イエスの復活体の秘密
それはどんな体だったか
イエスの墓が空であるのを見てとった弟子ペテロとヨハネ。
イエス・キリストの復活に関する福音書の記事を読んでみると、一見、矛盾と見えることが記されています。
たとえばマタイ福音書では、墓へ行った女たちは一人の天使に出会った、と記されています。
ところがルカ福音書では、女たちが出会ったのは二人の天使であった、とされています。これは矛盾でしょうか。
ある人は、復活の記事に食い違いと思える事柄があるのは、復活はあまりに劇的なことだったため、弟子たちの記憶が混乱したからだ、と言っています。
しかし、福音書を総合的によく調べてみると、これは矛盾でも食い違いでもないと思われます。聖書学者は、キリストの復活後の出来事は実際には次のような順序で起こった、と考えています。
イエス復活後の出来事の順序
週の初めの日、すなわち日曜日の朝早く、二組の敬虔なガリラヤの女たちが、イエスに最後の油を塗ろうとして、墓に行きました。
第一組はマグダラのマリヤと、ヤコブの母マリヤ、サロメ。第二組は、ヨハンナと他の女たちであったと思われます(マコ一六・一、ルカ二四・一〇)。
第一組の女たちは、墓へ着くと、墓石が取りのけられてありました。それを見たマグダラのマリヤは、主イエスの体が盗まれたのだと思い、すぐさまペテロやヨハネにそれを知らせに戻りました(ヨハ二〇・一〜二)。
残りの女たちは、墓の中に入りました。すると、一人の天使から復活の事実を知らされました。彼女らはまた、弟子たちへのメッセージを、天使から託されました(マタ二八・一〜七、マコ一六・一〜七)。
天使は女たちに、イエスの復活を告げた。
彼女らは、急いで帰る途中、第二組の女たちに会いました。そこで、皆はもう一度墓へ戻りました。
彼女らは、今度は二人の天使から、もう一度復活のより強い保証と、指示を受けました(ルカ二四・一〜八)。その後、町へ急ぎましたが、その途上でイエスが彼女らに姿を現わされました(マタ二八・九〜一〇)。
その間に、マグダラのマリヤの知らせを受けたペテロとヨハネは、墓に走って行きました。二人は、空になった墓を見ました(ヨハ二〇・三〜一〇)。
マグダラのマリヤは、遅れて墓に着きました。彼女は、ペテロとヨハネが園を出てからも、そこに残りました。イエスは彼女に、ご自身を現わされました(ヨハ二〇・一一〜一八)。
一方、町へ向かっていた女たちは、他の弟子たちのところに着くと、彼らに一部始終を伝えました。しかし弟子たちは、彼女らの言うことをたわごとのように思い、信じませんでした。
イエスは、さらにその日、ペテロに現われ(ルカ二四・三四、一コリ一五・五)、またエマオ途上の二人の弟子に現われました(ルカ二四・一三〜三五、マコ一六・一二〜一三)。
その夕には、トマスを除いたほかの弟子たちにも現われました(ルカ二四・三六〜四三、ヨハ二〇・一九〜二三)。イエスは、彼らの前で食事をし、体の復活の事実を証明されました。しかしその場にいなかったトマスは、イエスの復活を信じませんでした。
弟子たちは、なおもしばらくエルサレムにとどまっていました。
次の日曜日になって、イエスは再び弟子たちに現われました。イエスは、疑っていたトマスに対しても、ご自身の復活の事実を証明されました(ヨハ二〇・二四〜二九)。トマスは「わが主よ、わが神よ」と言って、イエスの前にひざまずきました。
その後、十一弟子たちは、ガリラヤ地方に帰りました。イエスは、ガリラヤ湖で漁をしていた七弟子に現われました。
すなわちペテロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、それにもう二人の弟子です(ヨハ二一・二)。
イエスはさらに、あらかじめ弟子たちに山に登るように指示し、そこで彼らに会われました。彼らに「大宣教命令」を与え、ご自身の永遠の力と、臨在を確約されました(マタ二八・一六〜二〇)。
このときは、五〇〇人以上の弟子が、そこに集まっていたようです(一コリ一五・六)。
その直後にも、場所は不明ですが、ヤコブにも現われました(一コリ一五・七)。
イエスは最後に、弟子たちを再びエルサレムに伴い行き、ベタニヤに面するオリブ山に導かれました(ルカ二四・五〇〜五一)。
そこでイエスは天に上げられ、雲が彼をおおい、見えなくなられました(使徒一・九〜一二)。これは復活の四〇日後のことでした。
イエスは見えずとも共におられるという真理を弟子たちに教えられた
このように主イエスは、復活から昇天までの四〇日間、たびたび弟子たちに姿を現わされました。
しかし、もはや十字架以前のように、弟子たちと常に寝食を共にされたわけではありません。時々彼らに会われ、しばしば共に行動されただけでした。
これは、この四〇日間が昇天以後の時代のための準備期間であり、訓練期間だったからです。
昇天以後は、イエスは完全に見えなくなられます。見えないが弟子たちと共におられる、という状態になられるのです。
そこでイエスは、復活後の四〇日間において、弟子たちにしばしば姿を現わし、しばしば姿を隠す、ということを繰り返されました。
そして、たとえ見えずとも共におられる、という真理を弟子たちに教えようとされたのです。
たとえば、復活の日にイエスが弟子たちのいる部屋に来られた時、トマスはそこにおらず、トマスは、
「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(ヨハ二〇・二五)
と言いました。
そして八日後(ユダヤでは最初の日を入れて数えるので、これは一週間後の日曜日)、部屋にイエスが再び現われ、トマスに対して言われました。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハ二〇・二七)。
これは、イエスが八日前のトマスの言葉を知っておられた、ということです。八日前、トマスがあの言葉を語ったとき、イエスは見えずともそこにおられたのです。
イエスは、トマスが話した言葉を知っておられた。
こうしてイエスは、見えずとも弟子たちと共におられる、という真理を弟子たちに教え諭されたのです。
また別の時、イエスはエマオへの途上にいた二人の弟子に、「別の姿で」(マコ一六・一二)ご自分を現わされました。ルカ福音書はこの時のことについて、
「二人の目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」(ルカ二四・一六)
とも記しています。イエスは、彼ら二人の弟子としばらく共に行かれ、
「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに説き明かされ」(ルカ二四・二七)
ました。
夕食の時、イエスはパンを取り、祝福してこれを裂き、彼らに渡されました。そのときです。
「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。すると、イエスは彼らには見えなくなった」(ルカ二四・三一)
のです。イエスはなぜ、はじめ「別の姿で」、彼らにご自分を現わされたのでしょうか。そしてなぜ、聖書からご自分について説き明かされたのでしょうか。
それは、弟子たちが、肉眼で見ることによってではなく、聖書の文言によってイエスを理解するよう訓練するためでした。
イエスはやがて、昇天して肉眼では見えなくなろうとしていました。しかし、たとえ見えなくても、常にイエスは共におられるのだということ、そして私たちは、肉眼で見ることによってではなく、聖書の文言によってイエスを理解すべきことを、弟子たちに諭されたのです。
主イエスは、いまは昇天して、父なる神と共に天におられます。それは私たちが地上のどこにいようと、ご自身が聖霊によって私たちと共にいることができるためです。
私たちは今日、イエスを肉眼で見ることはできません。しかしイエスは、たとえ見えなくても、常にあなたと共におられます。
そして私たちは、イエスについて、聖書を通して理解すべきなのです。
イエスの復活体の秘密
つぎに、イエスの復活体について考えてみましょう。イエスの復活体は、どんな体だったのでしょうか。
ある人は、イエスの復活体は幽霊のようなものだった、と言っています。あるいは、人間は肉体と「霊人体」(幽体)から成っている存在で、弟子たちはその霊人体を見たのだ、と言う人もいます。
しかし、これは聖書が否定しています。こう記されています。
「・・・・これらのことを(弟子たちが)話している間に、イエスご自身が、彼らの真ん中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。するとイエスは言われた。
『なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手や、わたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊なら、こんな肉や骨はありません。わたしは持っています』。
それでも彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、
『ここに何か食べ物がありますか』
と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは彼らの前でそれを取って、召し上がった」(ルカ二四・三六〜四三)。
魚を食べることは、幽霊や、霊人体や、幽体にはできません。イエスはこうして、ご自分の復活が霊的なものにすぎないという人々の考えを否定し、それが真に体の復活であったと、証明されたのです。
イエスの復活後の体は、明らかに、十字架の死以前のご自身の肉体と、強い連続性を持っていました。とはいえ、それは以前と全く同じ肉体ではありませんでした。
イエスの復活体は、以前の肉体との間に、連続性と、相違性の双方を兼ね備えていました。
たとえば、イエスの復活体は、閉め切って鍵をかけられた部屋にもスーッと入れる体でした。
「弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、『平安があなたがたにあるように』と言われた」(ヨハ二〇・一九)。
この「戸が閉じられていた」は、新改訳聖書・欄外注にも言われているように、原語では「鍵をかけられていた」と訳せる言葉です。
また、イエスがエマオの途上の二人の弟子にご自身を現わされたとき、夕食中に弟子たちの目が開かれて、それがイエスだとわかると、イエスは、
「彼らには見えなくなった」
と記されています(ルカ二四・三一)。
これはイエスの御体が、すでに天界と地上界を自由に行き来できる体になっていたことを、示しています。
イエスは、エマオへの途上にあった二人の弟子たちと共に
歩かれた。このとき弟子たちの目はさえぎられており、
それがイエスだとわからなかった。イエスは彼らに、
聖書からご自身のことを説き明かされた。
イエスは、幽霊のようにではなく、実際に肉体を持ちながら天界と地上界を行き来することが、おできになりました。
そして、ある時は肉眼に見える姿でご自身を現わされ、ある時はご自身を見えない状態にされたのです。
これは、イエスの復活後の肉体が、以前の肉体とは本質的に異なった性質を帯びていた、ということでもあります。イエスの肉体はすでに栄化され、神の国の秩序に適合する体と変えられていたのです。
この点でイエスの復活は、ラザロの復活や、ナインの息子、ヤイロの娘の復活などとは根本的に異なっています。
イエスは上げられ、見えなくなられた。
イエスの御体は、天界と地上界を
行き来できる体なのである。
ラザロたちは、以前と同じ肉体に復活しました。それは「復活」というよりは、「蘇生」といったほうが良いかもしれません。そして彼らは、いずれまた死んだのです。
しかしイエスは、"永遠の命の体"に復活されました。それはもはや朽ちることのない、死のない体なのです。
イエスはいまも復活体をもって天におられる
さらにイエスの復活体は、天界に入り、父なる神の右の座にあげられた後は、まばゆい光を放つものとなりました。使徒パウロは、ダマスコへ行くあの途上で、その光を見ました。
「道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、
『サウロ(パウロ)、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』
という声を聞いた」(使徒九・三〜四)。
イエスの復活体は、神の右の座への高挙の後、天国でまばゆい光を放つようになりました。パウロは、それをかいま見たのです。
イエスは、復活後、天に帰られてのちも、体であることをやめてはいません。弟子ステパノは、殉教の時、天におけるイエスのその姿を見ました(使徒七・五六)。
イエスはいまも、復活体を持ったまま、天におられるのです。
私たちの肉体は、そのままでは天国にはいれません。私たちは、肉体を脱がなければ、天国に入れません。
しかし、イエスの復活体は、そのままで天国にいることのできる体です。それは、天国の秩序に適合する体なのです。
私たちはイエスの復活体を思うとき、それは漠然とした形のものではなく、むしろ非常に具体的な形と特長を持った体である、と知ります。
私たちクリスチャンは、世の終わりの復活の際に新しい体を与えられますが、それも、非常に具体的な形と特長を持つものとなるでしょう。
私たちは復活の時、イエスの体に似た体を与えられるのです。
「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ姿に変えてくださるのです」(ピリ三・二一)。
その日私たちは、朽ちない、栄化された体を持つという意味で、イエスの復活体と本質的に同じ体を与えられます。
私たちの体は、アダムに属する体ではなく、イエスに属する体になるのです。地に属する体ではなく、天に属する体になるのです。
それぞれに個性を持ちながら、永遠の命を体現するのです。「朽ちることのない」(一コリ一五・五四)、死のない体となります。
あなたは、イエスの復活を信じますか。そう記してある聖書の言葉を信じますか。聖書はまた、イエスを信じるあなたも、世の終わりにイエスが再来されるとき、復活すると述べています。
イエスの復活
あなたはイエスの復活体と同じ、永遠の命の体に復活するのです。
もしあなたがイエスの復活を信じるなら、あなたは、自分の復活をも信じることができます。あなたは信仰によって、永遠の命とその体を得るのです。
クリスチャンが得るその復活体は、永遠の命を体現するため、もはや一切の障害と病気を持ちません。
「そのとき、盲人の目は開けられ、耳しいた者の耳は開けられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う」(イザ三五・五〜六)。
すべてのクリスチャン身障者は、その日、完全な健常者に生まれ変わるのです。長島愛生園の、らい病を病むある信者はこう語りました。
「私は、身は朽ち行くらい者です。けれども、キリストの十字架の御血によって罪がゆるされ、そのご復活によって永遠に生きる者とされています。やがて"いも虫"が"蝶"に姿変わりするように、私たちも栄光の体に変えられると思うと、感謝でいっぱいです」。
その日、私たちの幸福を限定するものは、すべて取り除かれます。
「(神は)彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」(黙示二一・四)。
復活体は、罪を犯すことのできない体でもあります。私たちは一切の外的、また内的な不幸から解放されるのです。
信じる私たちには、このように偉大な祝福が約束されているのです。
久保有政著(レムナント1994年6月号より)
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