クリスチャンの最終的状態
目に見えない天国は、クリスチャンの
最終的状態ではない。その後がある。
ポッツォ画「聖イグナチウス・デ・ロヨラの栄光」。
16世紀にルターやカルヴァンらの宗教改革が起きたとき、
カトリックから出ずに、カトリックにとどまったまま宗教改革を
行なった人々がいた(対抗宗教改革)。ロヨラはそのひとり。この絵は、
ロヨラが大勢の天使に導かれて召天する有り様を描いたもの。
紀元前八〇〇年頃のこと、イスラエルにエリシャという預言者がいました。
エリシャが、召使いと共にドタンという町にいた時のことです。召使いが朝早く起きて、外に出ると、なんとその町の周囲を敵の馬と戦車の軍隊が包囲していました。
召使いは「大変だ!」ということで、あわてて家の中に入り、エリシャに言いました。
「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」。
すると預言者エリシャは、落ち着き払った様子で言ったのです。
「恐れるな。私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者よりも多いのだから」。
そしてひざまずいて神に祈りました。
「ああ主よ。どうぞ彼の目を開いて見えるようにして下さい」。
すると、神がその召使いの霊的な目を開かれたので、「彼が見ると、なんと(天国の)火の馬と戦車が、エリシャを取り巻いて山に満ちていた」ということです(U列王六・一七)。
みなさん、天国は私たちのすぐ近くにあるのです。仏教の浄土宗などでは浄土は「西方十万億土」といって、宇宙のはるかかなたにあるそうですが、キリスト教では天国はじつはすぐ近くにあるのです。
ただ次元の違う世界なので、肉眼では見えないだけです。しかし、霊の目が開かれると、見ることもできるのです。
天国は、すぐ近くにある。
クリスチャンにとって天国は実在
クリスチャンにとって、天国は実在です。かつてイエス・キリストの弟子ステパノは、迫害されて殉教し、死のうとするとき、
「見なさい。天が開けて、人の子(キリスト)が神の右に立っておられるのが見えます」(使徒七・五六)
と言って息を引き取りました。ステパノの目の前には、天界が開けたのです。
愛媛県松山市に住むT・Iさんは、こんな話を聞かせてくれました。
六〇年ほど前のこと、彼のお兄さんは二二歳の若さで結核で亡くなったそうです。結核というのは、最後まで意識がはっきりしている病気で、その兄もそうでした。
兄は熱心なクリスチャンで、自分の臨終が間近になったことを知ったとき、お祈りを始めました。その周りには両親や兄弟、また親族などが、彼を見守っていました。
お祈りをしているとき、彼は言ったのです。
「ああ、だんだん上へ昇っていく。川原が見える。・・・・ああ、今度はお花畑が見える。きれいだ。本当にきれいだ。本当にきれいだ・・・・」(立花隆著『臨死体験』文芸春秋刊)。
そう繰り返しているうちに声がしなくなったと思ったら、息を引き取っていました。彼の弟のT・Iさんは、この思い出はもう六〇年も前のことだが、兄が自分の死の直前になしたお祈りと、天に昇っていく有り様を言ったこの言葉は今もはっきり覚えている、とのことでした。
クリスチャンにとって天国は実在なのです。それは寓話でも、おとぎ話でもありません。クリスチャンは天国の実在を知っているのです。
大衆伝道で活躍しておられる村上宣道師は、こういう話をして下さいました。先生のお父さんも牧師だったそうですが、お父さんが天に召されていった時のことが今も忘れられないそうです。
お父さんが、ガンだったと思いますが重い病気にかかって、病院にいた時のことです。まわりの人は看護婦も、親族もみな、彼の命がもはや時間の問題であることを知っていました。
本人もそれを知っていました。そしてある日、病室で、自分のお葬式について話していたのです。
「なあ、宣道。私の葬式は、あまりじめじめやらないでくれよ。これは私が天国に行って神様のもとへ行くことなんだから、葬式というよりは結婚式みたいなものなんだよ」。
そして「葬式の時には、讃美歌はこれがいいな」とか、楽しそうに自分で選んでいたというのです。病室からは笑いがもれていました。
ちょうどそこへ、ある看護婦さんが入ってきました。
「あら、楽しそうに。どなたか結婚でもなさるの?」
「あはは、そのようなものだよ。私のお葬式のとき、どんな式にしたいか、みなで話していたんですよ」
と嬉しそうに言うので、その看護婦さんはびっくりして、自分自身の死をこんなに楽しそうに話せるなんて、一体どういうことなんだと思って聞くと、クリスチャンだということがわかってきました。そして、
「死をこれほど真正面に捉えられるこの宗教こそが本物だ」
と直感して、彼女も信仰に入ったのことです。
死とは、さなぎが蝶になるようなもの
クリスチャンにとって死とは、ちょうど、さなぎが蝶になる時のようなものです。さなぎの殻を脱ぎ捨てて蝶が飛び立つように、私たちは肉体という殻を脱ぎ捨てて、天国へ飛び立っていくのです。
いも虫が、さなぎになり、やがてその中からチョウが
現われて飛び立つ。人の死も、そのようである。
または、死とはちょうど私たちが着物を脱いで真裸になるときのように、私たちが肉体という着物を脱ぎ捨てて裸になることです。キリストの使徒パウロも、
「肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています」(Uコリ五・八)
と語っています。私たちは肉体を離れると、天使が迎えに来てくれて、主イエス・キリストと神のおられる天国に連れられていくのです。
臨死体験の先駆的な科学研究をなしたレイモンド・ムーディ博士はこう言ってます。
「私は以前、人間は死ぬと無に帰してしまうと考えていました。死後の世界とは単なる暗黒であると考えていました。
しかし、今は死後の世界があると信じています。そうすると、人生観も大きく変化しました。私は今の生命を、なおのこと大切にすべきだと思うようになったのです。
変な言い方かも知れませんが、人間は死後無に帰すると考えていたときは、自分の人生などたいしたものではない、どうでもいい――そう思っていたのですが、死後の生命があると思うようになってからは、今の人生をなおのこと大切に生きなければならない、と考えるようになったのです」。
みなさん、私たちには死後に天国が用意されているのですから、なおのこと今の人生――地上の生涯を大切にしましょう。
しかし、やがてあなたが死んで天国に行くときがやって来ます。あなたは裸の霊の状態で、天国に昇っていきます。
自分の体重は重いから、とか気にする必要はないのですよ。あなたはもはや肉体を着ていないからです。
また、あなたはそのとき、地上の財産を一緒に持っていくことはできません。私たちは、財産はあらかじめ「天の宝」として天国に積んでおかなければならないのです。
この地上で神様の教えを行なったり、愛の行ないをすると、そのたびに天国に宝が積まれていくのです。あなたは死ぬとき、手に何かを握って持っていくことはできません。
ただ心に、信仰というパスポートは忘れずに抱いていかなければなりません。信仰というパスポートがないと、天国には入れないのです。
なぜなら天国は、神様が王となっておられる王国ですから、神様を人生の王、人生の主と認めない人は、その王国に入らせてもらえません。
クリスチャンにとって天国は実在です。それは私たちの帰るべき故郷、天のふるさとです。
私たちはこの地上では、「旅人」にすぎません。やがて私たちは一人一人、天の父のおられる国に帰り、また神の家族の長子である主イエス・キリストのおられる天国に行くのです。
天国では、私たちの意識というものはあるのでしょうか。
あります。ヨハネの黙示録六・九には、殉教者たちが天国の「祭壇」のもとにいて神と会話を持っている光景が、描かれています(この祭壇が天国のものであることについては、黙示八・三参照)。
ある人々は、聖書でクリスチャンの死が「眠り」と言われているのを誤解して、クリスチャンは死後無意識なのだ、と思っているようですが、そうではありません。
「眠り」というのは、クリスチャンの死を文学的表現で言ったものに過ぎないのであって、天国の魂には意識があり、天国の他の住人と具体的な会話も持てるのです。
そこには安息だけでなく、喜びと、真の幸福があります。
では、この目に見えない天国は、クリスチャンの最終的状態でしょうか。クリスチャンは、目に見えない霊的な世界としての天国に行って、それで終わりでしょうか。
いいえ、そうではありません。目に見えない天国は、クリスチャンにとっては、死後の中間状態にすぎないのです。
目に見えない天国は中間状態にすぎない
神様は、もともと人間を体を持つ者として創造されました。ですから、人間が体のない単なる魂の状態にあるときは、まだ人間は完全には救われていない――回復していないのです。
神様の救いは、人間が目に見えない霊的な世界である天国に行って後、その人間が再び体を着て現われるときに完成します。これを聖書では「復活」といいます。
世の人々は、天国に行った人々について、よく、
「安らかに永遠に眠れ」
と言います。しかし、天国に行った人々は、永遠に眠り続けるのではありません。来たるべき時に復活するのです。
目に見えない天国に行くことは、私たちの最終的なゴールではありません。それは中間状態、一つのプロセス、過渡的状態にすぎません。その先があるのです。
神様のみことば「聖書」は、クリスチャンはやがて世の終わりに、イエス様の再臨されるときに一緒に天国から復活して現われる、と約束しています。
「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる」
とユダ一四節にあります。Tテサロニケ四・一四にも、
「神は・・・・イエスにあって眠った人々を、イエスと一緒に連れて来られる」
と述べられています。主イエス様の再臨の際、天国からクリスチャンたちが復活して現われ、イエス様は彼らを「一緒に」引き連れて来られるのです。
千年王国では、キリストのもとに、
クリスチャンは指導的な立場につく。
クリスチャンの復活は、「よみ」(ハデス)からのものではありません。クリスチャンは天国から復活するのです。
ですから、クリスチャンは「よみがえる」という言葉を使うと、どうも誤解があるようです。「よみがえる」は"黄泉還る"だから、よみから出てくる、と思う方がいるようですが、そうではありません。クリスチャンは天国から復活して地上に出現するのです。
黙示録一九・一四にも、
「天にある軍勢(クリスチャンたち)は、真っ白な清い麻布(正しい行ないのこと)を着て、白い馬に乗って彼(再臨のキリスト)につき従った」
とあります。イエス様は復活した聖徒たちを引き連れて、彼らと共に天国から再臨されるのです。
黙示録には、終末の時代に「第一の復活」と「第二の復活」があると記されています。第一の復活は千年王国の前(二〇・四〜六)、第二の復活は千年王国の後です(二〇・一三)。
第二の復活は「よみ」(ハデス)にいる未信者たちの復活であって、第一の復活はクリスチャンたちの復活です。
全時代の全クリスチャンは、千年王国の前のこの「第一の復活」のときに復活するでしょう。なぜならTテサロニケ四・一六に、
「主は・・・・ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者がまず初めによみがえり」
と記されているからです。クリスチャンの復活は千年王国の前、キリスト再臨の時に起こるのです。すなわちキリスト再臨の際に、全時代の、全世界の、全クリスチャンが復活するでしょう。
ヤイロの娘をよみがえらせ、ラザロをよみがえらせたお方は、
世の終わりにすべてのクリスチャンをも、復活させて下さる。
クリスチャンは、イエス様の復活の体と同じ「栄光の体」(ピリ三・二一)を着て現われるのです。それは死のない、朽ちない体です。
神様は、海の生物であるヒトデに、その腕の一本が切れた場合、それを再生して元通りにする自然治癒力をお与えになりました。
また、陸の生物であるトカゲに、その尾が切れた場合、それを再生して元通りにする力をお与えになりました。
神は、ましてや愛する人間のためには、その体を復活させて再生させるだけの力をお持ちなのです。
今日、人間は科学技術の発達により、たとえ昔に世を去った人であっても、その人が生きているときに録音・撮影したものであれば、その声を再生して聞いたり、ビデオでその姿を再生して見たりすることができます。
ましてや偉大なる神は、私たちが世を去ったあとも、再び私たちの体を再生し、復活させることがお出来になるのです。
人間は、科学技術の発達により、
たとえ昔に世を去った人であっても、
その人が生きているときに録音・撮影した
ものであれば、その声を再生して聞いたり、
ビデオでその姿を再生して見たりすることができる。
ましてや偉大なる神は、私たちが世を去ったあとも、
再び私たちの体を再生し、復活させることがお出来になる。
世を去るとき老人として死んだ人も、若返った状態で復活します。アダムが造られた時のような体、エバが造られた時のような若々しい成熟した体に戻って復活するのです。
または、イエス様が復活した時と同じ程度の年齢に見える体に復活するでしょう。
「キリストは・・・・私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ姿に変えて下さる」(ピリ三・二一)
のです。復活――なんという素晴らしい約束でしょうか。神様ご自身が、聖書を通して約束して下さっているのです。
主は、私たちの卑しい体を、
ご自身と同じ栄光の体に変えて下さる。
では、復活はクリスチャンの最終的状態でしょうか。
いいえ、そうではありません。そのあと、クリスチャンには"千年王国"の祝福があるのです。
千年王国の祝福がある
黙示録二〇章には、こう記されています。
「彼ら(クリスチャン)は生き返って、キリストと共に、千年のあいだ王となった」(二〇・四)
千年王国は、再臨のキリストによって地上に樹立される至福の王国です。
キリストの再臨により、千年王国が出現する。
千年王国について、預言者イザヤの預言を見てみましょう。イザヤ書六五章にはこう記されています。
「わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。
わたしの民の寿命は木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
彼らはむだに労することもなく、子を産んで突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らと共にいるからだ。
彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇はちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない」(一九〜二五)。
じつは、これらの句の少し前に、
「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(一七)
とあることから、これらの句は新天新地の光景かと思うかたもいるかも知れませんが、そうではないと思われます。これらの句は新天新地の前の千年王国に関する描写でしょう。
というのは、黙示録二一・四に、新天新地には死がないと記されています。しかし、イザヤ書の先の箇所では、
「百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる」
とあって、死がわずかながらもある、とされているのです。したがって、これは新天新地の光景ではなく、その前の千年王国の光景でしょう。
じつは旧約時代の預言者は、新天新地に関する預言や千年王国に関する預言を、"二重写し"に預言していることが多いのです。旧約時代の預言者は、終末から遠く隔たった時代に生きていたからです。
たとえば、山のライン――山々が空と出会うラインを「スカイライン」といいますが、日本アルプスの山々を見れば、それは一つのスカイラインに見えます。
しかし実際は、まず手前に南アルプスがあって、その向こうに北アルプスがあるのです。しかしそれらが重なり合って、一つのスカイラインに見えます。
山々のスカイラインは一つに見えるが、実際は、
手前の山々や、もっと向こうの山々が重なり合って見えている。
旧約の預言者が見たものも、それと同じです。新天新地のことも千年王国のことも一つのように、預言する場合がありますが、実際はそれは二つの別々のものなのです。
千年王国は地球上の目に見える国
千年王国は、目に見えない、単なる霊的な世界ではありません。それは現在の地球上に建設される、目に見える、具体的な世界です。
かつてエデンの園が、現在の地球上の目に見える具体的世界であったように、千年王国もそうなのです。
キリストは、地上再臨されたあと、天国から復活したクリスチャンたちと共に、地上を支配されます。
千年王国にはじつは、復活したクリスチャンたち以外にも、人々がいます。これは"ハルマゲドンの戦い"(黙示一九・一七〜二一)で生き残った人々です。
ハルマゲドンの戦いにおいて地上にいる未信者全員が死滅する、と考える解釈もありますが、そのようなことはあり得ません。なぜなら、ハルマゲドンというのはイスラエル北部の一地域であって、そこに「獣」と呼ばれる独裁者や彼の軍隊が集結し、そこに集結した軍隊は全滅しますが、そこに集まらなかった女・子どもも、当然全世界の各地に多数いるはずだからです。
彼らはハルマゲドンの戦いの後も、生き残り、キリストの恵みのもとで千年王国の市民として生きるでしょう。
彼らのうち、千年王国開始以前に大きな罪を犯した人の中には、「百歳にならないで死ぬ」人もいるでしょう。それが、先に述べた"千年王国中に死ぬ人"です。
しかし、千年王国中に死ぬ人はわずかであって、そうした死ぬ人たちでさえ、千年王国の多くの恵みを体験できるのです。
一方、千年王国のクリスチャンたちは死ぬことはありません。
「わたしの民の寿命は木の寿命に等しく」
と言われているからです。植物学者によれば、樹木というものは、環境さえ良ければ何万年生きてもおかしくないのだそうです。クリスチャンたちは千年王国の理想的環境の中で、いつまでも生きることでしょう。
聖書の記録によると、かつてノアの大洪水以前の人々は、九〇〇歳前後まで生きました。しかし、千年王国のクリスチャンたちは、もっと長生きするでしょう。
実際、彼らはその後決して死なないのです。なぜなら、彼らは千年王国の後には新天新地に入り、そこには「もはや死がない」(黙示二一・四)からです。
私たちは、死のない体というものを想像しにくいかも知れません。現在私たちが見ている世のすべてのものは、移り変わり、「滅びのなわめ」(ロマ八・二一)のもとにあるからです。
しかし、来たるべき神の国では宇宙の秩序そのものが変わってしまうのです。私たちは神が永遠のお方であるように、キリストが永遠に生きておられるように、天使が永遠に生きているように、永遠に生きる者とされるのです。
千年王国のクリスチャンは、老化から解放されるでしょう。そこでは、しわだらけの人や、耳の遠くなった人、痴呆症の人、腰が曲がって杖をついて歩く人を見ることはありません。
老化の悲哀を感じることもありません。すべてのクリスチャンは、いつも若々しい体と、強靱な体力を保持するでしょう。
さらには、そこでは病人や、障害者も見なくなります。
「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う」(イザ三五・五)
と預言されているからです。現在、病気や障害をもっている方も、千年王国では完全な健常者に生まれ変わります。そこではもはや、松葉杖も、盲導犬も、補聴器も必要ありません。
今まで歩けなかった人も、歩けない自分を悲しむ必要はありません。今まで目が見えなかった人も、千年王国ではすべての美しい光景を自分の目で見ることができます。
この世に生まれつき障害を持って誕生した方は、障害のない状態というものをまだ体験したことがないでしょう。しかし、千年王国では完全な健康体を、千年にわたって満喫できるのです。
現在、病床に伏すことを余儀なくされているかたも、千年王国では戸外で思う存分人生を楽しむことができます。そこはもはや病院も、医者も、看護婦も必要ない所だからです。
みなさん、そのような光景を想像できるでしょうか。
かつて江戸時代の人は、現代社会のように飛行機が飛び交い、車が縦横に走る社会を想像だに出来ませんでした。昔の人は、高層ビルが建ち並び、地球の裏側とも電話で話せる現代社会を想像だにできませんでした。
私たちも、来たるべきキリストの千年王国の光景を、充分な想像をもって実感できないかも知れません。しかし、それは神の御言葉――聖書が力強く約束していることなのです。
「荒野に水がわき出し・・・」
神は償って下さる
現在この世で、苦しみや悲しみを多く経験した人ほど、千年王国では大きな幸福を体験できます。神がこう言われたからです。
「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう」(ヨエ二・二五)。
神は償って下さる方なのです。義人ヨブの場合も、彼が経験した苦悩は、その後二倍になった祝福をもって償われました。私たちの場合も、
「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りない」(ロマ八・一八)
のです。この世で早死にした人も、千年王国ではその分大きな幸福に生き、第二の人生を歩むことができるでしょう。
千年王国は、真の幸福と、繁栄と、平和と、義の世界となるでしょう。
「そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もいない」(イザ六五・一九〜二〇)
との預言が実現・成就します。
千年王国では、人々の間に真の平和が支配するでしょう。
「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」(イザ二・四)
と預言されています。千年王国にはもはや戦争はないのです。
ある歴史学者によると、有史以来、世界のどこにも全く戦争がなかった期間は、四〇数年に過ぎなかったといいます。しかし千年王国が地上を支配するとき、あらゆる戦争は、全世界から一千年にわたって完全にやむでしょう。
あらゆる武器は平和的な道具に打ち直されます。すべての銃器や剣、また核兵器や化学兵器も解体され、人々はその恐怖から解放されるでしょう。
千年王国において、すべての武器は解体されるであろう。
今日の世界は軍事費に毎年莫大なお金をつぎ込んでいます。たとえばジェット戦闘機をとってみても、一機あたり一〇〇億円もするそうです。
このお金があれば、発展途上国に学校が幾つも建つでしょう。立派な病院を建てることもできます。
もし今日の世界で使われている軍事費をすべて、飢饉や災害に苦しむ国や、もっと学校・病院等の必要な国などに振り分ければ、世界中のすべての問題は解決してしまうとさえ言われるほどです。
しかし、千年王国ではもはや軍事費は全く必要ないので、それらをすべて平和産業に転じることができるのです。
そこではまた、死体があちこちに散らばる恐ろしい光景を見ることもありません。子どもを殺された母親の悲しい嘆き声を聞くこともありません。
人々はもはや軍事基地を見ないでしょう。ジェット戦闘機の爆音に悩むことも、徴兵もありません。あらゆる戦争はもはやなく、軍人や警察官は世界からいなくなるのです。
今の世界では、過去に戦争を経験したことのある方は、しばしば過去の戦争の悪夢が頭をよぎることがあるでしょう。しかし、千年王国では、その悪夢は二度と繰り返されません。
こうした世界を、もし私たちが想像しにくいとすれば、それは私たちがあまりにも苦しい、矛盾した世界に長くいたからです。
今日、私たちは神の創造されたかつてのエデンの園の幸福でさえ、単に聖書の短い記述を読んで知っているだけです。私たちはその幸福というものを、実際に見たり触れたりしたことはありません。
しかし、神は人類六〇〇〇年のあとの最後の一〇〇〇年期を、真の幸福と安息の期間とし、すべてのクリスチャンにそれを体験させて下さるでしょう。しかも、具体的な、目に見えるかたちで。
ちょうど、神が六日間の創造の後七日目を休まれたように、人類の歴史の第七千年期を神は安息と幸福の時代とされるのです。千年王国の福音について初めて聞いたある方は、言いました。
「私は長年クリスチャンとして教会に通ってきましたが、今までこんなに素晴らしい福音が聖書に書かれていることに気づきませんでした。しかし、これは私たちにとって本当に必要で、大切な福音ですね」
と。みなさん、やがて現在の世界のすべての矛盾が解決される時が来るのです。終末が間近になったこの時代にこそ、私たちはこの「神の国の福音」を知らなければなりません。
「神の国の福音」とは?
私たちは、これまで「神の国の福音」「御国の福音」について、どれほど理解してきたでしょうか。
主イエスは言われました。
「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます」(マタ二四・一四)。
私たちは終末の間近になったこの時代にあって、「十字架の福音」だけでなく、「御国の福音」「神の国」の福音をもっと宣べ伝えなければなりません。
私たちの現在の世界は、多くの矛盾に満ちています。一生懸命働いても、悪人がやって来て財産をだまし取ったり、精魂傾けてなした事業が灰燼に帰してしまうようなこともあります。
この世では、しばしば悪人が栄え、善人が苦しみを受けています。善は必ずしも報われず、悪は必ずしも罰せられることがありません。
しかし千年王国では違います。そこでは、「彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない」(イザ六五・二二)のです。
「彼らはむだに労することはなく」(同六五・二三)
人々の働きは生産的・創造的になります。そして働けば働くほど、報われる世界なのです。
この世ではしばしば、「食べていくために働く。働くために食べる」で働いているうちに、人生の目的や意味も考えるひまさえなくなって、無為に時を過ごしてしまうようなことがないでしょうか。
しかし千年王国では、人は、
「自分の手で作った物を存分に用い」(同六五・二二)
一時一時を充実して生きることができるでしょう。それは人生の目的と意味が完全に成就している世界だからです。
人生の目的は、神と共に生きる幸福にあるのです。神が人を喜び、人が神を喜ぶという相互の喜び、相互の幸福にこそ、神が人を創造された目的があります。
キリスト様がそれを回復して下さいます。人生の目的、人間の創造目的が、千年王国ではキリストにあって隅々にまで回復・実現しているのです。
「わたし(神)は・・・・わたしの民を楽しむ。・・・・彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」(同六五・一九、二四)。
神様は、人間にどこまでも身近なかたとなって下さるのです。そこには人生の喜び、躍動、充実、輝きが満ちています。
現在の世で暗い表情で過ごした人も、千年王国では輝いているでしょう。クリスチャンにとっては、それはいわば"第二の人生"です。
かつてエデンの園の幸福を体験した人は、人類ではアダムとエバの二人だけでした。ほかのすべての人々は、私たちも含め、誰もエデンの園の幸福を体験したことはありません。しかし、神は私たちにも、新しい世界で具体的な第二の人生を与えて下さいます。
それは、エデンの園の祝福を世界大に拡大した千年王国です。そのような世界が、現在の古い天地が過ぎ去ってしまう前に現わされなければなりません。
キリスト様がそれを実現・成就して下さるのです。
神がせっかくお造りになったエデンの園の
幸福を体験したのは、アダムとエバの二人だけだった。
しかし神は、現在の古い天地を過ぎ去らせる前に、
エデンの園の幸福を世界大に拡大した千年王国をもたらされる。
弱肉強食はなくなる
千年王国ではまた、動物たちの間にも、真の平和が支配するでしょう。
「獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし・・・・」(イザ六五・二五)
と預言されています。「獅子」すなわちライオンは、草食でしょうか肉食でしょうか。肉食です。しかし、千年王国では彼らも牛のように「わらを食べる」。草食になるのです。
また蛇は、草食でしょうか肉食でしょうか。肉食です。しかし、彼らも草食になるのです。
その日、弱肉強食はなくなり、すべての動物は仲良く暮らすでしょう。すべての動物は草食になるからです。
千年王国では、人の間にも、
動物の間にも、完全な平和が支配する。
私たちが牧場で馬や牛を見るとき、「草ばかり食べている馬や牛が、こんなにも大きくなるんだからなぁ」と驚かないでしょうか。動物も人間も、本来、草食、ベジタリアンで生きることのできるように造られているのです。
旧約聖書には、ダニエルたちが野菜と水だけで暮らした話が出てきます。彼らは、
「一〇日間私たちを試して下さい」
と言って、肉類をいっさい食べませんでした。しかし、一〇日間たってみると、彼らは、毎日ペルシャの宮廷でたくさんの肉類のごちそうを食べている人々よりも、はるかに血色がすぐれていて、よく肥えた健康体であったと記されています(ダニ一・五〜一六)。
ダニエルたちは、野菜と水だけの
生活だったが、誰よりも血色がよく、
健康的だった。創元社『聖書物語』より
また、ニューギニアのある原住民は、昔からほとんどイモしか食べないそうです。様々なイモや野菜は食べますが、肉や魚は口にしません。しかし、彼らは堂々たる体格で強靱な体力を持っています。
人間の体というものは本来、草食で健康を保てるように造られているのです。しかし、千年王国ではイモだけではないのですよ。様々な種類の植物性の食物が用意されています。
世界に罪が入る前は、人間も動物も草食でした(創世一・二九〜三〇)。しかし、世界に罪が入って以後、肉食もしだいに広まっていったようです。そして大洪水後になって、制限付きではあるものの、肉食が公に許可されました(創世九・二〜六)。
しかし千年王国では、すべての動物の間に再び草食が回復します。また動物たちは、人間に害を与えることなく、本能的に人間を敬うでしょう。
千年王国において、動物たちは本能的に人間を敬うであろう。
その日には、人間の幼子が、ライオンや、そのほか様々な元肉食動物と共に遊び、戯れる姿が見られるでしょう(イザ一一・八〜九)。
その日、すべての民族は一つになります。どこででも、黄色人種も白色人種も黒色人種もみな一つになって、仲良く食卓を囲み、団らんの時を持つでしょう。
千年王国では、「宗教」という言葉も使われなくなります。「キリスト教」という言葉もなくなるでしょう。なぜなら、すべての人が神とキリストを知るようになるからです。
「主を知ることが、海をおおう水のように地を満たす」(イザ一一・九)。
からです。それはごく当然の、普通の知識となるのです。もはや教派も宗派もありません。全地はただ一つの教えになります。
ただ一つの教えが世界を支配します。ちょうど太陽が昇れば月星が光を失うように、真の教えが太陽のように昇って、邪教邪説は廃れるのです。
このように、来たるべき終末の患難時代の向こうに、幸福な千年王国があります。
かつてイエス様は、十字架の向こうに復活があることを知って、十字架の苦難を忍ばれました。私たちも、現在にたとえ苦しみがあったとしても、来たるべき未来にこのような幸福な世界が用意されているのだと知って、耐え忍ぶことができます。
主イエスは、十字架の
向こうに復活の栄光が
あることを知って、十字架
の苦難を忍ばれた。カール・ブロック画
妊婦は、やがて子どもが生まれる姿を見る幸福を思って、産みの苦しみに耐えるでしょう。私たちも、千年王国がやがて産み出されるのだと知って、今の時代の苦しみにも耐えることができるのです。
千年王国――それは私たちの望みです。それは神の御約束なのです。
では、千年王国は、クリスチャンの最終的状態でしょうか。
いいえ、そうではありません。千年王国も、一つの過渡的状態にすぎないのです。一つのプロセスにすぎません。
神のさばきの法廷
千年王国ののち、すべての人々をさばくための神の法廷が開かれます。
「さばく」というのは、必ずしも罰を与えるという意味ではなく、裁判をする、適切な評価を下すという意味です。Tペテロ四・一七に、
「さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう」
と記されていますので、クリスチャンのためのさばきの法廷がまずあって、その次に、未信者のためのさばきの法廷が持たれるのでしょう。Uコリント五・一〇にも、
「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになる」
と述べられています。すべての人は千年王国の後、世の終わりの「万物の改まる時」(使徒三・二一)に、神のさばきの法廷に立つのです。
クリスチャンはそのとき、地獄へのさばきを受けることはありません。クリスチャンはみな、キリストに対する信仰によって義と認められ、「いのちの書」に名が記されているので、地獄に行くことはないのです。
これは神の御約束なので、どこまでも信じてよいのです。
しかし、その日クリスチャンは現在の地上において、またその後の千年王国において「タラント」「ミナ」「機会」を充分に用いて神の教えを忠実に行なったか、また愛に生きたか否かを、問われることになるでしょう。
それによって、ある者はそれに続く「新天新地」で、三〇倍、六〇倍、また一〇〇倍の褒賞を受けるでしょう。しかしある者は、注意を受けるでしょう。
このとき神がもっとも見られるのは、その人が神の教えに忠実であったか否かでしょう。私たちは「善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受ける」のです。
この世で、また千年王国で、神のためによく働いた人は、それ相応のものを与えられ、そうでない人もそれ相応のものを受けるでしょう。
この神の法廷は、現在の天地が過ぎ去って、新天新地が創造されるときに、神の御座の前で持たれるものです。それは宇宙の総まとめです。
私たちの人生も、その場で問われます。クリスチャンには地獄へのさばきはありませんが、やがて神への忠実さと愛を問われて、その後の「新天新地」での祝福に差が出てくるのです。
私たちは、神様に認めていただけるような、また喜んでいただけるような、恥ずかしくない人生を今日から歩もうではありませんか。
クリスチャンの最終的状態
この終末の神の法廷ののちに、クリスチャンの最終的状態が来ます。
新天新地です。
「私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」
と黙示録二一・一に預言されています。
千年王国は、古い天地――現在の地球におけるものでしたが、新天新地は宇宙全体が生まれ変わったものです。それは新しい秩序を持った、根本的に新しい世界です。
現在の宇宙において、地球は太陽のまわりを回り、また自分自身も回っているので、夜があり昼があります。しかし新天新地では、この現在の宇宙の秩序は過ぎ去り、全く新しい秩序の世界になります。そこには、
「もはや夜がない」(黙示二二・五)
のです。また「海もない」と記されています(黙示二一・一)。
現存の古い宇宙は過ぎ去り、
新天新地が創造される。
しかし新天新地も、千年王国と同様に、目に見える具体的な世界であることに注意しましょう。クリスチャンは栄光の体のまま、この新天新地に移されるのです。
先の千年王国では、キリストが地上において人々と共におられました。しかしその後の新天新地では、キリストだけでなく、キリストの父なる神ヤハウェご自身も、人と共に、人のただ中に住んで下さいます。
「見よ。神の幕屋が人と共にある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らと共におられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取って下さる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」(黙示二一・三〜四)
と記されています。神ヤハウェご自身が、人々のただ中に住んで下さるのです。
「私はこの都(新エルサレム)の中に神殿を見なかった。それは万物の支配者である神であられる主と、小羊(キリスト)とが都の神殿だからである」(黙示二一・二二)
とも預言されています。神ヤハウェと、御子キリストご自身が、人々のただ中におられて共に住んで下さるのです。
人々は、目と目を合わせて神を仰ぎ見るでしょう。
「しもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」(黙示二二・四)
これはじつは、たいへんなことです。かつて、神の威光を見た人はいます。旧約の預言者たちの中には、神の威光を見た人はいます。しかし、神の「御顔」を見た人は、いまだかつて一人もいないのです。
モーセも、アブラハムも、イザヤも、神の威光を見ることはありましたが、神の御顔は見ませんでした。しかし、新天新地ではクリスチャンはすべて神の御顔を親しく仰ぎ見ることができるでしょう。
神様には体はありません。「神は霊」(ヨハ四・二四)なのです。しかし、だからといって神様は、雲のようなとらえどころのない方ではありません。
人間の顔に「見る」「聞く」「においを嗅ぐ」「話す」などの機能があるように、神ご自身もそのような働きをお持ちであって、そうした具体的様相と霊的姿をお持ちなのです。
神の「御顔」とは、神の霊的中枢であり、ご本質であるといってもよいでしょう。
新天新地において、人が神の御顔を直接仰ぎ見ることができるというのは、そこでは神と人の間にあった一切の妨げが、もはや取り去られていることを意味しています。人は神と親しく交わるのです。
新天新地には、真ん中に新エルサレムがあります。これは「天のエルサレム」とも呼ばれる現在の目に見えない天国が新しい地に降りてきたものです(黙示二一・二)。
目に見えない現在の天国は、新天新地では目に見える新天新地と合体して、目に見える具体的な世界となるのです。それは"目に見える天国""目に見える御国""目に見える神の国"です。
新天新地には、新しいエルサレムがある。
そこには、神様とキリスト様が住んでいらっしゃいます。人々は新エルサレムに出入りし、親しく神様と交わるでしょう。
そこにはまた、「いのちの木」があります(黙示二二・二、いのちの木は単数形)。それはそこが永遠の命の世界であることを、象徴しています。
人類の歴史は三本の木によって言い表すことができます。まず「善悪を知る木」によって、人類の善悪の歴史が始まりました。やがてイエス・キリストの「十字架の木」を通して、救いの道が開かれました。そして最終的には、人類の歴史は「いのちの木」において終結するのです。
私たちの心も、「善悪を知る木」だけでなく、「十字架の木」が必要です。キリストの十字架の木が心に打ち立てられると、やがて「いのちの木」も生え出てくるようになります。
その「いのちの木」とは、イエス様のご臨在です。その元からは、いのちの水が脈々と流れ出るようになるでしょう。私たちの内側から、永遠の命が躍動し、輝くようになるのです。
「諸国の民が、都の光によって歩み、
地の王たちはその栄光をたずさえて都に来る」。
神と共に生きる幸福が段階的に深まる
新天新地、そしてそこにある新エルサレム――これがクリスチャンの最終的状態です。
こうして見てみると、クリスチャンの生き方とは、この最終的状態をつねに先取りして歩むことである、とわかってきます。
クリスチャンの最終的状態は神と共に生きることであるので、私たちは現在の世でも、それを先取りして、神と共に生きるのです。 クリスチャンの最終的状態は、現在の状態と異なるものもありますが、異ならない、変わらないものもあります。それは神と共に生きるということです。
神と共に生きることは、現在の世でも、目に見えない天国でも、その後の地上の千年王国でも、来たるべき新天新地でも変わりません。クリスチャンは、しだいに神と共に生きることの幸福を、そうやって段階的に深めていくのです。
この地上であなたが神と共に生きるなら、その幸福は永遠に続き、時代を経るごとに深まっていきます。みなさんが今日から、この幸福にさらに深く生きられますよう、主イエス様の御名によって祝福致します。
クリスチャンは最終的に新天新地に入り、
そこで永遠の命の幸福に生きる。
久保有政著(レムナント1997年1月号より)
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