キリストはなぜ復活されたか
キリストが復活された5つの理由。
世界には、数多くの巨大な墓がある(エジプトのピラミッド)。
エジプト博物館やエジプト展等へ行くと、私たちは、古代エジプトの王たちが残した絢爛たる遺品の数々を見ることができます。
しかし、それら豪華な陳列品の中に横たわっている、あの古びたミイラの姿は、見る者に異様な感じを与えずにはいません。
それは極度に干からびていますが、数千年にわたって人体の形をとどめてきました。そこには、できることなら死にたくない、あるいは死んでもまた生き返りたい、という人間の根源的な欲求を感じさせるものがあります。
古今東西を問わず、人々は不老長寿、あるいは永遠の生命を探り、死の克服を願い求めてきました。
「空の墓」を土台にした巨大な勢力・キリスト教
死の問題は、人間にとって常に大きな問題でした。死は、富者も貧者も、古代人も現代人も、男も女も、地位のある者もない者も、等しく、また完全に支配してきました。
「墓」は、人間に対する死の支配の象徴です。それは人間が地上に住み始めて以来、いつの時代にも人々の間にあり、死の支配を静かに物語ってきました。
世界には、数多くの巨大な墓があります。エジプトのピラミッド、日本の仁徳天皇陵、インドのタジ・マハールなど、これらはみな、人間の遺体を納めるために造られた大きな墓です。
これらの巨大な墓は、ある意味では、その国、あるいはその時代の文化文明を今日に伝える、巨大な記念碑ともなっています。
(左)仁徳天皇陵(右)タジ・マハール
しかし、ここに一つの小さな「空の墓」を土台にした、ある巨大な勢力が存在します。それがキリスト教です。
この「空の墓」は、あなたにも深い関係があります。いかなる人も死と無関係ではないように、この「空の墓」と無関係な人も、ひとりもいません。
人間には、いつか必ず死がやってきます。そうであれば、「空の墓」が語る素晴らしい福音は、万人に対してきわめて重要な意義を持っている、と断言できます。
キリスト教は、イエス・キリストの「空の墓」の上に構築された巨大な福音です。実際、聖書によれば、初代教会の時代にキリストの弟子たちが人々に最も伝えようとしたことは、キリストの復活の事実でした。
キリスト教は、イエス・キリストの「空の墓」
を土台にした巨大な福音である。
キリストの使徒ペテロは、自分たちのことを「イエスの復活の証人」(使徒一・二二)と呼びました。また聖書は、「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしした」(使徒四・三三)と記しています。
ある疑い深い人が、キリスト教伝道者のもとにやって来て、こう尋ねました。
「イエス・キリストが復活したというようなことを、どうして信じられるのですか」
伝道者は、彼にこう答えました。
「たとえば、こういうことを考えてみてください。友人があなたのところに来て、
『○○先生が死後三日目に生き返った、復活したと、命がけで人々に言いなさい』
と、あなたに言ったとしましょう。でもあなたは、復活したなどということはウソだ、と知っています。そのウソを人々に言い広めるのに自分の命をかけろ、というようなとき、あなたにはそのようなことができますか」。
「いいえ、そんなことはできません。だれでも、自分がウソだと思っていることのために命をかけるなんて、できないでしょう」。
「その通りです。人間は、真実のためでなければ、自分の命をかけることはできません。そこで大切なのは、初代教会の人々は、『キリストが復活した、よみがえった』ということを命がけで宣べ伝えた、という事実なんです。
当時、地中海世界はローマ帝国の支配下にあって、人々は皇帝礼拝を強要され、『ローマ皇帝(カイザル)は主である』と告白させられていました。ですからそうした中で、彼らが、
『イエスを、神はよみがえらせた。――このイエスを、神は主またキリスト(救い主)としてお立てになったのである』(使徒二・三二、三六)
と言い広めるためには、激しい迫害と、死さえも覚悟しなければならなかったんです。
実際、使徒をはじめキリストの弟子たちの多くが、ローマの迫害によって殉教したことは、よく知られている通りです。
しかし彼らは、死の最後の瞬間に至るまで、人々に『イエスは復活した』と宣べ伝えたんです。何かこの世で、報酬があるわけではありません。
けれどもどんな迫害があろうと、たとえ自分の命を失うことになっても、それを宣べ伝えたいという熱烈な思いがあったのです。
その結果、キリスト教に敵対していたローマ帝国は、数百年のうちにキリスト教国家に変わりました。そして今日も、世界中の多くの人々が、キリストが復活されたことを信じています。
この私も、キリストが事実復活された、と信じる者の一人です」。
伝道者はそう話しました。そしてその話を聞いていた彼も、その日キリストの復活を信じるようになりました。その彼とは、筆者です。
では、キリストはなぜ復活されたのでしょうか。そこには、どのような意義があったのでしょうか。
キリストが復活されたのは、単に人々を驚かすためでも、あるいは単に神の力強さを示すためでもありませんでした。そこには次に示すように、五つの重要な意味があったのです。
1 私たちが死人を礼拝しないため
第一に、キリストが復活されたのは、私たちが死人を礼拝しないためです。
今日でも何と多くの人が、「死人」の中に解答を捜し求めていることでしょうか。
日本では、人は死ねば「神」や「仏」に祭りあげられます。そして人々は、そうした「ご先祖様のご加護をお祈り」したり、死人の霊を「守護霊」として奉ったりしています。
ロシアでは、ロシア革命の英雄レーニンを祭ったレーニン廟に、過去形で、
「まことにレーニンは世界の救い主であった」
と書かれています。また、死人であるシャカを拝む人もおれば、孔子やソクラテスのご加護を祈る人もいます。
死人に限らず、生命のない哲学、思想、観念などの中に解答を求めている人々も、少なくありません。しかし、はたしてそうしたものが私たちに、生きた力となるでしょうか。
北九州市の折尾女子学園の創設者――増田孝師は、若い頃マルクス主義に傾倒し、共産主義者であることに生きがいを覚えて生きていました。
けれども、やがて大病をわずらい、一年半のながい療養生活を余儀無くされたとき、彼は大きく変わりました。
増田師は、その時のことについてこう語っています。
「せっぱつまったそのようなとき、マルクス主義は何の解決も与えてくれなかった」。
そして、のちに、生ける神の御子イエス・キリストを知り、クリスチャンになったのです。
多くの人は、死んだ主義思想の中に解答を捜し求めていますが、そうしたものは決して、真の救いをもたらしません。
死人は、あなたを救うことができません。あなたを幸福にすることもできません。私たちは、生きたおかたにこそ解答を見出すべきです。聖書には、
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」(ルカ二四・五〜六)
という言葉が記されています。私たちの求めているかたは、死人の中にはおられません。よみがえられたのです。
イエス・キリストは十字架の死より三日目に、死の束縛を破って復活されました。そして四〇日間地上にいて、昇天し、今も神のみそばで生きておられます。
私たちが求めている解答は、このかたにこそあるのです。
2 十字架のみわざが成功だったことを示すため
第二に、キリストの復活は、十字架のみわざが成功だったことを示すためです。
キリストの十字架の死は、ある偉大な目的をもった、神のみわざでした。旧約聖書イザヤ書五三章(紀元前七〇〇年頃の預言)には、それについて次のように記されていました。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主(父なる神)は、私たちすべての咎を彼(キリスト)に負わせた」(五三・六)。
「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(五三・五)。
キリストの十字架死は"身代わりの死"であり、キリストは私たちすべての者のために、罪咎を負って下さったのです。そして身代わりに、神からの刑罰を受けて下さいました。
ですから、キリストが十字架上で死の直前に言われた言葉、
「完了した」(ヨハ一九・三〇)
は、「今や私の使命はなし遂げられた」という意味であり、キリストはこの言葉によって、私たちの身代わりになるという行為が実現されたことを、示されたのです。
キリストの復活は、この十字架のみわざが成功だったことを示すために起こりました。実際イザヤ書五三章の預言によれば、十字架の死が、人々を罪と滅びから救うための犠牲とされるならば、キリストには復活の保証が与えられていました。
「もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは、彼によって成し遂げられる」(五三・一〇)。
と書かれています。「末長く」は、原語では「永遠に」と同義の言葉で、「子孫を見ることができ・・・・」は、キリストの復活を暗示しています。
このように、キリストが自分のいのちを「罪過のためのいけにえ」とするなら、彼には、とこしえまでも生きることが保証されていました。
キリストが自分の命を「罪過のためのいけにえ」
とするとき、彼には死からの復活が約束されていた。
つまりキリストが復活したことによって、私たちはキリストの十字架死が事実、私たちの「罪過のためのいけにえ」となったことを知るのです。
聖書によれば「死」は、全人類に罪が入った結果として、全人類に入りました(ロマ五・一二)。死は、罪の結果入ったものです。
しかしキリストの死は、ご自分の罪の結果ではなく、人々の罪をにない、身代わりに死ぬという死でした。その使命が果たされた今、キリストが死の中に閉じ込められている必要は、もはやなかったのです。
神は「聖者(キリスト)が朽ち果てるのを、お許しにならない」(使徒二・二七)と言われている通りです。復活はキリストにとって、起こるべくして起こったものと言ってよいでしょう。
それにしても、キリストが私たち人間と同じさまになり、激しい苦難を通り、死にまで至ってそれを打ち破られたことは、何という素晴らしい福音でしょうか。
神の御子イエス・キリストは、神と一体である方でありながら、今から約二千年前に人の姿をとってこの世に来られ、一介の大工にすぎないヨセフとマリヤの家庭にお生まれになりました。キリストはそのとき、ご自分と人間(人類)を"同化"されたわけです。
つぎに降誕後八日目に、イスラエルの儀式である「割礼」を受けられ、ご自分とイスラエル民族とを"同化"されました。三〇歳になって宣教を開始されたときには、洗礼(バプテスマ)を受けられました。
洗礼は本来、罪人が悔い改めのしるしとして受けるものですから、罪のない清い方であったキリストは受ける必要がなかったのですが、キリストはご自分と罪人を"同化"されるために、あえて洗礼を受けられたのです。
こうして、キリストはご自分と人類を同化し、次にイスラエル民族と同化し、また罪人と同化して、ご自分をしだいに限定していかれました。キリストは言わば、ご自分をだんだん小さく、低くしていかれたわけです。これを神学者は、キリストの"自己限定"と呼びます。
そしてキリストは、ついに"死"という冷厳な極点に至るまで、自己を限定されました。キリストは、人間の苦悩と悲惨の最も根源的なところにまで、入って来られたのです。
そして復活によって、キリストはそれを、言わば"爆破"されたわけです。それ以来、キリストの十字架と復活は、あふれる恵みに満ちた、私たちの救いの泉となっているのです。
3 私たちと共に生きるため
第三に、キリストが復活されたのは、私たちと共に生きるためです。
しばしば私たち人間には、"まわりに人がたくさんいるのに、そのただ中で孤独を感じる"というようなことがないでしょうか。
「孤独は街にある」と言われるように、物理的には近くに人がたくさんいるのに、だれも近くにいない、と感じるような時が、おそらく誰にでもあるのではないでしょうか。
しかしキリストは、天の最も高きところにおられながら、信じる私たちの最も近くにいてくださるかたです。
キリストの救いは、単なる思想や、観念、哲学などによる救いではありません。今も生きておられるキリストの生命と、愛による救いなのです。
アフリカでの伝道に生涯を捧げたあの偉大なディビッド・リビングストンが、英国のグラスゴー大学で学生たちを前に講演したとき、彼が最も力強く語ったのもそのことでした。
彼が壇上に上がったとき、その体にはアフリカでの苦闘の跡が、ありありと見受けられました。三〇回近くかかった重い病気のために、体はやつれ果て、左腕はライオンによって押し砕かれ、だらりとたれ下がっていました。
彼は自分の受けた試練や苦難の数々を述べたのち、こう語りました。
「土人たちには言葉も通じず、彼らの私に対する態度は不安定で、しばしば敵対的でした。しかし、そういう中にあって過ごした間、ずっと私をささえていたものは何であったか、みなさんはそれをお知りになりたいですか。それは、
『見よ。わたし(キリスト)は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます』(マタ二八・二〇)
というみ言葉でした。私はこのみ言葉に、すべてをかけたのです。そして決して裏切られたことがありませんでした」。
キリストは彼と共に生き、彼はキリストと共に生きました。クリスチャンにとっては、主イエスが共にいてくださるという事実こそ、なににも負けない力となると言えるでしょう。キリストの使徒パウロは、
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリ四・一三)
と語りました。私たちには、生命と愛と力の根源である方が、いつもついていて下さるのです。
主は、私たちがいかなる試練や、苦難にある時にも、私たちを離れることがありません。人々から迫害され、ののしられ、捨てられるような時でさえも、主はあなたと共におられます。
たとえ、周囲に友がひとりもいなくなったようなときも、また「死の陰の谷を歩む時も」(詩篇二三・四)、横を向けば常に主が共におられることを、私たちは知るのです。
4 もう一つの使命をなし遂げるため
第四に、キリストが復活されたのは、これから成すべき、もう一つの使命があるからです。
キリストは、二度地上に来られます。一度目は約二千年前であり、その主な目的は、十字架によるあがない(救い)を全うし、信仰者が罪と滅びより救われて、「永遠のいのち」を受けられるようにすることでした。
そして二度目は、やがて世界が行き詰まり、世界の悪が最高潮に達する時です。かつてヨシュアの率いるイスラエル民族がカナンの地を征服したとき、カナン全土には悪が満ちていたように(レビ一八・二四〜二五)、やがてキリストが再来されるとき、聖書によれば全地の悪は、最高潮に達しているはずです。
その頃の世界は、人々の愛が冷え、戦争や侵略が各地で見られ、不道徳、犯罪、裏切りなどが多発するようになるでしょう。また残忍な独裁者も現われる、と予言されています。
そして、もはや人間だけでは、真の幸福、平和、繁栄を築き得ないことが、だれの目にも明らかになるでしょう。キリストが再来されるのは、まさにそのときです。
キリストは初来の際には、人々に仕える「僕」の姿をとって来られましたが、再来のときには、「王の王、主の主」(King
of kings,Lord of lords)として、栄光の中に来られます。
彼は、地上の戦争や侵略に終止符を打ち、あらゆる醜い事柄や、悪を一掃されるでしょう。盗みや殺人をする者も、もはやいなくなります。
そしてキリストは、地上に至福の神の王国を樹立される、と聖書は述べています。その日世界は、真の幸福と、平和と、繁栄に満ちた、神による新しい秩序を見ることでしょう。
かつて著名な社会学者エーリッヒ・フロムは、
「過去6千年の歴史を通して存在してきた体制全体を、根本的に異なる体制に置き換えることができさえすれば」
社会は是正できるだろうと語りました。キリストは実際に、社会、経済、文化等の体制全体を、根本的に異なる体制に置き換えられることでしょう。彼は世界統一政府を樹立し、義と、知恵と、愛によって、世界を支配されるのです。
もちろん、これだけの大事業をなすことは、ふつうの人間にはできません。できるのは、ただ死に勝利したかただけです。神はこのかたに、地上に秩序を回復して神の王国を築く仕事を、お任せになったのです。
かつて英国のビクトリア女王は、牧師からキリスト再来の話を聞いたとき、
「私が生きている間にキリストが来られたら、と思います。そうしたら私は、王冠を取って、彼の足もとに置くでしょうに」
と言ったとのことです。人間社会の矛盾や諸問題を真に解決できるかたは、キリスト以外にはいません。
やがて来たるべき日に、世界はキリストの統治下に入り、人間の創造目的が回復された世界が、私たちの前に現われるのです。
5 私たちにも復活の保証を与えるため
最後に、キリストの復活が起こったのは、私たちにも復活の保証を与えるためです。
聖書は、
「キリストは、眠っている者の初穂として、死者の中からよみがえられた」(一コリ一五・二〇)
と言っています。「初穂」とは、収穫の頃にいち早く穂を出すもので、それを見て人は、大収穫の近いことを知るのです。
初穂が大収穫の保証であるように、キリストの復活は、キリストにあるすべての人が、やがてキリスト再来の日に復活することの保証です。じつに、
「死がひとりの人(アダム)を通して来たように、死者の復活もひとりの人(キリスト)を通して」(一コリ一五・二一)
来たのです。
しかし、キリスト者が復活の際に得る体は、現在の私たちの肉体とは異なるものです。復活体は、現在の体とある関連を持ちつつも、異なる、新しい体です。
それは「朽ちない」(一コリ一五・五三)体であり、キリストの「栄光のからだと同じ姿」(ピリ三・二一)とされたもので、もはや決して「不義の器」(ロマ六・一三)となることがない体です。
聖書によれば、私たちは復活の日に、この新しい体を、上から着せられることになるでしょう(一コリ一五・五三)。
死者の魂は、復活体を上から着せられて現われます。一方、地上に生きている者たちは、現在の肉体の上から、新しい体を着せられるでしょう。
そして中の"朽ちる体"は、"朽ちない体"に飲み込まれてしまうのです。
このようなことは、私たちの想像を絶する事柄です。しかし、もし人間を「土のちり」からお造りになったかたが神であると信じるならば、死者の復活も、信じない理由はないはずです。
神は、海の生物であるヒトデに、その五本の腕のうち一本が切れた場合、それを完全に再生する能力をお与えになりました。また陸の生物であるトカゲに、その尾が切れた場合、それを完全に再生する能力をお与えになりました。
その神が、やがて世が改まるときに私たちの体を再生し、新創造することがお出来になるとしても、決して不思議ではありません。
人間は、ビデオや映画によって、すでに世を去った人々の姿や音声さえも、再現することができます。
人間にさえ、そのようなことができるのであれば、ましてや全能の神は、私たちの細部にいたるまで、完全に記憶しておられます。
実際聖書によれば、神は、宇宙にある無数とも言える「星の数を数え、そのすべてに名をつける」(詩篇一四七・四)ほどのかたです。
天文学者によれば、宇宙には人間に知られているものだけでも、数千億個の星々を有する銀河が、さらに数千億個もあります。神は、これら宇宙のすべての星々を、その名で呼ばれるのです。
しかし、これまで主にあって世を去った多くの人たちも、それらの星の数に比べれば、わずかです。
ですから神は、私たちの髪の毛ひとすじにいたるまで記憶していることができ、私たちの個性もすべて復活させることがお出来になるに違いありません。
しかも神は、私たちの復活体を、決して「不義の器」となることのない、また朽ちることのない体となし、ご自身の王国で生きるようにしてくださるのです。
久保有政著(レムナント1994年3月号より)
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