信仰に関するメッセージ

願いの生活の変革
どんな願いを持つかで、人生は変わる。


マーチャーシ教会(ポーランド)

 どんな人でも、願いを持っています。その願いは、人によって違うでしょう。人がどのような願いを持っているか、ということで、その"ひととなり"もわかると言えます。
 今月は、主イエスの教えられた有名な「主の祈り」から、"願いの生活の変革"ということについて学んでみましょう。


[聖書テキスト]

 「だからこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与え下さい。
 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい。国と力と栄えとはとこしえにあなたのものだからです。アーメン』」。(マタイ六・九〜一三)


[メッセージ]


なぜ願いばかりなのか

 これは「主の祈り」と呼ばれるもので、キリストの弟子たちが「祈りを教えてください」と言ったのに答えて、キリストが「こう祈りなさい」とお教えになったものです(ルカ一一・二)
 あるクリスチャンは、はじめこの「主の祈り」を読んだとき、この祈りのほとんどが「願い」の言葉であるのに気づき、なぜだろう、と当惑しました。
 その人はじつは常々、自分は神様に対して願うことばかりで、感謝や讃美が足りないと思っていたのです。
 それで、もっと祈りの中で感謝と讃美をささげたいと思っていたのですが、「主の祈り」を読むと、感謝や讃美よりは願いの言葉がほとんどです。これはどういうわけなのだろう、と思っていると、聖霊様が教えてくださいました。
 「人間は願いが変えられると、人間存在全体が変えられるからだ」。
 願い――それは人間の心の中心です。人間の心は、願いによってつくられ、開発され、成長していくのです。
 悪い願いをはぐくむ人は悪い人となり、聖なる願いをはぐくむ人は聖なる人となっていきます。
 もし、願いのない人がいたら、その人は"生ける屍"です。いわば"エンジンのない車"です。願いは人生を動かす原動力なのです。


主の祈り教会(エルサレム)
にある中国語の主の祈り。

 もし私たちが弱い願いしか持たないなら、私たちは周囲に押し流され、一方私たちが強い願いを持つならば、人生を力強く切り開いていけるでしょう。
 また、もし私たちが間違った願いを持つならば、私たちは間違った方向に導かれ、正しい願いを持つならば、正しい人生を歩めるでしょう。
 人間の器の大きさと質は、願いの大きさと質で決まるのです。
 世界は、願いによって動いています。神様ご自身、強い願いの持ち主でいらっしゃいます。
 「万軍の主の熱心がこれをされるのである」(二列王一九・三一)
 と、聖書の中で神様は言われました。神様は熱烈な願いを持って、私たちのために、救いのご計画を押し進めておられるのです。
 私たちも、きよめられた願いを、熱烈に持たなければなりません。もし私たちが宇宙の意志に合致した願いを持つならば、私たちには大きな力が与えられ、人生を力強く切り開いていくことが可能になります。
 宇宙の意志に合致しない願いは、成就することなく、むしろその人に不幸と破滅をもたらします。
 しかし宇宙の意志である神様の意志に合致し、同調する願いを持つ人には、力と幸福と永遠の生命が与えられるのです。
 キリスト教では、「悔改め」とか「回心」とかいうことが言われます。これは結局のところ、人の願いの生活が変えられることです。
 神様のみこころに反することを願っていた生活から、神様のみこころにそった願いをする生活に、変えられることです。
 願いは、人を救いもし、また滅ぼしもします。聖書は、
 「油断することなく、あなたの心を守れ。命の泉は、これから流れ出るからである」(箴言四・二三)
 と言っています。あなたは、今自分が心に持っている願いに、注意しなければなりません。
 あなたの持つ願いが、あなたの人生を決定します。それを建て上げ、あるいは崩します。それを良きものとし、あるいは腐敗させます。
 私たちはどのような願いの生活をすべきでしょうか。イエス様の語られた「主の祈り」は、それを教えています。
 それは私たちの過去をきよめ、現在を力あるものとし、未来を切り開く正しい願いの生活について語っているのです。
 「主の祈り」は、「天にいます私たちの父よ」という呼びかけで始まっています。この祈りで示される願いは、神が父であり、私たちは子であるという関係の中で示されるのです。
 私たちは神様に対して、自分が乞食のようにではなく、子どものように願いを表明すべきなのです。
 乞食は、「下さい、下さい」と言って、あわれみをかけられることを期待して願います。それに対し、子どもはむしろ、自分の夢に基づいて願うのではないでしょうか。また、親への信頼に基づいて願うのではないでしょうか。
 クリスチャンも、子どものように、神様に願いたいものです。神様は自分の子たちのためになると思えば、その願いをかなえてくださいます。
 「主の祈り」は、六つの願いの言葉から成っています。前半は神様に関する願いであり、後半は人間に関する願いです。
 今回は、それらを四つのポイントに集約してお話ししましょう。まず、後半の人間に関する願いからです。


物質に関する正しい願いの生活

 後半の願いは、
 「私たちの日ごとの糧をきょうもお与え下さい」(マタイ六・一一)
 から始まっています。「日ごとの」また「きょうも」という言葉に注意してください。私たちは、日々必要なだけの食物が与えられれば、それで満足すべきなのです。
 イエス様はあるとき、次のような話をされました。
 ある金持ちの畑が豊作でした。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えました。
 「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない」。
 そして言いました。
 「こうしよう。あの倉を取り壊して、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして自分の魂にこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して食べて、飲んで、楽しめ』」。
 しかし神は彼に言われました。
 「愚か者。おまえの魂は今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったい誰のものになるのか」。
 この話をされて、イエス様はさらにこう言われました。
 「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです(ルカ一二・一六〜二一)
 この金持ちの悪かったところは、彼が豊作で得た作物を「たくわえた」ことではありません。
 かつてヤコブの子ヨセフも、エジプトの宰相であったとき、来たるべきききんに備え、豊作で得た作物を国民のために蓄えました(創世四一・四八)。それは良いことです。
 またこの話は、貯金することはいけない、ということでもありません。将来の不安定な時期や必要のために計画的な貯金をすることは、賢明なことです。
 では金持ちの何が問題だったのかというと、彼がそれをただ自分の快楽のために蓄えたことです。
 彼は、これで自分が何年も遊んで暮らせると思い、魂にそう言い聞かせたのです。彼の心には、隣り人や神のことは全く考慮されていませんでした。
 私たちはとかく、「一生食うに困らないお金があったらなあ」と思いがちではないでしょうか。しかしキリストは、「日ごとの糧を今日もお与えください」と祈れ、と言われるのです。
 これは、日々、神様に養われて生きなさい、ということです。日々、神様に頼って生きることこそ、健全な生き方なのです。
 それがもし、一生食うに困らないお金があって、もう働かなくてもずっと食べて行けるようであったら、どうでしょう。
 私たちの多くは、たちまち堕落して、神を忘れ、自分の快楽を追求する生活になってしまうのではないでしょうか。
 よく宝くじが当たって、大金を得たために身をもちくずす人がいるのは、なぜでしょうか。あぶく銭は、私たちにとって大きな危険をはらんだものです。
 もちろん、大金を有効に使える人もいます。しかし大半の人々は、大きな誘惑に陥るのではないでしょうか。
 私たちに必要なのは、「一生食うに困らない金」よりも、むしろ日々の労働と、それに伴う日々の神様からの養いです。そうした中で、私たちは自分のことだけでなく、隣り人をかえりみることをも学ぶべきであると言えるでしょう。


罪からきよめられることを願う生活

 つぎに、「主の祈り」は、
 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」(六・一二〜一三)
 と続いています。「負い目」とは、自分の罪のことです。罪の赦しを願う心が言われているのです。
 ここで、「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」と言われています。つまり、自分に負い目のある人を赦して後に、はじめて神様に対して「私の負い目をお赦しください」と言えるわけです。
 ですから、これは非常に厳粛な言葉です。もし自分が誰かを憎んだりしていれば、この祈りは唱えることができないのです。
 「私たちの負い目をお赦しください」――これは、私たちの過去の罪に関して言われたものです。
 また、「悪からお救いください」――これは、私たちの内に働く罪の力からの解放を願い求めるもので、現在また未来に関するものです。
 きよさへの願い――それを、本当の意味で私たちは持っているでしょうか。
 キリスト教の歴史における最大の教父と言われるアウグスチヌス(四世紀)は、若い頃は放蕩に身をもちくずしていました。しかし彼はやがて、罪には苦みが伴うことを知るようになりました。
 彼は罪の生活から抜け出たいと思うようになりました。しかし、簡単には抜け出せないものです。
 彼の心は、罪の生活にとどまりたいという思いと、抜け出たいという思いで板ばさみになりました。
 けれどもある日、彼が苦悶していたとき、外で子どもの声がして「取りて読め。取りて読め」と聞こえました。
 子どもは何かの歌をうたっていたのかも知れませんが、アウグスチヌスは、その声に導かれるように、聖書を取りました。
 彼は何気なく聖書を開いて、最初に目に入った部分を読むことにしました。彼の目に飛び込んできた言葉は、ローマ人への手紙一三・一二でした。
 「夜はふけて、昼が近づきました。ですから私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはなりません」(一三・一二〜一四)
 この御言葉は、神ご自身からの言葉として、アウグスチヌスの心を刺し通しました。彼はもう、それ以上読む必要を感じませんでした。彼の心はついに、ふっ切れたのです。
 心のうちにあった、モヤモヤした黒雲は去り、さわやかな空気と光が満ちました。彼は立ち上がり、自分が回心したことを、喜びに胸をときめかせながら母に告げに行ったのです。
 アウグスチヌスは以後、二度と放蕩や罪の生活に陥ることがありませんでした。彼は今日、教会史上最もきよい人物の一人として知られています。
 私たちは、御言葉に養われて、きよさへの願い、それも熱烈な願いを持ちたいものです。
 あるクリスチャンは、自分の罪深さにひどく悩んでいました。きよさへの願いを持てばもつほど、自分の罪深さがわかってきたのです。
 きよさへの願いを持たないうちは、自分の罪深さということはわかりませんでした。逆に、きよさへの願いを持つようになって初めて、自分の罪深さがよくわかってきたのです。
 彼はある日、それに苦悶しながら、海辺の砂浜を歩いていました。彼は砂浜に大きく「罪」という文字を書きました。
 するとやがて、大きな白波がやって来て、その文字の上を洗い、また引いていきました。「罪」の文字は、あとかたもなく消えていました。
 その時彼は祈りました。「主よ、私の心もこのようにして下さると信じます」。
 あなたは、きよさへの強い願いを持っているでしょうか。心が清くなくては、神を見ることはできません。
 私たちは、きよい心を持ちたいという強い願いに、目覚めようではありませんか。


神の御名の栄えを願う生活

 つぎに、「主の祈り」前半の、神に関する願いの部分について見てみましょう。まず、
 「御名があがめられますように」(六・九)
 とあります。これが「主の祈り」冒頭の言葉です。これはまた、じつは「主の祈り」の根幹部でもあるのです。
 ヤハウェなる神の御名があがめられますように、と私たちが願うとは、具体的にどういうことでしょうか。
 それは自分の名誉を求めず、神様の栄光が現わされ、神様のみがあがめられることを求める心です。かつて旧約聖書の詩篇の作者は、こう祈りました。
 「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」(詩篇一一五・一)
 以前、ビリー・グラハム博士が日本で大衆伝道会を開催したとき、博士は説教の中でこう言いました。
 「私は、ビリー・グラハムという名を覚えてもらいたいために、みなさんに話すのではありません。その名前は忘れてくださってよいのです。ただイエス・キリストのお名前を、みなさんの心に刻み込んでいただきたいのです」。
 私たちが伝道するとき、私たちはしばしば、ある種の誘惑を受けます。それは、
 「あの人は伝道熱心ですばらしい人だ」
 「あの人は多くの回心者を起こしてきた優れた人だ」
 とか、自分が人々にほめられたいために伝道熱心になることです。
 しかしこの段階では、私たちはまだ本当の愛に目覚めているのではなく、ただ自分の名誉を求めているにすぎないのです。
 あなたは、自分の名誉ではなく、神様の栄光が現わされることを求めているでしょうか。神だけがあがめられることを願って行動しているでしょうか。
 「私の名は忘れ去られてよい。いや忘れ去られたほうがよい。ただ、人々の魂が救われるために私が働くことができ、それが少しでもお役にたって、救われた魂が主の御名をあがめるようになってくれれば、それで私は幸せなのだ」
 というような心境に至っているでしょうか。
 そのような心境になって初めて、私たちは本当に「御名があがめられますように」と祈ることができるのです。
 私たちは神様に栄光を帰すことを、喜びとしようではありませんか。神様があがめられることが、私たちの幸福なのです。
 私たちの名は、忘れ去られてよいのです。ただ神様の御名があがめられて欲しいのです。
 いやしの賜物を持ったキャサリン・クールマン女史が、かつて集会の中で多くの人を病のいやしに導いていたとき、病人がいやされるたびに彼女は「主をほめよ。ハレルヤ」「主があなたをいやしてくださったのです」と何度も何度も、繰り返し会衆に言っていました。
 私たちの伝道の働きは、すべて神様の栄光のためです。いや、伝道だけではありません。私たちの生活、仕事、家庭、交際・・・・すべてが神様の栄光のためです。
 あなたは、この神様の栄光のために、お役に立ちたいと願っているでしょうか。あなたはこれまで、神様の栄光のために働きたいと、熱烈に願ったことがありますか。
 明治時代に内村鑑三や新渡戸稲造らを指導した札幌農学校のクラーク博士は、「少年よ、キリストにあって大志を抱け」と教えました。
 世間では「キリストにあって」をぬかした言葉が有名になっていますが、本当は彼の教えた言葉には「キリストにあって」が入っていたのです。
 実際、クラーク博士の碑銘には"Boys, be ambitious in Christ"と記されています。
 「キリストにあって」とは、"キリストと心を一つにして"ということです。キリストは常に、父なる神様のご栄光のために働かれました。私たちもそのキリストと心を一つにし、父なる神様のご栄光のために大志を抱いて、働こうではありませんか。


愛の実現を願う生活

 最後に、「主の祈り」の残りの願いの言葉は、
 「御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように、地でも行なわれますように」。
 です。この二つの言葉は、一見、別々の祈りに見えます。しかし、じつは同じ祈りなのです。また「主の祈り」の最後に、
 「国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです」
 とあるのも、同じことを言っています。
 「御国」は、みこころが完全に行なわれ、神の支配が完全に行き渡っている場所を意味します。それは究極的には、キリストの再臨の時に来るものです。
 しかし、みこころの行なわれるところには、ある意味で、御国はもうその姿を現わしています。「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」は、「御国が来ますように」という祈りを、さらに具体的に言い換えたものなのです。
 神のみこころは、第一には愛の実現です。人々が心を尽くして神を愛し、また自分と同じように隣り人を愛するようになることです。
 そうした愛が見られるところには、天国はすでにその姿を現わしているのです。愛の満ちているところ――そこはいわば"天国の写し"あるいは"地上天国"または"小天国"と言ってよいでしょう。
 「みこころが地でも行なわれますように」とは、この地上に愛が実現されることを求めるものです。しかしそれは、ただそう願えばいいというものではありません。。
 神様は、そう願う人々を通して、地上に愛を実現しようとなさるのです。人の心に愛の願いが起こされるとき、神様はその人を通して、愛を地上にもたらそうとしておられます。
 インドで貧しい人々のために働いているマザーテレサは、小さいころ貧しい人々を見て、「貧しい人たちをなおす薬はないの?」と父親に質問したそうです。すると父は「お前がその薬を発明してくれるとうれしいね」と言いました。
 しかし彼女は三六歳の時まで、貧しい人々のために特に何かをするわけではありませんでした。
 そのとき、彼女は聖マリヤ高等学校の校長になっていました。生徒たちはみな裕福な家庭の子供たちでした。テレサには地位も名誉もありました。
 けれども、やがて彼女は、自分の生活に物足りなさを感じ始めました。小さいころ貧しい人たちのために何かをしてあげたいと願ったあの願いは、一体どこへ行ってしまったのだろう――そうした疑惑で、彼女の心はかき乱されたのです。
 その後、道が開けて、彼女は貧しい人々のためにフルタイムで働くようになりました。それは、彼女の心の内に貧しい人々への熱烈な願いがあるのをご覧になった神が、その道に彼女を導かれたからです。
 神は、願いを持つ人々を、みこころに従って用いられるのです。
 「神はみこころのままに、あなたがたの内に働いて志しを立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリ二・一三)
 ある人は、大会社の重役をしていましたが、病の苦しみの中で神を知り、クリスチャンになりました。
 彼は神様のために何かをしたい、と願うようになりました。ある日彼は夢を見ました。
 それは多くの人が地獄に向かって行進している夢でした。その中には、彼の親戚や友人の顔もありました。
 彼は悲しみのために、夜中に目が覚めてしまいました。彼はその時祈りました。「主よ、私は彼らのために何ができるでしょうか」。
 数日後、彼はまた夢を見ました。それは彼が人々に伝道して、イエス・キリストの福音を語っている夢でした。その伝道により、少なからぬ人々が救われて、夢の中の川で洗礼を受けました。
 彼は喜びのために目を覚ましました。彼の目と枕は、涙でぬれていました。彼は祈りました。「主よ、みこころなら、私を伝道者にしてください」。
 その道は開かれました。彼は会社を後継者にゆだね、自分は神学校に入って聖書を学び、伝道者になったのです。
 神は、地上に愛を実現するために、必ず人をお用いになります。人を用いずに、事をなさることはありません。
 あなたが神を信じ、クリスチャンになったのは、神のみこころをこの地上に実現し、愛を実現する器となるためです。
 あなたは、神様のそのご期待に添いたいと願いますか。あなたの願いの生活は、今どんなでしょうか。それは、今どこを向いていますか。
 私たちが神様と同じ願いの生活をするとき、私たちは神の器となり、豊かな実をならすことができるのです。
 「万軍の主の熱心がこれをされるのである」。
 あなたも、主の熱心を自分のものとし、聖なる願いに燃え、大志を抱き、神様のために働く者となろうではありませんか。
 
                                 久保有政(レムナント1994年11月号より)

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