聖書にそう書かれていますか
あなたは曲解していませんか
聖書は、世界のベストセラーです。
聖書は他のどんな本よりも、世界中の多くの人に多大な影響を及ぼしてきました。
しかし聖書が読まれ、聖書の思想や教えが人々に語り継がれていった過程で、その内容が、必ずしも正しく言い伝えられてきたとは限りません。
なかには、聖書に対する曲解のために、聖書にない言説であるにもかかわらず、聖書に由来していると、誤って言い伝えられてきたものもあります。
それらの言説には、例えばどのようなものがあるでしょうか。
聖書にはこう書かれていますか?
「太陽は地球のまわりを回っている」
聖書は、「地球が止まっていて、太陽が地球のまわりを回っている」という天動説を唱えていると、誤って理解している人は少なくありません。しかし実際は、聖書の中に、天動説的な言葉は一切ありません。
聖書の創世記一章の記述は、主に地球に視点を置いて書かれていますが、それは聖書が、宇宙の中心は地球であると述べているということではありません。
私たちも日常生活の中で、
「太陽が東から上り、西に沈んだ」
というような表現をします。だからと言って私たちは、もちろん地球が止まっていて、太陽がそのまわりを回っているとは考えていません。
私たちがそのような表現をするのは、私たちの生活の座が地球にあり、地球という見地から物事を表現するからです。同様に聖書にも、
「日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように」(詩篇一一三・三)
というような言葉がありますが、これも地球という見地から、物事を表現しているからにほかなりません。
聖書の中には、"地球は止まっていて太陽がそのまわりをまわっている"と主張する天動説的な言葉は、どこにもないのです。
また、そのことに加え、地動説を最初に唱え最初に科学的に裏づけた人々が、聖書を信じるクリスチャンの科学者たちであったという事実に、私たちは目を向けるべきです。
天動説は中世においては、権威ある立派な科学上の学説として見られていました。それは二世紀の天文学者プトレマイオスによって体系化されて以来、約一四〇〇年もの間、人々を支配していました。
彼の天動説は、非常に精巧な理論で、長い間正統的な理論として受け入れられていました。
しかしこの複雑な理論では、観測される運動を説明するのに八〇もの「周天円」を必要とし、それでも完全には説明できないことに着目したのが、コペルニクスでした。
フラウエンブルク聖堂の司教でありクリスチャンであったコペルニクスは、聖堂の天文台で観測を続けました。彼は、
「すべてを完全になしうる神が、そんな不細工な宇宙を造るなどとは考えられなかった」(岩波新書『近代科学の歩み」二九頁)
のです。こうして、天動説の間違いを知った彼は、地動説を提唱し、その考えは後に、ガリレイやケプラーへ引き継がれました。
ガリレイが望遠鏡を発明して、地動説の正しさを裏付けたとき、当時のカトリック教会が彼を迫害したことは有名です。
しかしそのために、聖書は天動説であると思っている人は多いようですが、これは当時の教会がプトレマイオスの天動説を鵜呑みにしていたからで、天動説は決して聖書の主張していることではありませんでした。
ですからガリレイ自身も、決して聖書の教えそれ自体に反対したわけではありません。事実彼は、大公妃クリスティナと友人カステリ宛てに、自分の地動説が聖書の教えに矛盾しないことを説明する手紙を送っています。
また地動説に基づき、惑星公転の法則を発見したケプラーは、その法則を発見したとき、創造者の偉大さに触れた思いがして、感きわまり、ひざまずいて神を讃えたと伝えられています。
このように地動説は、聖書を信じるクリスチャンたちの手によって確立されたのです。
彼らは、自分たちの地動説が聖書に矛盾しないと考えました。むしろ地動説は、様々の科学的証拠、および聖書の記述の双方に合致するものであることを、知っていたのです。
聖書にはこう書かれていますか?
「金銭は諸悪の根源」
聖書のどこを探しても、このような言葉を見い出すことはできません。では、これに類似した言葉は、あるでしょうか。聖書には、
「金銭を愛することは、すべての悪の根である」(一テモ六・一〇)
との言葉がありますが、この二つの表現の間には、明らかに大きな違いがあります。
聖書は、「金銭」そのものが悪の根であるとは述べていません。悪の根となるのは、金銭に対する「愛」(フィリア)、すなわち金銭や富に対する欲望、ないしは執着心です。
もし自分の欲のために金銭を多く得ることが、生活の中で何にも換えがたい思いとなるなら、そこには悪巧みや、ごまかし、盗み、殺人等を含め、あらゆる悪の根が伸びています。
しかし、金銭それ自体が悪いわけではありません。金銭は使い方によっては、良い目的を実現させ、また愛や善の行ないを媒介するものとなります。
聖書が禁じているのは、自分の欲望を充たすために富もうとすることです。イエス・キリストが言われたように、私たちは、
「自分のために・・・・地上に宝をたくわえてはならない」(マタ六・一九)
のです。
けれども、自分の欲のためでなく、例えば貧しい人々、虐げられた人々、病気や悲しみの中にある人々に対して、援助の手をさしのべるために資金を得ることなどは、聖書の禁じていることではなく、むしろ奨励していることです。
大切なのは、金銭に生きることではなく、金銭を生かすことです。あるいはまた、金銭を愛するのではなく、愛のために金銭を用いることこそ大切なのだ、と言ってよいでしょう。
聖書にはこう書かれていますか?
「神は黒人をのろわれた」
この言葉は、奴隷売買や、黒人に対する差別を正当化する口実として、しばしば引き合いに出されてきました。
どうして、こんなことになったのでしょうか。こんな言葉が、はたして聖書にあるのでしょうか。
いいえ、ありません。聖書の創世記九章に、ノアの息子ハムから「カナン」という息子が生まれ、ノアが、
「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」(創世九・二五)
という言葉を告げるところがあります。この言葉のとおり、カナン人は後にイスラエル人によって征服され、それ以後も様々の世界強国の支配下に置かれました。
しかしこの成就は、黒人と何らかの関係があるでしょうか。
何の関係もありません。どうして、そう言えるでしょうか。
カナンの子孫は、いずれも黒人ではなかったからです。アフリカに定住し、「黒人」と呼ばれる人々の先祖となったのは、ハムの別の息子クシやプテでした。
聖書は、カナン以外のこれらの息子やその子孫が、神によってのろわれたとは述べていません。
このように聖書は、黒人が神にのろわれているとも、これまでにのろったことがあるとも述べていません。それにもかかわらず、黒人を差別するために、不当にも聖書の言葉が利用されてきたのです。
以上見てきたように、聖書にないものであるにもかかわらず聖書に由来していると、誤って言い伝えられてきた言説が少なくありません。
ですから、風聞を鵜呑みにして間違った考えを持たないためにも、普段から自分で聖書を読んで、聖書の教えに通じていることは本当に大切なことだと言えましょう。
聖書に精通していれば、どんな時でも惑わされることはないのです。
久保有政著(レムナント1994年8月号より)
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