わかる組織神学 予型論
聖書の中には"予言"だけでなく、"予型"がある。
そのとき、予型的にアブラハムは神の立場に、
イサクはイエスの立場に立たせられていた。
神は、人間をご自身との正しい関係に復帰させるために、救い主イエス・キリストを世に来たらせようと計画された。神はこのために、キリストを指し示す様々の「予型」を、あらかじめ歴史上に起こされた。
一 予型とは何か
「予言」が、将来起こることを言葉によって指し示すのに対し、「予型」は、将来起こることを出来事や人物によって指し示すことをいう。
聖書の中には、様々の「予型」がある。「予型」の中で特に重要なのは、イエス・キリストを指し示す予型である。前章で見たアダムとエバに着せられた「皮の衣」も、キリストの救いを示す予型の一つであった。
神は、イエス・キリストによってもたらされる救いについて示すために、ほかにも数多くの予型を、旧約時代(キリスト初来以前)に起こされた。神がキリストの予型として起こされた代表的な出来事や、人物について見てみよう。
二 イサク奉献
紀元前二千年頃、神は、キリストを世に迎える民=イスラエル民族を起こすため、その民の父祖としてアブラハムを立てられた。
アブラハムには、イサクという子が生まれた。
このアブラハムとイサクの関係は、神と御子イエスの関係の「予型」である。つまり、アブラハムは神の立場に、イサクはイエスの立場に立たせられた。どうしてそう言えるか。
第一に、イサクがアブラハムの「愛するひとり子」であったように、イエスは神の「愛するひとり子」であった(創世二二・二、ヨハ一・一四)。
第二に、「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた」(創世二五・五)。同様に、「父(神)は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった」(ヨハ三・三五)。
第三に、イサクは「約束の子」であり(ロマ九・八)、その誕生はアブラハムにあらかじめ告げられていた。同様に、イエスの誕生は旧約聖書の中に予言されていた(ミカ五・二、四)。
第四に、あの偉大な預言者モーセでさえ「神のしもべ」と呼ばれただけなのに、アブラハムは「神の友」と呼ばれた(イザ四一・八)。アブラハムがあたかも神と同等の者であるかのように呼ばれたわけは、じつは彼が、神の立場に立たせられた予型的人物だったからである。
第五に・・これが最も重要だが・・創世記二二章の出来事が、アブラハムとイサクの予型的性格を示している。神はある日、アブラハムに命じて言われた。
「あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(創世二二・二)。
結局、イサクは死ななくて済んだのであるが、このイサク奉献命令の背景には、二つの目的があった。
一つは、これによりアブラハムの信仰を「試み」(創世二二・一)、彼を真に「信仰の父」とするためであった。神は、アブラハムがどこまでも善なる神の意志を信じるか否か、また神の「全能」(創世一七・一)を信じるか否かを、試されたのである。
「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクを捧げました。・・・・彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えたのです」(ヘブ一一・一七〜一九)。
つぎに、イサク奉献命令の出されたもう一つの目的とは、これをイエス・キリストの十字架の死の予型とすることであった。
というのは、イサクを捧げよと命じられた場所「モリヤの地」は、のちのエルサレムであった(二歴代三・一)。後の日にイエスの十字架が立てられた、まさにその場所である。
またアブラハムの心の中で、イサクは「三日間」死んでいた。アブラハムはイサクを捧げることを決意してモリヤの地に向かったが、そのときアブラハムの心の中でイサクはすでに死んだのである。
それから「三日目に」(創世二二・四)、彼らはモリヤの山に着いた。そして薪の上に横たわるイサクに小刀が降り降ろされようとするとき、神はアブラハムの手を止められた。アブラハムはこの瞬間、
「いわばイサクを生き返して渡されたわけである」(ヘブ一一・一九)。
このように、アブラハムの心の中でイサクは「三日間」死んでいた。イサク奉献の出来事は、将来神が御子イエスになさることの予型だったのである。
神は、人類を罪と滅びから贖い出すために、ご自身の愛するひとり子イエスを「三日間」死に渡そうと、すでに決意しておられた。御子イエスも、それを覚悟しておられた。創世記二二章の記事は、将来イエスの十字架において起こることの予型であった。
アブラハムは、このことを知っていたわけではない。しかし、イサクを捧げることを決心した時の彼の想像を絶する苦悩は、じつに御子イエスを死に渡す際の神ご自身の苦悩の予型だったのである。
アブラハムは神の立場に、イサクはイエスの立場に立たせられた。
三 三日間の死と昇天
イエスのご生涯中、三日間の死と昇天は、最も重要な出来事である。イエスは死んで三日目によみがえり、四〇日地上にいたのち、オリーブ山から昇天された。
神は、イエスの三日間の死および昇天の予型として、幾つかの事柄を歴史上に起こされた。まず、紀元前三〇〇〇年頃、義人エノクの昇天があった。
「エノクは死を見ることのないように移されました」(ヘブ一一・五 また創世五・二四)。
また、それから千年ほどたった紀元前二〇〇〇年頃、イサクがアブラハムの心の中で三日間死ぬ出来事があった。これはすでに見た。
それから千年ほどたった紀元前八五〇年頃には、預言者エリヤの昇天の出来事があった(一列王二・一一)。イエス初来以前に死を見ずに昇天したのは、このエリヤと、エノクの二人だけである。
エリヤ(右)は、エリシャ(左)の見守る中、昇天していった。
さらに、エリヤ昇天と大体同じ頃に、預言者ヨナが三日間大魚の腹の中に飲み込まれている、という出来事があった(ヨナ一・一七)。イエスは後日、これをご自身の三日間の死の予型として語られた。
「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に人の子(キリスト)も三日三晩、地の中にいるからです」(マタ一二・四〇)。
また、これらエリヤ昇天とヨナの出来事から千年ほどたった紀元三〇年になって、イエスご自身による三日間の死と昇天があった。
このように、予型は約千年ごとに起きた。図中の年代は、聖書の記述と考古学によるものである。また予型は、
昇天→三日間の死→三日間の死と昇天→イエスおひとりによる三日間の死と昇天、
というように、段階をふんで起きた。神は、計画性をもって歴史に介入し、予型を起こされたのである。
「イエスが渡されたのは、神の定めた計画と予知とによる」(使徒二・二三)
との聖書の言葉は、このことを言っている。またイエスは言われた。
「(旧約聖書に)次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり・・・・」(ルカ二四・四六)。
イエスの3日間の死と昇天は、神のご計画によるものである。
四 過越の小羊
つぎに、イスラエルにおいて「過越の小羊」と呼ばれたものも、キリストの予型である。
アブラハムからイサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれた。このヤコブの子孫が、イスラエル民族である。
イスラエル民族は、キリストを世に来たらせるために神が創始し、育成された民族である。彼らは、キリストの予型となる出来事の数々を経験させられた。
イスラエル民族は、紀元前一九世紀〜一五世紀の約四〇〇年間にわたり、エジプトで奴隷となっていた。しかし、その苦しみが増したので、神は預言者モーセをお立てになった。モーセの指導のもとに、イスラエル民族はエジプトから大脱出を敢行した。
いわゆる「出エジプト」の出来事である。この際、エジプトには神による"十の災い"が下った。その最後の災いは、エジプトのすべての家庭の長男が死ぬというものであった。神は、この災いがイスラエル人の家庭に及ばないようにするため、イスラエル人に「過越の小羊」を定められた。
イスラエル人は、「傷のない」一頭の「雄の小羊」をとり(出エ一二・五)、ほふり(殺し)、その血を家の入り口の柱と鴨居に塗り付けた。その夜、裁きの天使はその血を見て通り過ぎ、裁きはイスラエル人の家を"過ぎ越して"行った。
この「過越の小羊」は、十字架上で贖いの死を遂げられるイエスの予型であった。実際バプテスマのヨハネは、イエスを見て言った。
「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ一・二九)。
また、
「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられた」(一コリ五・七)
「御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめます」(一ヨハ一・七)
と記されている。過越の小羊の血を見て、裁きがイスラエル人の家を過ぎ越していったように、過越の小羊キリストの血を見て、裁きがクリスチャンの上を過ぎ越していくのである。
過越の小羊の血を見て裁きは過ぎ越していった。
出エジプトのとき、過越の小羊の骨は決して折ってはならない、と命じられていた(出エ一二・四六)。同様に、イエスの十字架刑のとき、イエスの両隣りの二人の盗賊の足の骨は折られたのに、イエスの骨は折られなかった(ヨハ一九・三三)。これはイエスが、過越の小羊として死なれたからである。
イスラエルでは、出エジプトの出来事以来、それを記念して毎年「過越の祭り」が行なわれていた。イエスが死なれたのは、紀元三〇年の過越の祭りの最中であった。しかも、過越の祭りの小羊がほふられるちょうど同じ日、同じ時刻に、イエスは死なれた。
イエスの死は、ユダヤ暦第一月(ニサン)の一四日の夕方、午後三時頃であった。ヨセフスという紀元一世紀のユダヤ人歴史家の記述によれば、当時ユダヤ人は過越の祭りの時、小羊を一月一四日のほぼこの時刻にほふるのを習わしとしていた。
すなわち、ユダヤ人が過越の小羊をほふっているちょうどそのとき、イエスは十字架上で、私たちの過越のために贖いの死を遂げられたのである。
五 出エジプト
かつてイスラエル人は、紀元前一四五〇年頃のユダヤ暦一月一五日に出エジプトを行なった(出エ一二・二、六、一二、四二)。二〇歳以上の男子だけで約六〇万人、女性と子供および「多くの入り混じった外国人」(出エ一二・三八)等を合わせれば約三〇〇万人とも言われる彼らが、エジプトのラメセスから旅立った。
彼らは奴隷の身分から解放されたのである。これは、キリストによってもたらされる偉大な解放の予型であった。
「出エジプト」のことを、ギリシャ語では「エクソダス」(出ていくこと)という。英語聖書でも、出エジプト記を“Exodus”という。福音書を見ると、イエスの変貌の記事にこう記されている。
「(彼らは)イエスがエルサレムで遂げようとしておられるエクソダス(邦訳では「ご最期」)について、一緒に話していた」(ルカ九・三一)。
イエスの御姿が山上で変わり、本来の姿を現わされたとき、イエスは栄光のうちに現われた旧約の二大預言者モーセおよびエリヤと、会話を持たれた。彼らはそのとき、イエスが成し遂げようとしておられる「エクソダス」について話していた。
イエスがエルサレムで成そうとしておられた十字架死と復活のみわざは、私たちに「罪と死の原理」からの解放をもたらすエクソダスだったのである。
「キリスト・イエスにある者が罪に定められる(有罪とされるの意)ことは、決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです」(ロマ八・二)。
キリストの「十字架死」による贖いのみわざと、「復活」という死からの脱出・解放とによって、キリストにある私たちは偉大なエクソダスを経験する。罪と死の原理の奴隷状態から解放されるのである。かつてイスラエルの出エジプトが行なわれたことは、このことの予型であった。
出エジプトはまた、世の終わりにおけるキリスト者の救いの予型でもある。世の終わりにおいて、神は全世界の悪に対して厳しい審判を下される。しかしそのとき、神を愛し神に従う人々は、その中から救い出され、災いを受けない。
キリスト者は、この世から携挙され(携え挙げられ)、災いに満ちたこの世から脱出して、栄光の神の御国に導かれるのである。
出エジプト後、荒野を行進するイスラエル民族。出エジプトは、
イエスによって罪と死から解放されることの予型である。
17世紀のドイツの版画より
六 いけにえ
過越の小羊以外にも、イスラエルで行なわれた「罪の贖いのためのいけにえ」は、贖い主イエスの予型であった。
「贖い」とは"代価を払って買い戻す"という意味である。イエスは、私たちを罪と滅びから救うために、ご自身の尊い血潮という代価を払って、神のもとに私たちを買い戻してくださった。これを「贖い」また「贖罪」「罪の贖い」等という。
神は、贖罪という観念をイスラエル人のうちに明確にさせるため、贖罪のための動物犠牲を毎年毎年捧げるように命じられた。この動物犠牲は、キリストの犠牲の予型であって、罪の赦しを得るためには犠牲がどうしても必要であるという認識を、人々の中に植えつけるためであった。
イスラエル人は毎年毎年、犠牲を捧げるたびに、
「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブ九・二二)
ということを思い知らされた。とくに、イスラエルで一年に一回だけ行なわれた「大贖罪日」は重要である。
このとき、罪のためのいけにえは必ず宿営の「外」で焼かれるよう、律法に命じられていた(出エ二九・一四)。イエスがエルサレムの門の外、エルサレム城壁の外のゴルゴダの丘で十字架にかかられたのは、この理由による。
「動物のからだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスもご自分の血によって民を聖なるものとするために、(エルサレムの)門の外で苦しみを受けられました」(ヘブ一三・一一〜一二)。
「(キリストこそ)私たちの罪のための・・私たちの罪だけでなく全世界のための・・なだめの供え物なのです」(一ヨハ二・二)。
キリストは、十字架上で犠牲の死を遂げ、すべての人々のために永遠の贖いを全うされた。それまでイスラエル人が毎年毎年行なってきた動物犠牲は、すべて、このことの予型に過ぎなかった。
「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はない」(ヘブ一〇・一)。
旧約聖書に記されていた様々の動物犠牲に関する律法は、すべてキリストの贖いの死の予型であり、「影」であった。それらはすべて、キリストを指し示していたのであり、キリストの十字架の死によって成就したのである。
今日、クリスチャンが動物犠牲を行なわないのは、この理由による。キリストは、十字架上で「完了した」(ヨハ一九・三〇)と言われて、贖罪のみわざの完了を告げられた。これによって、
"ただ一回のみわざによる永遠の贖い"(ヘブ九・一二)
が成就した。そのためその後は、「影」である動物犠牲は不用となったのである。
七 幕屋・神殿
イスラエル民族は、出エジプト後、「幕屋」と呼ばれるものを造った。これは、のちの「神殿」の原型となったものである。
幕屋および神殿は、神がそこで人と会う場所とされた(出エ二九・四二)。これはイエスの予型である。
幕屋は、神がそこで人と会う場所とされた。これは
神と人の間の仲介者イエスの予型である。
イエスは「神と人との間の仲介者」(一テモ二・五)として立てられたかたであって、イエス・キリストにおいて神は人と会われる。だから、じつにイエスは"生ける神殿"であられる。福音書に記されている。
「イエスは彼らに答えて言われた。『この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう』。・・・・イエスは、ご自分のからだの神殿のことを言われたのである」(ヨハ二・一九〜二一)。
イエスこそ、真の神殿であられる。すなわち、かつてイスラエル人たちが造った幕屋や神殿はどれも、イエスという生ける神殿を指し示す予型に過ぎなかった。
イスラエル人の歴史において、神殿の原型、および神殿は五百年を周期に建てられた、という事実も興味深い。神殿の最も原始的な原型となったのは、紀元前二〇世紀、父祖ヤコブがベテルで立てた「石の柱」であった。
「(ヤコブは)言った。『・・・・こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ』。翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油を注いだ」(創世二八・一七〜一八)。
ヤコブはそこを、礼拝所としたのである。こののち、五百年ほどして、モーセの時代に幕屋が造られた。
さらに五百年ほどたつと、ソロモン王の時代に神殿が建造された。これは、のちにバビロン帝国の侵略によって破壊された。
しかし、ソロモン神殿建造から五百年ほどして、ゼルバベルの時代にこの神殿は再建された。
さらにその五百年後、イエスという生ける神殿が、この世に降誕された。このように神殿の原型および神殿は、約五百年を周期に建てられた。イエス以前のものは予型であり、イエスにおいて真の神殿が出現したのである。
神殿の原型、および神殿は約500年周期であった。
福音書の記録によると、イエスの死の瞬間、当時のエルサレムの神殿(ゼルバベルによって再建されヘロデによって修理・増築された神殿)の、至聖所の幕が裂けた。
「イエスはもう一度大きく叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」(マタ二七・五一)。
これは、何を意味しているのであろうか。
神殿の「幕」は、非常に大きな幕であったから、もし人間が裂いたのなら、それは"下から上まで"裂けたであろう。しかしそれは「上から下まで真二つに裂けた」。これは天の力によって裂けたからである。
この出来事は、じつはイエスという生ける神殿内で起きたことを、目に見えるかたちで示すために、神が起こされたことであった。
神殿の「幕」は、神殿の最も神聖な場所「至聖所」の入り口に設けられていたものである。この垂れ幕が裂けたことは、イエスの贖いの死によって、神と人の間の障壁が取り去られたことを意味する。
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは・・・・大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」(ヘブ一〇・一九〜二〇)。
すなわち、私たちはイエスにあって、大胆に神に近づくことができるようになったのである。
八 大祭司
イスラエルの幕屋、また神殿においては、「大祭司」と呼ばれる人が、罪の贖いのための祭儀をとり行なっていた。「大祭司」も、救い主キリストの予型である。
「キリストは、すでに成就したすばらしい事柄の大祭司として来られた」(ヘブ九・一一)。
イスラエルでは毎年、大贖罪日に、大祭司が、罪のためのいけにえとしてほふられた動物の血をたずさえて、幕屋に入って行った。
幕屋内部は二つの部屋に分かれており、手前の部屋を「聖所」、奥の部屋を「至聖所」といった。聖所と至聖所との間には、先ほど私たちがみた「垂れ幕」がかかっていた。
大祭司は、いけにえの血をたずさえて、聖所から至聖所へ入っていった。そしてそこで罪の贖いの儀式を行なったのである。
このことは、真の大祭司キリストによってなされる贖いのみわざの予型であった。こう記されている。
「キリストは・・・・やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた」(ヘブ九・一二)。
イスラエルの幕屋や神殿で大祭司がなしてきた事柄は、真の大祭司イエスのなされた贖いのみわざを指し示すための予型であり、影だった。
このように、イスラエルで行なわれた「罪のためのいけにえ」「幕屋・神殿」「大祭司」等は、みな救い主イエスを指し示す予型であった。それらはみな、イエスおひとりにおいて成就し、全うされたのである。
九 ダビデ
紀元前一〇世紀に、イスラエル民族はダビデ王のもとに王国の基礎を確立した。
イエス・キリストは、「神の御子」「救い主」「王」、そのほか「教師」「預言者」「大祭司」「友」等の様々な側面を持っておられるかたであるが、ダビデ王はこのうちイエスの「王」としての側面を、とくに表す予型的人物であった。
ダビデは、試練を受け、のちに高く上げられた王である。イエスも、受難し、のちに高く上げられた王なのである。
ダビデの生涯とイエスの生涯の類似
ダビデの生涯における幾つかの局面は、イエスの生涯に類似している。
まず、ダビデはユダヤの「ベツレヘム」村で育った(一サム一七・一二)。生地もそこだったと思われる。
ダビデは「三〇歳」で王になった(二サム五・四)。王位にあるとき彼は、自分の息子アブシャロムに反逆され、また部下であり「信頼した親しい友」であったアヒトフェルにも裏切られる経験を持った。
アブシャロムはのちに首を木にかけて死に(二サム一八・九)、アヒトフェルは首をくくって自殺した(同一七・二三)。ダビデは四〇年王位にあったあと、エルサレムで死に、そこで葬られた(一列王二・一〇〜一一)。
一方イエスも、「ベツレヘム」でお生まれになり、「三〇歳」で公生涯に入り、弟子ユダに裏切られ(彼は首をくくって自殺 マタ二七・五)、エルサレムで死に、そこで葬られた。
さらに、イエスの公生涯の期間は、ダビデが王位にあった期間四〇年と対応するかのように、約四〇か月(三年半)であった。このようにダビデの生涯の概略は、イエスの生涯に対する予型的意義を有していたと言える。
ダビデの詩篇がイエスの生涯において「成就した」と言われる理由
ダビデの書いた「詩篇」の多くの語句は、新約聖書でイエスにおいて「成就した」と言われている。その理由の一つは、ダビデの予型的性格なのである。
ダビデの詩篇は多くの場合、彼自身の経験を語ったものであり、それは必ずしも「予言」という体裁をとっていない。ところがそれがイエスにおいて「成就した」と言われるのは、ダビデの経験が予型だったからである。たとえば、
「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた」(詩篇四一・九)
というダビデの詩篇は、もともとは彼自身の経験である。しかし、それはイエスの経験の予型的性格を持っていたから、それが弟子ユダの裏切りという出来事において「成就した」、と言われたのである(ヨハ一三・一八)。
さらに、イエスは十字架上で七つの言葉を発せられたが、そのうち後半の四つ・・第四、第五、第六、第七番目の言葉はすべてダビデの詩篇の言葉であった、という事実も重要である。つまり、
(4)「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタ二七・四六)。
(5)「わたしはかわく」(ヨハ一九・二八)。
(6)「完了した」(ヨハ一九・三〇)。
(7)「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ二三・四六)。
である。このうち(4)〜(6)の言葉は、すべてダビデの記した詩篇二二篇中の言葉であった。
(4)は詩篇二二篇冒頭の句そのまま、(5)は詩篇二二篇の真ん中の言葉(二二・一五)、また(6)は、詩篇二二篇最後の「主のなされた救い」の「なされた」に関連して言われた言葉である。
詩篇二二篇は、イエスの十字架を指し示す預言詩であって、イエスはそのおもな句を十字架上で言われることによって、この詩篇にうたわれた神の壮大な救いが今なされようとしていると、人々に示されたのである。
この詩篇をつくったダビデは、王であるだけでなく、「預言者」でもあった(使徒二・三〇)。「預言」は単に未来のことをいう「予言」とは違い、神の霊感を受けた言葉を語ることをいう。ダビデは詩篇二二篇を、来たるべきキリストの受難の心境として、神の霊感を受けながら記したのである。
また十字架上の最後の言葉・・(7)番目は、ダビデの記した詩篇三一・五の言葉であった。そこにはこう記されている。
「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました」。
このようにイエスは、十字架上でダビデの詩篇の言葉を言われた。それらは、神の「贖い」をうたったものだったのである。
ダビデの詩篇は、直接的にはダビデ自身の受けた苦難等の経験から生まれたものだが、それらはイエスの生涯に関する予型的意義を有していた。それで、イエスは十字架上で、ダビデの詩篇の言葉をそのまま発せられたのである。
旧約聖書は、来たるべきメシヤを「ダビデ」とも呼ぶ
また、旧約聖書はしばしば、来たるべきメシヤを象徴的に「ダビデ」と呼んでいる。
「イスラエル人は長い間、王もなく、首長もなく、いけにえも、石の柱も、エポデも、テラフィムもなく過ごすからだ。その後、イスラエル人は帰って来て、彼らの神、主と、彼らの王ダビデを尋ね求め、終わりの日に、おののきながら主とその恵みに来よう」(ホセ三・四〜五)。
これは、イエス再来が近づいた日にイスラエルは回復される、と述べた予言である。この予言において、再来のイエスは「ダビデ」の名で呼ばれている。預言者エゼキエルの予言においても、「王」として来られる再来のイエスは、象徴的に「ダビデ」の名で呼ばれている(エゼ三七・二四〜二五)。
これは、ダビデが、王なるイエスの予型だったからである。イエスは、ダビデが指し示していた"真の王""王の王"(King
of kings)として来られた。
ダビデの生涯は、イエスの生涯の予型的意義を有していた。
十 審判の予型
今まではキリスト、およびキリストの救いに関する予型を見てきた。つぎに、審判に関する予型を見てみよう。
神が歴史上に起こされた審判を見てみると、その代表的なものは、"水による審判"と"火による審判"に分かれる。
水による審判と火による審判
"水による審判"の代表的なものは、ノアの大洪水である。この時、ノア一家を除く全人類が、水によって滅ぼされた(創世六・五〜八・二二)。
ノアの大洪水から約四〇〇年たって、有名なソドムとゴモラの町々に対する"火による審判があった(創世一九・二四)。このときこれらの町々は、天からの火によって滅ぼされた[もっと正確には約三九二年後。ソドム・ゴモラ滅亡のときアブラハムは九九歳または一〇〇歳だったことを知って(創世一七・一、二一・五)、創世記一一・一〇〜二六の系図を調べるとわかる]。
こうした"水と火による審判"は、イスラエルの歴史の中にも見ることができる。
イスラエル民族が出エジプトをし、紅海渡渉をしたとき、彼らを追ってきたエジプト人たちはみな紅海の水に飲まれて滅亡した(出エ一四・二八)。これはエジプト人に対する"水による審判"であった。
この出来事から四〇年たって、イスラエル人がカナンの地に入ったとき、カナンの町々は火で焼かれた。
「(イスラエル民族は、カナンの)町とその中のすべてのものを火で焼いた」(ヨシ六・二四)。
これは、彼らに対する"火による審判"だった。聖書の記述によれば、ヨシュアに率いられたイスラエル民族のカナン攻略は、カナンの悪と汚れに満ちた民への審判として起こったのである(創世一五・一三〜一四、申命九・四、レビ一八・二四〜二五)。
紅海における"水による審判"から、カナンへの"火による審判"までは、四〇年であった。この四〇年という数字は、"ノアの大洪水"から"ソドム・ゴモラへの火による審判"までの期間=約四〇〇年と対応関係にあることがわかる。
これらは予型である
これら"水による審判"と"火による審判"は、神のご計画に関するある重要な事柄の予型であった。
水による審判は、クリスチャンが受けるバプテスマ(洗礼)の予型であり、象徴であった。ノアの大洪水について聖書は記している。
「わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです」(一ペテ三・二〇〜二一)。
また紅海渡渉の水についても、こう記されている。
「私たちの先祖はみな(イスラエル人)、雲の下におり、みな海(紅海)を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受けました」(一コリ一〇・一〜二)。
ではつぎに、火による審判は何の予型だったのであろうか。
火による審判は、終末における全世界への火による大審判の予型、また"絵"として起こった。世の終末には、全世界の神に従わない人々への火による審判がある。
「今の天と地は・・・・火で焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです」(二ペテ三・七)。
しかし、その日、クリスチャンたちは「火の中をくぐるようにして助かる」(一コリ三・一)。クリスチャンたちは神の御国を継ぐために、生き残るのである。
終末のこの火による審判の一つの予型として、かつてソドム・ゴモラに対する火による審判が起こった。
「人の子の日(キリスト再来の日)に起こることは・・・・ロトの時代にあったことと同様です。・・・・ロトがソドムから出ていくと、その日に火と硫黄とが天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました」(ルカ一七・二六〜二九)。
また、かつてのカナンに対する火による審判も、終末の世界における来たるべき火による審判の予型であった。
なぜなら、カナンを攻略したイスラエル民族を率いたのは、ヨシュアだった。「ヨシュア」と「イエス」は同じ名前である。ヨシュアのギリシャ名がイエスであり、イエスのヘブル名がヨシュアなのである。
ヨシュアに率いられたイスラエル民族がカナンに火による神の審判を下したように、終末の日に、クリスチャンたちを率いる主イエスは、全世界に火による大審判を下されるであろう。
そして、ヨシュアが民を約束の地カナンに導いたように、終末の日、主イエスはご自身の民を約束の御国に導かれる。
このように"水による審判"および"火による審判"は、神のご計画における重要な事柄の予型として起こった。それらが起きたのは、当時の人々への正当な審判であったとともに、「世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするため」(一コリ一〇・一一)だったのである。
久保有政著(レムナント1995年11月号より)
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