完全解読 70週の預言
『ダニエル書』9章の有名な預言
「70週の預言」が、ついに完全解読された。
ダニエル。知者、また預言者として紀元前6世紀の社会
において有名であり、その名はエゼキエル書にも出てくる。
旧約聖書ダニエル書九章に、キリスト到来の時期と、その死、また世の終末の出来事に関する有名な預言「七〇週の預言」が記されています。
けれどもこの預言は、世の終末に関する部分が難解とみられ、しばしば多くの預言研究者たちを悩ませてきました。そこで、「七〇週の預言」に対する新たな解釈を、ここに示したいと思います。
七〇週の預言
「七〇週の預言」は、しばしば多くの学者の間で様々な意見が交わされた所であり、そのためにその解釈の多様性は、翻訳の上にもあらわれています。
この箇所の日本語訳をみても、口語訳聖書(日本聖書協会訳)と新改訳聖書(日本聖書刊行会訳)では、ずいぶん翻訳が違うという感を受けます。これは翻訳者の解釈が、その翻訳の上にどうしてもあらわれることを、示しています。
本誌では、新改訳にも目を向けながら、口語訳中心に解説を進めていきたいと思います。というのは、口語訳にも問題がないわけではないのですが、「七〇週の預言」についてみてみると、全体的には口語訳の方が原意に近いと思えるからです。
「七〇週の預言」は、口語訳では次のように記されています。
「(ダニエル書九章二四節)
あなたの民と、あなたの聖なる町(エルサレム)については、七〇週が定められています。これはとがを終わらせ、罪に終わりを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者(イエス)に油を注ぐためです。
(二五節)
それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君(キリスト)が来るまで、七週と六二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。
(二六節)
その六二週の後に、メシヤは断たれるでしょう。ただし、自分のためではありません。また来たるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終わりは、洪水のように臨むでしょう。そしてその終わりまで戦争が続き、荒廃は定められています。
(二七節)
彼は一週のあいだ多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒らす者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終わりが、その荒らす者の上に注がれるのです」。
ダニエル書は紀元前六世紀に記された真正の預言書
「七〇週の預言」を解説していく前に、まず『ダニエル書』という書物について、簡単に見ておく必要があるでしょう。
私たちは、『ダニエル書』の著作年代は紀元前五五〇年前後――つまりキリスト降誕の六〇〇年ほど前であって、当時の預言者ダニエルが記したもの、と信じています。
ダニエル書の真正性は、イエス・キリストご自身が認証されたものです。キリストはあるとき、ダニエル書の言葉を引用して語られました。
「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべきものが、聖なる場所(神殿)に立つのを見たならば・・・・」(マタ二四・一五)
また、しばしばキリストがご自身をさして言われた「人の子」という表現も、ダニエル書の言葉です(ダニ七・一三)。
ダニエル書は、このようにキリスト降誕以前に、すでに存在していました。また、キリストがダニエル書の言葉を引用されたことは、ダニエル書が偽書ではなく真正の預言書であることを、キリストご自身が認証された、ということでもあります。
しかし、三世紀になって、キリスト教に対する反対者ポルフュリオスは、ダニエル書は紀元前二世紀に偽作されたものである、という説を唱えました。
紀元前二世紀のある人物が、紀元前六世紀の預言者ダニエルの名を借りて記述したもの、としたのです。
この説は、近代になって聖書に懐疑的な批評学者たちによって復活され、人々に宣伝されました。
けれども、私たちはこのような説が誤りであることを、古代の歴史家ヨセフスの記述の中から知ることができます。
ヨセフスは紀元一世紀の歴史家ですが、紀元前六世紀のペルシャ時代に、すでにダニエル書が存在していたと記しているのです(J・シドロー・バクスター『旧新約聖書全解』参照)。
またもう一つの重要な証拠は、旧約聖書エゼキエル書に、ダニエルについての言及が三回あることです(エゼ一四・一四、一四・二〇、二八・三)。
今日、エゼキエル書が紀元前六世紀に記されたことを、疑う学者はいません。
エゼキエル書にダニエルの名が出てくることは、ダニエルが紀元前六世紀にユダヤ人の間できわめて有名な人物であったことを示しています。ダニエルと、ダニエル書は、紀元前六世紀にすでに存在していたのです。
ダニエル書が紀元前六世紀に記されたことに関して、さらに述べるなら、ダニエル書八・二において、スサはエラム州の都市である、と述べられています。
ところが紀元前二世紀頃のギリシャやローマの歴史家たちは、ペルシャ時代にはスサは新しく制定されたスシアナ州に属している、と述べています。
スサがエラム州に属していることを知っているのは、ペルシャ時代以前のカルデヤ人の時代――紀元前六世紀頃の状況を知っている者であるしか考えられません。すなわちダニエル書の著者は、紀元前六世紀頃に生きていたのです。
以上の事柄が示すように、ダニエル書が後世に記された偽書であるとする説は、到底受け入れられるものではありません。
ダニエル書は一〇〇%、紀元前六世紀にダニエル本人によって記された真正の預言書である、と私たちは信じてよいのです。
七〇週の預言はエルサレムとメシヤに関する預言
では、七〇週の預言の解説に入りましょう。
まず、二四節からです。
「あなたの民と、あなたの聖なる町(エルサレム)については、七〇週が定められています。これはとがを終わらせ、罪に終わりを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者(イエス)に油を注ぐためです」。
はじめにこの預言は、エルサレムに起こるはずの事柄に関するものと、述べています。
それはまた「とがを終わらせ、罪に終わりを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらす」ためです。人類救済のための神のご計画に関する、最も重要な預言の一つなのです。
預言は、エルサレムに関して「七〇週」が定められている、といっています。「週」と訳された言葉は、原語ではシャーブイームで、単に「七」の意味ですが、ここでは七年を表します。一週間(七日)の意味ではなく、七周年の意味なのです。
したがって「七〇週」は、七〇×七年であり、四九〇年です。これは四九〇年にわたる時代の出来事に関する預言なのです。
メシヤ出現の時は預言されていた
つぎに、二五節です。
「それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君(キリスト)が来るまで、七週と六二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう」。
この節は、キリスト降誕の時期に関する預言です。聖書中、最も驚くべき預言と言ってもよいでしょう。
「メシヤ」とありますが、これは原語も「メシヤ」で、ヘブル語で"油注がれた者"の意味です。これをギリシャ語に直すと、「キリスト」になります(旧約聖書をギリシャ語に訳した古代訳「七〇人訳聖書」は、この箇所をキリストと訳しています)。
イスラエルでは、大祭司や王は、任職式で頭から油を注がれました。油注ぎは、彼らへの任職を表したのです。しかしこの語は、やがて、神からの救い主を表す称号とされるようになりました。
この箇所でも、この言葉は単なる大祭司や王ではなく、神からの救い主を表しています。
前節で述べられたように、この預言は「罪に終わりを告げ」「永遠の義をもたらす」ためのものであって、真のメシヤ=救い主イエス・キリストに関する預言なのです。
預言は、「メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六二週ある」と言っています。
七〇週は幾つかに細分されており、七週と六二週、また最後の一週、計七〇週に区分されています。最後の一週はまた、さらに半週と半週に分けられています。
メシヤ到来までは「七週と六二週」――計六九週です。新改訳ではこれを「七週。また六二週の間・・・・」と訳していますが、このような句点を挿入するのは、訳として適切ではありません。
なぜなら、この後の二六節において「その六二週の後にメシヤは断たれる」と記されているので、メシヤは七週と六二週――計六九週の後に来られる、という意味にとるのが適切だからです。
「七週。また六二週」というように、文章を完全に分断してしまうと、文の前後関係との整合性に欠けるのです。
メシヤは、七週と六二週の合計である六九週の後に、来られます。六九週は六九×七で、四八三年です。
この起点となる年は、エルサレム再建命令が出された年です。「エルサレムを再建せよという命令が出てから」四八三年後に、「メシヤなるひとりの君が来る」のです。
この預言が与えられた当時、ダニエルは、バビロン帝国にいました。当時ユダヤ人の多くは、バビロン帝国に捕囚となっていたのです。
やがてバビロン帝国は、ペルシャ帝国に滅ぼされました。ペルシャはユダヤ人に対して寛大な政策をとり、ユダヤ人を次第にエルサレムに帰還させてくれました。
ユダヤ人はエルサレムに、三度にわたって帰還しました。それらは紀元前五三六年、四五七年、四四四年です。このうち最も重要なのは、四五七年の帰還です。
五三六年の時は神殿は再建されましたが、エルサレムの町は、再建されませんでした。町の広場や街路は、その後も約八〇年にわたって荒廃したまま放置されたのです。
しかし四五七年に、ペルシャの王は、律法学者エズラをエルサレムに向かわせました。このときペルシャ王は、次のような命令を出しました。
「天の神の宮のために、天の神によって命じられていることは何でも、熱心に行なえ。・・・・エズラよ、あなたは、あなたの手にあるあなたの神の知恵に従って、さばきつかさや裁判官を任命し、川向こう(パレスチナ)にいるすべての民、すなわちあなたの神の律法を知っているすべての者を裁かせよ。また、これを知らない者に、あなたがたは教えよ」(エズ七・二三、二五)。
これは、実質的にエルサレム再建命令ととってよいでしょう。これを受けたエズラは、約一五〇〇名のユダヤ人を連れてエルサレムに帰還し、エルサレム再建に向けて動き始めました。
エズラはまず人々に律法を教え、宗教改革を行ないました。彼はエルサレムの再建を、不信の罪に陥っていた人々の信仰を刷新することから、始めたのです。彼はまた、行政の機能を整えました。
ペルシャ王によるエルサレム再建命令により、エズラは
1500名のユダヤ人を連れてエルサレムに向かった。(B.C.457年)
以後、エルサレムの広場や街路も、しだいに復興されていきました。四四四年には、城壁の復興も始まりました。
このように、私たちはエルサレム再建命令発布の年を、紀元前四五七年と考えてよいでしょう。そうすると、その六九週の後――四八三年後は、紀元二六年です。
これはまさに、主イエスが公生涯に入られた年です。主イエスは、紀元二六年の秋〜冬に洗礼を受けて公生涯に入られ、その三年半後の紀元三〇年春に、十字架の死を遂げられました。
イエスの受洗、公生涯開始は、
A.D.26年秋から冬頃であり、
エルサレム再建命令の
483年後(69週後)であった。
主イエスは、エルサレム再建命令の六九週後――四八三年後にあたる紀元二六年秋〜冬に、メシヤとして現われ、その三年半後に十字架上で「断たれ」(ダニ九・二六)ました。こうしてダニエル書の預言は、驚くべき正確さで成就したのです。
異説について
ここで、以上のことについてもう少し掘り下げて見るために、これに関する異説についても取り上げておきましょう。
異説とは、エルサレム再建命令の年を紀元前四四五年、メシヤ出現の年を紀元三二年とするものです。この説ではまた、ユダヤ暦の一年は三六〇日とされ、六九週――四八三年は、四八三の三六〇倍である一七万三八八〇日であったとしています。
そしてエルサレム再建命令発布は紀元前四四五年三月一四日、メシヤ出現の時は、メシヤが十字架の死を遂げる日であると考えて紀元三二年四月六日とし、その間が一七万三八八〇日であった、とするのです。
この説の問題点を見てみましょう。
第一に、ユダヤ暦の一年を三六〇日とし、四八三年を一七万三八八〇日と計算することは、きわめておかしなことです。
ユダヤ暦は太陽暦とは若干違いますが、それでも周期的にずれを調整するために、必ず時々「閏月(うるうづき)」が挿入されました(19年間に7回)。この潤月を入れないと、5−6年で夏と冬が逆になってしまいます。
ですから四八三年は、決して三六〇日を単に四八三倍した「一七万三八八〇日」にはならないのです。
もし預言の期間を日数で考えるべきなら、預言の言葉も日数で示されたでしょう。
第二に、キリストの十字架の年は、紀元三二年ではありません。最も有力な考えでは、キリストの十字架の死の時は、紀元三〇年四月七日です。
以上の理由から、私たちは"一七万三八八〇日説"を受け入れることはできません。
キリストが公生涯に入られた年――紀元二六年秋〜冬は、「皇帝テベリオ在位の第一五年」(ルカ三・一)、またヘロデ神殿建設開始四六年目頃(ヨハ二・二〇)、という聖書の記述とも一致します。
キリストはまた、公生涯において、ユダヤで年一度開かれる「過越の祭」を三度経験され(ヨハ二・一三、六・四、また五・一も過越の祭と言われる)、四度目の過越の祭の時に十字架の死を遂げられました。
すなわち、彼は約三年半の公生涯を送られ、紀元三〇年春に、十字架の死と復活のみわざをなされたのです。
また「七〇週の預言」において、最初の六九週が「七週と六二週」に分けられているのはなぜか、についても触れておきましょう。
紀元前四五七年の七週後――四九年後は、紀元前四〇八年です。これは丁度、旧約最後の預言者マラキの活動していた時代です。彼を最後に、旧約の預言者の時代は終わりました。
これが、二四節でいう「幻と預言者を封じ・・・・」の意味することです。四〇八年頃、神の預言的幻と預言者の時代は終わり、封じられました。そして以後の六二週――約四〇〇年間は、いわゆる「中間時代」で、預言者の現われなかった時代です。
「七週と六二週」というように、いったん区切られているのは、それが「幻と預言者」の封じられる時であり、大きな節目だったからなのです。
「七〇週」には予型がある
私たちは七〇週のうち、最初の六九週(メシヤ到来までの期間)と、続く半週(キリストの三年半の公生涯)を見ました。計"六九週半"になります。
では、七〇週の最後の半週――三年半は、どこに見ることができるのでしょうか。
最後の三年半は、じつは"六九週半"の直後に続くものではなく、ある期間を隔てた将来――世の終末の時代に属するものです。それを見るために、ここで一つの興味深い事実に、目を留めましょう。
「七〇週の預言」には、じつは一つの"予型"があるのです。
六九週半――四八六年と半年という期間は、イスラエルの歴史に、もう一つ見ることができます。それは"シナイ山で律法が授与された時から、ソロモン神殿完成までの期間"です。
まず、シナイ山で律法が授与された時期を見てみると、それは出エジプトがなされた年のユダヤ暦「第三の月」(出エジ一九・一)でした。
70週の預言には、予型がある。予型時代の起点は、
モーセの律法授与であり、それは出エジプトの年の第三の月であった。
一方、ソロモン神殿について見てみると、旧約聖書・第一列王記六・一に、こう記されています。
「イスラエル人がエジプトの地を出てから四八〇年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目・・・・に、ソロモンは主の家の建設に取りかかった」。
神殿の建設は、ソロモンの治世第四年――出エジプト後「四八〇年目」に開始されました。そして建設開始後、七年を経て、神殿は完成しました。
「(ソロモンの治世の)第一一年目のブルの月、すなわち第八の月に、神殿のすべての部分が、その明細通りに完成した。これを建てるのに七年かかった」(一列王六・三八)。
すなわちソロモン神殿は、出エジプトから四八七年目にあたる第八の月に、完成したのです。一方シナイ山における律法授与は、出エジプトの年の第三の月でした。
この「四八七年目」は、最初の年も数に入っています。ですから実質的にソロモン神殿は、律法授与から数えて"四八六年と半年の後"に完成した、ということになります。
ソロモン神殿は、出エジプト後、
486年と半年を経て完成した。
これは69週半(69週+半週)にあたる。
"四八六年半"は、六九週半であり、私たちが今まで見てきた"エルサレム再建命令からキリストの死までの期間"と、ピッタリ一致しています(図を参照)。
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