7つの幸福
第7の幸福としての"神の子的幸福"――それはどんな幸福か。
シモン・ブーエ画
一口に「幸福」と言っても、さまざまです。人間の幸福(幸福感)の中で、特にここで特徴的な七つのものをあげ、人間の幸福について考えてみましょう。
それら七つの幸福とは、"楽天的幸福""快楽的幸福""資産的幸福""栄誉的幸福""知的幸福""人格者的幸福"そして最後に"神の子的幸福"です。
さまざまな幸福
第一に"楽天的幸福"とは、例えば、人にプレゼントをもらった時、たまたま良いことがあった時、気分の良い時などに、単純・自然に感じられる幸福のことです。これは、おそらく誰でも経験したことのある幸福でしょう。
第二に"快楽的幸福"は、自分の欲望や欲求を満たし、実現したときに感じられる幸福です。食欲、性欲を満たすことによるもののほか、自分の趣味によって楽しみを得たりするとき等の幸福です。
第三に"資産的幸福"とは、自分の資産が充分あるいは潤沢にあることによって、経済的な心配や、将来への不安がないことです。これは、裕福で快適な生活をすることができるという幸福でもあります。
第四に"栄誉的幸福"とは、人々からの栄誉、または名誉を受けることによって感じられる幸福です。何か優れたことをして人から誉められたり、コンテストで一位になるなど、優秀さを認められたとき等の幸福です。
第五に"知的幸福"とは、たとえば哲学者や、科学者、思想家などのように、知識や知恵が豊かになることによって得られる幸福です。こうした人々は、ある種の知的な幸福感を持っているものです。これは知性における満足感から来る幸福です。
第六に"人格者的幸福"とは、人格者、すなわち徳の高い人物や、きよい愛をもった人など、道徳的に高貴な人物が感じることの出来る幸福です。これは、人格が高貴になることによって得られる幸福です。
さて、これら六つの幸福のうち、第一の"楽天的幸福"は、誰でも知っている幸福ですが、多くの場合、その場限りの一時的なものです。
一方、第二の"快楽的幸福"は、欲望を満たすことによる幸福ですが、これもやはり一時的であり、刹那的です。また、あとに虚しさを伴うことも少なくありません。
第三の"資産的幸福"は、物質的環境による幸福です。これも、軟弱な地盤に立った幸福です。
なぜなら、これも外的なものに基盤をおいた幸福であり、もし何らかの原因でその資産が取り去られてしまえば、ともに幸福も失せてしまうのです。
また、この幸福は死後にまで続くものではありません。いかに資産が多くあろうと、それを死の向こうの世界に持っていくことは出来ないからです。したがってこの幸福は、最終的に、はかないものとなります。
つぎに第四の"栄誉的幸福"は、名声という、やはり外的なものに基盤をおいた幸福です。これも、やはり軟弱な基盤の幸福です。
なぜなら、人の名声などというものは、いつ移り変わるかわからないからです。
第五の"知的幸福"は、それを得るには多くの努力が必要ですが、これも、それだけでは大きな幸福とはなり得ません。
なぜなら、知識や知恵をいかに多く持つことができたとしても、所詮、人間の知恵知識など知れているからです。
第六の"人格者的幸福"は、これら六つの中では最も優れたものです。道徳的にすぐれ、きよく、豊かな徳を備え、愛において豊かであること自体が、人に大きな喜びと平安を与えるからです。
しかし、この幸福さえも、決して最高のものとは言えません。単に人格が優れているというだけで、もし自分の人生の意味と目的を真に理解していないなら、その人は本当の幸福をまだ知らないでいるのです。
人間が持ち得る最高の幸福は、第七の"神の子的幸福"にあります。これはどのような幸福でしょうか。
"楽天的幸福"および"快楽的幸福"は、一時的な幸福でした。
一方"資産的幸福""栄誉的幸福""知的幸福""人格者的幸福"は、相対的な幸福です。それらはみな、人と比べてどうか、という幸福なのです。
他人よりお金を多くもっているか否か、他人より名声があるか否か、他人より頭がよいか否か、他人より人格がよいか否か、という幸福にすぎません。
しかし、人生最高の幸福は、そのようなものにあるのではありません。相対的・一時的な幸福を越えた"絶対かつ永遠の幸福"というものが存在します。それが、真の喜びと平安と幸福に満ちた"神の子的幸福"なのです。
神の子的幸福
神の子的幸福は、一口には言い表せないものですが、この幸福を知っている人々は、「満ちあふれる喜び」(二コリ七・四)と、「人知ではとうてい測り知ることのできない・・・・平安」(ピリ四・七)を持っています。
彼等は、自分がどこから来て、何のために存在し(生き)、またどこへ行くのかということについて知っており、真の生きがいを持っているのです。
ですから、この幸福を得た人の一人は、この幸福のもつ絶対的価値のゆえに、世の富、知識、快楽、名声などによる幸福については、
「ちりあくたと思っている」(ピリ三・八)
とさえ語りました。神の子的幸福を知っている人々にとっては、その素晴らしさのゆえに、他の幸福は取るに足りないもののように感じられるからです。
世界最古の書物にして、世界最高の教典――聖書は、この幸福について、人々の目を開かせるために書かれました。聖書のヨハネによる福音書一章一二節には、次のように記されています。
「しかし(神は)、この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」
つまり聖書は、人々に真に神の子的幸福を得させるために、記されたのです。聖書は、神の子的幸福とはどんな幸福であるか、また、どうしたらそれを得られるのかについても、明確に記しています。
私たちは聖書を通して、神の子的幸福を知り得るのです。
それはどのような幸福か
神の子的幸福は、第一に、永遠の愛の中にある幸福です。
それは、自分の美貌、富、所有物、知識など、この世のうつろいやすいものによる幸福ではありません。それらは不安定で、決して長続きするものではありません。
しかし、真の愛の中にある幸福は、絶対かつ永遠です。ある人が言ったように、
「人は愛されることによって安息し、愛することによって満足する」
のです。真の愛のみが、人を真に幸福にすることができます。人は、愛によって幸福を感じるように造られているのです。
聖書には、こう書かれています。
「わたし(神)は、限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えず、あなたに真実を尽くしてきた」(エレ三一・二)。
神の子的幸福は、神の永遠の愛の中にあることに、基礎を置いています。天地の造り主である神は、私たちすべての人を、限りなき愛をもって愛しておられるのです。
人が、その愛の中に安息することを知り、また神と人とを愛することの中に満足を見い出した時、彼は神の子的幸福を得たのです。
このように神の愛が、人に限りない幸福を与えることが出来るのは、神の愛の本質が、その真実さにあるからです。神は、たとえ私たちが真実でなかったような時にも、常に「真実を尽くして」こられました。
人間の愛は、時に利己的で、計算づくです。そして裏切られると憎悪に変貌することも、多々あります。
世の中で、愛し合って結婚した男女が、しばらく後には憎み合って別れたという話は、よくある話です。
しかし神の愛は、そうした人間の愛とは、本質的に異なっています。神の愛は、常に真実なのです。
その愛は、イエス・キリストの十字架において、最もよく表されています。キリストは、私たちがまだ罪の中にあった時に、自ら進んで私たちの身代わりとなり、その命を投げ出して下さったからです。つまり、
「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ロマ五・八)。
このように神の愛は、罪の中にある者にさえ、向けられました。その愛は、私たちを罪と滅びより救い出し、私たちに「永遠のいのち」を与えるためです。
神は「善にして、善をなしたもう」(詩篇一一九・六八)かたであり、罪人に対しても、真実公平な愛を示されました。
ですから神の子的幸福は、移りゆくこの世のものによる幸福ではなく、神の永遠の愛による幸福です。
それゆえこの幸福は、絶対かつ永遠です。それは誰によっても妨げられることなく、また何によっても取り去られることがありません。
「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない」(ロマ八・三八〜三九)
のです。
第二に神の子的幸福は、生命の輝き、躍動による幸福です。
神の愛は、人の内なる生命に、輝き・躍動を得させる源泉です。キリストは、
「わたしが来たのは、羊(人々の意)がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハ一〇・一〇)
と言われました。キリストは、私たちを神の前における罪と滅びから救い、聖書で言う「永遠のいのち」を得させ、生命に輝きと躍動を与えるために来られました。
この「永遠のいのち」とは、何度も輪廻を繰り返すことではなく、空想上のものでもありません。それは不死のいのちであり、朽ちない生命であり、比類ない質を備えた命なのです。
快楽、お金、資産、名誉、所有物などによる幸福は、みな外部のものに依存した幸福です。そうした幸福は、それら外部のものが取り去られてしまえば、それに依存した幸福もともに消え失せてしまいます。
しかし、「永遠のいのち」の躍動による幸福は、内部のものに依存しています。神が私たちの内にお与えになったものに依存しています。
それは、外部の環境がいかに変わろうと、それに左右されず、決して取り去られることがありません。
したがって、神の子的幸福は、絶対的です。それは世の中がどう変わろうと、また私たちの環境がどう変わろうと、決して失われることがありません。
真実最高の幸福は、そのようなものでなければなりません。
第三に神の子的幸福は、人生の目的の実現による幸福です。
人は決して、無目的にこの世に生を受けたわけではありません。神は人を、明確な目的と意図のもとに創造されました。
イエス・キリストを神からの救い主として信じ、彼に従っていくことによって「神の子」とされた者たちは、それをはっきり知ることができるのです。
神は、人を造ることによって、人を通してご自身が喜びを受けることを望まれました。また人が、自分を造って下さった神を喜んで生きることを、神は望まれました。
人の創造目的は、神ご自身の幸福と、人間自身の幸福の双方を目指していたのです。
私たちは、この神との愛と生命の交わりを回復し、救い主イエスを通して「神の子」となることにより、この幸福な関係を回復できます。
そして私たちは、人生の目的をはっきり理解した上で、人生を力強く歩み、切り開いていくことができるのです。
聖書は言っています。
「あなたがたは、代価(キリストの十字架上の犠牲)を払って買い取られたのだ。だから、自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」(一コリ六・二〇)。
「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタ五・一六)。
私たちの人生の目的は、神と人を愛しながら、神と共に歩んで「神の栄光」を現わすことにあります。それは、神があがめられるためであり、また私たち自身が真の喜びを得るためです。
主イエス・キリストは、このために私たちを助けてくださいます。主イエスは、信仰を持つ私たちを神に立ち返らせ、私たちを神の子として、神の家族に回復させてくださるのです。
このように神の子的幸福は、人生の目的を実現することによる幸福でもあります。
ジャン・ピレメント画
神の子的幸福は、永遠の愛の中にある幸福であり、内なる生命の充実・躍動による幸福であり、また人生の目的の実現による幸福です。それは人間が持ちうる最高の幸福なのです。
この幸福を体験していなければ、その人は人生で最も素晴らしい幸福をまだ体験していません。
この幸福は、ただ信仰を持つことによって、誰でも始めることができます。あなたも、回心と信仰によってこの幸福に入られるよう、お祈り致します。
久保有政著(レムナント1995年10月号より)
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