信仰・救い

ユダの裏切りは
"必要"だったか
ユダの裏切りがなくても、イエスは十字架にかかられた

Q 主イエスは、イスカリオテのユダについて、彼は「生まれなかったほうがよかった」と言われました。「生まれなかったほうがよかった」というような人間が、世に存在するのですか。
 また、ユダの裏切りがなければイエスの十字架がなかったのだとすれば、ユダは滅びるために生まれてきたのですか。


A 主イエスは、捕らわれる夜、最後の晩餐のときに、
 「確かに、人の子(キリスト)は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」(マタ二六・二四)
 と言われました。この言葉について、ある人々は、聖書とイエスを非難して、こう言ってきました。
 「なんと残酷な言葉だろう。『生まれなかったほうがよかった』とは。イエスの十字架のために、神はユダをあらかじめ滅びに定めていたのか」。
 しかし私たちは、この非難のように、神が悪意をもって残酷にもユダを滅びに定めていたと、理解すべきでしょうか。
 いいえ、神はそのようなことをするかたではありません。聖書は言っています。
 「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑されたと言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのないかたであり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません」(ヤコ一・一三)。
 「神には、えこひいきなどはない」(ロマ二・一一)。
 では、私たちは主イエスの御言葉を、どう考えるべきでしょうか。


イエスが十字架にかかるためにユダの裏切りは必要ではなかった

 まず大切なのは、イエスの十字架のためにユダの裏切りは"必要"ではなかった、という点です。
 多くの人は、ユダの裏切りがなければ、イエスの十字架もなかったと誤解していますが、実際はユダの裏切りは、決して"必要"なものではありませんでした。たとえ裏切りがなくても、イエスは遅かれ早かれ、捕らえられたのです。マタイ福音書二六・三〜四に、
 「そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した」
 と記されています。ユダヤ人の指導者たちは、イエスを捕らえて殺す計画をすでに立てていました。ユダの裏切りがあろうとなかろうと、彼らはいずれイエスを捕らえたでしょう。


たとえユダの裏切りがなくても、
イエスは十字架にかかった。
祭司長たちは、イエスを捕らえて殺す計画を、
すでに立てていたからである。

 イエスは、エルサレムに来てからも、とくに隠れて行動されたわけではありませんでした。捕らえる者たちがゲッセマネの園にやって来たときも、イエスはどこにも逃げ隠れなさいませんでした。イエスは決して、隠密行動をしておられたわけではありません。
 ユダの裏切りがあろうとなかろうと、イエスはいずれ捕らえられ、十字架にかけられたでしょう。イエスの十字架のために、ユダの裏切りは必要または不可欠のものではありませんでした。


ユダの裏切りは人間の意志だった

 これは、ユダの裏切りがもともと神の意志ではなかったことを、示しています。神は、不必要なものを意志されるかたではありません。
 ユダの裏切りは、もともと彼自身の意志・・人間の意志でした。神は彼の意志を予知しておられたので、それを旧約聖書の預言の中に記されました(マタ二七・九〜一〇、ゼカ一一・一二〜一三、エレ一八・二〜)。しかし、初めに人間の意志があり、つぎに神の予知があったのです。
 みなさんは、予定論というものを誤解してはいけません。ある人々は、神は"予定して予知される"と思っています。しかし、これは間違いです。
 予定していれば、その意志があるわけですから、予知するのは当たり前です。人間でも、「明日このことをしよう」と予定すれば、「明日はこのことをしているだろう」と予知(予想)しています。
 けれども、神の予定というのは、このような人間わざを言っているのではありません。神は"予知して予定される"のです。第一ペテロ一・二に、
 「父なる神の予知に従い・・・・選ばれた人々へ」
 という言葉があります。まず予知があり、その予知に従って選ばれ、救いに予定された人々がクリスチャンたちなのです。
 ユダの行動についても、まず神の予定があったのではありません。神があらかじめユダ自身の意志に関係なく、彼の裏切りを定めておられたのではありません。
 まずあったのは、ユダ自身の意志であり、また神の予知です。神は、ユダが裏切ることを予知しておられました。だからそれを、旧約聖書の預言の中に記されました。そしてその予知通りに、ユダは裏切ったのです。


裏切り後もユダには救われる機会があった

 では、次の点についてはどうでしょうか。ユダの裏切りが予知されていたのなら、もはや彼に救われる機会はなかったのでしょうか。
 いいえ、他のすべての人と同様、彼にも救われる機会がありました。彼がイエスの弟子として生きる機会は、裏切り後も変わらずにあったのです。
 なぜなら、裏切りが彼を滅ぼすわけではないからです。もし人が天国に入れないとすれば、それはその人が何かを「した」からではありません。むしろ、あることを「しなかった」からなのです。イエスは言われました。
 「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます」(マタ一二・三一)。
 もし悔い改めるなら、どんな罪も赦されます。キリストを裏切った罪も赦されます。キリストの十字架の横でキリストをののしっていたあの盗賊も、悔い改めて信仰を表明すると、即座に天国を約束されたのです(ルカ二三・四三)。
 人を滅ぼすものは何でしょうか。それは悔改めをしないことです。悔い改めなければ、赦されず、罪は残り、誰であれ天国に入ることができません。
 ユダが、裏切りという罪を犯したあとに悔い改めたならば、彼は救われたでしょう。彼が主イエスのもとへ駆け寄り、涙ながらに、
 「主よ。私はたいへんな罪を犯しました。どうかお赦しください」
 と言えば、主は彼の罪を赦して下さったでしょう。
 実際、ユダが自殺したとき、イエスはまだ死んでおられませんでした。自殺するほどの勇気があるなら、ユダは命の危険をおかしてでも、イエスのもとへ駆け寄るべきでした。
 しかし、彼はそれをしませんでした。ユダは、自分のしたことに絶望しただけで、悔い改めなかったのです。
 絶望とは、顔を自分の罪に向けて、その罪から目を離さず、失望の底に沈むことです。しかし悔改めとは、自分の罪に目を向けて悲しんだのち、ひるがえって神に向けて目を上げ、希望をもって神の憐れみを信頼することなのです。
 この違いは大きなことです。絶望は人を滅ぼし、悔改めは人を救います。
 人がもし天国に入れなかったとすれば、それはその人が何かを「した」からではありません。あること・・悔改めを「しなかった」からなのです。
 ユダには、裏切りという罪を犯したあとにも、救われる機会がありました。しかし、彼は悔い改めることをしなかったので、ついに悲惨な最期を遂げてしまいました。
 このように、ユダが裏切ることは神に予知されていたものの、それによって彼が滅びに定められていたわけではありません。彼を滅びに定めたのは、神の意志ではなく、ユダ自身の意志なのです。
 ユダに限らず、私たちすべての行動は、神によって予知されています。しかしその予知が、私たちを救いに、あるいは滅びに定めるのではありません。私たちの意志が、私たちを救いに、あるいは滅びに定めるのです。


悔い改めなければ誰でも滅びる

 ユダの出来事は、特殊な出来事だったでしょうか。いいえ、彼の出来事は、私たちすべての人に、重要な警告を与えています。
 あるとき、イエスのもとにやって来た人々が、災難を受けたガリラヤ人たちのことを話しました。するとイエスは言われました。
 「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
 またシロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの一八人は、エルサレムに住んでいる誰よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」(ルカ一三・一〜五)。


「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。

 イエスは、災難を受けたガリラヤ人、またシロアムの塔が倒れた事故で死んだ一八人は、とくに罪深い人だったわけではない、と言われました。ユダについても、そうです。ユダは、とくに罪深い人物だったわけではありません。
 彼以上に罪深い人々は大勢います。しかし、誰であれ「悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。
 罪深いから滅びるのではありません。また、罪が浅いから助かるのでもありません。誰でも「悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。
 もし人の人生が、滅びに終わるとすれば、その人は生きた価値があるでしょうか。いいえ、その人はむしろ「生まれなかったほうがよかった」と言わざるを得ません。なぜなら、滅びは、その人の人生を無価値にしてしまうからです。
 主イエスがこの言葉をユダに関して言われたとき、主はそれを「残酷な」宣言として言い放ったのでしょうか。
 そうではありません。イエスはこの悲しい厳粛な事実を、ありのままに、ご自身の嘆きの言葉として言われたのです。実際イエスは、罪の町と化した聖都エルサレムを間近にしたとき、嘆いて言われました。
 「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」(ルカ一三・三四)。
 この嘆きと同様、イエスは、罪の中に死んでいくすべての人々を嘆いておられるのです。したがって、ユダのことは特殊な例ではありません。イエスは、悔い改めないすべての人を嘆いておられるのです。
 だれでも、罪を犯しました。私たちも、主イエスの嘆きを思い起こして、悔い改め、神の救いに信頼し、神に立ち返らなければなりません。そうすれば、私たちは再び神の祝福の中に入ることができるのです。
 「神は・・・・ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(二ペテ三・九)。
 あなたが、悔改めと信仰によって永遠の命に入り、「生まれてきてよかった」と言える人生を歩まれるよう、主イエスの御名によって祈り、祝福致します。

                                 久保有政(レムナント1995年11月号より)

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