ユダヤ百科事典に記された「日本」
古代日本にイスラエル人がやって来た
戦前にユダヤ人の間で出版された『ユダヤ百科事典』(The Universal Jewish Encyclopedia)の「日本」の項目に、イスラエル人が古代の日本に来た可能性について記した部分がある。それには、こう記されている(カッコ内は本誌による注釈)。
「JAPAN――日本は、北太平洋の中国沿岸にある国で、一九四二年に人口約七三〇〇万人。そのなかに約一〇〇〇人のユダヤ人がいる。
日本人は、失われた一〇部族といわれている。最初にそれを言い出したのは、N・マックレオドで、彼はそれを『日本古代史の縮図』に書き、東京で刊行した。
マックレオドは、古代イスラエルと日本の習慣の類似性を関連づけている。たとえばユダヤ教の神殿の聖所と至聖所の構造と、日本神道の神社の拝殿と本殿の構造を比較している。
またある旅行者は、大和地方でゴシェンとマナセという名の二つの村を偶然発見した(どこのことを言っているのだろうか?)。この名は、語源的には日本語からは説明できない。伝説によると、これらの村々は、知られざる部族が西暦三世紀に来て定着したと言われている。
この二つの村には、今でもダビデ神社として知られている寺院がある(大避神社)。また太秦にある井戸は一五世紀に造られ、この知られざる部族の長老に属していた土地に掘られている。その井戸にはイスラエル(いさら井)という言葉が刻まれている。
一九二九年、アメリカのエール大学を出た小谷部全一郎という学者が、『日本及び日本人之起源』という本を出版した。彼はミカド(天皇)はガド族(一〇部族の一つ)の子孫であると力説している。
ガドの子孫の一人にエッポンという名があり(民数二六・一五「ツェフォン」、創世四六・一五「ツィフヨン」――新改訳)、古くからの日本の呼び方ニッポンに似ていると言っている。
また日本人のルーツがイスラエル人であるという説を裏づけるものが、サムライの習慣の中にある。
イスラエル人の集団が、西アジアから紀元前六六〇年に日本にやってきた(神武天皇の東方遠征説話の起源は、イスラエル人の日本渡来にあると解釈している)。サムライという名は、古代のサマリヤを彷沸とさせる。そのサマリヤからイスラエル人は追放されたからである。
サムライを描いた絵を見ると、これは古代アッシリヤの服装によく似ている。
日本の歴史初期の移民族サムライも、ユダヤ人の儀式を多く行なっている。たとえば長男の贖いの儀式(一三歳に行なわれる元服のことであろう。イスラエルでも一三歳の男子は、バル・ミツヴァと呼ばれる元服式を行なう)。
日本の祭司(山伏?)がかぶっている兜巾は、イスラエルのヒラクティリーにたとえられる。ダビデの六角形の星もよくある家紋で、子どもの帽子につけられたり、飾りに用いられたりしている。
これらの歴史的な見解以外に、九世紀にさかのぼってユダヤ人の商人が西ヨーロッパから日本に来た事実がある。・・・・(以下省略)」
ユダヤ百科事典のこの記述に見られるように、ユダヤ人が日本に対して抱いている興味は深い。
現在、イスラエルには「アミシャーブ」という一〇部族研究機関が存在している。彼らは、日本に対して強い興味を示し、一〇部族が日本に渡来した可能性について調査を進めている。
久保有政著(レムナント1995年12月号より)
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