信仰に関するメッセージ

人を幸福にし自分も幸福になる
隣り人を幸福にすることによって、
自分も幸福になる。


 人はだれでも、幸福になりたいと願い、その方法を考えています。
 ある人々は、しばしば自分だけで幸福になろうとしています。自分の幸福だけを考え、隣り人の幸福は考えません。
 しかし、そのために隣り人を幸福にできず、またかえって自分を幸福にすることもできないでいます。
 自分の幸福は、隣り人をも幸福にすることなしにはあり得ないことに、気づいていない人は少なくありません。しかし、人は自分だけで幸福になることはできないのです。
 隣り人が不幸な状況にあるとき、どうして自分だけが幸福でいることができるでしょう。人を幸福にしようとすることは、むしろ、自分が幸福になるための近道でもあるのです。
 クリスチャンの生き方は、自分だけの幸福を追求するものではなく、隣り人を幸福にし、かつ自分も幸福になろうとする生き方です。
 今月は、そのことを聖書から学びましょう。テキストは、新約聖書・ヨハネの福音書四章の「サマリヤの女」の記事です。


女性に話しかけたイエス様

 ある日、イエス様は「サマリヤの地」をお通りになりました。サマリヤというのは、昔、「北王国イスラエル」のあった地です。
 昔、イスラエルの国は紀元前一〇世紀に統一王国イスラエルが分裂すると、「北王国イスラエル」と「南王国ユダ」とになりました。
 そののち紀元前八世紀になって、北王国イスラエルの主だった人々はアッシリヤ帝国によって捕囚となり、連れ去られました。
 しかし、サマリヤの地に残された人々もいました。彼らはイエス様の時代にも、そこで生活を営んでいました。
 ただサマリヤの人々は、多くが異邦人と雑婚をし、またヤハウェの神を信じながら偶像も拝む、というような状態でしたから、一般にユダヤ人はサマリヤの人々と交わりを持っていませんでした。
 さて、イエス様はある日、このサマリヤにおいて、スカルという町に来られました。イエス様は井戸のかたわらに腰をおろし、旅の疲れをいやしておられました。
 じつは、それはまた一人の女性に出会うためでもあったのです。このとき弟子たちは、町へ買い物に出かけていて、イエス様はおひとりでした。
 まもなく、一人のサマリヤ人の女性が、そこに水をくみにやって来ました。
 イエス様はそのとき、ちょうどのどが渇いておられました。しかし井戸は三〇メートル以上もの深さがあるので、汲み上げるものを持っていなければ、誰も水を飲むことはできません。
 ユダヤでは、のどの渇いた旅行者に水をあげることは、ごく当然の親切として日常的に行なわれていました。
 ですからこの場面は、その女性に話しかけて個人伝道をする良いチャンスです。イエス様は、
 「水を飲ませてください」
 と言って彼女に話しかけられました。
 しかしここで私たちは、ラビ、すなわちユダヤ教の指導者たちは当時、公の場で女性に挨拶すらしなかった、ということを思い起こす必要があるでしょう。
 ラビはたとえ自分の妻や娘や姉妹であっても、公の場では決して女性に話しかけなかったのです。
 もし、一対一で女性と話しているのを誰かに見られれば、それはラビにとって名声の破滅を意味しました。ところがイエス様は、気軽に女性に話しかけられたのです。
 あとで弟子たちがそこに帰ってきたとき、弟子たちはイエス様が女性と話しておられるのを見て驚いた、と記されています(ヨハ四・二七)。これも、当時の状況からすれば当然だったのです。


弟子たちは、キリストが女性と
話しているのを見て驚いた。

 しかも、イエス様が話しかけたこの女性は、ユダヤ人がふだん交際しないサマリヤ人でした。さらには、五度も離婚歴のある札つきの女性だったのです。
 当時のユダヤ人の常識からすれば、ラビだけでなく、たしなみのある者なら誰でも、このような女性と一緒にいて言葉を交わしている光景は、見られたくなかったでしょう。
 しかし、イエス様は彼女に話しかけられました。つまりヨハネ四章のこの記事は、当時のユダヤ人にとっては、全く驚くべき物語でした。それは、イエス様の革命的な生き方の一つを、あらわしたものだったのです。


人を幸福にして自分も幸福感に満たされたイエス様

 イエス様が、「水を飲ませてください」と頼むと、サマリヤの女は驚いてこう言いました。
 「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤ人の私に、飲み水をお求めになるのですか」。
 こうして会話が始められ、彼女に個人伝道するきっかけをつかむことができました。ときは、昼の正午頃でした(ユダヤ時間六時頃 ヨハ四・六)


キリストは、機会をとらえては個人伝道された。

 普通、サマリヤでもユダヤでも、真昼は炎天下で暑いので、水汲みは朝するものでした。
 しかし、彼女はきっと、人目を避けたかったのでしょう。彼女はあまり人のいない真昼頃、水を汲みにやって来たのです。
 イエス様は彼女の日頃の内なる苦悩を、よくご存知でした。それで言われました。
 「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者が誰であるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたでしょう。そしてその人(イエス)は、あなたに生ける水を与えたでしょう」。
 イエス様はまず彼女に、暗示的な言葉を語られたのです。これを聞いて、不思議なことを言われるかただと思った彼女は、こう質問しました。
 「先生、あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか」。
 しかし、もちろんイエス様が言われた「生ける水」とは、物質的な水のことではありません。
 イエス様は、物質的な水をきっかけとして、永遠の命、また神の霊という、霊的な生ける水のことを話されたのです。続けて、イエス様は説明されました。
 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命への水がわき出ます」。
 彼女は言いました。
 「その水を私にください」。
 するとイエス様は彼女を見つめ、
 「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」
 と言われました。イエス様は、彼女に今は夫がいないことをご存知でしたが、彼女を試してこう言われたのです。彼女は、
 「私には夫はありません」
 と言いました。
 「私には夫がない、というのはもっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです」
 ――そう言ってイエス様は、初対面の彼女の身の上を、正確に言い当てられました。彼女は、五度も結婚・離婚を繰り返していたのです。これは彼女が、なかなか幸福をつかめなかったことを示しています。
 彼女の人生は、じつに「飲んでは渇き、飲んでは渇き・・・・」という人生でした。
 五度も結婚したのですから、彼女はきっと魅力的な女性だったでしょう。また、五度の結婚をするには、経済的にもある程度の蓄えを持った人だったかも知れません。しかし彼女は、永続的な幸福をつかめませんでした。
 イエス様は、肉体の疲れをおぼえてその井戸にやって来ましたが、彼女は魂の疲れをおぼえて、そこにやって来ました。
 彼女はイエス様に肉体的な疲れをいやす水をさし出し、一方イエス様は彼女に、魂を永遠にいやす命の水をお与えになりました。


キリストとサマリヤの女が会話を交わした
「ヤコブの井戸」は、現存する。

 彼女は、イエス様の語る御教えに深く耳を傾け、イエス様を信じるようになったのです。
 数時間後、弟子たちがそこに戻ってきました。弟子たちは、買ってきた昼ご飯をイエス様に差し出して、
 「先生、召し上がってください」
 と言いました。ところが、イエス様はおなかをすかしておられるはずなのに、なかなか食べ物に手をつけようとされません。
 非常に幸せな思いにあるときには何も口に入らない、といった経験が、みなさんにもないでしょうか。イエス様は、弟子たちに言われました。
 「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。・・・・わたしを遣わしたかたのみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」。
 つまりイエス様は、こう言われたのです。
 "わたしは今、天のお父様のみこころを成しました。一人の失なわれた人が、神のもとに立ち返ったのです。それでわたしは、その幸福感で胸が一杯で、今は何も食べられないのです"
 ここにイエス様の、ほのぼのとした愛のお心を、感じないでしょうか。イエス様は、ひとりの隣り人を幸福になさいました。それでご自身が、ますます幸福になられたのです。
 一方、イエス様を信じて幸福を得たサマリヤの女は、そのことを非常な喜びをもって町の人々にあかしする(体験を話す)ようになりました。
 今まで五度の離婚歴があることで、人前に出ることをも避けていた女性です。その彼女が、急に明るくなって、自分の体験を皆に語り始めたのです。
 彼女の語ったあかしにより、やがて、
 「その町の多くの人が・・・・イエスを信じた」(ヨハ四・三九)
 と聖書は記しています。自分が幸福になった彼女は、さらに隣り人を幸福にすることの幸福を、知りました。こうして幸福の連鎖反応は、次々に続いて行ったのです。


幸福をつかんだ彼女は、町の人々に
伝道して隣り人をも幸福にした。

 ちょうど、水の上に石を投げると、水面に波紋が広がっていくように、愛を人の心に投げると、それは周囲に大きな影響を与えていきます。
 私たちは、隣り人を幸福にすることによって自分も幸福になる、ということを知らなければなりません。いやむしろ、幸福は隣り人を幸福にすることなしには、決してあり得ないのです。
 だからこそ聖書は、
 「あなたの隣り人を、自分を愛するように愛しなさい」
 と教えています。これは、自分と同じように隣り人を幸福にしなさい、ということなのです。そうすることによって、自分も幸福になるからです。
 そこで、隣り人を幸福にし、かつ自分も幸福になる三つの方法について、お話ししましょう。


1 人に理解を示せ

 まず、人に理解を示せ、ということです。
 このサマリヤの女は、離婚に対して厳しい考え方を持つユダヤ社会において、ひとりの"落ちこぼれ"的人間でした。
 また、夫でない男性と同棲していた彼女は、おそらく多くの人々に"ふしだらな女"と思われていたでしょう。
 しかしイエス様は、彼女を罪の女として断罪するのではなく、むしろ彼女に対して理解をお示しになりました。
 「完全なる理解は愛の別名である」
 と言った人がいますが、愛は隣り人を理解するのです。愛は断罪しません。
 ここで、一人の死刑囚のお話をしましょう。彼は恨みのために人を殺してしまい、死刑の判決を受け、監獄に入れられていました。もはや何の望みもなく、ただ死を待つだけの身となっていたのです。
 彼の両親や兄弟の家は、死刑囚を出した家ということで、世間の冷たい目にさらされ、引っ越したり、名前を変えたりしなければなりませんでした。両親や兄弟の口からは、
 「なぜお前は、こんなことをしてしまったのか」
 という彼を責める言葉しか出ませんでした。
 しかし彼の兄弟の中に、ただ一人、クリスチャンがいました。姉がクリスチャンだったのです。
 彼女は監獄に行って彼と会い、彼にキリストの福音を伝道しました。そのときのことを、彼は手記にこう記しています。
 「私は、きっとキツイ意見を聞くものと、覚悟を決めていました。ところが姉は、自己の信じるキリストの教えを、じゅんじゅんと語るのみでした。
 私の犯した罪に対して責めないのみか、一言も触れませんでした。私の犯行を知らない者のように、ただ御教えを説き聞かせるのでした。
 私はそのとき、姉の語るキリストの教えにもまして、重罪人の弟を持った悲しみを顔にも出さず、多忙な身で熱い愛情を注ぎ続ける、姉の真心に打たれました。
 検事の前で、臆することなく信仰の道を語り続ける姉の勇気に驚きました。信仰に生きる者の、何事にも動ぜぬたくましい魂を、姉に見ることができたのであります。
 私は、かよわい姉を、このように強い者に育てたキリスト教に対して驚異を感じ、心ひかれるようになりました。そして私は、別れを告げて検事室を出ようとする姉に、追いすがるようにして、
 『姉さん、私も早く聖書を読んでみたい!』
 と言ったのです・・・・」。
 彼は、こののちクリスチャンになりました。彼はやがて模範囚となり、刑の執行を七年延ばされ、そのあいだに数十人の囚人をキリストに導きました。
 そして喜びと平安のうちに天の父のみもとに帰ったのです。
 もしあの検事室で、姉が彼を責めていたら、彼はクリスチャンにならなかったかも知れません。彼に対する姉の愛の理解が、彼を神への回心に導いたのです。


2 己に対するごとく人にもせよ

 人を幸福にし、かつ自分も幸福になる第二の方法は、何事も己に対してするごとく人にもせよ、ということです。
 あなたは、自分にして欲しくないことは、人にもしてはいけません。あなたは、中傷、悪口、陰口などを誰かにしてほしいと思うでしょうか。誰でも、そのようなことはして欲しくないでしょう。
 そうならば、あなたもしてはいけません。あなたの口から出すもの、行為に出すものは、やがて必ずあなたのもとへ帰ってくるのです。
 またイエス様は、
 「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい(マタ七・一二)
 とお教えになりました。自分にしてほしくないことをしないだけでなく、積極的に、自分にしてほしいことを人にも行なうのです。
 あなたは罪を犯したとき、赦してもらいたいと思いますか。そうなら、あなたも人を赦すべきでしょう。
 「さばいてはいけません。そうすれば自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば自分も赦されます」(ルカ六・三七)
 と主イエスはお教えになりました。
 あなたはまた、人に良くしてもらいたい、と思いますか。そうなら、自分から人々に良くしてあげることです。
 「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう」(同六・三八)
 幸福は分け与えると、増えるものなのです。また逆に、幸福は自分のところだけにとどめておくと、どんどん減ってしまいます。
 アンドリュー・カーネギーという人は、アメリカで巨万の富を形成した大富豪でしたが、キリストの教えにならい、壮年のとき自分の財産のすべてを人々のために投げだしました。
 彼は財団を形成して、多くの公共事業、福祉事業、慈善事業、学術事業等の推進をはかりました。
 これによって彼は、巨万の富は失いましたが、人々から計り知れないほど大きな感謝を得ました。彼は天に宝を積み、地上では人々の感謝を得たのです。
 彼の行為は人に覚えられ、神にも覚えられているでしょう。そして彼は、幸福な老後を送りました。彼は自分にしてほしいと思うことを、人にもその通りにしたのです。


3 真の礼拝を教えよ

 最後に、人を幸福にし、かつ自分も幸福になる第三の方法は、あなたの隣り人に真の礼拝を教えよ、ということです。
 イエス様はあのサマリヤの女に、真の礼拝についてお語りになりました。彼女にこう言われたのです。
 「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハ四・二四)
 神との健全な関係は、人の幸福の根本です。それなくして、人の真の幸福はあり得ません。
 多くの人は、欲と不安とによって、様々の宗教を信奉しています。たとえば、御利益宗教は、人々の欲に働きかけて信者を獲得しています。その信者は、欲によって宗教を信奉しているのです。
 また、人々の不安につけこんで信者を獲得している宗教もあります。
 「これを買って祭らないと、たたりがある」
 そう言って、高価な壷を売りつけたりするのです。また、教団を出たり信仰を捨てたりすると、たたりにあう、と言っておどす宗教団体もあります。
 しかし私たちは、こうした欲と不安によって宗教を信奉している人々を、その欲と不安から解放し、霊とまこととをもって神を礼拝することを教えてあげなければなりません。
 神は霊であり、天地の創造者であり、私たちの魂の親です。そのかたを、私たちは霊とまこととをもって礼拝すべきです。
 霊の奥底からわきあがる愛と、喜びと、信頼と、真摯な従順とによって、神を礼拝すべきなのです。
 私たちが神を礼拝するのは、私たちの欲の実現のためでも、また何かの不安にかられてでもありません。
 神が世界の創造者であり、私たちの創造者であり、またその神が私たちを愛しておられるからです。私たちは礼拝を通して、愛なる神と交わるのです。
 神は、私たちを罪と滅びから救うために、救い主イエス・キリストを世に遣わされました。私たちはイエス・キリストを通し、その霊とまことによって、神に礼拝をささげます。
 あのサマリヤの女は、この真の礼拝を知って、喜びに満たされ、それを人々にあかしせずにはいられませんでした。この記事を読んでいるすべてのクリスチャンも、そうでしょう。
 神との関係が回復すると、人は真の安息と幸福を得るのです。


キリストとサマリヤの女(6世紀 ラヴェンナ)

 人を幸福にし、かつ自分も幸福になる方法として、「人に理解を示せ」「己に対するごとく人にもせよ」「真の礼拝を教えよ」の三つを語りました。私たちは、少なくともこれらのことを、サマリヤの女の記事から学ぶことができます。
 あなたはさらに、具体的にどのようにして今あなたの隣り人である人々を幸福にし、かつ自分も幸福になれるでしょうか。
 それを、どうぞ祈りの中で具体的に示されるよう、求めていってください。       

                                 久保有政(レムナント1994年7月号より)

キリスト教読み物サイトの「信仰に関するメッセージ」へ戻る

感想、学んだこと、主の恵みを掲示板で分かち合う

レムナント出版トップページへ 関連書籍を購入する