「わら」的宗教・「アヘン」的宗教と
「いのちのパン」的宗教
まことの幸福と生命の輝きをもたらす教えは、
イエス・キリストの福音のほかにない。
宗教は弱者のためのものだ。強い人間に宗教などいらない」
という考えをもっている人は、少なくないようです。
しかし、人間はいったいどの程度まで強い者なのでしょうか。
ある所に、自分の健康や体力、精神力を誇っていた一人の男性がいました。健康な頃は彼はよく、
「体の弱いのは、精神がたるんでいるからだ。オレのような人間には、病気が寄りつきたくても寄りつくことができない」
と意気がっていましたが、一旦病床にふすようになると、気が弱くなり、注射一本さえ恐がるようになりました。
そしてある時、見舞いに来た友人が妻にこう言うのを、ふすま越しに聞いてしまったのです。
「奥さん、気を落とさないでくださいよ。ガンでも治った人はいるんですからね」。
この一言で、彼はまさしく致命的なショックを受けました。そして急激に病状が悪化し、あまりにも早く死んでしまったとのことです。
人間の本当の"強さ"とか"弱さ"とは、何なのでしょうか。人間の本当の強さ、また人間としての弱さという問題を、とり違えて理解している人は案外多いのではないでしょうか。
宗教は"弱者"のものか
言うまでもなく、人間の"強さ"とは、自分が強い者だと思いこむことにあるのではありません。
あるキリスト教の集会でのこと、集会後、宣教師のもとに、ある日本人男性が近づいてきて、こう言いました。
「先生は神の存在を説いておられますが、宗教は弱い人間が信じるものだと思います。私は弱い人間ではないし、宗教は必要ありません」。
この男性に対して、宣教師は、
「あなたのお考えはよくわかりました。しかしもし、あなたが弱い人間ではなくて、宗教は必要でないとおっしゃるのなら、あなたがどれだけ強い人間か試してみてはいかがでしょうか。
あなたが、本当に強い人間であれば、自分自身を完全にコントロールできるはずです。万一、自分の心の奥底に、醜い思いや、罪深い思いが起きたような場合でも、それらの思いを完全に制御できるはずです。あなたは、そのように出来ますか?」
と答えました。それからおよそ一年後、宣教師は彼と再び会う機会がありました。宣教師のもとに近づいてきたその男性は、その時こう語ったのです。
「先生、私を覚えていますか。『私は強い人間だから宗教も神もいらない』と言っていた者です。でも先生に、『自分がどれだけ強い人間なのか試してみなさい』と言われて、それを実行してみようと思ったんです。
しかし、何日もたたないうちに、自分は自分の心の思いすら、いつも正しいものに保っていられない人間であるということが、わかりました。今は、聖書で『人間は罪人である』という意味が、よくわかります。
人間は皆、弱い者なのだと思います。先生のおかげで、神様とキリストの福音のすばらしさを知ることができました」。
この人の経験のように、人間の弱さを知ることは、人生にとってきわめて重要です。人間は強くあるべきですが、一方では、人間としての弱さがあることを自覚すべきです。
人間は、とかく尊大になりがちです。しかし実情を見れば、人間は広大な宇宙の中で一点のチリのような小さな存在であり、また永遠の尺度からみれば、一瞬のような短い人生を悩みつつ生きている者にすぎません。
そして人間は、幸福を求めつつ不幸に悩み、平和を求めつつ戦争をし、正義を求めつつ悪に苦しんでいます。良い生き方をしようと思いつつ、自分の醜い性質に悩むことがしばしばです。このような人間の弱さを無視しては、人間を理解することはできません。
また人間は、自分の精神的・肉体的な力だけではどうしようもない、様々な問題を抱えています。
生の目的の喪失、すべての人に最終的に起こる死、肉体を苦しめる病気や老衰、幸福をむしばむ人間の罪など、人間であるがゆえの弱さの問題を真剣に考えることなくしては、人生を理解することも、真の幸福への道を見い出すこともできません。
ですから、宗教は弱者のためのものというよりは、すべての人のためのものなのです。なぜならすべての人は、人間としての弱さを負っているからです。
宗教とは何か
「宗教」とは、字義的には、「本もとの教え」ということです。つまり、人生で最も根本的な、大切な教えということです。
ですから宗教の本来の目的は、人間の現実を見つめ、真の人間性を回復することにありました。真の宗教は、人間の絶対的・究極的幸福を目指してきたのです。
宗教は、人生の根本原理です。現代人の不幸の最大の原因は、つきつめれば、みずからを指導する哲学、なかんずく真の宗教を持たないことにあることは、すでに多くの著名人の指摘しているところです。ロシアの大文豪トルストイが、
「宗教のない人は、心臓のない人ほど駄目である」
と言い、また大教育家ペスタロッチが、
「宗教は人間陶冶の根本である」
と言ったのも、その一端と言えましょう。
宗教的な心とは、聖書によれば、人間の心に植えられた「永遠を思う思い」(伝道三・一一)
のあらわれです。「生きる目的は何か」「人生の意味は何か」「真の幸福は何か」――そうした事柄を人々が考えるのは、すべてこの「永遠を思う思い」から来ています。世界的哲学者として有名な西田幾多郎博士も述べているように、
「真摯に考え、真摯に生きようと欲する者は、必ず熱烈な宗教的要求を感ぜずにはいられない」
のです。
ですから宗教の本来の目的は、人間の生命の目的を明らかにし、人間を本来の道にたち帰らせ、人生の生活原理を確立し、人生に愛と、生命の躍動と、輝きを与えることにあるのです。
「わら」的宗教
しかし、「宗教」と呼ばれるすべての教えが、この目的を果たしてきたわけではありません。
実際、日本においては人は死ねば神や仏になると言われ、神社には死人が祭られ、寺には「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」と暗く抹香臭い声がこだまするのを思って、宗教とは私たちの現実生活とは掛け離れたものだ、という感じをもつ人は多いようです。
また、故人を懐かしんだり、死期が近づいた老人たちへの慰めに終始する宗教も多く、それらは現実に社会を背負っていく青・壮年に、何ら力強い指針を与えることができないのが現状です。
しかも、葬式で高いお布施を求め、死人につける戒名によって料金が変わり、「水子供養」と称しては、中絶された子供のための供養にと高額の料金を取っている姿は、商売をしている光景とほとんど変わりありません。
このように、現実に「宗教」と見られているものの中には、まったく内容に乏しく、「わらをもつかむ思い」の人に対して、実際に「わら」のようなものでしかない宗教が多々あります。
これらの宗教は、死や、死人のたたりなどを恐れる人々への"気休め的宗教"あるいは"精神安定剤的宗教"と考えられ、現実の人生や社会をたくましく切り開いていくという意識は、きわめて乏しいようです。
また、「御利益」を求める欲深い人間の心に便乗している宗教も、多くあります。家内安全、商売繁盛、そのほか良縁や幸運を求めて投げこまれるお賽銭を、かき集めては生活している神主や僧侶は、時代が進んでもいなくなることがありません。
多くの人は、「祈っておけば何か良いことがあるかも知れない」ぐらいの気持ちで祈願するようですが、こうした宗教は、「何か」を求める人間の心に「わら」を与えているに過ぎません。人間の内なる生命に真の活力と、愛を与えようという意識は、これらの宗教には、きわめて乏しいようです。
「アヘン」的宗教
しかしこれらの宗教が、力はなくとも害はない「わら」程度に済んでいるうちはまだ良く、人生の不幸の原因となることもないわけではありません。
間違った宗教は、最近の「オウム真理教」の例をあげるまでもなく、人生観や世界観、幸福観を狂わせ、かえって大きな不幸の根本原因となります。
宗教の中には、人生の目的をどこにおくかもわからずに、ただ現世を嫌ったり、現実と遊離した「西方十万億土」の極楽を説いたり、かと思うと、心の持ち方ひとつなどと称して、ひたすら忍従することを教えたりするものもあります。
大切なのは、私たちが人生の目的を把握し、この世のただ中で、自分に与えられた生をいかに生きるかということです。ですから、例えば中世の修道院のように、肉体や物質を悪とみなし、世を避け、世から隠れて生活したりすることは、決して宗教の本義とすることではありません。
あるいは現在の生を無視し、現世を捨てて極楽浄土を求めるような宗教も、現実逃避の宗教でしかありません。現実の今の生を豊かにすることなくして、いくら死後の極楽浄土を説いても、そうした宗教はちょうどLSDのように、幻覚の幸福感に人々を迷い込ませるだけでしょう。
また、心の持ち方ひとつで幸福になれるという、いわゆる「心頭滅却すれば火もまた涼し」式の考えも、やはり、たとえて言えばアヘンやモルヒネのようなものです。ですから、こうした宗教に関するかぎり、マルクスが言った「宗教はアヘンなり」という言葉も、的を得た表現といわなくてはなりません。
さらに最近では、心霊術、占い、超能力、オカルト・ブームなどに代表されるような、何か超自然的なものに心をひかれる人々も、増えてきています。こうした現象は、「現代科学で説明されている事柄がすべてではないのではないか」という思いから、人々の間に広まってるようです。
しかし、そこには悪魔的なものが潜んでおり、それは人々の心をつかむのには巧みでも、人間の正しい生きかたや、まことの愛について教えるものではありません。
世界最古にして最高の教典――すなわち私たちが「聖書」と呼ぶ書物の中には、これらの教えは神の忌み嫌われる教えであると述べられており(申命一八・一〇〜一二)、真摯に人生の道を求める人々にとって、まことに危険なものと言わなければなりません。
こうした教えも、やはり、幻覚に似て人々の心を惑わし欺くという点では、「アヘン」的宗教の一種と言えましょう。
「いのちのパン」的宗教
さて、もし人間がどんな人でも、人間としての弱さを負い、また人間としての悲しさを負っているとすれば、そうした人間に必要なのは、「わら」でも、「アヘン」でもありません。
人々に必要なのは、生命の内奥に力をわきあがらせることです。そして、イエス・キリストの宗教の本来の目的は、まさにこの点にあるのです。キリストが、
「わたしは命のパンである」(ヨハ六・四八)
と言われたとき、彼はご自身を通して、人々が初めて豊かな生命と躍動を得ることが出来るということを、意味しておられました。
「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。・・・・よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある」(ヨハ六・三五、四七)
真実の宗教は、疑いもなく、内奥の生命を充実させ、それを力強く脈動させるものなのです。そして生命の奥底に限りない力を与え、生命の目的を実現します。ですからその宗教に生きる人は、いかなる境遇においても、不幸のために心が飢えることなく、また渇くこともありません。
私たちの真の幸福は、宇宙の本源的生命につながり、その豊かさと、輝きにあずかることにあります。そして聖書の述べているように、この本源的生命は、まさしく宇宙の創造者である神と、その救い主キリストに存在します。ある宗教学者は、
「宗教とは、絶対帰依である」
と言いましたが、宗教の真の目的は、私たちがこの本源的生命のもとに立ち帰ることにあるのです。
イエス・キリストが来られたのは、私たちにそのことを教え、さらに私たちが彼を通して「命を得、またそれを豊かに持つため」(ヨハ一〇・一〇)です。
この豊かな生命、また「永遠の命」は、キリストによる「罪のあがない」を受けることによってのみ、私たちに与えられます。
私たちが"人間の弱さ" として負い、また人生の不幸の原因となっている根本的なものは、私たちの心の内に巣食う「罪」の性質です。
私たちが過去に神、あるいは隣人に対して犯してきた罪、あるいは心の内にある欲深い利己主義や、悪い思いを解決することなしには、私たちは豊かな生命を持つことも、真の幸福に至ることも決してありません。
というのは、もし人が罪の中にとどまるならば、
「(彼は)自分の罪のうちに死ぬ(滅びる) であろう」(ヨハ八・二四)
と聖書は述べているからです。人間の不幸の本源は、まさに聖書で言う罪の性質にあります。
ですから、イエス・キリストが遂げられたあの十字架上の死は、実に、この私たちの罪に対して決定的な解決を与え、さらに私たちの幸福を確立するためだったのです。
キリストという罪のないかたが、私たち罪人の犠牲となって代わりに死んでくださったことにより、神は彼を信じる者の罪を赦し、永遠の命を与えることを約束してくださったのです。
こうしてキリストは、私たちのための「いのちのパン」となられました。キリストは、かつてこの地上で宣教をしておられたとき、飢えている者にはパンを与えよ、と言われました。そして自ら、私たちの生命のパンとなるために、あの十字架にのぼられたのです。 キリストは、私たちを宇宙の創造者、すなわち本源的生命である神のもとにたち帰らせるために、言わば"橋渡し"となり、仲介者となられました。
私たちは彼の宗教、そして彼ご自身を通して、「永遠の命」による絶対かつ永遠の幸福を得ることができ、この世においても、また来たるべき世においても、真の幸福の中に生きることが出来るのです。
久保有政著(レムナント1996年4月号より)
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