心眼開ける時
「天」が見えてくると、人生が大きく広がる。
アロンソ・カーノ画
「福音書記者ヨハネの神の幻視」および「小羊の幻視」
われらの主イエス・キリストは言われました。
「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」(マタ六・一九〜二三)。
あなたの目が健全なら
ここで主イエスは、「天に宝をたくわえよ」と言われた直後に、「あなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい」と続けておられます。ふつう聖書学者は、天に宝をたくわえることと、目が健全なことと一体何の関係があるかと、解釈に苦しみます。
しかし、いったん心の目が開けて天の富が見えてくると、解釈に苦しんだりしません。
「あなたの目が・・・・」とありますが、原語のギリシャ語の「目」は単数形(ホ・オフサルモス)で、"一つの目"を意味します。英語なら、If
your eye is goodです。
「あなたの一つの目が健全なら」──これは、私たちの二つある肉眼のことではありません。これは霊の目、または心の目なのです。
禅宗では「一隻眼(いっせきがん)」と言いまして、霊的な法眼を開くことを求めます。禅宗だけではありません。私たちは、霊の目、心の目を開く必要があるのです。
そのときに初めて、肉眼では見えない世界が見えてきます。天上の光景が見えてくるのです。
愛するみなさん、肉眼で見える世界がすべてではありません。見えなくても、存在しているものがたくさんあります。
たとえば、私たちはどうやっても、電波というものを肉眼で見ることはできません。手で触れることも、感じることもできません。しかし、電波はこの部屋の中をも、縦横無尽に飛び交っているのです。
すべての物質は、エネルギーという、肉眼では見えないものから成り立っています。肉眼で見えるものは、見えないものから成り立っているのです。
じつは、見えない世界にこそ、宇宙の本源的なものが隠されています。霊の目が開かれると、
「ああ、この宇宙は何と不思議な無尽蔵な宝に満ちているのだろう」
とわかってくるのです。
「あなたの一つの目が・・・・」とわざわざ単数形で書いてあることは、じつに重要なことです。もしこの霊の目が、目潰れになっていたら、その闇はいかばかりでしょう。
この目が開かれないと、人はいつまでも天界というものがわかりません。神の世界、霊の世界というものがわかりません。
霊の目を開く
私たちは、「五感」とも言われる、五つの肉体的な感覚器官を持っています。聴覚、視覚、味覚、臭覚、触覚です。
これらの感覚器官を通して、私たちは外界を認識しています。もしこれらの感覚器官がなければ、この世に生きていたとしても、外界を認識することはできません。
しかし、人間にはもう一つ、霊の目があるのです。肉体的な五感と同様、もしあなたの霊の目が、きちんと感覚器官として働いていなければ、あなたはたとえ生きていたとしても、天の世界を認識することができません。天の世界から見れば、霊の目が開いていない人は、死んでいるのと同じなのです。
ときおり私たちは「第六感」などといって、直感的に心に何かを感じることがあります。天界に向けて開かれた霊の目、心の目こそ、人間の第六の感覚器官なのです。
霊の目は、地上に生きる私たちと天界との接触点です。
人間は、内に霊を宿していて、見えない天界からのシグナルをビリビリと受けています。それを受けとめて、感じるのが、あなたの内なる霊の目なのです。
あなたの霊の目は開かれているでしょうか。
生き生きとした人の目は、輝いてみえるものです。病人の目は、しばしば曇って暗く見えます。
霊の目が開かれた人は、天上から見ると、その霊の目が光って見えます。内なる命の光がその目からこぼれて見えるのです。ちょうど目があかりのようになって、光っています。それは内なる命の光が、そこからこぼれているからです。
以前、あるSF映画に、目から光を放っている宇宙人が出ていたことがあります。イメージとしてはそのような感じと言ってもいいでしょう。天界から見ると、霊の目が開かれた人は、そのように目から光がこぼれて見えます。
しかし、霊の目が開かれていない人は、その体のどこからも、光がこぼれていません。
主イエスは天界におられましたから、いつもこの光景を見ておられました。ですから、
「目はからだの明かりである。・・・・もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さはどんなであろう」(二三節、口語訳)。
と言われたのです。霊の目は天界との接触点ですから、それがちゃんと開かれていると、人間は天界の命をどんどん受けて、内側がその命に満たされるのです。それが光り輝いて、目がからだの明かりになって見える。
ですから、「からだの明かりは目です」という御言葉は、いつも天界から人間たちを見ておられた主イエスのご経験なのです。天界から見れば、その人が命の光に満ちているか否かは、目──霊の目を見ればわかる。
霊の目は、天界と私たちの接触点ですから、たいへん大切なものなのです。それで主イエスは、
「もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが・・・・」
と言われました。この訳では、原文の意味が充分表されていません。「健全」と訳されたハプルースという言葉は、「単一、純一」という意味です。
英語の欽定訳では、if thine eye be singleと訳しています。single──「あなたの霊の目が単一(純一)で、真一文字に天を見上げているようであれば」という意味です。
あっちこっちを見ている目ではない。ただ一筋に天を見上げる目です。
移りげな目ではない。天の素晴らしさに魅せられて、天を見つめてやまない目です。
私は以前、主イエスの母であるマリヤを描いたある絵を見て、魅せられてしまったことがあります。そのマリヤの目は、非常に遠くを見つめていました。
その目の輝きの中には、天国の光景が映し出されているかのように、私には思えました。
私たちは近くを見ていると、目が寄り目になります。しかし遠くを見ていると、視線が平行になります。
美術評論家に言わせると、そのマリヤの目は、平行どころか、よく見ると開きすぎているくらいだ、とのことでした。私たちの目も、近視眼的なものではなく、つねに天を見上げていく目でありたいのです。
先日天に召されましたマザー・テレサは、この天を見つめる目を持った人でした。彼女が祈るときの目、それはいつも天を見つめてやまないものでした。
その目には、いつも天国の光景が映し出されているようでした。天の世界をいつも見つめてやまないからこそ、この汚れた地上に生きていながら、本当に大切なものを握りしめて生きることができるのではないでしょうか。
多くの人は、天を見つめるこの目を持っていないわけではありません。ただ、多くの人は眠ってしまっていて、この目を閉じてしまっているのです。
しかし、いったん自分は神の子であるという自覚に目覚めると、霊の目が開かれて、その人の前に天界の光景が広がります。そして天界の光と命に魅せられて、目を奪われてしまうのです。
それは私たちが朝、目覚めて、美しい木漏れ日に目を奪われてしまうこと以上の経験です。
多くの人は、人間は動物の一種だぐらいにしか思っていないので、神の世界に接触することのできる者だとは思っていません。しかし聖書には、人間には「永遠への思い」が与えられていると書かれています。
人間は、永遠の世界、神の世界、天の世界につながるチャンネルを与えられている。人間は、生きながらにして、天の世界と接触できるのです。
聖イグナチウス・デ・ロヨラ
真一文字に天を見つめる目
もし、あなたの霊の目が真一文字に天の世界を見つめる目であれば、「あなたの全身が明るい」と主イエスは言われる。
この「明るい」という言葉は、原語では"光り輝く"(フォーティノス)という言葉です。あなたの霊の目がただ一筋に天を見つめているなら、あなたの体全体が光り輝くであろう、というのです。
昔、イタリアのアッシジにフランシスという聖者がいましたが、彼が説教していると、後光が射して全身が光り輝いて見えたといいます。ジョン・ウェスレーもそうでした。いろいろな聖者の伝記には、そういうことが数多く書かれています。
人は、「それはただ聖人を奉って書いてあるだけだ」と言いますが、実際に不思議な、物質ではない光が輝き染める経験というものがあります。神の子としての性質が輝き始める。人間はそういう精妙な存在なのです。
昔の聖人たちだけではありません。私は、キリストの命に触れて救いを受けた方々の証しを聞いているとき、その人の体全体に不思議な光が輝き染めているのを見ることがあります。
みなさんも、そうではありませんか。霊の目が開かれていると、そういう光が見えてくるのです。
私たちの体というものは、本来、天からの光をいれる入れ物です。天界との接触点である霊の目が開かれていると、私たちの存在は、霊の目を通して入ってくる天からの光に満たされます。
そうすると、天の宝の素晴らしさがわかってきて、もはや地上の物質的な宝など、どうでもよくなります。地上の金銭、財宝などは、一時の手段ではあっても、目的ではない。
人間の価値は、持ち物によるのではありません。
世の人は、裕福な人や金持ちの人を見ると、その人の前では深々と丁重な態度をとったりします。金持ちの人も、周囲の人がそういう態度をとるので、金持ちだということだけで偉い人種なのだと勘違いしていることがあります。
しかし、持ち物の豊かさが人の価値を決めるのではありません。霊の目が開かれると、それがわかってきます。
霊の目が開かれると、この地上のいかなる富をも超えた天上の無尽蔵の富がわかってきます。霊の目が開かれないうちは、私たちは本当の宝の一%も知らないのです。
「この金細工は光り輝いてきれいだ」とか「このダイヤモンドの指輪はきれいだ」「この街のネオンはきれいだ」などと、この世の光を見ているだけでは、人生は光り輝いてきません。
天を見つめて、内なる光を与えられなければ、人生は本当の光に満ちないのです。霊の目が開かれて、
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(詩篇一九・一)
という神の光の世界が見えてくるとき、その喜びはもはや言いようもありません。
「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見る」(詩篇三六・九)
という神の光の世界が見えてくるとき、人間はどんなに幸福であるかわかりません。
主イエスは言われました。
「もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」。
一つの目、霊の目が開かれていないと、全身が暗く、人生が気の毒なほど暗くなります。
多くの人は、お金が貯まり、物が増え、金殿玉楼に住んでも、自縄自縛になって救いを得ません。一つの目、霊の目が開かれないからです。
しかし霊の目が開かれると、どこもかしこも神の国です。たとえ貧民窟にいようと、荒野にいようと、本当に神の光に満ちて人生を歩むことができる。そして自分の心の意識、心情、思いが大きく広がっていく。
見えないものが見えてくる。広く豊かな世界に生きることができます。キリストの命にふれて、キリストの光の中を歩むと、そういう人生になります。
新しい世界が開けるとき
私はこれを、未信者の方々だけに言っているのではありません。すでにクリスチャンになった人も、ただ単にキリスト教という教理を信じるというだけでなくて、キリストの命の光の世界を体験しながら生きる必要があります。
罪の自分しか知らない人は、謙遜して小さく生きることが信仰だと思っています。しかし、私たちの霊の目がぱっちりと開かれて、天界が眼前に広がるようになると、神の命が私たちの内にみなぎるようになります。
そして、命の躍動と輝きに満ちた人生というものを知るようになるのです。五つの感覚では感じられなかった不思議な世界が開けてくるのです。
マザーテレサは、はじめインドのカルカッタで、裕福な子女を対象とした学校の校長先生をしていたそうです。しかし、その学校から一歩外に出ると、非常に貧しい中で野垂れ死にしていくような人々がたくさんいる。
テレサは思い悩みました。自分は本当に今のような生活をしていてよいのだろうか。そんなとき、テレサに神の声が聞こえてきたのです。
「あなたは出ていって、貧しい中でも最も貧しい人々に愛の手を差し伸べなさい」
と。テレサはその神の声に従う決心をしました。そしてそののち、死ぬまで約半世紀にもわたって、路上で野垂れ死にしていくような人々を世話し、彼らに希望と愛を与えていったのです。
人生には、忽然(こつぜん)と霊の目が開かれる瞬間というものがあります。テレサが神の声を聞いたとき、そのときテレサには新しい世界への目が開かれたのです。
マザーテレサにも、忽然と
霊の目が開かれる時があった。
神が言われたのだから、神が命じられたのだから、たとえ人間的には困難に見えても、そうした世界が必ずや開けてくる。霊の目で見たものが、やがて肉の目でも見えるようになって現実となる――そういう確信が、テレサの心にわきあがりました。
テレサは、なぜ神の声に従うことができたのでしょうか。それは彼女の霊の目が、新しい世界へと開かれたからです。貧しい人の中でも最も貧しい人々を世話し、彼らに希望と愛を与えるという、いまだ彼女自身経験したことのない世界が、彼女の心の中に見えたからです。
テレサは笑顔で、神のみこころに従いました。するとどうでしょうか。また新しい世界が開けたのです。
テレサは、路上で倒れて弱っている人を連れてきて、体を洗ってやり、体についているウジをとってあげました。食べ物を与え、飲み物を与えてあげました。しばらくして、その人は、テレサの腕の中で「ありがとう」とひとこと言って息を引き取りました。
その表情の何と美しかったことか。その人の見せた感謝の気持ちは、それまでのテレサの苦労をねぎらって余りあるものでした。テレサは言いました。
「貧しい人々に私が与えたものよりも、彼らから私が受けたもののほうが、ずっと多いのです」
と。これは全く新しい世界でした。与えることにより与えられ、さらに豊かにされる世界が見えてきたのです。
マザーテレサは、ノーベル平和賞も受け、テレビやラジオでよく報道されたので、世界的に有名になって、知らない人はほとんどいません。しかし、そのほかにも、今日のようにテレビのない時代だったために有名にはならなかったが、マザーテレサと全く同じように立派な働きをした、という人々がたくさんいます。
その一人は、田内千鶴子(たうちちづこ)です。彼女は、韓国で、路頭に迷っていた韓国人孤児たちを集めて世話をし、施設をつくり、孤児たちに希望と愛を与えたという、たいへんに良き働きをした人でした。
しかも当時は、韓国と日本の仲が今以上に険悪だった時代です。それでも、日本人だった田内千鶴子は、韓国人孤児たちの悲惨さから目を背けることができないで、彼らのために一生を捧げたのです。
彼女は、韓国人の孤児たちから「母」と呼ばれて慕われました。彼女はまさにマザー・タウチでした。
田内千鶴子もまた、マザーテレサと同じように、新しい世界に目が開かれる時があったのです。彼女はクリスチャンでしたけれども、単に自分のためだけの信仰ではなく、神のみこころを行ない、目の前にいる隣人のために生きる信仰へと目が開かれたのです。
私は、日本人の中に、韓国であのような良い働きをした人物がいたことを知って、心から神をあがめました。
最近、田内千鶴子の生涯を描いた映画が作られました。日本では何カ所かで上映され、また韓国でも上映される予定でした。
しかし韓国では、上映の許可が政府からおりませんでした。日本映画は、韓国では上映禁止なのです。日本の映画を上映して、韓国の人々が日本の悪習に染まったらいけないということで、韓国では日本映画の上映は法律で禁止されています。
田内千鶴子の映画は、実際は韓国と日本の合作映画です。しかし資金の大半が日本側で出されたということで、日本映画と見なされて、上映許可が降りませんでした。この政府の決定に、反発して抗議してくれた韓国の政党もあったようですが、まことに残念なことです。
多くの人々には知られなくても、霊の目を見開いて立派な働きをした人々は、たくさんいます。彼らの行ないは、たとえ人には知られなくても、天の世界ではしっかり神の目にとまっているのです。
一つの感覚が開けて多くの世界が見えてくる
私たちの霊の目は、しっかり開いているでしょうか。真一文字に天を見つめているでしょうか。
京都の比叡山を開いた最澄(さいちょう)は、「一念三千(いちねんさんぜん)」ということを言いました。一つの「念」──真の心が開けてくると、三千大千世界が開けてくる。地上界だけでない。もっと大きな世界が開けてくる。
ましてや、キリストの福音によって霊の目が開かれた人は、何と大きな世界が開かれることでしょうか。信仰の心に目覚めると、大きな世界が見えてくる。
新しい感覚が開かれると、新しい世界が開かれます。たとえば、女性が結婚して子供を産むと、母性愛というものが芽生えてきます。
一人の独身女性として生きているうちは感じられなかった、新しい愛の世界が開けてきます。母として生きることが、こんなにも嬉しいものかと驚く。
しかし、この感覚が開けていない人は、母性愛という世界をいくら他の人から聞かされても、充分な意味で満喫することはできません。それと同じです。
霊の目という感覚が開けていないうちは、神の命の世界を満喫することはできないのです。いくらキリスト教の教理をよく知っていても、いくら知識があっても、満喫することはできません。
本当の神の人は、みな霊の目をはっきり開いて、天界を見てきました。
昔、イスラエルの国にエリシャという預言者がいました。エリシャはある日、付き添っている若者と共に、ある町にいました。
若者が朝目覚めて外に出てみると、なんと敵の軍隊が町を取り囲んでいるのが見えました。若者はあわてて、預言者エリシャにそのことを知らせました。
普通なら絶対のピンチです。しかし、エリシャは少しもあわてずに、
「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」
と言いました。エリシャには、天界がすでに見えていたのです。そしてエリシャは祈って言いました。
「どうぞ彼の目を開いて、見えるようにしてください」。
若者の霊の目が開かれるように祈ったのです。そして若者が見ると、天国の軍勢が町を取り囲んでいました(U列王六・一七)。
私たちの人生には、様々な困難がやって来ます。もし霊の目が開かれていないと、私たちには困難しか見えません。
しかし、霊の目が開かれていると、天国の軍勢が自分と共にいるのが見えるのです。そして神が私の先頭に立って導いて下さる、ということが見えてくるのです。
グエルチーノ画「ヨセフを悼むヤコブ」
発想が違ってくる
また、イザヤという預言者は、あるとき霊的に引き上げられて天国の光景を見た、とイザヤ書の六章に書かれています。
天国では天使たちが飛び交い、神を讃えて、
「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」
と叫び、呼び交わしていたということです。
この天国を見た経験というものは、彼のその後の預言者としての活動の大きな力となりました。彼の活動した時代は、イスラエル史上最も罪深い暗黒時代でしたから、彼には次々に困難が降りかかってきました。
しかし、どんなに困難がやって来ても、彼が打ちひしがれることがなかったのは、彼の前には常に天界が開けていたからです。天の世界がわかると、この地上の歩みが違ってきます。
使徒パウロも、使徒ヨハネも、そのような経験をしました。天の世界を見ることは、人生にとってどんなに大きな力でしょうか。
この世でも、ある勉強のためにアメリカや、フランス、イギリス、ドイツ、そのほか海外で勉強してきた人は、国内だけで勉強した人とは少し違う発想ができます。
ましてや、天の世界が見えている人は、地上だけを見ている人とは違う発想ができます。本当に価値あるものは何なのか、どうしたら道を切り開いていけるか、上からの知恵が与えられるのです。
私たちは、イザヤや、パウロ、ヨハネほどではないにしても、霊の目をはっきりと見開いて、天界を見つめながら生きていきたいと思います。
イスラエルの王であったダビデは、言いました。
「私はいつも私の前に主を置いた」(詩篇一六・八)。
「私の目はいつも主に向かう」(詩篇二五・一五)
と。私たちはこの地上に居ながらにして、「いつも」主を見ていることができます。
この地上世界の事物を透かして見て、その奥に、天の世界を、また神の御顔をいつも見るのです。
霊の目が開かれると、この地上の物質世界は、いわば半透明のようなものになります。その半透明の地上世界の向こうに、いつも天の世界を見通すことができるようになるのです。
地上の世界のすべての出来事は、いわばガラスの窓に描かれた絵のようなものです。それをよく見ると、そのガラスの向こう側には、天の世界、神の世界が透かして見えるのです。
現在の見える状況がどうであろうと、その奥にある神の導きを見通すことができるようになります。どのような困難や試練が人生にあろうと、神が背後で守っていてくださる姿を、奥に透かして見ることができるのです。
それが、「霊の目が開かれる」「心の目が開かれる」ということです。私たちは、そのような目が開かれているでしょうか。
ニコラ・プッサン画「聖パウロの法悦」。
パウロには「第3の天」を見るという経験があった。
奥に透かして神の世界を見る
ダビデは、イスラエルの王になるための油注ぎを、預言者サムエルから受けました。しかし、そのときにはまだ、現実にはサウルが王として君臨していました。
目に見える世界では、サウルがまだ王だったのです。ダビデはその家来でした。優秀な家来でした。
しかしサウルは、悪霊につかれて、優秀なダビデをねたみ、迫害するようになりました。ダビデは殺されそうになったのです。
サウルは、ダビデの妻にすると約束した娘を、他の者に与えました。サウルはまた、自分の娘ミカルに対するダビデの愛を利用して、ダビデを殺そうと謀りました。このために、ダビデは何度も死線を越えました。
ダビデは宮廷を離れて、逃亡生活をしなければなりませんでした。ダビデは預言者サムエルの所に逃げたり、友人ヨナタンの所にかくまわれたりしなければなりませんでした。
また、あるときはペリシテ人の王のもとに逃れなければなりませんでした。このペリシテ人の王はダビデをかくまうのを拒んで、かえって捕らえたので、ダビデは気違いを装ってようやくその難をのがれることができました。
ダビデは、ほら穴に隠れなければならない時もありました。ダビデの両親も、異国の地モアブにのがれました。
ダビデは、自分の職も地位も失い、家族も、愛する人も、名声も、安全も、安定した生活も、みな失ったのです。彼を取り囲んでいたのは、危険と死の恐怖だけでした。
愛するみなさん、このように目に見える状況が悪いことばかり続くとき、私たちならどう思うでしょうか。
もし地上の世界のことしか見えないと、私たちは絶望するほかないのです。しかし、ダビデはそうした地上世界を透かして、その向こうに神の御手を見ていました。
「私の目はいつも主に向かう」。
もし私が、この試練の中でも神を信頼し、落ち着いて忍耐して進むなら、神はやがて試練のすべてを益と変え、私を高く引き上げて下さる――そういう確信が、ダビデの心にわき上がっていました。霊の目が開かれると、そういうことが見えてくるのです。
そして実際、ダビデが忍耐して、誠実な態度を貫いていると、神はサウル王を退けて、ダビデをイスラエル第二代の王の座に着かせて下さったのです。
そしてダビデは、立派な政治をイスラエルに敷きました。彼は、つねに霊の目を開いて、肉眼では見えない神の世界をみつめて生きたのです。
しかしやがて、しばらくして、ダビデが罪を犯してしまったことがありました。彼は女性問題で、大きな罪を犯してしまったのです。
そのときダビデは深刻な悔い改めを示したので、神は彼の罪を赦してくださいました。ダビデは死ぬことはありませんでした。
しかし、罪の行為に対する赦しはあっても、罪の行為があった結果は残ります。ダビデは個人としては罪を赦され、その魂は神に回復しましたが、父として、また王として、多くの苦い杯を飲まなければなりませんでした。
ダビデの家庭には、次々と災いが起こるようになりました。家庭はやがて崩壊していったのです。
親不孝な王子アブシャロムの野心は内乱にまで発展し、国を混乱におとしいれました。そのため、ダビデは王宮を捨てて、エルサレムの都から逃げ出さなければならないほどになってしまったのです。
彼は泣きながら、オリーブ山を登ったと聖書に記されています。その後、ベニヤミン人のシムイという人が、ダビデをあざけり、のろって言いました。
「出て行け、このよこしまな者。お前がわざわいに会うのは当然だ」。
しかし、そのときダビデは、こののろいの言葉を甘んじて受けたのです。
ダビデの家来は、「ダビデ様、あいつを打ち首にしましょう」と言いました。しかしダビデは、今回の災いが、もともとは自分の罪に発したことを知っていました。だから、のろいの言葉を受けたとき、それを主からの懲らしめの言葉と思って、反発することをしなかったのです。
私たちがこのような立場に置かれたら、私たちはどう対応するでしょうか。ダビデは言いました。
「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いて下さるだろう」(Uサム一六・一二)
と。愛するみなさん、なんと、いさぎよい心でしょうか。
ダビデのこのいさぎよい心は、この一連の災いと暗黒の中に輝く一筋の光明だったのです。ダビデがこののち救われて、再び主によって高く上げられ、王の座に戻ることができたのは、この真実な心が彼にあったからです。
「主は、私の心をご覧になり、主は、
きょうの彼ののろいに代えて、
私にしあわせを報いて下さるだろう」。
ダビデは、どんなに試練があっても、もし自分が主に対して真の悔い改めを示せば、主は必ずや自分を災いから救い出して下さると信じていました。
それは彼の霊の目が、開かれていたからです。この地上世界の出来事や状況を透かして見て、その向こうに神の世界を見通していたからなのです。
「主は、私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いて下さるだろう」。
霊の目を開くとは、このことを言います。神の世界が見えてくると、どんな状況をも力強く歩んでいけるのです。
主イエスは霊の目を開く方
あなたの霊の目は開かれているでしょうか。人生全体を見通し、神の世界、天の世界をも見通す霊の目を見開いているでしょうか。
イエス・キリストがこの世に来られたのは、私たちの霊の目を開くためだ、と言って過言ではありません。
ヨハネ福音書の九章に、主イエスが、生まれつきの盲人の目を開かれたというみわざが記されています。しかし、イエスが開かれたのは、この生まれつきの盲人の肉眼だけではありませんでした。
イエスは盲人の肉眼を開いたのち、彼の霊の目も開いておられるのです。イエスはこの盲人に言われました。
「あなたは人の子(キリスト)を信じますか」。
その人は答えました。
「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように」。
イエスは彼に言われました。
「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです」。
すると、盲人だった彼は言ったのです。
「主よ。私は信じます。」
そして彼は、イエスを礼拝しました(ヨハ九・三五〜三八)。このとき、彼の霊の目が開いたのです。
つまり、イエスは盲人の肉眼をあけるという奇跡を、単なる何かの見せ物として行なわれたのではありません。この奇跡は、イエスが私たちの霊の目をあけて下さる方であるということを教えるための、一種の視聴覚教育なのです。
じつは、イエスの奇跡というものは、ほとんどがそういうものです。単に「すごい」とか「すばらしい」とか驚かせるためのものではありません。それはすべて、私たちの霊の目を開くためのものなのです。
主イエスの奇跡も、御教えも、すべては私たちの霊の目が開かれるためです。そしてイエスは今も生きて、私たちの目に触れて、霊の目を開いて下さるのです。
主は、私たちの目を開いて下さる。 プッサン画
回心というのは、イエスの御手を目に触れていただいて、霊の目を開いていただく経験です。
それは私たちが、まず自分の顔を天に向け、見えない目を主イエスのほうに向けることから始まります。主はあなたのまぶたにタッチして、いやしのみわざを行なって下さいます。
福音書を読みますと、主が盲人の目をあけられたという幾つかの記事が出てきます。先ほどの生まれつきの盲人の目をあけられたときは、イエスは一度でその目をあけて、見えるようにされました。
しかし、別のある盲人をいやされたときは、イエスは二度いやしの祈りをされました。マルコ福音書八章で、イエスは盲人の両目につばきをつけて、両手を彼に当ててやって、
「何か見えるか」
と聞かれました。すると盲人は見えるようになって、
「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」
と答えました。まだ、ぼんやりと見えたくらいだったのです。それから、イエスはもう一度彼の両目に手を当てられました。聖書は記しています。
「イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった」(マコ八・二五)。
この盲人は、はじめぼんやりと見えるくらいだったのですが、「彼が見つめていると」、すべてのものがはっきり見えるようになりました。主イエスの恵みの中で、自分で見つめる努力をしていると、すっかり見えるようになったのです。
私たちの霊の目も同じです。主イエスは、ご自身の恵みの中で、私たち自身も見ようとする努力をしなさいと、教えておられるのです。私たちの霊の目も、神の世界を見よう、天の世界を見ようと努力しているうちに、すっかり見えるようになるのです。
天を見つめる目
霊の目が見えるようになるためには、私たちの心の内に、見ようとする意志がなければなりません。
ときおり、肉眼が見えない人のほうが、霊の目がよく開かれていることがあります。肉眼が見えないので、その分、霊の目でしっかり見ようとするからです。
しかし、多くの人は肉眼が見えるために、かえってこの地上の物質的なものに気が移ってしまって、霊の目がなかなか開きません。だからこそ、私たちはときに肉の目を閉じて、顔を天に向け、霊の目が開かれるよう祈らなければならないのです。
ある男性が、日本のある神学校に入学して、「神とは何ぞや」とタバコを吹かしながら思いにふけって、三年間お祈りさえしたことがなかったそうです。「そんな神学校があるんですか」と思う方もいるでしょうが、悲しいことに実際あるのです。
こんな神学校に行ったら、少しはある信仰もダメになってしまいます。彼はただ単に、自分の知性で神を見ようとしていました。
頭で見ようとしていました。しかし、天は心で見る世界なのです。
この男性は、あるリバイバル集会に出席したとき、忽然と聖霊に打たれて、悔い改めて、回心しました。彼は、涙とハナでお祈りした。彼の霊の目が開いたのです。そして彼は良き働き人となりました。
私たちは霊の目がぱっちりと開かれるようにならなければ、神の良き働き人になることはできません。
それには、つねに神の世界、天の世界を見つめる訓練をすることです。日々、神の世界を慕ってやまないのです。天の宝を見つめてやまない。
自分の宝を地上に積むのではない。自分の宝は天に積む。神の御教えを実行し、愛の行ないを行なうたびに、天に宝が積まれる。
天使がそれを積み、主イエスがそれを見て喜び、父なる神が微笑んで下さっている光景を、いつも見上げて生きるのです。すると、すべてがはっきり見えるようになります。
見えなかったものが見えてくる。神の目で物事が見えるようになる。人生を大きく見渡せるようになるのです。
もしあなたの霊の目が健全で、真一文字に天を見つめるような目であるなら、あなたの体全体が光り輝くでしょう。あなたの人生は光を放ち、あなたの存在そのものが、人々に光明を放つものとなるのです。
久保有政著(レムナント1997年12月号より)
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