クリスチャンは
二度生まれる
一度生まれた者は二度死に、二度生まれた者は一度死ぬ。
生命は神から来る。
およそ生命ほど、神秘なものはないでしょう。
今日では生物学が進歩し、動植物の各器官の働きや、遺伝のしくみなどについて、私たちは多くの知識を得るようになりました。しかしそれらの知識は、いまだ、単に生命の現象的な面に関する知識に過ぎません。
私たちは「生命とは何であるか」という根源的な問いに対して、一体どれほどのことを知っているでしょうか。
それについては、科学はいまだ、ほとんど皆無と言っていいほど、知識を持ちあわせていません。生命は依然、神秘に満ちています。
生命の神秘
最近では、人の胎児が成長していく過程を、写真やテレビ画像等を通して、見ることができるようになりました。
はじめは、一個の小さな受精卵に過ぎなかった細胞も、やがて二つに割れ、四つに割れ、細胞分裂を繰り返して増えていき、様々の働きをする組織や器官が形成されていきます。そしてついには、一人前の赤ちゃんとして誕生するのです。
それまでの期間はわずか四〇週、そのときの目方は、はじめの一〇億倍にも達しています。
細胞分裂の際に、各細胞は、一体どのようにして自分のコピーを造るのでしょうか。一体どのようにして「どの細胞が皮膚となり、どの細胞が筋肉となるのか」ということを、間違えることなく各細胞が知り得るのでしょうか。
そしてなぜ生命は生まれ、なぜ死んでいくのでしょうか。
そうしたことを考えてみると、私たちは不思議の念に打たれざるを得ません。まことにナポレオンが言ったように、
「神秘を笑う者は愚か」
です。生命の神秘には、私たちの人生にとって最も重要な、知識の鍵が隠されているのです。
すべて生命には、その奥に、見えない偉大な力が働いています。聖書は、
「すべての生き物の命、およびすべての人の息は、彼(神)の手のうちにある」(ヨブ一二・一〇)
と言っています。生命を創造し、生命をつかさどっておられるのは、宇宙を創造された神なのです。
生命は、神に発し、神によって成り、神に帰します。生命の本体は、創造主なる神にあります。
輪廻の教えは真実か
生命や、死後の世界に関する問題は、つねに様々の宗教が扱うところでした。生と死について、たとえば仏教ではどのように考えてきたでしょうか。
仏教では、生命は「輪廻」の原理によって支配されている、と説きます。すべての生き物は、次の六つの世界を、輪廻転生して生まれ変わり、死に変わっている、と説くのです。苦しみの多い順にあげると、
1 地獄(地下の牢獄)
2 餓鬼(飢えた存在)
3 畜生(愚かな獣)
4 修羅(怒れる魔類)
5 人間
6 天人(天界に住む住人、神々)
です。これら6つの世界を「六道」と呼び、これを「六道輪廻」とも呼びます。仏教の初期の頃は、修羅を除いた「五道」だったのですが、後世になって「六道輪廻」になりました。
最後の「天人」は、最も苦しみの少ない世界で、様々の快楽が満ちています。そして最も下層にいる寿命の短い天人でも、九〇〇万年の寿命が約束されているといいます。
しかし仏教の「天人」は、いくら長寿であっても、いずれ必ず死にます。永遠に天界にいられるわけではありません。そして死ねばまた、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人のいずれかになって生まれなければなりません。
反対に「地獄」は、最も苦しみの多い世界です。最低でも「一兆六二〇〇億年」もの間、そこで苦しまなければならないのだそうです。
しかし地獄にいた者も、やがてはまた、他の世界に生まれ変わるとされています。永遠にそこにいるわけではありません。
輪廻の世界。カースト制を
正当化するために生み出された考え。
では、仏教の「地獄」は永遠ではないから、輪廻の世界は楽かというと、決してそうではありません。人は輪廻の輪の中にいる限り、六つの世界の間を、ただただ、いつまでも転生し続けなければならないのです。
とすれば、輪廻の輪の中にいること自体が、苦痛だと言わなければなりません。永遠に回り続けなければならないからです。どうして、こんな思想が生まれたのでしょうか。
輪廻転生の考えは、もともとは古代インドで、あの悪名高い「カースト制」を正当化するために生まれ、広められたものです。
カースト制のもとでは、僧侶、王族、庶民、奴隷の四階級があって、厳しい階級差別があり、異なった階級間の結婚や会食も禁じられていました。
さらにその下に、それら四階級の中にさえ入れてもらえない「不可触賤民」と呼ばれる最下層の人々がいました。彼らは、人々が触れることさえ禁じられた人々で、最も蔑まれていました。
ですから、一番上の階層に生まれるのと、一番下の階層に生まれるのとでは、貧富の上でも社会階級の上でも、天と地ほどの格差があったわけです。そして、上に生まれるか下に生まれるかは、前世(「前生」と書いたほうがわかりやすいが)の「業」(カルマ)による、と説明されました。
つまり、前世で良い生活を送った人は、良い生に転生し、悪い生活を送った人は、下層階級の人か動物等に転生するとされました。ですから、たとえ自分が不可触賤民に生まれたとしても、それは前生の業のゆえだから、と言ってあきらめさせられたわけです。
このように、輪廻転生の思想は、カースト制を維持し人々を支配するために、ひじょうに好都合でした。こうして生まれ、広められた空想的な思想が、いまだに、もっともらしく人々に影響を与えているのです。
では、本当はどうなのでしょうか。生命は、輪廻するのでしょうか。他の動物に転生したり、様々な世界を行ったり来たりというようなことが、本当にあるのでしょうか。
いいえ、生命を支配する原理は、決して輪廻の原理ではありません。また生命の状態も、六種類あるのではありません。
聖書は、人の生には二種類あり、死にも二種類あると述べています。ここで、聖書が語る"二つの生と二つの死"について見てみましょう。
二つの生
ある日、イエス・キリストのもとに、ニコデモというユダヤ人の指導者がやってきたとき、キリストは彼にこう語られました。
「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハ三・三)。
このように、キリストは「新しく生まれる」ことについて語られました。「新しく生まれる」とは、どういうことでしょうか
これは、原語では「上から生まれる」とも訳される言葉で、神によって新しい生命を与えられることをいうのです。
キリストはニコデモに、
「新しく生まれる」ことについて語られた。
すなわち、人間の誕生には、二種類あります。人はまず、母の胎から、赤ん坊として生まれ出ます。これが"第一の誕生"で、これは身体的生命への誕生と言えます。
しかし、この生命には限りがあります。たとえば、石を空に投げると、しばらくは上り続けますが、やがてある程度の高さから落下しはじめ、ついには地面に達します。同様に、人はある年令までは成長していきますが、それ以後はしだいに老化し、ついには死に至るのです。
そして"第二の誕生"は、神のお与えになる「永遠の命」への誕生です。キリストは言われました。
「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかた(神)を信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハ五・二四)。
すなわち、「永遠の命」と呼ばれる、朽ちない、無限の生命が存在するのです。
「永遠の命」は、単に"いつまでも死なない"生命ではありません。それは無限の充実と躍動を内に秘めた生命です。
自己のうちに豊かな愛と力とを持った生命は、決して、いつまでも生きることによって退屈したりすることはありません。自分の内に、喜びの源泉を持っているからです。
この「永遠の命」は、生命の本源である神による生命であって、信仰を持つときに与えられます。信仰を持った日は、その人にとって、いわば"第二の誕生日"であり、魂の真の誕生日なのです。
「永遠の命」を受けると、その人は肉体の死後も、天国で、永遠に生き続けます。また世が改まって、新しい世界が創造されるとき、そこに現れる神の御国を継ぐことになるでしょう。
もし「永遠の命」を真の"生"とすれば、第一の誕生による身体的な生命は、いまだ"死"の状態と変わりありません。
たとえば、扇風機を回しているとき、電源のプラグを抜くと、羽はしばらく回転していますが、やがて止まります。たとえ羽は回転していても、それはいわば"死んだ"状態なのです。
扇風機は、電源を切った後も、しばらくは
回っている。第一の誕生による生命も・・・・
第一の誕生による生命は、これに似ています。神という、「永遠の生命」の本体であるかたにつながっていなければ、たとえこの世で何十年か生きたとしても、やがては朽ち果てて終わるだけでしょう。
私たちは、"新しく生まれて"信仰によって神につながらなければ、永遠の命に至ることはないのです。
二つの死
聖書はまた、死にも二種類あると述べています。
"第一の死"は、肉体と魂の分離です。肉体の機能が停止し、魂が離れ去る時、それが第一の死です(創世三五・一八)。
また"第二の死"について、聖書はこう述べています。
「また・・・・大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。・・・・海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が、第二の死である。・・・・いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(黙示二〇・一一〜一五)。
このように聖書は、地獄(火の池)を「第二の死」と呼んでいます。それは地獄こそ、究極の破滅だからです。
「第二の死」は、生命の根源なる神の恵みからの全き隔絶を意味します。天国が神の恵みに満ちた場所であるのに対し、地獄は、神の恵みの全く届かない場所なのです。
しかし、神は人を好んで地獄に落とすわけではありません。聖書は、
「主は・・・・ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、・・・・ながく忍耐しておられる」(Uペテ三・九)
と述べています。地獄は、神の呼び掛けにいつまでも応答せず、神に最後まで背いた人々が行く所なのです。
つまり、"神が人を地獄に落とす"のではなく、むしろそれは、そうした人々が自分で選んだ場所なのです。そうした人々は、神と共に生きることを拒絶したので、神の王国である天国ではなく、神のいない地獄に送られることになります。
このように、二つの生(誕生)と、二つの死があります。そして、これら二つの生と二つの死との間には、ある関係があります。聖書は、信仰者たちに関して、
「この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない」(黙示二〇・六)
と述べています。つまり、二度生まれた者は、二度死ぬことはありません。二度生まれた者は、一度死ぬのです。
そして、一度生まれた者は、二度死ぬでしょう。
これが、聖書の述べている生と死の根本原理です。生と死にはそれぞれ二種類ありますが、究極的には、人は「永遠の生命」か「永遠の滅亡」のどちらかに至るのです。
「罪と死の原理」と「いのちの御霊の原理」
では、"生命か滅びか"ということは、どこで分かれるのでしょうか。
聖書は言っています。
「キリスト・イエスにある者が、罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(ロマ八・一〜二)。
このように聖書は、"生命か滅びか"を支配する原理として、「いのちの御霊の原理」と、「罪と死の原理」というものがある、と述べています。これらの原理は、どのようなものでしょうか。
まず、「罪と死の原理」から見てみましょう。聖書のヤコブの手紙一・一三〜一五に、こう書かれています。
「だれでも誘惑にあったとき、神によって誘惑された、と言ってはなりません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」。
これが「罪と死の原理」です。これは詳しく言い換えると、次のようになるでしょう。
まず、人間の内に本性の腐敗(原罪)があり、そこから悪い欲が生じます。その欲がはらむと、思い・言葉・行ないにおける罪となります。
この罪によって、各自に罪責(有罪性)が生じます。そして罪責によって、刑罰である死(とくに第二の死)、あるいは滅びに至るのです。
次に、「いのちの御霊の原理」についてはどうでしょうか。
「いのちの御霊」とは、聖霊(神の霊、またキリストの霊)のことです。聖書にこう書かれています。
「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Tコリ一二・三)。
「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」(ロマ一〇・一〇)。
これは言い換えると、次のようなことです。
まず、神への信仰を人に呼び掛ける、聖霊の働きがあります。たとえば、クリスチャンの友人に教会にさそわれたとか、たまたま聖書の教えに触れる機会があったとか、これらは、目に見えない聖霊による、あなたへの"導き"なのです。
あなたが、ふと聖書の言葉に引かれる
――これは聖霊による導きである。
こうした聖霊による導きは、すべての人に対して、時期に応じ、その人に応じて、働きかけられています。この恵みを素直に受け入れ、応答した人は、「イエスは主です」と告白するようになります。
これが信仰です。そして、創造者なる神と救い主キリストを信じ、告白する信仰によって、人は「義」と認められます(義認)。それまで犯してきたすべての罪を赦され、神の前に罪のない者のように見なしていただけるのです。
そして「義認」によって、「永遠の命」が与えられる、と聖書は約束しています。キリストにある永遠の命を、神は私たちに分与されるのです。
このように、終極をそれぞれ「永遠の生命」と「永遠の滅亡」とする、二つの原理が存在します。人はだれでも、最初は、生まれながらにして「罪と死の原理」の支配下にあります。しかし、聖書を読んだり、伝道者の語る福音を聞いたりして、神の恵みに対して心を開くようになると、信仰が芽生えてくるでしょう。
こうしてその人は、「罪と死の原理」から、「いのちの御霊の原理」の支配下に移行するのです。つまり、「いのちの御霊の原理」の支配下に入ることこそが、「救い」なのです。
あなたは、輪廻転生する輪の中にいるのではありません。むしろ、あなたの前には"二つの道"があります。一つの道は、永遠の命と豊かな祝福に至り、もう一つは、死と滅びに至る道です。
イスラエル民族の指導者モーセは、イスラエルの人々に対して、かつてこう語りました。
「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。・・・・あなたは、いのちを選びなさい」(申命三〇・一五、一九)。
これは、私たちにとっても同様です。私たちは、"いのちの道"を選ぶべきです。そして、いのちの道を歩むとは、
「わたしが道であり、真理であり、命なのです」(ヨハ一四・六)
と言われたかた(キリスト)を、信仰しつつ生きていくことをいうのです。
神を愛し、キリストを信仰する人々は、二度生まれ、一度死にます。一方、神を否定し、キリストに背を向けて歩む人々は、一度生まれて二度死ぬでしょう。
あなたはどちらの人ですか。そして、どちらの人になることを選びますか。
「罪と死の原理」と「いのちの御霊の原理」――ロマ8:2
久保有政著(レムナント1996年6月号より)
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