車が止まるや否や、彼はあっという間に大きな男の手に捕えられて、強制的に車に入れられ、さらわれてしまいました。
行き先は、あの孤児院でした。そしてしばらくして、育ての親のもとに売られていったのです。
彼のよみがえった記憶は、さらにそれ以前のものにまで到達しました。やがて、微笑みを浮かべた彼の実の母の記憶、生みの母親のやさしい顔が、彼の脳裏に浮かび上がったのです。
彼の意識の世界に、実の母親が戻ってきました。ふさふさとして光沢のある母の黒髪が、彼の小さな手に触れていた時の思い出。
また、実の兄弟とも楽しくボール遊びをしていたひとこまも、思い出されました。みんなが遊びに熱中する声も聞こえました。
彼はそれまで、自分を親身になってかわいがってくれた実の親や親戚はないものと、思いこんでいました。しかし今や、うずもれていた過去の記憶が、脳裏の奥底からよみがえったのです。
彼はあのテレビ番組を手がかりに、自分の肉親探しを再開しました。そうしてついに、テネシー州やノース・カロライナ州にいる実の親戚とも、四六年ぶりに再会できたといいます。
彼はそのときの感激を、涙を浮かべながら語りました。
「もう、嬉しくて嬉しくて、感激で胸がいっぱいです。空港では、母の弟になるおじさんが、旗を掲げて、先頭に立って私を大歓迎してくれました。それも大家族で出迎え。僕にも兄弟姉妹が五人もいたと知って、びっくりしました。
けれども母は、もう亡き人になってしまって・・・・。お墓まいりをしてきました。母の元気な顔を見れずに、悲しいです。でも、存在していないと思っていた家族がいて、うれしい。四六年間も会わなかったのに。
再会した家族は、家族の愛情で私を温かく包んでくれました。そしてずーと前から私を知っていたように感じさせてくれたのです。家族の愛情を意識的には経験したことのなかった私は、それがとてもうれしくて、その感激を毎日味わっています。
人生観がコロリと、一昼夜で変わってしまいました。自分のルーツに戻れて、夢以上のものがかなった気分です」
と。
私たちの母
この男性はついに、自分のルーツに帰りました。彼は自分の生みの母を思いだしたのです。
彼はこの記憶に達するまで、孤独感と疎外感で悩まされていました。しかし、自分の生みの母を思い起こしたとき、再びその愛情の中に憩うことができたのです。
私たちの母は誰でしょうか。聖書は言っています。
「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め・・・・」(イザヤ六六・一三)。
これは新改訳ですが、口語訳では、
「母のその子を慰めるように、わたしもあなたがたを慰める」
です。この方が良い訳です。神は、私たちにとって母のような方、いや、本当の意味で「母」なのだと、聖書は私たちに語っているのです。
聖書では一般に、神を「父」と呼ぶことのほうが多いです。しかし、「母」と呼ぶこともあります。主イエスはあるとき、エルサレムを見て、
「ああ、エルサレム、エルサレム。・・・・わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか」(マタ二三・三七)
と言われました。また、かつてモーセは、荒野放浪四〇年の最後に、イスラエルの民にこう語りました。
「あなたがたがこの所に来るまでの全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ」(申命一・三一)。
これはまさに、母親のイメージではありませんか。
私はかつて、西洋の神学を学んだとき、どうもついていけない考え方がありました。それは、神を「絶対他者」と呼ぶことでした。
西洋の神学者は、神を「絶対他者」と呼ぶ。神は創造者で、人間は被造物(ひぞうぶつ)。人間は絶対に神になれない。確かにそうです。そういう意味では、神を「他者」と呼ぶことは間違いではない。
しかし、本当の神は"単なる他者"ではない。聖書は、神を「母」にたとえています。神は母のような方であると。
母というのは、単なる他者ではありません。私たちは誰でも、かつて生まれる前は、母のお腹にいて、母と一体だったのです。その胎内にいて、へその緒を通じて、母と一体化していました。
そして母というものは、その子を産んでからも、心情的には常に子どもと一体です。物理的には離れていても、心ではいつも一緒なのです。
あの孤児院の番組を通して、生みの母を見いだしたという先の男性の場合も、お母さんはついに生きている間は息子と再会できませんでしたけれども、心の中では常に息子と一緒だったことでしょう。
母親は自分の子を、どんなことがあっても、決して忘れないものです。母は単なる他者ではなく、それ以上のものです。あなたの母は、誰でしょうか。
あなたは、肉親としての母を知っておられることと思います。この地上の母を知っておられることと思います。しかし、あなたの、もっと根源的な母がおられるのです。
ラファエロ画「草原の聖母」
未生(みしょう)以前の母
かつてイスラエルの王であったダビデは、詩篇の中でこううたいました。
「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。・・・・それはあなたが私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。・・・・あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが書き記されました」(詩篇一三九・一、一三、一六)。
ダビデは、自分に生命を与えたのは神である、と理解していました。母の胎のうちで私を形造られた方は、神であると。
イスラエルでも有名な手島郁郎先生は、地上の母よりももっと根源的な、自分のルーツがある。自分に生命を与えて下さった神こそが、自分の未生以前の母、未生以前の父である、ということを語っています。
自分が未だこの世に生まれぬ以前に、神という最も根源的な自分の親がおられた、という発見なのです。
未生以前の母の発見、未生以前の親の発見というものは、私たちの人間性を根底から確固としたものとします。それは自分のルーツの発見なのです。
あなたはどこから来て、何者で、どこへ行くのでしょうか。
私たちはこの世に生まれ、成長して思春期を迎え、やがて大人になります。すると、この世の様々な苦しみを知るようになります。
外からは、社会や周囲の人間関係からの様々な苦しみを受け、内からは、自分自身の弱さや罪に悩まされます。自分は孤独であり、疎外されていると感じることもあります。
そして、本当の幸福とは何だろうと考えて、幸福を求めてやまなくなるのです。人間は誰しも幸福を求めます。幸福を求めない人はいません。
そして本当の幸福を求めていくとき、人にはやがて宗教心が芽生えるようになります。かつてシャカが、裕福な何不自由ない生活を捨てて、王宮を出たのはなぜでしょうか。彼は本当の幸福を求める宗教心に目覚めたからです。
かつて聖フランシスコが、裕福な商人であった家を出て、清貧の生活に入ったのはなぜでしょうか。本当の幸福を求める宗教心に目覚めたからです。
人間は、本当の幸福を求めてやみません。しかし、本当の幸福は、人間にとって全く未知のものなのでしょうか。それは遠い、はるかかなたにあるものでしょうか。人間が一度も体験したことのないものなのでしょうか。
そうではありません。人間が物心ついてから、幸福を求めるようになるのは、人間はかつて「幸福」を知っていたからです。人間というものは、かつて一度も自分が体験したことのないものを求めたりはしません。
心理学者のフロイトが、「どうして人間は宗教を求めるか」ということを言っています。
「人間はいつごろから不幸が始まったか。母親の胎を出た時からである」
と言っています。母親のお腹の中で羊水にひたってぷかぷかしているときは、幸福だった。母親の愛情と栄養をいっぱい受けて、未生以前の幸福の中にあった。しかし、胎内から出たときから、人間の不幸が始まった。
「人間はいつごろから不幸が始まったか。
母親の胎を出た時からである」
私はかつて、様々な悩みの中にあって、不安と孤独と疎外感に陥っていたことがありました。そのとき、ふとしたことから、近所の人の幼な子の笑顔を見たのです。
まだヨチヨチ歩きの幼な子が、母親の笑顔のもとで、楽しそうに遊んでいました。屈託のない、その純真無垢な幼な子の笑顔を見たとき、私は自分の忘れかけていたものを、思い起こさせられた気がしたのです。
なぜ幼な子の笑顔が、あれほどに純真無垢で、天真爛漫なのか。それは幼な子は、ついこの間まで、母親の胎内で未生以前の幸福の中にあったからです。
未生以前の幸福
みなさん、私たちは、自分で気づく、気づかないにかかわらず、無意識のうちに、未生以前の幸福を知っているのです。未だこの世に生まれぬ以前に体験していたあの幸福を、知っているのです。
母親の胎内で、神のお取り扱いと愛を受けていたときの、未生以前の幸福の記憶が、潜在意識の奥底に残っているのです。
だからこそ、物心ついてから、私たちは幸福を求めてやまなくなる。かつて経験していたものを、無意識に再び求めてやまなくなるのです。
「母がその子を慰めるように、わたしもあなたがたを慰める」という神の御言葉は、この未生以前の幸福に、私たちが再び帰ることを意味しています。
この「慰め」というのは、うわべだけの、何かの作り事の慰めではありません。それは人間の最も根源的な平安、安息、喜び、愛なのです。かつて預言者イザヤも言いました。
「主は・・・・イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた」(イザ四九・五)。
イザヤも、自分を母の胎内でお造りになったかたが神であると理解していました。そして神こそ、自分の究極的な親、自分の未生以前の母であったのです。
そこには彼の未生以前の幸福があった。そしてこの未生以前の幸福の発見、未生以前の母、自分の真の親の発見こそが、彼を預言者たらしめたのです。
そして彼をして、苦難の時代にも力強く生きることを可能にしました。それは彼が、神のもとにこそ、自分のルーツがある、自分の安息、故郷、ふるさと、そして自分の未生以前の幸福、あの母の温かい懐(ふところ)があると、知っていたからです。
かつて神は、アブラハムに現われて言われました。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」(創世一七・一)。
この「全能の神」という言葉は、ヘブル語で「エル・シャダイ」です。「エル」は「神」、「シャダイ」が「全能」と訳されています。
「シャダイ」という言葉は、アダム・クラークという神学者によると、じつはもともと「乳房」という言葉なのです。
母親の乳房があればこそ、赤ん坊が成長できます。母乳は、完全食品です。赤ん坊は、ものを食べられるようになるまでは、母親の乳だけで育ちます。
「わたしは全能の神である」。この「全能」という言葉は、
もともと「乳房」という言葉であると言われる。 ドニ画「母の喜び」
それは母乳の中には、成長に必要なすべての栄養素が含まれているからです。私たちは毎日同じものを食べていると、栄養が偏ります。しかし、母乳はそうではありません。
その中には、成長に必要なすべての栄養素が、バランスよく入っているのです。母乳は完全食品です。
神は、信仰的に幼い私たちのためにすべてを供給して下さる、母のようなお方です。必要なものは何でも与え、供給して下さるのです。それが、神が「全能である」という意味です。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」。
神という全能の母の懐にこそ、私たちの未生以前の幸福があるのです。
昔、本間俊平(ほんましゅんぺい)という人がいました。この人は東京の霊南坂教会で信仰に入ったのですが、若い頃は土木会社の組頭になったり、宮内庁で働いたりしました。
やがて彼は山口県の秋吉台に行きまして、どこも雇ってくれない前科者や非行少年を集めて、彼らに多大な感化を与えながら信仰に導き、また共に山から大理石を掘る仕事をしていました。
しかし、ある日、とうとうすべての大理石を掘り尽くしてしまって、もう大理石の鉱脈がなくなってしまいました。
「ああ、これで終わりだ。もうこれでおしまいです。みなさん、明日は山を下りて解散しましょう」
と言って最後の祈祷会をやっていました。ところがその祈祷会の最中に、地震が起きたのです。ああ、鉱脈が尽きただけではない。小屋から何からすっかり潰れてしまったと思って、落胆し切っていました。
ところが翌日起きてみたら、地震のために、今度は違う所に、もっと素晴らしい大理石の鉱脈が顔をのぞかせているではありませんか。それでそれを掘って、なお二〇年も掘り続けることができたのです。
本間俊平は、
「祈りは不思議な力ですよ」
と言っていました。神は、必要なものは何でも供給して下さる全能の神、エル・シャダイなのです。
神は母のように、子どもたちのことをいつも思っていて下さるのです。そして必要なものは、ご自身の全能の御力によって、何でも備えて下さいます。
全能というのは、冷たいものではありません。それは母の懐の温かさを持っています。
あなたのルーツ
あなたは、この母をもう見いだしましたか。未生以前の幸福を再び見いだしましたか。
あひるの子は、自分のルーツを知っているでしょうか。
あひるの卵は、にわとりの卵とよく似ています。それで、にわとりは、ときに、あひるの卵を一緒に自分の翼の下で温めて孵(かえ)してしまうことがあります。
あひるの卵はやがて、ひよことなって、しばらくは、にわとりの母鳥や、にわとりの雛たちと遊んでいます。しかし、日が経つにつれて、にわとりのひよことは違った育ち方をして、何かしら水辺を慕い始めます。
そしてあるとき、あひるの子はザブンと川の中に飛び込んで、泳いで向こう岸へ渡ってしまいます。すると、もうそれっきり、にわとりのもとには戻ってきません。
向こう岸には、同類のあひるたちと、自分の本当の産みの親がいるからです。あひるは、自分の未生以前の本当の産みの親を知る感性を持っているのです。
あひるの子は、自分のルーツを知っている。
そして自分の未生以前の幸福に帰るまでは、落ち着きません。
私たちはどうでしょうか。聖書のエレミヤ書というところに、
「しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように・・・・」(エレ一七・一一)
という言葉が記されています。しゃこ(鷓鴣)というのは、きじと同じくらいの大きさの鳥ですけれども、全体的に茶色で、くちばしと足は赤く、胸に白いぶちがあります。
じつは、しゃこは一度に二〇個以上の卵を産みます。ところがしゃこは、ときおり自分が産んだのではない、他のしゃこが産んだ卵を、自分のもとで抱いていたりすることがあります。
母鳥になりたい本能なのか、それとも分別がつかないからなのかは、よくわかりません。ともかく、自分が産んだのではない、他のしゃこが産んだ卵を抱いて孵化させてしまうのです。
しかし、その卵がひなとなり、物心がつくと、そのひなは育てられた巣を離れて、自分が産み落とされた本当の巣と、自分の実の生みの母親を探し出します。そしてついに、生みの親鳥のもとに居着いて、もう帰ろうとはしないのです。
不思議な習性ではありませんか。しかし、どうやって、しゃこは、自分の本当の母を知るのでしょうか。卵の殻の中からは見えない"未生以前の母"を知る感性を、彼らはどうして持っているのでしょうか。
私たちは、未生以前の本当の母を、本当の親を知る感性を持っているでしょうか。持っています。
「神は・・・・人の心に永遠への思いを与えられた」(伝道三・一一)。
私たちはやがて、「永遠への思い」に目覚めて、自分の真の親、自分の未生以前の幸福を探し求めてやまなくなるのです。
かつて、ヨブという人は言いました。
「私を胎内で造られた方(神)は、彼らをも造られたのではないか。私たちを母の胎内で形造られた方は、ただひとりではないか」(ヨブ三一・一五)
と。あなたはこの「永遠への思い」に、もう目覚めていますか。
信仰とは、自分の未生以前の親を知ることです。未生以前の父母を知ることです。そこに、私たちの未生以前の幸福があったのです。
未だ私たちが生まれぬ以前から、神の愛と恵みが私たちに注がれていました。「永遠への思い」とは、それを思い起こすことです。
あなたが意識しようとしまいと、また忘れていようといまいと、私たちは未生以前の幸福を知っていたのです。それは天地の造り主、また人間の創造主である神のみもとにありました。
あなたに命を与えたのは神なのです。あなたを造られたのは神です。あなたの真の幸福は神のみもとにあります。
あなたは再び、この幸福を知る権利があります。再びこの幸福に帰る権利があります。
なぜなら、あなたは神の愛の中で造られ、この世に生を受けたからです。あなたは神の愛のうちに命を与えられて、この世に生まれてきたのです。
人生の三次元
パスカルというフランスの科学者で、哲学者でもあった人が、
「人間は三次元の動物である」
ということを言っています。一次元は直線の世界です。一方、広がりを持つ面の世界は二次元です。そして、立体の世界が三次元です。
パスカル。
人生には3つの次元がある。
聖書も、ある箇所では、人間を体と心と霊(魂)の三つで表現しています(Tテサ五・二三口語訳)。じつは、人生には三つの次元があるのです。
私たち人間は、生物学的には哺乳動物の一種です。私たちは肉体的な、一次元的な存在としては、そのような単なる自然的な動物の一種です。
ですから、しばしば動物と何の変わりもない生活をします。現代のような動物的な時代になりますと、ますますそれがひどくなります。
ただ飲み食いのために生きている。何の恥じらいもなく猥談(わいだん)に花を咲かせたり、情欲のままに生きたりします。
時代が動物的な時代になると、神がいるのかいないのかもわからなくなり、そういう話をすることさえ恥ずかしがるようになります。宗教に対して口を閉ざすようになります。
これが、一次元だけの生活をしている多くの現代人の姿です。本能と、感覚的なことだけを求めているのが、一次元の世界です。
つぎに二次元の世界は、心や理性の世界です。
人間は、産業や文化、文明を発達させました。これは二次元の世界です。人間の心や理性が現われた世界です。
芸術家、科学者、技術者、経営者などの中で優れた人々は、みな二次元の心の世界の醍醐味を味わって生きています。
ある会社員が、定年を迎えて、自分の人生を振り返ってみました。
「私は今まで、とにかく会社に尽くして働いてきた。そして家族を養ってきた。朝から夜まで働いて、仕事が終わると同僚と飲みに行って、その繰り返しだった。自分の楽しみもしたけれども、ほとんどは会社のために尽くす人生だった。しかし、人生とはそれだけのものなのだろうか」。
みなさん、多くの人は一次元と、二次元の世界だけで生きています。
自分の楽しみ――本能に従った生き方や、快楽を求める生活は、一次元の世界です。また会社のために尽くし、ビジネスや商売をする世界は、二次元の世界です。
ビジネスは、二次元の世界!
しかし、人生はそれだけのものでしょうか。いや、人生にはもともと、もう一つ上の次元の世界もあるのです。
それはもともと備わっていたのですが、多くの人はそれを忘れてしまったのです。その、もう一段高い世界とは、霊的な神の世界、神の愛の世界です。
私たちは、肉体的には、この地上の母親のお腹から生まれました。また文化文明の点では、自分の生まれた国や環境の子です。しかし、これら一次元、二次元の世界を越えたもっと上の世界――一段高い三次元の世界に、私たちはさらにリンクされているのです。
私たちには、神の愛の中を生きる命が与えられています。神の真理と、恵みと、その大いなる世界の中をはばたいていく能力が与えられています。
あなたは、この世界に目覚めているでしょうか。
直線をいくら集めても、面にはなりません。面をいくら積み重ねても、立体にはなりません。それと同様に、一次元の動物的世界にいくらひたっていても、三次元の世界は知り得ません。また二次元の心と理性の世界にいくら長くいても、三次元の霊的な神の世界は知り得ません。
神の霊的な高い世界を知るには、その世界の中に信仰によって結ばれることです。信仰によって、神が親であり、自分が子であるという意識に目覚めることです。「神の家族」の世界に目覚めるのです。
最初にお話ししましたあの男性は、五〇歳になるまで、実の家族というものを体験したことがありませんでした。しかし、自分の兄弟や両親の居場所をついに探し当てたとき、家族に温かく迎えられ、そのとき初めて「家族」という意識に目覚めたのです。
その愛と命の交わりに目覚めたのです。本当の世界は、目に見えないところにあります。そこには、本当の愛と命があふれています。あなたの未生以前の幸福があります。
私たちは、神との親子関係、また神の家族という意識に目覚めるとき、霊的な神の世界の高嶺を知るのです。
神の家族に目覚める
あなたの親は神です。あなたは神の子なのです。クリスチャンたちは、あなたの兄弟姉妹です。
私たちはイエス・キリストを通して神を知り、神の子であることを回復します。
主イエスが話されたたとえ話の中に、「放蕩(ほうとう)息子のたとえ」というものがあります(ルカ一五章)。この息子は、財産をもらってから家を出て、放蕩三昧(ほうとうざんまい)をしてまわりました。
しかし彼は、こうして家を出てしまってからも、もはやその家の息子でなくなったというわけではありませんでした。彼はずーっと、その家の息子でした。
けれども、息子であることを彼は忘れていたのです。そして放蕩三昧をやって、やがて惨めな状態に陥ってしまった。
やがて、彼は「我に返り」、自分のお父さんを思い起こして、家に帰ろうと思い立ちました。自分があの家の子どもであることを、彼は思い起こしたのです。
放蕩以前の幸福を思い起こしました。そして、自分のルーツである「家族」の意識に目覚めました。
彼は、自分の今までの自分勝手な生き方を悔い改めて、その家に帰ったのです。お父さんは興奮を隠しきれずに、息子を抱きしめて喜びました。
そのとき、彼は本当の意味で、その家の息子となったのです。
彼は、放蕩以前の幸福を思い起こしました。また、かつて近くにいた父母を思い起こしました。
そして、そのもとに帰ったのです。私たちも、未生以前の幸福を思い起こし、未生以前の母、父を思い起こして、そのみもとに帰ろうではありませんか。
神と心を一つにして、共に生きようではありませんか。
神の子であることの自覚、その自覚に目覚めることこそ、あなたの人生を決定的に変えるのです。あなたを、あの未生以前の幸福の中で形造り、命をお与えになったかたこそが、あなたの親なのです。
あなたはその子どもです。エル・シャダイ――全能の神、すべてを供給なさる方によって愛を受け、その胸の中で命を与えられた子どもなのです。かつて賀川豊彦という人は、
「自分は妾(めかけ)の子だけれども、神の子だ」
と言って自分を励まして、大きな働きをなしました。自分は神の子とされた者という自覚に目覚めると、この地上世界はすべて、神の家の庭なのです。聖書に、
「この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハ一・一二)
と記されています。私はこの聖句の意味を、みなさんに本当に知っていただきたいのです。
これを、私は未信者の方々だけに言っているのではありません。すでにクリスチャンになった方々も、単なる教えられた知識としてこれを知るのではなく、神の子であるという本当の自覚、また聖霊による意識に目覚めていただきたいのです。
これは本当は、考えれば考えるほど、とてつもない恵みです。このように、つまらない自分が神の子であるとは。
しかし、神様のほうでは、あなたを「つまらないもの」とは思っておられないのです。なぜなら、あなたは母親のような神の愛を受けて、生を与えられた者だからです。
神のもとにこそ、私たちの未生以前の幸福がある。
神の子の自覚
かつて私がクリスチャンになって、まもなくのことでした。イエス・キリストを信じて神の子となった、ということは教えられていたので、頭の中では理解しているつもりでした。
しかし、それがどういうことなのか、まだよくわかっていなかったのです。けれども、ある朝のことでした。早く目が覚めたので、私は近くの林の中を散歩し始めました。
うすく霧のかかった木立を、静けさがおおっていました。自分の足が土を踏みしめ、空気を切って歩き、小鳥の声やそよ風の静かな音を感じたとき、私は、自分をはるかに越えた大きな存在に包まれていると感じました。
大自然の中で・・・
私は「天の父よ」と呼びました。すると私の心に、「わが子よ」と聞こえたのです。そのとき、心は自分が神の子とされたという喜びと感激で、あふれるばかりになりました。
神の子としての自覚に目覚めたあの日以来、私の人生は決定的に変わりました。もしその自覚に目覚めなかったら、私はきっと全く違う人生を歩んでいたことと思います。
ルカの福音書三・三八において、人類の父祖アダムは「神の子」と呼ばれています。それは彼が、神の深い愛の内に創造されたからです。そして、神のかたちに創造されたからです。
アダムの子孫である私たちも、本来、神の子です。しかし、罪を犯して、神を忘れた自分勝手な道を歩んだために、私たちは神の子であるという状態を失っていました。
しかし、今や神の特愛の御子であるイエス・キリストを通して神に立ち帰り、私たちも神の子とされるのです。神の子であることを回復するのです。
あなたは、神の子であるという自覚、意識に立ったでしょうか。単なる教理ではなく、それが自分の人生そのものとなるまで、その意識にしっかり立ったでしょうか。
神の子として生きることは、人生の目的、また意味そのものなのです。人生の目的は幸福です。その幸福は神と共に生きることにあります。つまり、神の子として生きることにあるのです。
神は父としてのご性質だけでなく、母としてのご性質も持った方です。なぜなら、
「神は・・・・人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」(創世一・二七)
と記されています。神は人をご自身のかたちに造られたからこそ、人は男と女とになったのです。つまり、神の内には父性も母性もあります。だからこそ、人は神のかたちに造られて、男と女なのです。
私たちの人生の目的は、この神と共に幸福になることにあります。
神は、人を通してご自身が喜びを得たいとお思いになって、人を創造されました。また、神は、ご自身によって人が喜びを得ることをも、お望みになりました。
つまり、神が人によって喜びを受け、人が神によって喜びを受けることを望まれたのです。それが、神が人を造られた創造目的でした。
神の創造目的は、神ご自身の幸福と人の幸福の双方を計るものだったのです。人生の目的は幸福です。そしてそれは神と共に生きることにあります。
私たちは、神の息子、娘たちです。私たちが信仰によって生きることは、そのまま私たちの親である神の栄光なのです。
なにも、神の栄光を現わそうと思って踏ん張るのではありません。神の子としての意識を持って生きるとき、自然に神の栄光が現わされていくのです。
オラース・ヴェルネ画 「ヴァチカン宮殿のラファエロ」
生ける神
ジョン・ウェスレーの弟のチャールス・ウェスレーは、オックスフォード大学を卒業し、四年間伝道者としての奉仕をしましたが、どうも恵まれた伝道ができませんでした。
やがて彼は、身心疲れ果ててロンドンに帰って、肺病まで病んで苦しんでいました。そんなとき、ドイツの田舎からやって来たペーター・ベーラという、モレビアン派の伝道者に出会ったのです。
その若い伝道者は、学問こそなかったのですけれども、そばにいるだけでゾクゾクするような霊感をチャールスは覚えました。彼は、やがてアメリカから帰ってきた兄のジョンに、
「私はペーター・ベーラという伝道者に会ったが、じつに不思議だ。彼と共に神が生きておられるように感じる」
と言いました。ジョンも、
「私も伝道者としてアメリカに出かけていったが、まったく実らなかった。しかし最近、ドイツからモレビアン派の人たちが次々とやって来て、みな伝道に成功している」
と言いました。そして彼らは兄弟二人で、ベーラのところに出かけて行きました。
やがて二人とも、一七三八年のペンテコステの朝、教会に行く途中で不思議な霊感に打たれて、聖霊に満たされました。
彼らの心は、幸福で満たされました。私たちの真の親である神からの幸福です。
その夜のことでした。チャールス・ウェスレーがベッドに就いて寝ようとしていましたら、ひとつの声を聞いたのです。
「そのまま寝るんじゃない。あなたの病は、ナザレのイエスの名によって癒された。さあ、立て!」
という声を聞きました。それで彼は、その声なき声に対して、
「あなたを信じます」
と叫んで立ち上がりました。すると全身が火のように燃える経験をしました。こうして彼は病からいやされ、以後八二歳まで伝道活動をすることができたのです。
癒しというのは、なにもペンテコステ派の特許ではありません。チャールス・ウェスレーは、ペンテコステ派ではありませんでした。神を信じる者には、誰にでも、驚くべき聖霊のみわざが行なわれるのです。
チャールス・ウェスレーは、以後九〇もの讃美歌をつくりました。彼の讃美歌は、今も多くの人々のハートを共鳴させてやみません。「聖歌」の中に入っている多くの聖歌は、彼がつくったものです。
チャールスは、兄のジョンのように理論家でも、説教家でもありませんでした。しかし彼はいつも、「来たりて見よ」と言って伝道しました。ともかく来て、自分の目で見なさい、と言う伝道です。
主イエスは、バプテスマのヨハネの二人の弟子に対して、
「来なさい。そうすればわかります」(ヨハネ一・三九)
と言われました。行って、見ればわかる。何も難しい説教を用意しなくてもいい。来て、見たらわかる。
日本の教会は、そういう場であって欲しいですね。信者が未信者に、「来て、ともかく見なさい」と言わずにはいられない場所であって欲しい。
しかし現在、少なからぬ教会がそうではありません。それはキリストの十字架の血が、生命が、神の霊が私たちに宿って、私たち自身を通して働くということを、知らないからです。
チャールス・ウェスレーはよく言いました。
「わたしを見るのではありません。わたしの内に住む救い主を見て下さい。私の内に救い主として聖霊が宿り、この私を通して聖霊がささやき、語りつつある声に聞いて下さい!」
と。そう叫ぶ時に、みなが聖霊の力に圧倒されました。いつも集会では、それだけしか言いませんでしたが、同じことを何度語っても、リバイバルが起きたのです。
こうしてイギリスにメソジスト運動というものが起きて、プロテスタントの宗教的行き詰まりを復活させる原動力となりました。
自分が神の子であるという恵みに目覚め、神を身近に感じる経験に目覚めると、命は充実し、輝き、躍動して、豊かに働き始めるのです。
動物的な世界や、理性の世界をも越えた、もっと大きな豊かな世界があることがわかってくる。未生以前の幸福が、再びこの世で、現世で展開し始めるのを見る。
あなたの人生に、もっと大きくされたかたちで、あの未生以前の幸福が躍動するのを見る。神の命と霊に目覚めると、自分の内側と頭上に、輝きわたる大宇宙が展開していることに気づくのです。
ジョンとチャールスの母は、スザンナと言いました。スザンナは、貧しい中で一九人もの息子・娘たちを育てました。ジョンとチャールスは、その末っ子でした。
スザンナはよく、子どもたちを自分の膝の上に抱きかかえ、一人一人に言い聞かせました。
「おまえの霊的な感受性をダメにするようなものは、何でも用心なさいよ」
こうして母親が教え込んだことが、ジョンやチャールスらの心根をつくりました。
ジョンとチャールスは、年老いてからも、母スザンナを慕ってやまず、その薫育(くんいく)を思い出しては涙にむせいだといいます。
スザンナは、母性中の母性を持った人でした。偉大な人々には、偉大な母がいたのです。
ジョンやチャールスが、神のうちに"永遠の母"を見いだすことができたのも、このスザンナがいたからこそであると思います。彼らは母スザンナを通して、大宇宙に満ちる神の母性に目覚めました。
私たちが神を知るとき、私たちは永遠の母に目覚めます。大宇宙の真ん中に、私たちの父であり母である神がおられる。そして自分が、その永遠の御手に抱かれているのを感じるのです。
アントニオ・ロッセリーノ作 「微笑む聖母子」
生命的なタッチ
日本の伝道会ではよく、「神・罪・救い」という説教がなされます。はじめに神の存在と、神は愛であるということが言われる。次に、人間の罪深さを説きます。そしてキリストの十字架の贖いによる救いを説きます。
これは確かに、聖書の重要な教えの一つです。しかし、これだけが聖書の教えなのではありません。
イエス・キリストご自身の宗教は、もっと「生命の躍動と輝き」を前面に打ち出すものでした。それはご自身を信じることによる生命の躍動と輝きを、人々に体験させるものだったのです。
盲人のバルテマイがキリストのもとに叫びながらやって来たとき、バルテマイは、キリストから「神、罪、救い」の説教をされたのではありません。バルテマイはキリストという、より高い生命に触れて、自分の盲目をいやされた上、喜びに満たされ、生命の躍動と輝きを与えられたのです。
バルテマイにとって、悔改めとは、より高い生命にすがり、より高い生命に触れて、自分の生命のすべてを一新していただくことでした。生命的なタッチこそが、回心だったのです。
今日、欧米では、精神的な病を持つ人がカウンセラーのもとに来ると、カウンセラーは
「あなたは教会に行ったりしてはいけない」
と教える人が多いそうです。理由は、教会では人の罪深さを徹底して教えるために、かえって鬱になってしまって、病が重くなってしまうからというのです。
どこかおかしいですね。カトリックなどでは、懺悔(ざんげ)のための告解室(こっかいしつ)などが教会内にあって、いつも信者はそこで懺悔を繰り返しています。
しかし、懺悔を繰り返すことがイエス・キリストの宗教なのではありませんでした。バルテマイが喜びに満ちて帰っていったように、キリストの宗教は、本当は喜びと命にあふれるものなのです。
自分は罪深い、悪い奴だと自分を打ちたたいていれば、それで悔改めなのではありません。むしろ悔改めとは、信仰の目をパッと見開き、より高い生命にふれることにより、あっという間に生命的に一新されてしまうことです。
神に結ばれて、未生以前の幸福の中に再び入る。すると、一瞬にして自分がキリストの十字架上で死んで、キリストと共によみがえり、新しい人となったと体験します。
自分の内なる罪深さも、そのより高い生命によって焼き尽くされてしまうのです。生命的にことごとく新しくされてしまいます。
このように回心とは、神の命にふれることです。イエス・キリストの宗教はまさにそれでした。
福音書を読んでご覧なさい。キリストのまわりの人々は、みなそのような体験をしています。偉大なお方にふれ、生命的に新しくされたために、喜びに満ち満ちている。
ザアカイも、サマリヤの女も、みなそうでした。それが、本当のキリスト教です。それが、日本人に必要なキリスト教です。
ジョヴァンニ・ベリーニ画 「聖母子」
喜びのあまり立ち帰る
誤解しないで欲しいのですが、私は「神・罪・救い」という福音の提示の仕方が悪いと言っているのではありません。しかし、それ一本槍のキリスト教は、どこかイエス・キリストご自身の教えからかけ離れてしまうのです。
ユダヤ人の有名な心理学者でエーリッヒ・フロムという人が、「神に立ち帰る」という言葉は、喜んでうれしさのあまり立ち帰ることだと、述べています。
仕方なく帰るというのではない。偉大なお方のもとに行き、偉大な人格に触れるので、うれしくてうれしくてたまらない。
私は大学時代に、非常に尊敬している先生がおりました。その先生の言葉を聞き、書いたものを読み、また近くにいるだけで、自分が高められるのを覚えました。
自分のほうであれこれするわけではない。ただ、その人格に触れているだけで、自分が生命的に変わってしまう。
ましてや、神に触れることは、どんなに大きな生命的変化をもたらすことでしょう。悔改めとは、神に触れることです。
自分の親である方に触れることです。自分の未生以前の幸福の源であった方の命に、触れることです。
自分のほうであれこれすることを考えるより、ただ偉大なお方を見上げて、神の命に触れるのです。すると、触れるだけで、自分が生命的に新しくなっている。
たとえば、あなたが今暗い場所にいるとしましょう。そういうとき、あなたは自分の体をあれこれ見ても、どこが汚いのかわからないでしょう。
しかし、一歩進み出て、スポットライトの下のような明るい場所に出る。すると、あなたはその明るい光を見上げて目を奪われることでしょう。
一瞬あなたは、下を向いて自分の体を見てみると、様々な汚れがついているのが見えます。けれども光に触れて、あなたは光の温かさを感じて、心に喜びを感じるようになるでしょう。
神の命の光に触れるというのは、これに似ています。自分の醜さがよくわかったから神のもとに行く、というのではない。暗やみの中にいる人は、自分の醜さがわかりません。
しかし、神の光のもとに出て、神の命に触れる瞬間、自分の醜さがわかったと同時に、次の瞬間には神の命によって自分が一新されてしまっているのを覚えるのです。
自分の醜さがわかるのが早いか、それとも一新されるのが早いかわからないくらい、それらはほぼ同時に起きます。
けれども、気がついたときには、神の子として自分が神の愛の中に包まれているのを覚えるのです。未生以前の幸福の中に再びひたっている自分を見いだすのです。
神の命の光に触れること、それが回心です。あなたは、もうその神の命にふれましたか。自分の魂の奥底まで、隅々にまで、神の命の光に照らされる経験を持ったでしょうか。
あなたは、私たちの父であり母である神の永遠の御腕があなたの存在を下で支えている事実に、目覚めたでしょうか。その方があなたの本当の親であること、そしてあなたはその子であることに、目覚めたでしょうか。
あなたは、再び未生以前のあの幸福に帰る権利があるのです。母が子を慰めるように、神はあなたを慰め、母が子を喜ぶように、神はあなたを喜んで下さいます。
レオナルド・ダ・ヴィンチ画
久保有政著(レムナント1998年2月号より)
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