摂理

天・地・人の創造と神の王国
    神は、天と地にわたる壮大なご計画を推し進めておられる。


神は「光あれ」と言われた。神のことばは、神の活動であり、
本質の発現である。神のことばには、創造の力が宿っていた。


 聖書は、冒頭の創世記一章一節において、「はじめに神が天と地とを創造した」と述べています。
 聖書はまた、この天と地は最終的にキリストによって一つに結ばれる、とも述べています。
 神は、天と地にわたる壮大なご計画をお持ちです。それはどのようなものでしょうか。詳しく見てみましょう。


御父・御子・御霊なる神

 まず、創世記一・一の「はじめに神が天と地とを創造した」の御言葉から見てみましょう。
 この御言葉の原語において、「神」が複数形であり、「創造した」が単数形であることは興味深いことです。
 旧約聖書はヘブル語で記されましたが、「神」には、エローヒームという言葉が使われています。これは「神」を表す単数形エルの複数形なのです。
 しかし、この箇所のエローヒームは「神々」とは訳されません。それは、それを受ける動詞「創造した」(ヘブル語バーラー)が単数形だからです。英語などでもそうですが、主語が複数ならば、普通、動詞も複数形でなければならないのです。
 「神」が複数形であるのは、ある理由に基づいています。これは「畏敬複数」とも、あるいは「三位一体の神を表す複数」とも言われています。
 「畏敬複数」とは、ヘブル人は大いなるものや偉大なものなど、畏敬を起こさせるようなものを複数で表現する習慣があった、ということです。
 一方、これは「三位一体を表す複数」だとも言われています。たとえば、同じ創世記一章において、二六節では神はご自身を「われわれ」と呼んでおられます。
 「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」。
 ここで「われわれ」は、三位一体の神、すなわち御父・御子キリスト・御霊(聖霊)を表していると考えられています。というのは、ヨハネ福音書一四・二三において、キリストが次のように言われたからです。
 「だれでもわたしを愛する人は、わたしの言葉を守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人の所に来て、その人と共に住みます」。
 キリストは「わたしたち」と言われました。この「わたしたち」は、父なる神と御子キリストをさしています。
 同様に、先の創世記一・二六の「われわれ」は、御父・御子・御霊をさすと考えられるわけです。


三位一体の神による御働き

 さて、「はじめに神が天と地とを創造した」の次に、聖書の語句は、
 「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が『光よ。あれ』と仰せられた。すると光ができた。・・・・」(創世一・二〜三)
 と続いています。ここに私たちは、三位一体の神を見ることができます。
 この短い聖句の中に「神が・・・・」という言葉と、「神の霊は・・・・」という言葉と、「仰せられた」という三つの言葉が出てきます。
 「神が・・・・」は、父なる神です。また「神の霊は・・・・」は、御霊、すなわち聖霊のことです。
 そして「(神が)仰せられた」は"神のことば"――キリストのことです。実際、新約聖書ヨハネ福音書の冒頭に、こう言われています。
 「はじめに、ことばがあった。ことばは神(父なる神)と共にあった。ことばは神(子なる神)であった。このかたは、はじめに神と共におられた。すべてのものは、このかたによって造られた。・・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(一・一〜一四)。
 キリストは「神のことば」なのです。
 たとえば、人がことばを話すとき、そのことばは、その人の思いの現われであり、人格の現われでしょう。同様に、神はキリストというご自身の「ことば」を通して、ご自身の本質の発現、および啓示を行なわれます。
 ここでいう「ことば」とは、単なる何かの音声とか言語のことではありません。「神のことば」は、神のご本質の発現、また啓示のことなのです。
 神が「光よ、あれ」と言われたとき、それは神がヘブル語でそう言われたとか、日本語でそう言われたとか言うことではありません。神が"光を出現させよう"と心に思い、そう意志して、創造の力を発現した、ということなのです。
 この神の活動、神の啓示をさして、聖書は「神のことば」と呼んでいます。神の活動、神の啓示が、「神のことば」なのです。そして、これが受肉以前のキリストであられます。キリストは、神の活動、神の啓示なのです。
 このように創世記一章一〜三節という、聖書冒頭のわずか三節の中に、父なる神・子なる神キリスト・御霊なる神の三者が、すでに出てきます。そしてこの三者は、単数形の「創造した」等の動詞で受けられることなどから示されるように、一体の者として活動しておられるのです。
 こうした一体性を、キリスト教では神の「三位一体」と呼んでいます。


天と地の創造

 つぎに、神が「天と地」を創造された、という言葉に注目してみましょう。神が創造されたのは、「天と地」でした。
 原語では、「天」は複数形であり、「地」は単数形です。
 聖書では、幾つかのものが「天」と呼ばれています。鳥の飛ぶ空、すなわち大気が、「天」と呼ばれています(創世一・二〇)。またその上の、空気のない宇宙空間も「天」と呼ばれています(創世一・八)
 さらに、神のおられる霊的な至高の世界が「天」と呼ばれています(エペ六・九)。使徒パウロは、「第三の天」に上げられた人について語っていますが(二コリ一二・二)、「第三の天」は、この霊的な至高の世界の一部でしょう。
 これら「もろもろの天」(エペ四・一〇)において、また特に霊的な「天」において主管しておられるのは、神の御子キリストです。王なる神は、王子なるキリストに、「天」の支配をゆだねておられるのです。


神は、「もろもろの天」を造られた。

 キリストはまた、霊的な「天」において、「天の御国」の建設をもゆだねられています。彼は神のご計画にしたがい、天の御国、すなわち天国を建設されるのです。
 一方、神は「地」に、人を創造して置かれました。そして、人を地の主管者に任命されました。
 「地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」(創世一・二八)
 と神は言われました。キリストが天の主管者であられるように、人は地の主管者とされたのです。
 しかし神のご計画は、ここでとどまるものではありませんでした。新約聖書エペソへの手紙一・八〜一一にこう記されています。
 「神は・・・・みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。
 それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。
 このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです」。
 神は、キリストにおいて、あらかじめあるご計画を立てておられました。それは「天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること」でした。
 言い換えれば、神は最終的に、天と地を一つに結ぶご計画をお持ちだったのです。天と地はキリストにあって、一つにされます。
 また、
 「私たちは・・・・御国を受け継ぐ者ともなった」
 とあるように、神のご計画は、「御国」と呼ばれるご自身の王国をキリストによって建設することにありました。
 神のご計画は、天と地を一つに結び、そこに「御国」を建設することにあるのです。


キリストによる天の御国の創設

 神は、このご計画をどのようにして実行に移していかれたでしょうか。
 神が最初の人アダムを造られたときのことを、思い起こしてみましょう。神はアダムを深い眠りに入れ、彼のわき腹から「あばら骨」の一つを取り、それをもとに一人の女エバを創造されました。
 エバは、アダムから取って造られたわけです。彼らは全く別個の存在ではありませんでした。エバの起源はアダムにありました。
 アダムは、エバが自分の所に連れてこられた時、彼女を見て言いました。
 「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」(創世二・二三)
 エバはアダムから出た者であり、アダムの"骨肉"だったのです。
 しばらくして、アダムは、「その妻エバを知った」と聖書は記しています。「彼女は、みごもってカインを生み、『私は主によってひとりの男子を得た』と言った」(創世四・一)
 アダムとエバは結婚したのです。彼らは家庭を築きました。男性と女性という二つの性は一つになり、そこに出来たものは、家庭と呼ばれました
 じつはこのことは、神がキリストにおいて立てられたご計画を映す"影"であり、"型"でした。
 神のご計画は、次に示すように四段階を経て実現されていきます。
 第一段階は、キリストによって天の御国の場が建設されることでした。これは旧約時代にわたって行なわれました。
 キリストは天にあって、パラダイスを建設されたのです。しかしそのパラダイスが真に「御国」と呼ばれるためには、そこに住む"国民"――御国の民が必要になります。それで次に示すように、第二段階が必要になります。
 御国建設の第二段階は、キリストによって、天の御国に属する人々が地上に起こされることでした。キリストはそれを、ご自身が十字架上で贖いの血潮を流すことによって実現されました。
 神はかつて、アダムのわき腹から取ってエバを創られましたが、ちょうどそのように神はキリストのわき腹から、クリスチャンたちを創り出されたのです。
 キリストは、二千年前にユダヤで十字架につけられたとき、わき腹から「血と水」とを流されました。
 「兵士たちが・・・・イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。しかし兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を突き刺した。すると、ただちに血と水とが出てきた」(ヨハ一九・三二〜三四)
 イエスのわき腹から流されたこの「血と水」をもとに、その贖いの力によって、クリスチャンたちが起こされました。
 「血と水」という表現は、何を表しているのでしょうか。血液というものは、静かな状態に置かれて三〇分以上たつと、赤い血球部分と、透明な血清部分とに分離し始めます。
 イエスがわき腹を槍で突かれたとき、死後数時間たっていたので、イエスの血液は体内ですでに分離し始めていたのでしょう。
 とくに、主イエスが十字架上のあまりの苦しみのゆえに心臓破裂を起こして死なれたのだとすれば、その心臓付近には大量の血液が、「血と水」と表現されるような状態で分離して存在していたでしょう。それが、槍の傷から流れ出たのだと思われます。
 かつて、アダムは深い眠りに入れられ、その眠りの最中に彼のわき腹からエバがつくられました。そして後に、アダムは目を覚ましました。同様に、イエスは死の中に入れられ、その最中に彼のわき腹から聖い血潮が流され、それによりクリスチャンが起こされました。そして後にイエスは復活されたのです。
 イエスの十字架以後、こうして天の御国に属する人々、すなわち天の御国の国民が地上に起こされました。天は、はじめて天の御国によって、地と関わりを持つようになったのです。
 また、クリスチャンとなった人々は、死後には天の御国に入っています。あの主イエスの十字架以来、天のパラダイスの住人は増え、今やそこはまさに「御国」と言える大きな"国"となっています。クリスチャンは、地を天に結びつける者となっているのです。
 じつは、クリスチャンという"国民"こそ、天の御国にとって最も重要なものです。ヨハネ黙示録にこう記されています。
 「あなた(イエス)は、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです」(五・九〜一〇)
 ここで「この人々を王国とし」と言われています。この「王国」は、ギリシャ語でバシレイアという言葉で、天の「御国」というときの言葉と同じです。
 クリスチャンたちこそが、御国を形成するものであり、御国の実体である、ということができます。クリスチャンが増えることは、そのまま御国が拡大することを意味するのです。


天の御国は近づいた

 つぎに、時が満ちると、やがて神のご計画は第三段階に入ります。
 それはイエスのご再臨(再来)によって、天の御国=神の王国が地上にやって来て、地上世界と結びつけられる時です。
 イエスは再臨されると、ご自身の力と支配権を全地に伸ばされます。また彼は、栄光のうちに天にいるクリスチャンたちを引き連れて来られます。このことはそのまま、天の御国が地上にやって来ることを意味するのです。
 イエスは、
 「神の国は近くなった」(マコ一・一五)
 と言われました。その「神の国」すなわち神の王国=天の御国が、地上にやってくる時が近づいているのです。
 やがて「天が開かれ」(黙示一九・一一)、イエスがご自身の栄光の姿を現わされます。すると天の御国にいるクリスチャンたちも、栄光のうちに地上に出現します。
 これがいわゆるクリスチャンたちの「復活」です。彼らは、世に現わされたイエスの命を受け、永遠の命の体を上から着せられて現われるのです。
 また、イエスのご再臨のとき地上にいて生きているクリスチャンたちは、一瞬にして永遠の命の体に変えられます(一コリ一五・五二〜五八)。これは私たちの命であるイエスが現われるからです。
 こうして、御国の人々が永遠の命の体を着て現われ、イエスがその支配権を全地に伸ばされるとき、天の御国は地上に一体化します。これがいわゆる「千年王国」です。
 「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年のあいだ王となる」(黙示二〇・六)
 千年王国は、地上に天の御国が出現したものであり、エデンの園の楽園を世界的規模で回復したものです。それは決して荒廃の時代ではありません。こう言われています。
 「終わりの日に・・・・主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。彼らはみなおのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり(繁栄を表す常套句)、彼らを脅かす者はいない」(ミカ四・一〜四)
 千年王国の繁栄・平和・義・幸福は、地上世界に天の御国が出現することによるものです。
 ちょうど、空に厚く広くおおっていた雲が裂けて、その間から太陽の光がサンサンと注がれるように、イエスの再臨以後は天が開かれた状態になり、その間から天の御国の栄光が全地を照らし続けるのです。
 千年王国では、天と地は断絶していません。天は地に対して開かれ、天の御国は地上世界にまで拡張されるのです。


千年王国において、天は地に結びつけられる。


天・地・神・人の融和

 最後に、神のご計画の第四は、新天新地におけるものです。
 千年王国ののち、万物は更新され、旧天旧地は過ぎ去って、新天新地が創造されます。その新天新地において、新しい天と新しい地は御国にあって一つに結ばれ、交わります
 イエスの使徒ヨハネは、その光景を預言的幻の中に見せられて、こう記しました。
 「私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た」(黙示二一・一〜二)
 「新しいエルサレム」が、神のみもとを出て、新しい地に下ってくるのです。
 この「新しいエルサレム」は、別の箇所で「天にあるエルサレム」とも呼ばれているもので(ヘブ一二・二二)、天の御国のことです。天の御国は一つの巨大な都市国家であり、新天新地では「新しいエルサレム」の名で呼ばれるのです。
 新エルサレム、すなわち御国は、地上世界と天的世界が交わる場所となります。そこでは地上世界と天的世界が合体しているのです。
 たとえば、そこでは神ご自身が人々と共に住んでおられます。
 「私はこの都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である神であられる主(ヤハウェ)と、小羊(イエス)とが都の神殿だからである」(黙示二一・二二)
 また、そこでは天的栄光、天的生命と、地上世界の万物とが共存しています。
 「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。・・・・神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」(黙示二二・一〜四)
 このように、新エルサレムという御国において、天と地は交わり、神と人は共に住んでいるのです。それは天・地・神・人が一つに結びつき、融和した究極の世界です。


新天新地は、神の王国にあって一つに交わる。

 もはやのろわれるものはなく、神の愛と祝福がすみずみにまで行き届いています。この世界を来たらせることが、神のご計画の最終目標なのです。
 そのために、神は今、ご計画の第二段階――すなわち御国の実体となるクリスチャンたちの育成に努めておられるのです。また神は、クリスチャンとなった者たちに、御国を拡大するために伝道を命じておられます。
 私たちは、神のこのご計画に参加しなければなりません。神は、あなたも参加することを期待しておられるのです。そして、その報いはもちろん大きいのです。

                                 久保有政(レムナント1996年3月号より)

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