なぜ滅びる人がいるのですか
すべての人が救われるのではないのは何故か。
なぜ、救われる人と、滅びる人がいるのですか。すべての人が救われるのではないのは、なぜですか」。
そう疑問に思う人は、少なくありません。
これについて、聖書から学んでみましょう。
救われる人と滅びる人がいる
聖書によれば、最終的に、すべての人が救われるわけではありません。すべての人が救われるとする「万人救済説」(ユニバーサリズム)は、聖書の教えではありません。使徒パウロは言いました。
「今も涙をもって言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです」(ピリ三・一九)。
「(世の終わりになって)神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々は・・・・主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです」(二テサ一・九)
キリストも言われました。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入っていく者が多いのです」(マタ七・一三)。
最終的に、滅びる人は決して少なくありません。いや、多いのです。なぜ、すべての人が救われず、滅びる人がいるのでしょうか。
まず私たちは、次のことを確認しなければなりません。それは、神は、人が滅びることを決してお喜びにはならない、ということです。
「わたしは、誰が死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて生きよ」(エゼ一八・三二)
と記されています。神は、すべての人が悔改めに進んで、救われることを願っておられるのです。
「(神は)あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔改めに進むことを望んでおられるのです」(二ペテ三・九)。
私たちの考えは、まずここからスタートしなければなりません。
神は、すべての人の救いを望んでおられるのです。なのに、なぜ滅びる人がいるのでしょうか。
神は人生の責任を人間本人に帰するものとされた
その理由の第一は、神は、人生の責任を、その人自身に帰するものとされた、ということです。
たとえば、ここに一台の機械があったとしましょう。何でもいいのですが、一台のロボットがあったとしましょう。そのロボットはたいへんよく出来ていて、家政婦なみに家の中の様々のことをしてくれるのです。
ところが、ある日そのロボットは、調子が狂い、人を傷つけてしまいました。その場合、その責任は一体誰に帰するでしょう。
ロボットが責任をとることはありません。責任は、ロボットの所有者がとることになるでしょう。
あるいは、もしロボットが欠陥品であると判明すれば、責任は製作会社がとることになるでしょう。ロボットの過失の責任は、所有者または製作者にあるのです。
一方、ここに、人々から尊敬を得ている、一人の大富豪がいたとしましょう。彼のもとに、三〇歳になる息子がいました。
ところが、ある日その息子は、乱暴を働き、人を傷つけてしまいました。この場合は、誰がその責任をとるでしょう。
親がその責任をとるでしょうか。いや、責任は息子自身が取らなければなりません。息子はりっぱな大人であり、自分の人生と行動に責任を持たなければならないのです。
私たち人間は、神の御前に、前者のロボットよりは後者の息子のような存在です。私たちには自由意志が与えられています。
人間は、自主的・主体的行動者としてつくられました。そして神は、私たちの人生の責任を、私たち自身に帰するようにされたのです。私たちは、人生の責任を自分で取らなければなりません。
「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉(罪の性質をいう)のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊(神)のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラ六・七〜八)。
これは、責任はそのひと本人に帰する、ということです。ですから、私たちは自分自身を治めなければなりません。
「あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」(創世四・七)。
自分の所有者は自分であり、他の人の責任にすることはできません。神は、そのような者として、人間を造られたのです。
自由意志によって堕落したので回復も完全に自由意志によらなければならない。
滅びる人がいることの第二の理由は、私たちは自由意志によって堕落したので、その回復も、完全に自由意志によらなければならない、ということです。
アダムとエバは、自由意志によって堕落しました。彼らは自主的・主体的行動によって堕落したのです。
神は人間を、自由意志を持つ、
自発的・主体的行動者としてつくられた。
その子孫である私たちも、自由意志により、自主的・主体的行動によって堕落しました。そうであれば、回復も、完全に自由な意志によらなければなりません。
自由意志によらなければ、堕落状態からの回復は、あり得ないのです。たとえば先に述べた息子が、人に乱暴を働いたことを悔い改めず、また人に謝らず、親にも謝らないとすれば、彼はいつまでも赦されないでしょう。
しかし彼が悔い改め、人と親に謝るとすれば、赦してもらえることもあるでしょう。この場合、彼は自分の全く自由な意志で、また自主的・主体的行動によって、それをなさなければなりません。
息子に対して、親が教え諭すことはできるでしょうが、それでも最後の決断は本人がしなければなりません。そうでなければ、その悔改めに意味はないのです。
また、親が、代わりに悔い改めることはできません。親が息子を"洗脳"したり、強制的なマインド・コントロールをしたとしても、息子の行動には意味がありません。行動は、本人の自由意志によらなければならないのです。
人間が、悔い改めて神に立ち返るときも、同様です。神は、聖書を通し、また伝道者を通して、人を教え諭されます。
しかし、悔い改めて神に立ち返るか否かという最後の決断は、本人の自由意志によるほかないのです。
人は、自由意志と、自主的・主体的決断によって神に立ち返って、はじめて堕落前の状態に回復されます。そのようにして、自由を神に立ち返るために用い、自己の責任分担を果たさなければなりません。
救い主キリストを信じるか否かは、完全に本人の決断にかかっているのです。救いを選び取るか、あるいはサタンや罪と共に滅びを選び取るかは、本人次第です。
神はこのことにおいて、人の意志をあやつることはなさいません。それは、次のキリストの御言葉にもよくあらわれています。
「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。誰でも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼の所に入って、彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をする」(黙示三・二〇)。
救い主キリストは、あなたの心に入りたいと願い、あなたの心の戸をたたいておられるのです。しかし、キリストは決して、そのドアを打ち破って部屋に押し入ることはなさいません。
あなた自身が、自分で心の戸を開けなければならないのです。そして彼を心の王座に迎えなければなりません。
主イエスは、心の戸をたたいておられる。
彼は無理に中に入ろうとはなさらない。
戸はあなた自身が開けなければならない。
あなたが自分で心の戸を開け、キリストを心の王座に迎えれば、それが救いです。しかし、もし戸を開けずキリストを心にお迎えしないならば、あなたは滅びへの道にとどまり、最終的に破滅を身に招きます。
このように、救いも滅びも、人間の自由意志のもたらす結果です。そのために、結果的に救われる人と、滅びる人の両方がいることになります。
滅びる人がいるのは、悲しいことです。しかし、滅びる人がいるのは、神の愛が足りないからではありません。彼らが、神の愛を拒んだからなのです。
また滅びる人がいるのは、彼らが罪を犯したからでもありません。すべての人は罪を犯しました。そして救われる人と、滅びる人とがいます。
救われる人がいるのは、神の救いを受け入れたからであり、滅びる人がいるのは、神の救いを拒んだからです。
堕落が自由意志によったので、回復も、自由意志によらなければならないのです。
神はなぜ救われないと予知する人々をも造られたのか
このことについて、さらに次のように質問する人もいるでしょう。
「神は、最終的に誰がキリストを受け入れて救われるか、また誰が救われないかを、予知しておられたはずです。それなら、神はなぜ、救われないと予知する人々をも造ったのですか」。
たしかに、神の御前に隠されていることは何もありません。未来について、私たちは"予想"しかできませんが、神は"予知"しておられ、それをつぶさに知っておられます。
神は、最終的に誰がキリストを受け入れて救われるか、また誰がキリストを受け入れずに救われないかをも、知っておられるはずです。
それなら、なぜ神は、救われないと予知する人々をも造ったのでしょうか。
神がアダムとエバを造られたとき、彼ら二人から生まれてくる人類は、大きく二つに分かれることを、神は知っておられました。すなわち、神に従順な人々と、神に背く人々です。
アダムとエバから生まれてくる人々のすべてが神に従順なわけではないことを、神はご存知でした。
もし人類を造れば、ご自身の栄光を現わす人々だけでなく、滅びる人々も出てくることは、わかっておられたことでした。
にもかかわらず、神はアダムとエバをお造りになりました。それは、アダムとエバという子どもたちを生むことが、神のご本性にとって必然的な要請だった、ということです。
たとえば、愛し合う一組の夫婦にとって、自分のかたちを持った子どもたちを生み、子孫を得ることは、多くの場合、人間としての一つの必然的な要請でしょう。
それと同様に、神にとってご自身のかたちを持った人間を生み出すことは、ご本性の要求することだったのです。
神の御名「わたしはある」(出エ三・一四)の原語は、「わたしは存在するに至らせる」の意味をも持っていると言われます(オルブライト)。神は、静的なかたではなく、むしろ動的なかたです。
神は、創造し、新たなものをつくり出し、ご自身を展開していく方です。神のかたちを持ち、自由意志を持つ人間という存在をつくり出すことは、神のご本性にとって必然的なことだったでしょう。
神は、善悪に対して全き自由を持ちながら、その自由によって永遠に善を選んでおられるかたです。そこで、神のかたちに造られた人間も、善悪に対して全く自由で、その自由によって善を選び取ることが要求されました。
自由な意志を持つ人間を創造することは、神のご本性の要求することだったのです。
神に背く人々の滅びは神を愛する人々を救い出すための代価
しかし、もしそうならば、生み出されたすべての人間を救いと神の祝福に至らせ、滅びる人をなくすようにすることは、できないのでしょうか。
神は、人間の人生の責任を、人間自身に帰するものとされました。人間は人生の結末を、自分で選び取ることができるのです。
救いも、滅びも、本人の決断にかかっています。救い主を受け入れるか否かは、本人の決断によらなければなりません。自由意志で堕落したのですから、自由意志で信じなければなりません。
そうであれば、救いに至る人と、滅びに至る人の両方が出ることは、どうしても避け得ないこととなります。聖書はこの点について、次のように言っています。
「悪者が正しい人のための身代金となり、裏切り者が直ぐな人々の身代わりとなる」(箴言二一・一八)。
この聖句の意味は、悪者が滅びるのは、正しい人々を救い出すための代価だ、ということです。同様なことは、イザヤ書四三・一〜四でも言われています。
「イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。
『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。・・・・わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ」。
この聖句も、神に従わない民が滅びるのは、神の民を救い出すための代償であり、代価だと言っています。
私たちの場合も同様です。救い主キリストを信じ、神を愛する人々は、神の御前に「高価で尊い」のです。神はやがてこの人々を、世から救い出されるでしょう。
そのときは、神に従わない人々にとって滅びの時となりますが、それも神の民を救い出すための代償であり、代価なのです。
それはこういうことです。神は、やがてこの世に完全な支配権を伸ばされる時を、定めておられます。
この世は今、サタンの支配のもとにあるのです(エペ二・二)。世は今、悪の勢力の支配下に置かれています。
しかし、定められた時に、神はキリストを再臨(再来)させ、この世の君であるサタンを追放し、この世に完全な神政政治を敷かれます。
それは、サタンにつく者たちにとっては滅びの時、キリストにつく者たちにとっては救いの時となるでしょう。
その状況は、ある意味では、ペルシャ帝国の王クロスがバビロン帝国を征服した時(紀元前五三六年)の状況に、似るでしょう。
当時バビロン帝国のもとには、イスラエル民族が捕囚となっていました。しかし、ペルシャ王クロスが一夜にしてバビロンを征服すると、クロスはイスラエル民族にエルサレムへの帰還を許しました。
ペルシャによる征服によって、バビロンの滅亡、およびイスラエル民族の救いの両方が起きたのです。征服とともに、滅びと救いが同時に起きました。
世の終わりにも、そうなるでしょう。
やがて来たるべき日に、天が開けて、キリストが再臨されます。キリストは全世界を征服し、すべての悪を地上から一掃し、神政政治、また神の恵みによる善政を全世界に敷かれます。
それは、悪にとどまる者にとっては滅びの時、またキリストにつく者にとっては救いの時となります。キリストによる征服とともに、滅びと救いが同時に起こるのです。
キリストは、ご自身につく者たちを、千年王国の恵みと、新エルサレムの恵みにあずからせます。彼はまた、神の民に永遠の命の体を与え、救いを完成させてくださるでしょう。
こうした新しい世界は、キリストが再臨するまでは起こりません。新しい世界は、キリストがその支配権を全世界に伸ばされるときに、現われるのです。
キリストが支配権を地の果てまで伸ばされることなしに、神を愛する人々の最終的な救いは起きません。しかしキリストが支配権を伸ばされることは、同時に、神に背く人々の滅びをも意味します。
このように、神に背く人々の滅びは、神を愛する人々を救うための代価となるのです。
聖書の警告
最後に、聖書が読者に与えている警告を、記しておきましょう。
私たちの前には今、救いに至る道と、滅びに至る道とが置かれています。かつてモーセは、それを民に示して、こう言いました。
「私はきょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。
あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり・・・・」(申命三〇・一九〜二〇)。
キリストは次のように言われました。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入っていく者が多いのです」(マタ七・一三)。
「狭い門」とは、キリストによる救いという門です。それは世の多くの人々から排斥されているため、「狭い」ものとされています。しかし、それこそ永遠の命に入る門なのです。
私たちは自主的に、キリストの門、すなわち
永遠の命に至る門から入らなければならない。
また、エゼキエル書にこう記されています。
「わたしは、誰が死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて生きよ」(エゼ一八・三二)
あなたは、この神の警告を受けとめ、それに従いますか。あなたは、命を選びますか。それとも滅びを選択しますか。
もし、あなたの生涯が滅びに終わるとしたら、あなたの生涯の価値は無に帰するのです。あなたは、「生まれなかったほうが良かった」(マタ二六・二四)という人生を欲しますか。
一方、キリストを救い主と信じ神を愛する生涯は、永遠の命に至る実を結びます。それは豊かな生命と、愛と、祝福の人生であって、永遠に至るのです。あなたはどちらを選びますか。
それとも、あなたは、
「もし自分が救われないと予知されているとしたら、どうしよう」
と心配しますか。もしそう心配するなら、あなたに質問しましょう。
「あなたは、救われたいと思いますか」。
もしあなたが救われたいと思うなら、それ自体、あなたには救われる可能性がある、ということです。
あなたは、救われないと予知されている人ではありません。あなたは今信じるだけで、救われるのです。
読者が、キリストにあって歩むことの幸いと、永遠の命の喜びを得られるように、主イエス・キリストの御名によって祝福いたします。
久保有政著(レムナント1994年3月号より)
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