聖霊

聖霊の満たし
聖霊の満たしを、ただ信仰によって受ける。
【聖書テキスト:使徒の働き4:13、23〜31】


ペテロとヨハネは、聖霊に満たされて、
大胆に主イエス福音を語った。


 寒い冬が終わり、春になると、枯れたように見えた木の枝が芽吹き、植物たちは一斉に力強い生命の営みを現わすようになります。
 新緑が私たちの目にまぶしいほどになり、色とりどりの花々が咲き乱れるようになります。それはまことに、命に満ちあふれた姿です。
 人々に必要なのも、命に満ちあふれることです。神の愛と御教えをこの世に現わす原動力としての命に、満たされることです。
 神の霊的な命の躍動、充実、また輝きに満ちることこそが、私たちに必要なのではないでしょうか。それを与えてくれるのが、聖霊様です。
 聖霊は、神の霊的な命です。聖霊に満たされるとき、私たちの内側から、神の霊的な命が躍動し、充実し、輝きを放つのです。


聖霊に満たされるとき命は躍動し充実し輝く

 ペテロとヨハネという人は、ユダヤで漁師をしていました。毎日、網をはって魚をとるのが、彼らの日課でした。
 彼らはごく「普通の人」でした。ペテロとヨハネは、特別優れた肉体的な力を持っていたわけではありません。特別優れた頭脳を持っていたわけではありません。
 由緒ある家系に生まれた人でもありません。莫大な遺産を受け継いだ人でもありません。社会的に高い地位についていた人でもありません。
 ペテロとヨハネは日々、自分たちの生活のために漁師をしていました。何年も何年もそうしていました。
 しかし、その彼らが、やがて世界を変える人物になりました。彼らは、「聖霊に満たされて(使徒四・八)、エルサレムでイエス・キリストのことを宣べ伝え始めました。すると、人々の中に大きな変革が起きていったのです。
 聖書は記しています。
 「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスと共にいたのだ、ということがわかって来た」(使徒四・一三)
 と。ペテロとヨハネは、私たちと同様「無学」で、「普通の人」でした。しかし、彼らの内には、神の霊的な命が満ち満ちていたのです。それは「聖霊の満たし」によるものでした。
 聖霊は、神からの聖なる御霊――ホーリー・スピリット、父なる神から主イエス・キリストを通して信者に注がれた、神の霊です。
 私たちは聖霊に満たされるとき、神の命に満ちあふれた力強い働きをすることができるのです。
 みなさん、私たちに必要なのは、命の躍動、充実、輝き、力強さではないでしょうか。
 この世には、多くの困難があります。悲しみがあり、苦難があり、迫害や、反対、患難があります。
 しかし、クリスチャンは自分の人生に、「どうか困難がありませんように」「どうか苦難がありませんように」と祈るのではありません。クリスチャンは、
 「たとえ私の人生に困難や苦難がふりかかってきたとしても、私がキリストにあってそれらの苦難を、力強く切り開いていけますように」
 と祈るのです。そしてそう祈る私たちに、神は聖霊の満たしを与えて下さいます。
 私たちが人生を力強く切り開いていくために、聖霊を私たちに満たして下さるのです。


ジョン・ウェスレー



聖霊の内住と聖霊の満たしは異なる

 ペテロとヨハネが、大胆にイエス・キリストのことを証しし始めたとき、彼らには困難がなかったでしょうか。
 いいえ、彼らのもとには一斉に困難がふりかかってきました。彼らは議会から追放されました。ユダヤ社会の指導者たちは、彼らに対し悪口雑言(あっこうぞうごん)を言って、「もはやイエスのことを語ってはならない」と厳しく命じました。
 そのあとペテロとヨハネは、仲間たちのところへ行きました。仲間たちに状況を説明すると、クリスチャンである彼らは心を一つにし、神に向かって声をあげて祈りました。
 「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。
 あなたは聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。
 『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリスト(油注がれた者)に反抗して一つに組んだ』(詩篇二・一〜二)
 事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒に、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。
 主よ、いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちに、みことばを大胆に語らせて下さい。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせて下さい」(使徒四・二四〜三〇)
 みなさん、何と大胆な祈りでしょうか。
 彼らは困難に直面したとき、うなだれるのではなく、顔を上げて天に向けました。彼らは黙るのではなく、天に向かって叫びました
 私たちはどうでしょうか。私たちは困難に直面したとき、しばしば心はしおれてしまわないでしょうか。人々の反対やあざけりにあって、しぼんだ心になってしまわないでしょうか。
 しかし、このとき初代教会のクリスチャンたちは、顔を輝かせて、顔を天に向けて声をあげて祈ったのです。
 「あなたのしもべたちに、みことばを大胆に語らせて下さい」
 と。神はこの祈りに対し、何をもって答えて下さったでしょうか。
 「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した」(使徒四・三一)
 神は彼らに、聖霊を満たして下さったのです。
 私たちに必要なのは、金銀ではありません。困難のない人生でもありません。由緒ある家系でもありません。
 社会的地位や財力でもありません。そのようなものは、みな過ぎ去っていくものです。


D・L・ムーディ

 私たちに必要なのは、神の聖霊の満たしです。神の霊的な命です。
 クリスチャンは、信仰を持ったときに、すでに聖霊が内に宿っておられます。
 あなたはクリスチャンになったときに、天の神様を、「天のお父様」と呼べるようになったでしょう。それはあなたの内で、聖霊様が神様を「天のお父様」と呼ばせて下さっているからです。聖書に、
 「あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父よ』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わして下さいました」(ガラ四・六)
 と記されています。神を「天のお父様」と呼べるのは、あなたの内に宿っておられる聖霊のお働きによるのです。
 クリスチャンのうちには、すでに聖霊が宿っておられます。しかし、「聖霊の満たし」というのは、それよりさらに一段上の事柄なのです。
 聖霊の内住と、聖霊の満たしとは違います。
 聖霊の内住とは、単に聖霊が内におられるということです。しかし聖霊の満たしとは、あなたの魂の隅々にまで聖霊の命と力がおよび、満ちあふれることです。
 あなたの人生の主人公はもはやあなたではなく、聖霊が、あなたの人生の主人公になられるのです。


ただ信仰によって聖霊の満たしを受ける

 私たちはどのようにしたら、聖霊の満たしを受けることができるのでしょうか。
 多くの人は、聖霊は、私たちがなす何らかの行為や、行ないに対する報酬のようなものとして与えられると、誤解しています。
 私たちが清く、正しく、神の御前に完全な聖徒となったら、はじめて聖霊の満たしを受けられる――そんなふうに誤解しています
 しかし、私たちが完全な聖徒となったら、聖霊の満たしを受けられるのではありません。私たちが完全な聖徒となるために、聖霊の満たしを受けるのです。
 ある人々は、聖霊の満たしを受けるには、自分に完全に死んで、キリストに生きるという、特別な体験が必要だと思うかも知れません。罪を完全に捨てて、誰が見ても何の罪も認められないような完全な聖人になる必要がある、と思うかも知れません。
 つまり、聖霊の満たしを受けるために、私たちの側にまず何らかの功績が必要だ、という考えです。しかし、そうでしょうか。
 もちろん、自我に死に、キリストに生きるという「大死一番」的な経験を契機に、聖霊の満たしを受ける場合はあります。
 何かの特別な経験を契機に、聖霊の満たしを受けることはあります。
 しかし、そのような特別な経験は、聖霊の満たしを受けるために、必要不可欠なものではありません。そうした特別な経験が絶対必要というわけでもないのです。
 私たちが完全な聖者にならなければ、聖霊の満たしを受けられないのでもありません。非の打ち所のない清い人間にならなければ、聖霊の満たしを受けられないのでもありません。
 聖霊の満たしを受けるために、もし事前に私たちに何らかの行ないとか、清さとかが必要だというならば、それはある種の"律法主義的理解"です。
 聖霊の満たしは、私たちの行ないとか清さに対する報酬ではありません。私たちはただ「信仰」によって、聖霊の満たしを受けるのです。
 あの初代教会のクリスチャンは、困難に直面したとき、心を一つにして、神に向かって声をあげて祈りました。その、ただ神を見上げる信仰によって、彼らに聖霊の満たしが与えられたのです。
 聖霊の満たしが与えられるのは、私たちの行ないによるのではなく、ただ信仰によるのです。
 初代教会のクリスチャンたちが聖霊に満たされたとき、その前に何か非常に特殊な体験があったとか、すでに彼らが完全に清い、正しい聖者になっていたとかは、書いてありません。
 彼らは信仰によって、ただ神を見上げて、神ご自身を求めました。すると、彼らは「聖霊に満たされた」のです。
 聖霊は、私たちの立派な行ないや清さに対する"報酬"ではありません。聖霊はただ神の「恵み」として、私たちの「信仰」を通して、私たちに与えられるのです。信じて求める者には、だれにでも与えられます。


私たちの側の功績や行ないによるのではない

 多くの人は、聖霊の満たしを受けるには、私たちの側に何かの功績が必要だとか、行ないが必要だとかいう考えから抜けられなかったために、いつまでも聖霊の満たしを受けられないでいました。
 「私はまだ完全にきよい人間ではない。だから聖霊の満たしも受けられない」
 ――そんな考えから抜けられないために、いかに多くの人が、聖霊の満たしという大いなる恵みを受けられないでいることでしょうか。
 しかし、罪の赦しや、義認という救いが、行ないによるのではなく、ただ信仰によって与えられるのと全く同じように、聖霊の満たしも、ただ神を信じる信仰によって与えられるのです。
 聖霊の満たしを受けるための条件は、私たちの完全ではありません。神を信じ、神に従う信仰です。神の御言葉を信じる信仰なのです。
 あの十字架上の盗賊が、
 「イエス様、あなたの御国の位にお着きになるときは、私を思いだして下さい」(ルカ二三・四二)
 と言ったとき、主イエスは彼に、すぐさま救いと天国を約束なさいました。
 この盗賊には、何の功績も、何の行ないもありませんでした。彼の過去を見たら、そこには、けがれた、醜いものしかなかったのです。
 しかし、この盗賊は自分の救いに関して、ただ主イエスを見上げ、主イエスにより頼みました。すると、その信仰を見て、主イエスはただちに彼に救いをお与えになりました。
 救われる前には、この盗賊には何の功績も、何の行ないも、何かの特殊体験もありませんでした。救われた後も、何の良き行ないもできませんでした。しかし、彼がただ主イエスを見上げたその信仰によって、彼は救われたのです。
 これが「信仰義認」です。ただ信仰によって私たちは義と認められ、天国に行けるのです。


聖霊の満たしは、私たちの清さや
行ないに対する報酬ではない。私たちは
信仰によって、聖霊の満たしを受ける。

 聖霊の満たしも、同じです。ヨハネ福音書七・三七〜三八節で、主イエスは言われました。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」。
 そして続く三九節には、
 「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである」
 と説明されています。私たちが「生ける水」である御霊――聖霊を受け、聖霊に満たされて、その「生ける水の川」が魂の内からあふれ出るようになるためには、ただ心に「渇き」をおぼえて、主イエスのもとに「来て」「飲む」だけでよいのです。
 あなたは、のどが渇いたとき、どうするでしょうか。水を飲むために、体をまず洗わなければならないと考えるでしょうか。心をきれいにしなければならない、と思うでしょうか。
 そんなことは思わないでしょう。水を飲むためには、単に水のあるところへ行って、水をいただいて飲めばよいのです。
 私たちが聖霊の満たしを受ける方法も同じです。生ける水である聖霊は、父なる神のみもと、また主イエスのもとにあります。聖霊は、父なる神から主イエスを通して私たちに注がれるのです(使徒二・三三)
 私たちは、自分のありのままの状態で神のみもとに行って、聖霊をいただけばよいのです。イエスは言われました。
 「あなたがたも、悪い者ではあっても(親は)自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう(ルカ一一・一三)
 と。私たちはありのままの状態で神の御前に進み、信仰によって主イエスから与えられる聖霊の満たしを、単に受け取ればよいのです。
 かつてノアが箱舟から鳩を放ったとき、その鳩は、ついには戻ってきませんでした。しかし主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、聖霊が鳩のように下って、主イエスの上にとどまりました。
 鳩は、休み場を見いだしたのです。あなたも、鳩の休み場となりましょう。あなたが心の底から聖霊の満たしを歓迎するなら、鳩は休み場をあなたのうちに見いだすのです。
 風は、高い場所のほうが強く吹きます。平地にいると、多くの障害物があって強い風を感じない場合でも、少し高台に上れば、強い風の吹きつけを感じます。
 あなたも、うなだれていてはいけません。あなたの背筋を伸ばし、顔を上げ、信仰の高台にのぼりましょう。天の高きを見上げることです。聖霊はたちまち、風のようにあなたを包むことでしょう。
 私たちに必要なのは、何かの功績とか、行ないとか、何かの特殊体験ではありません。必要なのはただ、神と御子イエスを見上げる信仰です。
 あなたは、信仰によって聖霊の満たしを受けなければなりません。神を見上げて、主イエスを見上げて、聖霊の満たしを受け取ればよいのです。
 ただ信仰によって義と認められたのと同じく、ただ信仰によって聖霊の満たしを受けなければなりません。主イエスを見上げて、主イエスを求めるなら、私たちは聖霊に満たされるのです。


聖霊の満たしは繰り返される

 聖霊の満たしという経験は、生涯でただ一度の経験でしょうか。それとも、それは繰り返されるものでしょうか。
 今、私たちが読んでいる「使徒の働き」の四章に、弟子たちは「聖霊に満たされた」(四・三一)と記されています。しかし、じつはこの弟子たちは、すでにペンテコステの日に聖霊に満たされた人たちなのです。
 ペンテコステの日からしばらくたち、迫害にあったときに彼らが祈ると、彼らは再び「聖霊に満たされ」ました。あるいは、より力強い聖霊の満たしを受けたのです。
 このように、聖霊の満たしという経験は、生涯でただ一度の経験ではありません。それは繰り返される経験です。
 私たちは常に、聖霊の新たな満たしを必要としています。日々、聖霊に満たされる必要があるのです。日々の"油注ぎ"が必要なのです。
 私たちは毎日、聖霊を歓迎し、喜びをもって魂の内にお迎えしましょう。毎週の教会の集会において、聖霊をお迎えしましょう。
 私たちが聖書を読むとき、また祈るとき、伝道するとき、隣り人に接するとき、聖霊のお働きを歓迎しましょう。聖霊が、私たちの働きのすべてに満ちて下さることを心から願い、それを歓迎して受け入れましょう。


内村鑑三



愛と宣教への情熱に満たされる

 私たちが聖霊に満たされると、どのようになるのでしょうか。
 聖霊は私たちに、多くの実を結んで下さいます。聖書のガラテヤ人への手紙六章に、
 「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(六・二二〜二三)
 と記されています。聖霊の実として最も大いなるものは、「」です。
 聖霊に満たされると、神への愛と、人への愛、そして福音への愛と、真理への愛が燃え上がってきます。そのために、人々への愛の行ないをしないではいられなくなるのです。
 福音宣教の情熱にも燃やされます。初代教会の人たちは、聖霊に満たされたとき、
 「神のみことばを大胆に語り出した」(使徒四・三一)
 と記されています。福音を大胆に言い広めないではいられなくなったのです。これは彼らが愛に満たされたからです。さらに三三節には、
 「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった」
 とあります。
 あなたがもし、愛の行ないをしないではいられなくなったり、福音宣教をしないではいられなくなったりしたら、それはあなたの内に満たされた聖霊が、あなたの内側で働いておられるからです。
 この愛と、福音宣教への尽きない情熱は、聖霊の満たしの最も重要な実です。聖霊に満たされた人は、必ずこの愛と、福音宣教への尽きない情熱を持っています
 第一に大切なのは決して「異言」ではありません。異言が口から出てこなくても、愛と、福音宣教への尽きない情熱が心にわき上がってくるなら、その人はすでに聖霊に満たされているのです。
 なぜなら、聖霊以外に、それらを人の内に満たせるものはないからです。
 ウェスレーも、ムーディも、スポルジョンも、バックストンも、ビリー・グラハムも、キャサリン・クールマンも、賀川豊彦も、内村鑑三も、植村正久も、中田重治も、山室軍平も、みな聖霊に満たされていたがゆえに、大胆に人々に福音を語りました。またマザー・テレサも、聖霊に満たされているがゆえに、死にゆく人々への尽きない愛の看護ができたのです。


マザーテレサ

 異言をもし話すことができるというなら、人はそのことで高慢になってはいけません。また、異言を話せない人も、そのことで自分を卑下する必要は全くありません。世界的伝道者のビリーグラハム博士は、こう言っています。
 「異言の賜物を与えられていない人が、自分は"二流の"クリスチャンだと感じたりするのは間違いである。・・・・異言の賜物は、クリスチャンの成長の大切な頂点と考えられるべきではない。実際、何百万もの霊的に成長したクリスチャンは一度も異言を語ったことがない。・・・・
 私たちは聖霊に満たされても、一度も異言を語らないかもしれない。・・・・私が今までに会った最も聖霊に満たされたクリスチャンの中には、一度も異言の賜物を経験していないけれども聖霊に満たされている、という人が数多くいた」(ビリーグラハム著『聖霊』いのちのことば社刊)
 初代教会においても、すべての人が異言を話したわけではありません。使徒パウロは、
 「みなが異言を語るでしょうか」(Tコリ一二・三〇)
 と言いました。また、
 「ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています」(同一二・一〇)
 と述べました。さらに、
 「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが・・・・」(同一四・五)
 とも言っています。初代教会においても、ある人は異言を話しましたが、ある人は話しませんでした。異言は良い賜物の一つではありますが、クリスチャンに絶対必要なもの、というわけでもないのです。


ビリー・グラハム

 聖霊に満たされた第一のしるしは、愛と宣教への情熱です。異言を話さない人であっても、聖霊に満たされた人はみな、必ず神への愛と人への愛、そして福音宣教への強い情熱を持っているのです。
 同様なことは、集会で"後ろに倒れる"という現象に関しても言えます。
 私たちは聖霊に満たされるために、あるいは満たされたしるしとして、集会で"後ろに倒れる"必要があるのでしょうか。
 ありません。たとえ"後ろに倒れ"なくても、あなたのうちに愛と、福音宣教への情熱が強く心にわき上がって来るなら、あなたはすでに聖霊に満たされているのです。
 「使徒の働き」の中には、聖霊に満たされた人は後ろに倒れた、と書かれているでしょうか。書かれていません。ペンテコステの日に屋上の間にいたあのクリスチャンたちは、聖霊に満たされたとき、倒れたのではありません。
 「みことばを大胆に語らせて下さい」とここで祈った弟子たちも、聖霊に満たされたとき「倒れた」とは書かれてありません。彼らは立ったままだったでしょう。
 もし、聖霊に満たされるために倒れる必要があるとか、倒れなければ聖霊に満たされていないと考えるならば、それは誤りです。倒れることは、聖霊に満たされるための条件でも、満たされたしるしでもありません。
 倒れなくても、私たちは信仰によって聖霊の満たしを受けることができるのです。
 私たちは、聖霊に満たされるとき、あるときは電気に打たれたようになります。またあるときは、心が熱く燃えるのを感じるようになります。
 しかし、あるときは非常に静かな心の状態で、人知を越えた平安の内に神の御思いに満たされて、聖霊に満たされることがあります。聖霊の御働きは、非常に多様なものです。
 いずれにしても、聖霊に満たされると、神への愛と人への愛、そして福音宣教への尽きない情熱に満たされます。これが第一の事柄です。


山室軍平



自分の栄光ではなくただ神の栄光を求める

 聖霊に満たされると、第二に、もはや自分の栄光ではなく、ただ神の栄光の現わされることを望むようになります。
 使徒ペテロは、生まれつき足のきかない男をいやしたとき、それを見て驚いている人々に対して言いました。
 「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか」(使徒三・一二)
 そう言って、この生まれつき足のきかない男がいやされたのは、「自分の力」でもない、また自分の「信仰深さ」によるのでもない。それはイエス・キリストの御名によるのだと、語ったのです。
 ペテロは、自分の栄光を求めませんでした。彼は、自分の身を通して神の栄光が現わされたとき、そのすべての栄光を主にお返ししたのです。
 私たちは、とかく自分の名誉や栄光を求めやすいものです。私たちの良きものはすべて神の恵みであるのに、自分の能力によるものであるかのように、誇ってしまいやすいのです。
 しかし、聖霊に満たされた人は、そうは考えません。自分がもし何か良いことをすることができたとすれば、それはすべて自分を通して神がなさったことだ、と考えるのです。そしてすべての栄光を主にお返しします。使徒パウロは、
 「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストの素晴らしさが現わされることを求める」(ピリ一・二〇)
 と言いました。自分の栄光を求めないということは、自分が何もしないということではありません。自分も、神のためにとことんまで働くのです。
 その上で、自分を通して現わされた神の栄光は、みな神にお返しします。私たちも使徒パウロと同じように、「私の身によってキリストの素晴らしさが現わされることを」求めようではありませんか。
 「私の身」は、キリストの栄光が現わされるための器なのです。
 聖霊は、きよめの霊です。私たちをきよめ、罪を遠ざけて、私たちを通して神の栄光を現わして下さいます。
 キリストの栄光、神の栄光が現わされることを切に求めて行動するとき、あなたはすでに聖霊に満たされているのです。


中田重治



どんな困難の中でも讃美と感謝がわきあがる

 第三に、聖霊に満たされると、どんな困難の中でも、讃美と感謝がわき上がってきます。
 初代教会の時代に使徒パウロとシラスは、迫害にあって牢屋に入れられたと記されています。彼らは一番奥の牢屋に入れられ、足には足かせまでつけられてしまったのです。
 牢屋に入れられれば、誰でも心がなえてしまうのではないでしょうか。しかし、使徒パウロとシラスはその牢屋の中で、「讃美の歌を歌っていた(使徒一六・二五)と記されているのです。
 彼らは、迫害の中でも、つねに感謝と讃美を欠かしませんでした。彼らはいつも、主を喜んでいたのです。そのために彼らはまもなく、不思議な方法によってその牢屋から救われました。
 私たちも、聖霊に満たされて、どんな困難の中でも主を讃美して、感謝していると、神は不思議な方法で道を開いて下さるのです。


キャサリン・クールマン

 マーリン・キャロザース先生の『讃美の力』(生ける水の川刊)という本の中に、こんな話が記されています。
 ジムの父は三〇年もの間アルコール中毒でした。その三〇年の間、そのアルコール中毒の父のために、母もジムも祈っていました。しかし、目に見える成果は現われませんでした。
 父は、自分の飲酒が問題だということを認めようとしなかったのです。また、もし誰かが父に向かってキリスト教のことを口にしようものなら、怒って座を立ってしまうのでした。
 ある日、ジムは、集会でマーリン・キャロザース牧師の話を聞きました。
 それは、私たちを苦しめている状況があるとき、その状況を変えて下さいと祈るのではなく、私たちの身に起こるあらゆる事柄について神を讃美しなさい、という話でした。そのとき、さまたげが取り除かれて神の力が働き始めるという内容でした。
 ジムはその集会の録音テープを家に持ち帰って、友人たちに何度も繰り返し聞かせていました。しかし、ふと彼は、自分はまだ父の今の状態をそのまま感謝して、神を讃美しようと努めたことがまだ一度もなかった、と気づきました。彼は熱心にそのことを妻に話しました。
 「お父さんのアルコール中毒のことを神様に感謝しよう。いまの状態がお父さんの人生に対する神様の素晴らしい御計画のうちにあるのだから、神様を讃美しようじゃないか」。
 それから二人はその日、あとの時間をずっとそのことで、すべてのことを一つ一つ神に感謝し、讃美し続けました。夕方になる頃には、わくわくするような喜びと期待の気持ちがわき上がってきました。
 その翌日、ジムの両親がいつものように、日曜日の食事にやって来ました。これまでいつもは食後すぐに帰っていくはずのジムの父が、この時はコーヒーを飲みながら、突然ある質問を切り出してきたのです。
 「近頃のジーザス・レボリューション(アメリカでヒッピーの間に起こったリバイバル=信仰刷新)のことをどう思うかね。ゆうべニュースで見たんだが、ありゃ、ほんの一時の流行のようなもんかね。それとも麻薬にやられていたあの若いもんに何かが起こっているってことかね」。
 この質問からキリスト教についての腹を割った話となりました。そして、とうとう老夫婦の帰りは夜おそくになってしまったのです。
 それからの数週間のうちに、ジムの父は自分の酒ぐせが問題だということを、はっきり認めました。そしてイエス・キリストに助けを求め、完全にいやされてしまったのです。
 今では彼は家族と一緒になって、神をほめたたえ、讃美するとどんな事が起こるかを人に話してまわっているのです。
 ジムは言ったそうです。
 「まあ考えてもみてください。三〇年間も私たちは父を変えて下さるようにと神に祈っていました。ところがたった一日、私たちは現状をそのまま感謝し、そのことで神を讃美しただけで、このようなことが起こったのです」。
 みなさん、なぜ、すべてのことについて神に感謝し、讃美し始めると、神の力が働き始めるのでしょうか。
 それは、さまたげが取り除かれて、聖霊のみわざが始まるからです。
 私たちがすべてのことを神に感謝し、讃美するとき、私たちは聖霊に満たされているのです。そして聖霊は、さまたげを取り除いて、神の御力を現わして下さるのです。


B・F・バックストン



様々な奇跡が起きる

 第四に、聖霊に満たされると、様々な「奇跡」が起きるようになります。
 その「奇跡」というのは、ある場合は病気のいやしだったり、特別な出来事だったりしますが、ある場合は、人生そのものが奇跡となります。
 私が以前京都で会ったあるクリスチャンの方が、こんな証しをしてくれました。
 その方は、重病のために七年間も寝たきりだったそうです。七年間というもの、ふとんから出て立ち上がることさえ、一度もできなかったのです。
 どんなに辛い経験であったか――まさにそれは彼にとって、一種の"患難時代"のようなものだったでしょう。
 しかし七年たったある日、彼は信仰によって神を見上げました。そしてその日、一日中、祈っていたというのです――朝から夜まで。
 すると天が開けて聖霊が光のようにやさしく彼の魂と体にさし込んで来るのを、感じたといいます。彼は聖霊に満たされて、わくわくするような喜びに満たされました。そして一日中、祈っていた
 すると、翌日には歩くことができたというのです。七年間、一歩も歩けなかったというのに、彼は自分の足で歩いたのです。
 それまではずっと畳の上に寝たきりでしたから、和室の障子の格子をいつも下の畳の位置から見ていたので、格子の下の方は幅が広くて上の方は狭く見える、という状態を七年間見続けてきました。
 ところが今は、障子の格子がちゃんと平行に見える――そんな何でもないことに、深い感動を覚えたといいます。
 また、散歩できるようになってからは、林の中を歩いたり、田園を歩いたりして、神の造られた大自然の美しさを、そして生命のあることの恵みを、ひしひしと感じたとのことです。
 しかし、彼の場合は病からいやされましたが、必ずしも病からいやされるだけが奇跡ではありません。いやされないでなされる奇跡もあるのです。
 クリスチャン作家の三浦綾子さんなどを見ていると、彼女は若いときから病気の連続なのです。次から次へと新しい病気にかかって、いつ死ぬかわからないというような状態ばかり続いてきました。
 ところが、彼女は不思議なほどに長生きしているのです。そしてその病床の中から、次々に素晴らしい名作を生み出している。
 それらは病気の経験があってこそ生み出せるような名作ばかりです。神のなさることは、まことに不思議です。
 彼女の人生自体が奇跡のようになっているのです。聖霊によらなければ、このようなことは決してできないことです。神様は彼女に、たいへん大きな恵みをお与えになっているのです。
 星野富弘さんの人生も、そうではないでしょうか。彼の障害は、今もいやされてはいません。
 しかし、もと体育の教師であった星野富弘さんが、不慮の事故で首の骨を折り、首から下が動かないという身になりながらも、神に出会い、救われて、美しい絵と詩を用いながら、喜びと愛をもって、聖霊によって主の福音を証しなさっているその姿は、まさにそれ自体が奇跡ではないでしょうか。
 聖霊に満たされて歩むと、また不思議なわざが行なわれるようになります。
 多くの孤児達を助けたことで有名なイギリスのジョージ・ミュラーという人が、ある日、船に乗ってブリストルからケベックに行こうとしていました。
 濃い霧のために、船は港から出られずにいました。桟橋でミュラーは言いました。
 「船長さん。私は土曜日の午後までにケベックに着かなければならないんですが」。
 船長は、「とても無理です」と言いました。
 「そうですか。しかし、この船が私を連れていくことができないのなら、神様は他の道を開いて下さるでしょう。船長さん。海図室に行って祈りましょう」。
 船長は心の中で、"このヘンテコな気違いはどこから来たんだ"と思いました。そして、
 「ミュラーさん、霧はこんなに深いじゃないですか」
 と言いました。しかしミュラーは言いました。
 「いいえ、私の目は濃い霧を見てはおりません。私の生涯のすべての事情を支配して下さる神を見ているのです」。
 ミュラーはひざまずいて、きわめて単純な祈りをしました。祈りが終わったとき、船長も祈ろうとしましたが、ミュラーは船長の肩に手を置いて言ったのです。
 「祈ることはありません。私は神様が答えて下さると信じて祈りましたが、あなたは信じていません。
 船長さん、私は五七年間、主を知っています。私は一日だって主にお目にかからなかったことはありませんでした。船長さん、立ってドアを開けてごらんなさい。もう霧は晴れましたから」。
 言われた通り、船長がドアを開けてみると、外は晴れていました。こうしてミュラーは、約束通りの時間にケベックに着いたのです。


C・H・スポルジョン



人生自体が奇跡となる

 聖霊に満たされて歩むと、様々な不思議なことが起きます。
 しかし、病気のいやしや、その時々の様々な不思議なわざが行なわれることも確かに素晴らしいことですが、もっと素晴らしいことがあります。
 聖霊に満たされた人にとっては、その人の人生自体が奇跡となるのです。
 たとえ病気のいやしの経験がない人であっても、たとえ不思議なわざの経験がない人であっても、聖霊に満たされた人の人生はみな、その人生自体が奇跡となります。
 病気のいやしや、時々の不思議なわざは、その時、またその場だけのことです。しかし、人生自体が奇跡となるとき、それは永遠的な価値を持つのです。
 私たちが罪にまみれた、滅びゆく者であったのに、キリストの十字架の血潮によって贖われて、新しく生まれ、永遠の命の道を歩み通すなら、その人生自体が奇跡ではないでしょうか。
 私たちがいつも愚痴や不平ばかりこぼしている不幸な者であったのに、神の子とされた今、キリストのお与えになる平安と喜びと愛の道を歩むとき、その人生自体が奇跡ではないでしょうか。
 私たちがいつも自分のことばかり考えている利己的な者であったのに、キリストの弟子とされた今、自分のことよりも神のことを思い、また自分を愛するように隣り人を愛する道を歩むとき、その人生自体が奇跡ではないでしょうか。
 かつてアウグスチヌスは、放蕩三昧の生活をしていたのに、母の絶え間ない祈りの結果、あるとき劇的な回心をして、すばらしいクリスチャンになりました。そして全世界に多大な影響を与える人物となったのです。その人生は、それ自体が奇跡ではないでしょうか。


アウグスチヌス

 また、かつてフランシスコ・ザビエルは、祖国の裕福で安楽な生活を捨て、はるばる貧しい日本にやって来て、キリストの福音を日本人に教えてくれました。彼のその素晴らしい人生は、それ自体が奇跡ではないでしょうか。
 かつてナイチンゲールは、クリミヤ戦争のとき、敵味方の区別なく傷病兵を看護して、キリストの愛を実践しました。そのことにも刺激され、のちに赤十字が、アンリ・デュナンという人によって設立されました。彼らの人生も、それ自体が奇跡ではないでしょうか。


フローレンス・ナイチンゲール

 かつて好地由太郎という人は、重罪を犯して二三年の長きにわたって獄中生活を送った人であるのに、獄中で聖書を読んで独り回心し、模範囚となって、恩赦を受けて出獄。そののち伝道者となって、全国をまわって素晴らしい伝道をなしました。彼の人生は、それ自体が奇跡ではないでしょうか。
 現在も、ミッション・バラバの人々が、元ヤクザであったのに、今はキリストを知って生まれ変わり、キリストにある幸福を人々に伝える伝道者となっていることは、まことに、彼らの人生自体が奇跡と言えるのではないでしょうか。


ミッション・バラバと、アーサーホーランド、松沢秀章師

 森本春子先生が、激動の生涯を送りながら、キリストの愛に押し出されて山谷の浮浪者を助けながら伝道し、彼らの「母」と呼ばれて慕われている姿は、その人生がまさに奇跡ではないでしょうか。


聖霊の満たしと祝福

 先日、聖隷福祉事業団の創設者・長谷川保先生の伝記を読んで、私はたいへん感銘を受けました。
 先生はクリスチャンになり、教会の礼拝の最中に祈っていたとき、不思議な体験をしたそうです。突然、彼の心に「大きな声」が鳴り響いて、その声は言ったそうです。
 「お前は外国に行くのではない。日本にとどまり、この国を救うために働くのだ」。
 長谷川先生がこののち、医療、福祉、看護教育、ホスピス(末期患者のためのケア施設)などの社会事業に次々に乗り出していった原動力は、まさに、この神の声を聞いた経験と、聖霊の満たしの体験だったのです。
 最初から、あれほどの大事業をなすだけの潤沢な資金や方策があったわけではありません。彼はまず、クリーニング屋をして自分の生活を成り立たせていました。
 しかし、当時は大正時代の日本、彼の周囲には寄るべのない孤児や老人、結核患者や、精神病患者が数多くいました。それで長谷川先生は、ともかく彼らを救うための社会事業を開始したのです。
 自分の全財産をなげうって、彼はそうした弱者のために働きました。そうした人は、もともとお金のない人たちがほとんどでしたから、彼らの世話をしていくのは本当に奉仕の精神がなければできないことでした。近所の人たちには、
 「結核患者を収容する施設などがこの町にあっては困る。周囲に空気伝染して町が破滅する。出ていってくれ」
 などと、言いがかりをつけられたりすることもあったそうです。
 「いや、菌が周囲にもれるなんて、とんでもない誤解です。空気伝染なんてありません。直接患者の咳でも吸い込めば別ですが、結核菌は日光に大変弱いんです。だから、ご覧のように布団も寝間着も日光にさらして殺菌しています。
 菌は痰にあって、その痰は日に三度集めて煮沸消毒していますから、危険は全然ないんです。第一、そんなに危険なものなら、私たちが生きているはずがないじゃありませんか」
 などと言い合ったこともあるそうです。そうした世間の誤解とも戦わなければならなかったのです。
 また、瀕死の病人は次々に施設に入ってくるし、経済的にも"赤貧洗うがごとし"の状態になってくる。その生活は、どんなにか大変だったでしょう。そんな中で、長谷川先生の奥さんの八重子さんも、文句一つ言わずに献身的に働き続けました。
 町の人たちはその施設を、きたないゴミためのように嫌っていました。彼らから受けた迫害は、幾たびにも及んだそうです。しかし、長谷川先生をはじめ二〇人ほどの職員は、みな、
 「困った人には、自分の持っているすべてを与える。しかもそれは自分のものではなく、もともと神から与えられたものだ
 という意識をもって献身的に働き続けました。このような働きは、聖霊から来る愛がなければ、決して出来ないことです。
 そして聖霊による愛で行動していると、時が来れば必ず大きな祝福がどっと来るのです。ある日、長谷川先生は突然、静岡県庁に呼ばれました。
 「長谷川さん、大変だ、大変なんだ。ゴカシキンだ!」
 というのです。「えっ、ゴカシキン?」
 「そうなんですよ。天皇陛下からの御下賜金です!」
 なんと、その福祉施設充実のためにと、昭和天皇からの金一封が長谷川先生の施設に届いたのです。もちろん、半端な金額ではありません。このニュースは、またまく間に新聞やラジオを通じて世間に広まりました。
 その日から町の人たちの見る目が変わったのは、言うまでもありません。それまでは施設をゴミためのように嫌っていた人も、その日からは尊敬の目で見るようになったのです。


聖隷福祉事業団創設者:長谷川 保

 聖霊に満たされて生きるときに、奇跡が起きます。
 あなたも、人生の奇跡を体験したくはありませんか。神は、私たちがいまだ目に見ず、いまだ耳に聞かず、いまだ思い浮かびもしなかったような偉大な祝福を、あなたのために用意していて下さるのです。
 だれでもクリスチャンは、自分の人生を振り返ってみたとき、自分の人生は一つの奇跡であった、と思うことができるでしょう。神はあなたについても、聖霊によってその人生自体を奇跡としようと願っておられるのです。
 それこそ、奇跡中の奇跡、最も大きな価値を持つ奇跡です。聖書は教えるのです。
 "聖霊に満たされなさい。そしてあなた自身が奇跡となりなさい"
 と。
 ほかにも、聖霊に満たされて歩むときに初めてわかる素晴らしい祝福が、多くあります。聖霊の御働きは多様なものです。
 私たちは、信仰により聖霊に満たされて、日々、神の愛と福音のために歩みましょう。

                                  久保有政(レムナント1997年5月号より)

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