信仰・救い

福音は血よりも濃い
血縁、血統を越えて働くキリストの福音。


マッティア・プレーティ画「弟子たちの間に幼子を座らせるキリスト」


 今日は、新約聖書マタイの福音書の一章から「福音は血よりも濃い」と題して、ご一緒に恵みを受けたいと思います。
 この世の中では、「血」すなわち血縁や、血統というものは、非常に強いものと思われています。それはときに、私たちの人生をしばりつけ、私たちを抑えつけたります。
 しかし、血縁や血統をも越えた、もっと大きな力についてお話ししたいのです。
 多くの人々は、新約聖書を初めて読もうとすると、最初にこの系図があるのを見て、「名前の羅列でつまらない」と思うことでしょう。私もそうでした。
 しかし、「聖書はまさにここから読め」と言わんばかりに、新約聖書はイエス・キリストの系図を、わざと冒頭に持ってきています。これには、じつは非常に深い意味があるのです。
 この系図が示す深い意味を知ったとき、私は思いました。
 「ああ、これはただの"英雄伝"や"偉人伝"ではない。これはまさに"福音"なのだ。"福音"──良き知らせ、Good News。じつに、これは"福音書"なのだ」
 と。この系図を見るとき、私たちは「福音書」の福音書たるゆえんがわかるのです。


福音書と偉人伝との違い

 私はかつて"英雄伝"や"偉人伝"を、好んでよく読んだものです。
 アレキサンダー大王、シーザー、ソクラテス、プラトン、アウグスチヌス、ガンジー、シュバイツァー、ウェスレー、フィニー・・・・二宮尊徳、西郷隆盛、勝海舟、内村鑑三・・・・そのほか、いろいろな英雄伝や偉人伝を読みました。
 こうした偉人たちの生涯を読むと、私たちの胸は高鳴り、「すごいなぁ」「偉いなぁ」と思います。そして、「少しでも彼らに近づこう」「彼らのようになろう」と思います。
 とくに、青少年の時代に偉人伝を読むことは、どんな知識の詰め込みよりも大きな教育になると思います。私は今日の教育の荒廃の一つの原因は、偉人伝を忘れてしまったことにあるのではないか、とさえ思っています。
 そのくらい、偉人伝というものは、若者の人格形成に大きな影響を与えることがあります。しかし、その一方で、私は偉人伝を読んだとき、「偉いなぁ」「すごいなぁ」と思う一方で、やがて「私は到底あのようにはなれない」「私は所詮この程度だ」という気持ちに戻ってしまうのを感じました。
 理想は理想として素晴らしいけれども、所詮、理想は理想にすぎないのです。私がそのままその理想になれるわけではありませんでした。
 しかし、イエス・キリストの伝記である福音書は、どうでしょうか。これは単なる偉人伝なのでしょうか。英雄伝なのでしょうか。


福音書を読むのは、英雄伝を読むのとは違う。

 このマタイの福音書の冒頭に掲げられたイエス・キリストの系図は、これが単なる偉人伝ではなく、まさに「福音の書」であることを示すものです。
 この系図をよく読んでみると、これはイエス・キリストを誉めるために書いたのか、それとも、けなすために書いたのか、わからないような感じになります。
 ふつうなら、イエス・キリストの系図と聞けば、何の欠点も汚点もないような清らかな完璧な系図を思い浮かべるかもしれません。けれども、この系図はそうではないのです。まず三節を読んでみると、
 「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」
 と記されています。単に「ユダにパレスとザラが生まれ」と書けばいいところを、わざわざ「タマルによってパレスとザラが生まれ」とことわっています。
 タマルとは一体どんな人でしょうか。タマルは、ユダという人の家の長男に嫁いだ女性です。つまりユダにとって、タマルは自分の長男の嫁です。タマルにとって、ユダは夫の父、つまり舅(しゅうと)です。
 タマルの夫は早く死んでしまいました。それでタマルには、子がありませんでした。古代のイスラエルにおいては、女に子がないというのは、恥以外の何ものでもありませんでした。
 そこでタマルの死んだ夫の弟が、タマルをめとって結婚しました。古代イスラエルでは子孫を残すことが大変重要でしたから、もし兄嫁に子がないまま兄が死んだ場合、弟は兄嫁と結婚して子どもを生む義務があったのです(申命二五・五)
 ところが、タマルと結婚したこの弟が曲者でした。タマルとの間に子をつくっても、自分の子にはならないと知って、兄のための子孫を残そうとしなかったのです。
 そのうち、この弟も死んでしまいました。タマルは再び、やもめになってしまったのです。
 かわいそうなタマル。
 タマルはある日、売春婦の装いをして、舅のユダに近づきました。タマルは顔にベールをしていましたから、ユダには、それがタマルだとはわかりませんでした。
 こうしてユダは、タマルと姦通しました。そして生まれたのが、双子の「パレスとザラ」なのです。
 その詳しい状況は、創世記三八章に記されています。これは、イスラエル民族史上、最も恥ずべき出来事の一つなのです。
 ふつうなら、こんな忌まわしい出来事は、隠すのが普通ではないでしょうか。ところが、読者にこの恥ずかしい出来事をわざわざ思い起こさせるためであるかのように、
 「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」
 と書き記しているのです。


タマルは、みごもって子を残すために、
遊女の姿をして舅のユダに近づいた。



汚れた家系

 大阪に、ある由緒ある家系がありました。その家の夫婦が、ある日キリスト教の伝道会にやって来ました。
 牧師が彼らに聞いてみると、息子が精神病にかかって、深刻な悩みの中にあるということでした。さらに、いろいろ聞いてみると、過去にも、系図に載っていない跡取りがひとりいるというのです。
 ちょうど四代前の跡取りが、恥ずべき死に方をした。このような人間を四百年続いた家系に入れると、家系が汚れるというので、その人の墓を人知れぬところに移して、籍からも除いたというのです。
 牧師はそれを聞いて、その家が聖別されて神の祝福を宿すように祈りました。するとそれ以来、その精神病の息子の発作もおさまってしまったということです。
 このように普通、汚れた人や恥ずべき人は系図には入れたがりません。隠そうとするのが、世の常なのです。
 ところが、イエス・キリストの系図はどうでしょうか。わざわざ、恥ずべき行為をしたタマルの名前を、これみよがしに書き入れているのです。
 これ一つをとってみても、聖書という書物は尋常の書物ではありません。ふつうの人間の常識で書いたような書物ではないのです。
 同じ女性の名前を入れるにしても、聖書を読めば、信仰深い立派な女性は幾らでも出てきます。
 アブラハムの妻であったサラ、イサクの妻であったリベカ、ヤコブの妻であったレアとラケル・・・・今日もユダヤ人から尊敬されている信仰深い立派な女性が、たくさんいます。それなのに、そういった女性たちの名前は出さないで、わざわざ汚点のあるタマルという女性の名前を出しているのです。
 タマルだけではありません。六節には、
 「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」
 と記されています。ダビデとは、イスラエル史上、最も偉大な王と言われる人物です。しかしそのダビデの生涯にも、一つだけ大きな欠点がありました。
 彼は、他人の妻と姦通して、その女性との間に子どもを生んだのです。それが、あのソロモンでした。
 ダビデは「ウリヤの妻によって」ソロモンを生んだのです。ウリヤとは、ダビデの家来でした。しかも、ダビデを尊敬し、ダビデを愛し、ダビデに非常に忠実に仕える良き家来だったのです。
 ウリヤには非常に美しい妻がいて、バテシェバといいました。ある日、ダビデはバテシェバへの想いやみがたく、彼女を自分の部屋に導き入れ、彼女と姦通したのです。
 それだけではありませんでした。そののち、バテシェバがみごもったことを知ったダビデは、彼女の夫ウリヤを戦場の最前線にわざと送り込み、彼が戦死するように仕向けたのです。
 そしてのち、ダビデはバテシェバを自分の妻として迎え入れ、彼女との間にソロモンを生みました。
 これは、ダビデの生涯における最大の汚点なのです。ダビデはその後、真実な悔い改めを示しましたから、神はダビデを捨てませんでした。しかし、それでもこれがダビデの生涯における最大の汚点であることには、変わりはありません。


家来ウリヤとその妻バテシェバに対する罪を、
預言者ナタンに責められ、悔い改めるダビデ(右)。

 ふつうなら、こんな恥ずべき出来事は、隠すようにするのが世の常ではありませんか。ましてや、イエス・キリストの系図なのです。由緒あるイエス・キリスト様の系図を載せるなら、恥ずべきことは隠すようにしたとしても当然ではありませんか。
 しかし、聖書は違うのです。恥ずべきことであろうと何であろうと、聖書は人間の現実をあからさまに書き記します。わざわざ、
 「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」
 と記して、ダビデの姦淫の罪、およびウリヤに対する重大な罪を、読者に思い起こさせるばかりか、それを強調さえしているのです。
 イエス・キリストの系図は、いかにこの世の系図の書き方と違うことでしょうか。


宗教の教祖の出生伝説との違い

 私は、仏教の開祖である釈迦の伝記を読んだことがあります。それはもう、人々に尊敬されるように、飾って書いてあります。
 また日蓮上人の場合も、母親がある日、光輝く日輪が金の蓮華に乗って飛び来たり、自分の懐に入る夢を見たら身ごもって、一二ヶ月も胎に宿って日蓮上人が生まれ出た、と言われています。
 おおよそ、宗教の教祖の出生伝説というものは、皆から尊敬されるように、飾って書いてあるものなのです。ところが、イエス・キリストの系図は、「こんなに醜い家系に来た」とでも言わんばかりに、過去の恥ずべき要素もあからさまに記しています。
 タマルや、ダビデの罪のことだけではありません。九節後半〜一〇節に、
 「アハズにヒゼキヤが生まれ、ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ」
 と記されています。ヒゼキヤとヨシヤは、善い王でしたけれども、アハズや、マナセ、アモンという王は、イスラエル史上、最悪の王たちでした。
 アハズは、エルサレムの聖なる神殿から、宝物を取りだして、敵国アッシリヤに贈り物をしたという恥ずべき人物です。そして神の神殿の扉を閉じて、鍵をしてしまって、神殿を使えないようにしてしまいました。


アハズ、マナセ、アモンらは、神の聖なる神殿を冒涜した。

 またマナセやアモンは、エルサレムの聖なる神殿を、偶像の宮に変えてしまいました。あの聖なる神殿の至聖所に、偶像を置いたのです。これは、ユダヤ人にとっては身震いするほど恐ろしいことでした。
 そんな極悪非道の人物たちが、イエス・キリストの系図に現われるのです。聖書はイエス・キリストの系図がいかに汚れたものであるか、それを隠そうとしません。
 しかし、じつはここにこそ、福音の福音たるゆえんがあるのです。
 このような汚れた、醜い家系の中に、イエス・キリストという聖なる神の御子が来られた、というこそが福音なのです。蓮の花が、濁った泥沼の中に美しく咲くように、この汚れた、どろどろした血統の中に、処女マリヤの胎を通してイエス・キリストが来られた──これこそが福音なのです。
 この系図はまた、人類そのものを象徴していると言ってもよいでしょう。人類の血統は、あちこちで汚れ、醜いものになっているのです。そうした人間世界のただ中に、愛と慈愛に満ちた聖なる神の御子キリストが来られた──そこに神の福音があります。
 五節に、
 「ボアズに、ルツによってオベデが生まれ」
 と記されています。ルツというのは、じつは異邦人の女性です。イスラエル人ではない、モアブ人の女性なのです。
 ルツという女性はとてもすばらしい人でしたけれども、モアブ人といったら、イスラエル国内では評判の悪い民族でした。
 イスラエル人は、民族の血統を重んじますから、ルツは公の集会には参加できない肩身の狭い女でした。しかし聖書は、そうした異邦人の血がイエス・キリストの系図に混ざっていることを、わざわざ明らかにしているのです。
 ボアズと、モアブ人ルツとの間に、オベデが生まれたとき、イエス・キリストの血統の半分は、異邦人のものとなりました。そうやってイエス・キリストは、ユダヤ人だけでなく、異邦人のためにもこの地上に降誕してくださった、ということがわかります。
 昔、モアブ人の王は、預言者バラムを通してイスラエルをのろわせようとするという、大きな罪を犯しました。これは、神さまを大変怒らせた出来事だったのです。
 このように、ルツの民族としての血筋にも、醜く、汚れたものが流れていました。イエス・キリストは、そのようにユダヤ人の罪と、異邦人の罪のすべてを背負った中に、来られたのです。
 彼は、人類の忌まわしい宿命の連鎖を断ち切るために、この地上に来て下さいました。


キリストの先祖の一人、ルツは異邦人であった。



私たちの血統は?

 あなたの家系はどうでしょうか。
 私たちは、ペット屋に行って、少し高価な動物を買いますと、「血統書」というのがついてきます。たとえばこの犬は、「こんなにれっきとした、いい血統なのですよ」というように血統書がついてきます。
 そうした血統書は、自慢の種になるかもしれません。しかし、犬の血統書はそうだけれども、私という人間の血統書はどうだろうか、と私はときどき思います。
 私の祖先を書いた血統書を、もしつくったとしても、到底そんなものは人様にお見せできるようなシロモノではないと思うのです。
 あなたの血統はどうでしょうか。先ほど言った大阪の由緒ある家系の方のように、あなたの家系も、あるいは由緒あるものかも知れません。しかし、そこには人には見せられないような汚れた血も混ざっていないと、いったい誰が言えるでしょうか。
 または、あなたは自分の過去がどのような家系なのかを、知らないかも知れません。しかし、よく調べれば、様々な恥ずべき事柄、呪わしい事柄が出てこないと一体だれが言えるでしょうか。
 しかし、いかなる血統であるにせよ、どんなに汚れた血統であっても、もしあなたがイエス・キリストを心に迎え入れるなら、それはあなたの血を清め、聖別し、あなたを神の子とするのです。
 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(ヨハ一・一二〜一三)
 と聖書は言っています。血筋というのは、私たちが自分の意志では、どうしようもないものではありませんか。しかし、その血筋や血統をも越えた、大きな力があるのです。
 あなたは、自分の体の中に流れる血を別のものにしたり、清くしたりできますか。しかし、あなたの血よりも濃いものがある。それが福音です。
 イエス・キリストを心に迎え入れるとき、あなたの血は、過去のすべての呪いを越えることができます。神の聖なる御子を心に迎え入れるとき、あなたの過去の家系から来るいかなる呪わしい事柄も、すべてが洗い清められ、聖別され、新しいものとなるのです。
 福音は血よりも濃い!
 世間では、血縁のきずなは強いという意味で、「血は水よりも濃い」と言いますが、血よりも濃いものがある。血のつながりをも越えて、あなたを力づけるものがある。
 それがイエス・キリストの福音です。それはどんな汚れた血をも清めます。どんな呪わしいことからも解放します。どんな暗い血筋、どんなに忌まわしい過去からも、あなたを贖います。


原罪をも乗り越える力

 三浦綾子さんの小説に、「氷点」というのがあります。主人公は、陽子という名の一人の女性です。
 彼女の体には、殺人罪を犯した父親の血が流れていました。その事実を知った陽子は、
 「陽子という名前のように、この世の光のごとく明るく生きようと努力してきたけれども、自分の心はもう氷点に達しました」
 と遺書を書いて、自殺をはかってしまいます。
 愛する皆さん、私たちは自分の血の中に流れているものを本当に知ったら、暗く、凍りつき、氷点に達してしまうよりほかないのです。
 しかし、血よりも濃いものがあります。過去のすべての罪、汚れを乗り越え、原罪をも乗り越えて、豊かな生命を与えてくれるものがある。それが福音です。
 イエス・キリストの霊があなたの血の中に入るとき、あなたは聖められるのです。
 「神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Tヨハネ一・七)
 と聖書は言っています。


神の命の光の中を歩むなら、御子イエスの血は
すべての罪からあなたをきよめる。
(神を見上げるアブラハム)
(C)Norm McGary and Web servants@localweb.com

 日本の北里柴三郎とドイツのベーリングという人が開発した治療法として、「血清療法(けっせいりょうほう)」というのがあります。これは、血清を病人に注射するという治療法です。
 私たちはイエス・キリストの血潮を受け、注入されることによって、私たちの血がきよめられ、存在全体がきよめられます。神の血清療法を受けよ、と聖書は私たちに語っているのです。
 「御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめます!」
 昔イスラエルに、ヨシヤという立派な王様がいました。ヨシヤは、暗黒の時代のイスラエルに宗教改革を行なった、偉大な人物です。プロテスタントの歴史における宗教改革者ルターや、カルヴァンのような人物です。
 ところが、ヨシヤの父はアモンといって、ひどい偶像崇拝者でした。神様の教えに背くことを、たくさん行なった大悪人でした。
 ヨシヤの祖父は、もっと悪い人物でした。おじいさんはマナセといって、「罪のない者の血まで多量に流した」(U列王二一・一六)という極悪非道の人物だったのです。ヨシヤには、そのような血が流れていました。
 しかし、そんな汚れた血統に生まれたにもかかわらず、ヨシヤは熱烈に主を愛しました。彼は神の光の中を歩んだのです。すると、神の命の光は彼の血を清めました。


わずか8歳で王になったヨシヤ。
彼の父も祖父も悪い人物だったが、
彼はその血統を乗り越えて、
神を愛し、神に仕える良い王となった。

 愛するみなさん、旧約時代においてさえそうなら、ましてや新約時代における祝福は、さらにまさっています。
 なぜなら、新約時代には、救い主イエス・キリストがおられるからです。神の光の中を歩んで、御子イエスの霊を受けて歩むなら、あなたの血はすみずみまで聖められます。
 神は御子イエスによって、あなたをご自身の子として受け入れて下さるのです。
 神の子になったら、どこに汚れたものがありますか。神は、イエス・キリストを救い主と仰いで信じる私たちを、聖なる「神の子」として下さるのです。
 「この人々は、血によってではなく・・・・ただ神によって生まれた」
 神の子です。もはやいかなる血筋、血統も関係ありません。イエス・キリストを信じて神の子とされることは、なんと幸いなことでありましょうか。


血筋をも越えるもの

 私は学生時代に、島崎藤村の「破戒」という小説を映画化したものを、見たことがあります。わたしはその映画を見て、涙が止まりませんでした。
 自分が部落民であることを決して言ってはならない、という父の「戒め」を破って、主人公がそれを告白するシーンは、胸が強くしめつけられる思いでした。
 現代では考えられないことと思うかもしれませんが、現代でも、過去や血筋の束縛のもとに生きている人は、多いと思います。
 私は学生時代に、「自分は何てつまらない家系に生まれたことだろう」と思ったことがあります。何の名のある家系でもなく、裕福な家系でもない。
 また、そういったことをいろいろ考え始めると、自分が日本人に生まれたことすら、つまらないことと思えました。
 この世界を見れば、もっと素晴らしいと思える国々がある。もっと自由で、裕福で、美しく、文化水準の高い、誇り高い国がある。私はなぜそのような国に生まれないで、こんな極東の小さな島国に生まれなければならなかったのか。
 しかし、イエス・キリストを信じて神の子とされたとき、すべての見方が全く変わってしまいました。神の子とされるとは、すべての血筋を越えて、新しい人間になるということなのです。
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Uコリ五・一七)
 神の子とされたとき、私は過去のすべての血筋、すべての血統という重荷から解放されました。そして聖書が言っているように、天国の国民とされたのです。
 すると私は、自分がこの日本に生まれ、この家に生まれたことの意味がわかりました。わたしは、神さまからここに遣わされているのだと、わかったのです。
 愛するみなさん、あなたもイエス・キリストを信じて神の子とされて生きるとき、すべての人生観が希望に満ちたものとなります。
 バプテスマのヨハネは、イエス・キリストを紹介するとき、ユダヤ人たちに対してこう言いました。
 「『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」(マタ三・九)
 当時、ユダヤ人たちは、「自分たちの先祖はアブラハムだ。あの偉大な信仰の父祖アブラハムだ」と思っていました。彼らは自分たちの血筋を自慢していたのです。血筋に、自分たちの望みをおいていました。
 しかし、神の預言者として現われたバプテスマのヨハネは言いました。
 「『われわれの先祖はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけません」
 と。あなたがたは血筋に頼ってはいけない。
 「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」。
 事実、神は石ころからアブラハムの子孫を起こして下さいました。石ころのようにどこにでもころがっている、つまらない私という人間を、神はご自身の子とし、またアブラハムの霊的な子孫として、神の民としてくださったのです。
 この地上にイエス・キリストが来られて以来、数多くの偉大なクリスチャンたちが生まれ、歴史を変え、国を変えてきました。しかし、彼らは初めから、生まれつき偉大な人々だったのでしょうか。
 いいえ、彼らの伝記を読んでみると、彼らはみな、路傍の石ころのように、みなどこにでもいるような、ありふれた人々でした。そして、ときには、非常に汚れた卑しい血統に生まれた人々でした。
 貧民窟に住んで、人々を助けた偉大な人物として海外にもその名を知られた賀川豊彦(かがわとよひこ)は、めかけの子であり、私生児でした。しかし、彼の心にキリストの霊が入ったとき、彼は力強い、聖なる愛に満ちた人となったのです。賀川豊彦はいつも、
 「自分はめかけの子だけれども、神の子だ」
 と言って、自分を励ましていたそうです。
 世の人は、過去の因縁だとかを気にしたり、因縁に縛られたりします。しかし、因縁を越えた世界というものがある。
 いったん神を知ると、宿命や運命を越えた世界が開けてくる。キリストの霊を受けるとき、人はいかなる汚らわしい、あるいは卑しい、古い遺伝の血統からも脱して、新しい人生に入ることができるのです。
 神は、どんな石ころからでも神の民を起こすことができます。どんなに卑しい血筋の中からも、聖なる民を起こすことができるのです。


賀川豊彦は、めかけの子だった。
(貧民窟で礼拝を持つ賀川豊彦。
長尾己画(C)キリスト新聞社



神の愛によって贖われる

 このように、イエス・キリストの系図は、単なる偉人の伝記ではありません。聖書はその巻頭から、罪に満ちた忌まわしい系図を掲げて、そのすべてが神の愛によって一新されるのである、と言って憚(はばか)らないのです。
 これこそ、神の福音、神の贖罪の福音です。読む人に、深い慰めと力を与える真理の福音なのです。このような書き方をした本は、いわゆる偉人伝や英雄伝、冒険談という程度のものではありません。
 これは、だれか理想的な人物の高尚な生まれ方や生涯を示して、「あなたもこのようになれ」と示しているような単なる偉人伝とは違います。そうではなく、汚れた卑しい血筋の中に、聖なる神の救い主イエス・キリストが来られた、これこそ私たちの希望なのだと、述べているのです。
 また、このイエス・キリストをあなたが自分の心の中に迎え入れるとき、あなたは過去のすべての血筋の重荷から解放され、新しい人間、神の子になるのだ、そして永遠の命に生きるのだ、と教えているのです。
 キリストにあるなら、先祖のたたりもありません。過去の先祖の「怨霊」があなたにとりついて、あなたを不幸にすることもありません。あなたはそうしたすべてのことから解放されるのです。
 愛するみなさん、あなたの過去がどうであろうと、どのように惨めであったにしろ、さらさらそのことを悔やむ必要はありません。たとえ路傍の石ころのように、どれほど不毛の生涯を歩んでこられたとしても、あなたが神を信じるなら、神はあなたを、内に御子イエス・キリストを宿す人間に変えて下さるのです。
 かつては私は、自分の惨めさに泣いていたときがありました。しかし今は、まったく神のご恩寵に泣きしびれます。神は、私のような石ころをも拾って下さったからです。
 バプテスマのヨハネはまた、人々に言いました。
 「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。・・・・その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」(マタ三・一一)
 「聖霊と火」と訳されていますが、これは原語では「聖霊すなわち火」とも訳せる言葉です。「聖霊と火」というのは、二つの別のものという意味ではなくて、「聖霊」が実体で、「火」はその象徴なのです。
 聖書の中では、しばしば実体と象徴を並べて言うことがあります。「聖霊と火のバプテスマ」というとき、それは聖霊のバプテスマと、火のバプテスマの二種類があるという意味ではなくて、
 「火のような聖霊のバプテスマをお授けになる」
 という意味なのです。「バプテスマ」というのは、ひたすという意味です。私たちが心のすべてをキリストに明け渡すとき、あなたの心は神がお与えになる聖霊の息吹の中に浸され、聖霊の火があなたを包むでしょう。
 ときどき人は、草原で「野焼き」というのをすることがあります。草が生えた野原に、わざと火をつけて、そこにある雑草やら何もかも、みな焼いてしまうのです。
 そうすると、雑草もなくなり、また害虫や病気もなくなって、翌年にはそこは良い草原となるのです。
 私たちの魂も、聖霊のバプテスマの火で焼かれて、悪いものをみな焼き尽くされるとき、豊かな実をならすものとなります。
 あなたがイエス・キリストを救い主として信じ、彼に全く従う決心をして、心を明け渡すときに、神の聖霊はあなたの魂に満ちて、あなたの心を、愛と平安と喜びと力に満たして下さいます。
 私たちは、無学であることを嘆かないことです。片親であること、あるいは親なし子であることを嘆かないことです。自分の境遇が不遇であることを嘆かないことです。
 ある人々は、自分の不幸を人のせいにします。世の中のせいにしたり、自分の生まれや、家のせいにしたりするでしょう。
 しかし、神を信じる者には、生まれや、家、境遇などはもはや関係ありません。神の命を受け取るなら、私たちはそうしたすべてのことを超えた世界を、知ることができるのです。
 神の命を受けよ。イエス・キリストを救い主、またあなたの主として従い、聖霊のバプテスマを受けて、神の聖霊によってあなたの人生を力強く闊歩していきなさい──聖書はそう教えているのです。


尊い自分を生き抜く

 私たちは、過去にとらわれて生きるのではなく、現在をしっかり踏まえながらも、神が用意して下さっている未来に生きようではありませんか。
 私たちの生涯は、単に草花のように過ぎ去る、この短い地上の生涯だけのことではありません。神の子としての命は、この地上から、次の世にまで続き、大きく花開くのです。
 一七節に、
 「それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる」
 と書かれています。「一四」というのは、七の二倍で、七は聖書のホーリー・ナンバー(聖数)です。ユダヤ人のための七と、異邦人のための七で、合わせて一四なのでしょう。
 アブラハムからダビデまでの一四代は、発展の時代でした。ダビデからバビロン移住までの一四代は、堕落の時代でした。また、バビロン移住からキリストまでは、苦難の時代でした。
 私たちの人生にも、発展、堕落、苦難の時期がなかったでしょうか。しかし、そうした人生の中にイエス・キリストをお迎えするとき、新しい時代──新約時代が、あなたの人生に始まるのです。
 私たちに必要なのは、過去をひきずって生きることではありません。キリストにあって、新しく尊い自分を生き抜くことです。神はあなたに新しい人生を与えて下さいます。
 あなたの環境や境遇がすぐには変わらなくても、あなたの内なる生命が変わると、新しい道が開けていくのです。
 人生というものは、外側から開けていくものではありません。それはあなたの内側から開けていくのです。生命の内側から、開かれていくのです。
 どんな血よりも濃い神の福音が、あなたの命を満たすとき、人生はそこから開かれていきます。
 私たちはもう、自分の境遇や、生まれ、血筋、環境などを、とやかく言うのをやめましょう。神の福音の内に、あなたの人生を見るのです。
 神の子になるのには、なんの資格もいりません。石ころでも、ガラクタでも、出来損ないでも、何でもいい。
 大切なのは、素直になって神を信じ、イエス・キリストに従うことです。それさえあれば、神の子としての祝福された人生があなたに与えられます。
 キリストにある人生は、いかなる運命論、宿命論をも乗り越えます。神は「石ころからでも」、アブラハムの霊的な子孫を起こし、神の民を起こすことができるお方なのです。
 この一句がわかっただけでも、あなたの人生は大きく変わります。神の恵みとは何かを知るでしょう。


「神は石ころからでも、アブラハムの
子孫を起こすことがおできになる」。



パスカルの回心

 パスカルという人は、大物理学者で、また数学者でもありました。今でも、天気予報などで「この台風は九三〇ヘクト・パスカル」などと言いますが、これは彼の名前から来たものです。
 パスカルは若い頃、長い間、霊魂の闇の中を歩んでいました。しかし、その彼が三一歳の時、ある夜、不思議な心燃ゆる回心の経験をしたのです。
 彼はそのときの経験を、「覚書き(メモリアル)というものに書き残しました。その覚書きは、「火」と題されていました。それは彼が回心したときに経験した天来の火、聖霊の火について、書き記したものだったのです。
 その文章はこうです。

 「恩寵の年、一六五四年。
 一二月二三日、月曜日
。教皇であり殉教者でもある聖クレメンス、および殉教者名簿中の他の人々の祭日。また、殉教者聖クリソゴノ、および他の人々の祭日の前夜であった。夜十時半頃から、一二時半頃まで。

   

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神よ。
あなたは哲学者や学者の神にあらず。
確実、確実!
感動、歓喜、平安!
ああ、
イエス・キリストの父なる神よ。
あなたが
私の神となってくださったとは!
キリストの神がわたしの神。
わたしは、あなたを除くこの世と、
その一切のものを忘却します。
福音書に示された神こそ
実在の神です。

わたしの心は大きく広がります。
義しき父よ、
世はあなたを知りませんでした。
しかし、私はあなたを知ります。
歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙!
私はあなたから離れ、
命の水の源を捨てていましたが、
わが神よ、
あなたは私を
捨てたりなさいませんでした。
どうか私が、これより後、
永久にあなたから離れませんように。
永遠の命とは、まことに、
唯一の真の神であるあなたと、
あなたが遣わされた
イエス・キリストを
知ることにあります。

イエス・キリスト。
イエス・キリスト。
わたしは彼から離れ、
彼を避け、捨てて、
彼を十字架につけました。
しかしこれよりのち、
私が彼から離れることが
永久にありませんように。
福音書に記されたあなたこそ、
実在の神です。

ああ、全き心。
快い自己放棄。
イエス・キリストよ。
私はあなたと
あなたのしもべたちに
全く従います。
わたしの地上の試練の一日は
永遠の歓喜となりました。
わたしはあなたの御言葉を、
とわに忘れません。アーメン。」


パスカルは31歳のとき、大いなる
神の命にふれる経験をした。



生ける神に触れる

 このように、パスカルは突如として、神からの天来の火、聖霊の火に打たれました。そして、神の光に照らされる不思議な回心の経験、コンバージョンの経験をしたのです。
 彼は地上にいながら、次元を超越して、神の恵みを実感し、満たされたのです。それはもはや哲学者の神でも、学者の観念的な神でもありませんでした。
 パスカルは偉大な哲学者でしたけれども、彼が体験したのはもはや冷たい、観念的な、頭の中の神ではなくて、「生ける神」だったのです。
 かつてアブラハムと共に歩まれた神、イサクと共に歩まれた神、ヤコブと共に歩まれた神──その神さまに触れました。その生ける神こそが自分の神なのだと、彼は自覚したのです。
 またイエス・キリストの父なる神こそが、私の神なのだという、驚くべき恵みに彼は目覚めました。その恵みは到底、言葉では言い表すことのできないものでした。彼はただ、
 「確実、確実! 感動、歓喜、平安!」
 というのが、やっとでした。そして、
 「歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙!」
 と書き記したのです。そのペンを持つ彼の手には、熱い涙が落ちたことでしょう。
 彼のこの「覚書き」は、じつは彼の死後になってから発見されました。パスカルの上着の裏に縫い込まれていた覚書きの羊皮紙を、全く偶然に彼の召使いが見つけたのです。
 パスカルはこの覚書きを、自分の上着の裏に縫い込んで、生涯、肌身離さず身につけていたのです。
 それほど、この体験は彼にとって強烈な体験でした。彼は、ありありと生きて人を救う実在の神に触れたのです。
 パスカルは大科学者であり、大哲学者であったのに、真の神は「哲学者や学者の神にはあらず」と言いました。この彼が、実在の生ける神の火に触れたとき、彼はそれまで以上に偉大な科学上の発見や、思想の発展を続けていくことができたのです。


パスカルは、火のような聖霊経験を覚書き
として書き記し、それを生涯、肌身離さず持った。

 あなたは、生ける神に触れましたか。その天来の火に打たれましたか。
 あなたの過去のしがらみを焼き尽くし、新しい人生を創造してくださる神の火を受けましたか。
 人間は、より高い生命に触れるとき、ちょうど真っ暗な中に光が射し込むように、大変化が起こるのです。自分の人生の暗闇に泣いているならば、神のまばゆい光に照らされることです。あなたは神の子として、生命的に新しくされて、祝福の人生を歩むのです。

                                 久保有政(レムナント1997年11月号より)

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