クリスチャンの幸福
神がお与え下さる3つの幸福。
今月は、旧約聖書エレミヤ書三一章二〜三節から、神がお与え下さる「幸福」について考えてみましょう。
[聖書テキスト]
「主はこう仰せられる。『剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ』。
主は遠くから私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実をつくし続けた』」。
永遠の命
この御言葉は、もともと今から約二六〇〇年前に、イスラエル民族に対して言われたものです。しかし今日、"第二イスラエル"また"霊のイスラエル"とも呼ばれるクリスチャンたちにも、同様に当てはまる言葉です。
この御言葉は、神がご自分の民に与えて下さる三つの幸福について述べています。それらは「命」「恵み」「愛」です。
「命」から見てみましょう。「剣を免れて生き残った民は・・・・」と言われています。
命がなければ、幸福もありません。生命の安全は幸福の基礎です。生命の持続や、生命の豊かさは、幸福にとって本質的なものです。
イエス・キリストは言われました。
「わたしが来たのは、羊(私たちのこと)が命を得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハ一〇・一〇)。
キリストは、ご自身が来られたのは、私たちが「命を得る」ためだと言われました。なかには、
「私は命を持っています。まだ死んでいません」
と言われるかたもいるでしょうが、ここでキリストが言われる「命」とは、単なる肉体的な命ではないのです。それは聖書でいう「永遠の命」のことです。
生まれながらの人は、神様から見ると、ちょうど"切り花"のような存在です。切り花は水にさしておけば、しばらくは花が大きくなったり、つぼみが咲いたりします。
しかし、茎から下を切られて根がないので、生命はすでに断たれていますから、数日後にはしおれて、枯れてしまいます。
人間も同様です。私たちはしばらくは生き続けますが、罪によってすでに生命の根もとが断たれていますから、やがて死に、朽ちていかなければならないのです。聖書は言っています。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です」(ロマ六・二三)。
生まれながらの人の生命は、切り花に似ている。
しばらくは花がさき、つぼみが開くこともあるが、
根もとが断たれているので、やがて枯れる。
生まれながらの人も、罪によって神との交わりが断たれているので、
しばらくこの地上で生きた後に死に、朽ちてしまう。
私たちは、神を忘れた生活、自己中心な生活、愛のない生活、利己的な欲の生活など、罪の生活――すなわち神の御教えに反する生活を積み重ねたので、すでに生命の根もとが断たれています。
それで、いずれ死ななければなりません。「罪から来る報酬は死」なのです。
この「死」とは、単なる肉体上の死ではありません。霊的な死、また神からの永遠の分離、すなわち神から永遠に捨てられる永遠の死をも意味しているのです。
しかし神は、そうした私たちであっても、もしイエス・キリストを救い主として信じ、彼に従っていくなら、私たちの罪を赦し、「命」――「永遠の命」を与える、と言われるのです。
クリスチャンにとって、肉体の死は、すべての終わりではありません。クリスチャンには、肉体の死後も天国の生命が約束されています。
"死んだら誰でも天国に入れる"のではありません。聖書は、天国は神の王国であると言っています。
天国の王なる神を認めない人が、どうしてその王国に入れるでしょうか。天国の王に従って生きない人が、どうしてその国に迎えてもらえるでしょうか。
単なる肉体上の命だけを持っている人と、永遠の命をいただいて生きる人との間には、どれほど大きな違いがあることでしょう。
キリストを通して永遠の命をいただいて生きる人にとって、この地上の歩みは「旅人」また「寄留者」としての歩みにほかなりません。
私たちはこの地上を、旅人として生き、様々なことを学び、また実績を積んで、そののち天国という故郷へ帰るのです。
神の民は生き残り、やがて安息に入ります。神が私たちに与えてくださる幸福の第一は、永遠の命の幸福なのです。
あるクリスチャンの老婦人が病床にあり、臨終が間近と思われたため、牧師が呼ばれました。
牧師はまだ若く、つとめて彼女に同情しつつも、もうすぐ人の死を見なければならないことを恐れ、また悲しんでいる様子でした。
ところがその老聖徒は、すっかりくつろいでいて、晴れ晴れと、実にしあわせそうでした。彼女は言いました。
「神様が、お若いあなたを祝福してくださいますように。恐ろしいことは何もありませんよ。わたしは数分のうちに、ヨルダン川(かつてイスラエル民族が約束の地カナンに入るとき渡った川。ここでは死を意味する)を渡ろうとしているのです。その川のこちら側も向こう側も、私の天のお父様のものなのです」。
うれしそうに彼女はそう言うと、しばらくして息を引き取りました。彼女は、肉体の死後に神の用意された約束の地があることを、知っていたのです。これが、永遠の命の幸福です。
荒野で恵みを得た
神が私たちに与えてくださる幸福の第二は、"荒野における恵み"です。
「民は荒野で恵みを得た」
と記されています。「恵み」という言葉は、神から来るあらゆる良いものや、祝福をさします。
しかも、「荒野」という言葉に注意してください。私たちの人生は、まさに荒野のようではありませんか。
それは決して温室ではありません。神は決して、温室のような人生を私たちにお与えにならないのです。
私たちに与えられる人生は、温室のようにすべてがそろった、嵐や冷害のない"何もかもいいことずくめの人生"ではありません。
というのは、そのような人生がもし与えられたら、私たちはみな堕落してしまうからです。宗教改革者マルチン・ルターは言っています。
「もし誰かに神が試練を与えない場合があるとしたら、それは十の試練に出会うよりも恐ろしいことである」。
クリスチャンにも、またクリスチャンでない人にも、人生はときに荒野のようです。しかし神は、ご自分の民に対し、その荒野において恵みを与えると約束しておられます。
クリスチャンの幸福は、温室育ちのような人生を歩むことではありません。それは「荒野で恵みを得る」ことなのです。
クリスチャンの幸福は、「荒野で恵みを得る」幸福でもある。
あのイスラエル民族は、出エジプト後、四〇年ものあいだ荒野を放浪しました。
そのあいだ、彼らは食糧をどうしたのでしょうか。水はどうしたのでしょうか。住居はどうしたのでしょうか。服はどうしたのでしょうか。
しかし、荒野放浪の最後の年に、指導者モーセは民に次のように言うことができました。
「荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。・・・・
事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださった。あなたの神、主は、この四〇年の間あなたと共におられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった」(申命一・三一、二・七)。
「何一つ欠けたものはなかった」と、彼らは告白することができたのです。
また、主イエスが弟子たちを訓練するために、二人ずつ組ませてイスラエルの町々に伝道に遣わされた時のことです。主はこのとき、弟子たちにお金や、食べ物、着替えなどを一切持たせませんでした(ルカ一〇・一〜二〇)。
しばらくして、弟子たちがみな喜んで伝道から帰ってきました。後日、主は彼らに聞かれました。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか」。すると弟子たちは答えました。
「いいえ。何もありませんでした」(ルカ二二・三五)。
私たちも、神の民として人生を歩んでいくなら、その終点に立ったとき、「何も足りないものはなかった」と告白することができるのです。
それは、たとえ私たちが荒野のようなところを通過するようなことがあっても、神が私たちに必要な恵みを充分に施してくださるからです。
「荒野で恵みを得た」――なんと素晴らしい言葉でしょうか。
作家の三浦綾子さんが若い頃から何度も病床に伏しながら、輝いて神の恵みを証しするのは、なぜでしょう。それは「荒野で恵みを得た」からではありませんか。
かつて日本がロシアや中国と戦争をしていた時代に、内村鑑三が非戦主義を唱え、国家に弾圧されながらも最後まで希望に燃えて信仰を貫き通せたのは、なぜでしょう。それは「荒野で恵みを得た」からではありませんか。
「荒野で恵みを得た」ことについて語るときに、あの一六世紀のスペインの偉大な宣教師、日本にも来たフランシスコ・ザビエルの生涯を忘れることはできません。
ザビエルの日本での宣教
ザビエルの生家は、非常に裕福でした。彼はザビエル城の若君だったのです。もし彼が、そこでそのまま暮らせば、裕福な安定した生活があったでしょう。
しかし、ザビエルはその富を捨て、自分の一生を東洋宣教にささげました。彼は荒野に出ることを決心したのです――東洋という荒野に。彼の東洋宣教は、じつに困難に次ぐ困難、また苦難の連続でした。
しかし、ザビエルに神の恵みは惜しみなく注がれました。彼はその生涯において、なんと多くの人々をキリストに導いたことでしょう。彼は言っています。
「一人の魂が救われるためならば、私は一千たびの苦難をもいとわない」。
ザビエルの生涯はまさに、自ら荒野に出た生涯だったのです。
伝道者スタンレー・ジョーンズも、こう書いています。
「ある人が私に、どうして霊的生活を続けることができたか、その秘訣を尋ねた。わたしはただ二つのことをすることによってと答えた。
第一は、祈りの時間を守ることによって。私は大学時代にこの習慣を始めた。よく祈るか祈らないかによって、私は良くも悪くもなる。
第二の秘訣は、いつも困難な仕事と戦うこと。私はわざわざそうしている。こうすると、私は神の力に頼らざるを得なくなる」。
彼も、「荒野で恵みを得る」道についてよく知っていました。
人生は、多くの場合、荒野のようです。しかし、大切なのは、そこで神の恵みを得られるかどうかです。もし神の恵みを得られるなら、私たちはたとえ荒野の真ん中であっても、幸福でいることができます。
荒野でも、水のわき出るところはオアシスとなります。私たちも、イエスを信じることによってあの天からの「生ける水」(ヨハ七・三八)を飲んでいるなら、人生は、荒野の真ん中でオアシスとなるでしょう。
神は荒野のような人生においても、
オアシスを与えてくださる。 創元社『聖書物語』より
愛され愛すること
最後に、神が私たちに与えてくださる幸福の第三は、「愛」です。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実をつくし続けた」
と神は言われました。神は永遠の愛をもって、私たちを――あなたを、愛しておられるのです。「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」(ヘブ一三・五)。
かつてイスラエルの王ダビデは、神の愛を思って言いました。
「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに・・・・」(二サム七・一八〜一九)。
ダビデの生涯は、決して順風ばかりではありませんでした。ときには激しい逆風が嵐のように吹きました。しかしそうした中にも、自分に惜しみない神の愛が注がれていることに彼は気づいたのです。
神は、私たちがいったい何者であるというので、これほどに愛を注いでくださるのでしょうか。
ノルウェーの偉大な探検家ナンセンが、あるとき北極付近の海の深さを測ろうとして、長いロープを使いました。ところが海底まで届かないとわかったとき、彼は次のように記録しました。
「これよりもなお深し」。
次の日、ナンセンはもっと長いロープを使いました。しかし、結果は同じでした。何度繰り返しても、彼は「これよりもなお深し」と書かざるを得なかったのです。
ついにナンセンは、その海の深さが何千フィートあるか知らないまま、そこを離れていきました。彼は言いました。
「これは神の愛と同じだ。神の愛はかくも無限でありたもう」。
ナンセンはのちに政治家となり、その功績から、一九二二年にノーベル平和賞を受賞しました。
彼にも、神の愛の深さは測りきることができませんでした。しかし彼は、神の愛に生きることを知ったのです。
神の愛は、人間を大きくするものです。アメリカにおいて南北戦争が終わった時、ストー夫人は『アンクル・トムの小屋』を書いて、奴隷解放のために大きな貢献をしました。
彼女は、リンカーン大統領に招かれて感謝の意をあらわされたとき、大統領にその著書を贈って、そのとびらにこう記しました。
「愛あるところに神あり」。
これは彼女の信念だったのです。愛は神から来ます。私たちは神から愛されていることを知って、人を愛することを知るようになるのです。
神の愛は、この世のすべての慰めにまさるものです。
あるクリスチャンが、重い病気になりました。彼は診察の結果を、ありのままに知らせてくれるように頼みました。医者は慎重かつ綿密に診察してから、
「まことに申しにくいことですが、あなたはあと三か月しか生きられません」
と言いました。するとその病人は、顔を輝かせ、喜びの声をあげて言いました。
「なんと素晴らしいことでしょう。あと三か月すれば神様にお目にかかれるなんて!」
惜しみない神の愛を知っている者にとって、この世のいかなるものも、神の愛には換えがたいものです。
二世紀のスミルナ教会の主教ポリュカルポスは、迫害にあって火刑台にのせられました。そのとき、迫害者の「キリストをのろえ」と言う声に対して、こう言いました。
「生まれてからこのかた八六年間、私はイエス・キリストに仕えてきた。その間キリストは、一度も私をお捨てにならなかった。それなのに、どうして私が救い主をそしることができよう」。
キリストの愛は、私たちを迫害や死の恐怖にも打ち勝たせるものなのです。私たちは、本当の愛によって愛されているとき、真の平安と強さを得ることができます。ある人はこう言っています。
「人は愛されることによって安息し、また愛することによって満足する」。
事実、私たちには、単に愛されることだけでなく、愛することも必要です。本当の愛で愛されていることを知ると、隣り人を本当に愛することもできるようになります。
太平洋戦争の末期に、あるアメリカ軍の捕虜収容所でのことです。そこには日本人兵士も、捕虜となってたくさん捕らえられていました。
現地人はみな日本軍の残虐な行為をよく知っていたので、日本人兵士を見て、彼らをのろいこそすれ、誰一人同情する者はありませんでした。
そんな時、そこにひとりの若いイギリス人女性がたずねてきて、兵士たちのめんどうを見始めました。
そのやさしさに感動したある日本兵は、
「お嬢さん、どうしてそんなにやさしくしてくださるのですか」
と不思議そうに尋ねました。彼女ははじめ語りたがらなかったのですが、やがてぽつりぽつりと、
「わたしの両親は、じつはジャワで日本兵に処刑されたのです・・・・」
と、言いにくそうに語り始めました。
一同はアッとばかりに驚きました。彼女の両親は、ジャワで宣教師をしていたのです。宣教師夫妻は、戦争が始まると侵攻してきた日本軍に、ただちに敵国人として逮捕されました。
日本軍は彼らをスパイとし、死刑判決を下して、刑場に引き出しました。宣教師夫婦は、
「三〇分ほど時間をください」
と願い、聞き入れられると、その時間を祈りに費やしました。その後、二人は日本刀で斬られ、処刑されました。
彼女は後日、自分の両親が死の間際になしたその祈りが、日本の救いのためだったということを知りました。
彼女はそれまで、日本人をひどく恨んでいました。しかし、両親の思いを知ったとき、自分も両親と同じように敵を愛する愛を持ちたいと願ったのです。彼女の日本人への憎悪は、こうして聖なる愛に変わったのでした。
私たちは、真の愛を知るとき、隣り人を真に愛することを知るようになります。幸福は、愛されることの中にだけではなく、愛することの中にあるのです。
燃え尽きない柴のように
以上、三つのことを述べました。神がクリスチャンに与えてくださる幸福は、命(永遠の命)、恵み、愛の三つです。この三つがそろうとき、私たちの生命は躍動し、充実し、永遠になるのです。
もしこれを、"燃焼"にたとえてみれば次のようになります。
「燃焼の三要素」というのをご存知でしょうか。ものが燃え続けるためには、三つのものが必要なのです。それらは可燃物(燃えるもの)、酸素供給体(空気など)、また熱源(点火エネルギーや、燃焼の連鎖反応を保つ熱)の三つです。
たとえば、屋外で石油を燃やす場合でいえば、可燃物は石油であり、酸素供給体は空気です。
しかし、それだけでは石油は燃えません。点火エネルギーが必要です。ライターか何かで点火する必要があるのです。
けれども、一度点火すれば、それでいいということではありません。たとえ火がついても、石油の表面がある一定温度以上に保たれていないと、燃焼が続きません。
ある温度以下に冷やすと、石油の火は消えてしまうのです。このように、連鎖反応を保つための熱源も必要です。
もしこれを、私たちの"生命の燃焼""幸福の燃焼"という観点で考えるなら、可燃物は「命」に相当し、酸素供給体は「恵み」に相当し、熱源は「愛」に相当するでしょう。
生命が燃焼し続け、幸福が燃焼し続けるためには、命、恵み、愛の三要素が必要なのです。
神がお与えくださる生命、また幸福は、ちょうど、かつてイスラエルの指導者モーセがシナイ山で見たあの「燃えているのに焼け尽きない柴」(出エ三・二)に似ています。
モーセは、荒れ果てたシナイ山の上部において、一つの柴が、燃えているのに、いつまでも焼け尽きない姿を見たのでした。それは、神の火によって燃焼していたのです。
神はなぜ、そのような光景を彼にお見せになったのでしょうか。それは神の臨在をあらわすものでした。と同時に、神はモーセに、
「あなたの生命は、これから、この柴のようにいつまでも燃焼し続けるのだ」
とお示しになったのです。
永遠の命は、モーセが見たあの
「燃えているのに焼け尽きない柴」に似ている。
創元社『聖書物語』より
あの「燃えているのに焼け尽きない柴」は、まさに永遠の命というものを、イメージ化しています。それを燃やしている酸素に相当するものは神の「恵み」であり、その燃焼を保っている熱源に相当するものは神の「愛」です。
神は、キリストを救い主と信じる私たちにも、
「あなたの生命は、この柴のように、いつまでも燃焼し続けるのだ」
と示されています。私たちの周囲には、荒野が広がっているかも知れません。しかし、神の命と恵みと愛が、いつまでも私たちのうちで幸福となって燃焼し、光と熱を放ち続けるのです。
久保有政著(レムナント1995年3月号より)
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