神の御名と神聖四字
神のお名前ヤハウェについて
なぜ「主」と置き換えられたのか。
またなぜ「エホバ」とも言われたのか。

 あるクリスチャンは、神の御名が「ヤハウェ」であることを初めて知ったとき、こう述べました。
 「私は教会に12年行っていましたが、ヤハウェという神ご自身のお名前を、一度も耳にすることがありませんでした。しかし初めて御名を知ったとき、私はたいへん大きな感動をおぼえたものです」。
 今日、教会で神の御名が語られることは、あまりありません。これは、過去においても常にそうだったのでしょうか。
 明治・大正・昭和初期の日本の教会では、そうではありませんでした。その頃用いられていた『文語訳聖書』(1888年刊行)には、神の御名がはっきりと記されていたからです。たとえば旧約聖書の申命記6:4は、次のように訳されていました。
 「イスラエルよ聴け。我らの神エホバはただひとりのエホバなり。汝、心をつくし、精神をつくし、力をつくして、汝の神エホバを愛すべし」。
 今日、神の御名は「エホバ」より「ヤハウェ」のほうが本来の発音に近かったであろう、と言われていますが、それはともかく、かつて用いられていた日本語訳聖書には、このように、はっきりと神の御名が語られていたのです。


神の御名を「主」と置き換えることの混乱

 上に引用した申命記6:4は、その後、口語訳聖書(1955年刊行)の中で、次のように訳されるようになりました。
 「イスラエルよ聞け。われわれの神、は唯一のである。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、を愛さなければならない」(日本聖書協会訳)。
 ここでは神の御名が、「主」という単なる称号に置き換えられています。神の御名は、消え去ってしまったのです。そのために「神」また「主」と呼ばれるかたが、一体どなたなのか、はっきりしなくなったと言わざるを得ません。
 しかし、この句はまだ良いほうでしょう。なぜなら、なかには神の御名ヤハウェを「主」と置き換えたばかりに、意味がわからなくなってしまったものさえあるのです。たとえばダビデ王の預言詩である詩編110:1は、口語訳では、
 「主は、わが主に言われる
 『わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ』」
 となっています。この最初の「主」と、次の「主」とは、同じなのでしょうか。それとも違うのでしょうか。もし違うのであれば、最初の「主」は誰で、次の「主」は誰でしょうか。
 しかし、これは原語のヘブル語を見れば明らかなことです。この句は、
 「ヤハウェは、わが主に言われる・・・・」
 となっているのです。そしてさらに「わが主」は、「神の右の座」(神の次の位)におられる主キリストのことですから(マタ22:44、コロ3:1)、これは、
 “神ヤハウェは、主イエス・キリストに言われる”
 の意味であることが、わかります。


ダビデ王は、「主はわが主に言われる・・・」
と預言した。これは原語では、
「ヤハウェはわが主(キリスト)に言われる」である。

 また、I列王記18:39は、
 「主こそ神である」
 と訳されていますが、これでは同義語反復――同じような意味の言葉の繰り返しでしょう。しかしこれは原文では、
 「ヤハウェこそ神である
 です。これなら、明瞭な意味の言葉になります。
 ヤハウェの御名を「主」と置き換えたことは、どれほど多くの損失をもたらしたでしょうか。旧約聖書ヨエル書2:31-32に、つぎのような御言葉があります。
 「ヤハウェの大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、ヤハウェの名を呼ぶ者はみな救われる」。
 聖書は、世の終末の時代に「ヤハウェの名を呼ぶ者は、みな救われる」と言っています。ところが、今日この神の御名を知っているクリスチャンが、一体どれほどいるでしょうか。
 「神の御名って、神の御名は『神』ではないの?」
 「神の御名はイエスでしょ」
 といった理解をしている人が、多いのではないでしょうか。しかしこのような理解は、到底、正確なものとは言えません。
 なぜ神の御名であるヤハウェが、人々の心から忘れ去られるようになってしまったのでしょうか。また神の御名が、エホバとも言われてきたのは、一体なぜでしょうか。
 私たちは、「神」「主」「エホバ」「ヤハウェ」という言葉について、少し詳しく調べてみる必要があるでしょう。


「神」は普通名詞「ヤハウェ」は固有名詞

 まず、「神」という言葉ですが、これは普通名詞です。「人」「車」「犬」「馬」などの言葉と同様、特定の特徴を持った存在を表す普通名詞です。
 これに対して「ヤハウェ」(エホバ)は、神ご自身の固有名詞です。人間において「太郎」や「花子」が、その人個人の名前であるように、「ヤハウェ」は神ご自身の固有のお名前なのです。
 「神」は、旧約聖書の原語であるヘブル語で、エローヒームといいます。または、エールと言います。新約聖書の原語ギリシャ語では、これをセオスといいます。これらの言葉に、日本語の聖書翻訳者は、「」の語を当てました。
 日本語の「かみ」は、本来「上にある者」の意味である、と言われています。それは尊敬、あるいは崇敬の対象としての意味を持っていました。
 しかし、漢語の「神」は、鬼神的な意味も持っています。そのため漢訳聖書では、「神」と訳されず、「上帝」と訳されました。
 そうしたことからも、至高の創造者に「神」の語を当てることには、昔から日本で議論がありました。しかし最近では、キリスト教的な天地の創造主を意味する語としての「神」の理解が、一般の人々の間でも進んできているように見受けられます。
 さて創世記1:1の、
 「はじめに神は天と地とを創造された」
 の「神」は、原語でエローヒームです。この言葉は、じつは複数形です(単数形はエローアフ)。なのに「神々」と訳されないのは、「創造された」の動詞が単数形だからなのです。
 主語が複数なら、動詞も複数形であるはずですが、そうなっていないのです。つまりこの複数は、普通の複数ではありません。これは多神教と関係がなく、またじつは神の三位一体とも関係がない、と言われています。
 この複数形は、「畏敬複数」と呼ばれるものなのです。ヘブル語では、大いなるものとか偉大なものなど、畏怖の対象となるものは、複数形で語られるからです。たとえば「海」なども、一つしかないのに、複数形で語られています(創世1:10)。
 「神」はまた、ヘブル語でエールといいます。たとえば創世記17:1の、
 「私は全能の神である」
 の「全能の神」は、ヘブル語では「エール・シャダイ」です。
 「イスラエル」はイスラ・エールで、彼・神と争う、または神争いたもう、の意味。「インマヌエル」はインマヌ・エールで、神われらと共にいます、の意味です。
 なお、神を意味する「エール」は、アラビア語で「アラー」と言います。イスラム教の神であるアラーの名は、ここから来ています。アラーはもともと固有名詞ではなく、単に「神」を意味する普通名詞であったわけです。
 つまり、神の固有の御名である「ヤハウェ」を知っているのは、キリスト教徒と、ユダヤ教徒だけです。私たちは、大切な神の御名を授かっているのです。
 また「神」は、新約聖書のギリシャ語ではセオスといいます。これがラテン語ではデウスとなり、かつて日本のキリシタンたちは、神を「デウス様」と呼んでいました。
 また英語の「ゴッド」(God)は、good(善)が語源と言われています。しかし定かではありません。


神の御名を発音することを聖書は禁じていない

 つぎに、なぜ神の御名ヤハウェが、訳本の中で「主」の言葉に置き換えられるようになったのでしょうか。
 神の御名を「主」と置き換えることは、B.C.3世紀頃に、ユダヤ人の間で始まったと言われています。旧約聖書には、
 「ヤハウェの御名を冒涜(ぼうとく)する者は、必ず殺されなければならない」(レビ24:16)
 と記されています。ユダヤ人はやがて、この聖句から、ヤハウェの神の御名を発音することさえも、異常に恐れるようになりました。
 これには、特に当時ユダヤ人が使っていた「70人訳聖書」(セプチュアギンタ)というものも関係していました。70人訳聖書は、ヘブル語の旧約聖書を70人の学者がギリシャ語に翻訳したもので、最古のギリシャ語訳旧約聖書として、昔のユダヤ人が盛んに用いていたものです。
 70人訳聖書は、上記の「ヤハウェの御名を冒涜する者は・・・・」を、
 「ヤハウェの御名を呼ぶ者は・・・・」
 (あるいはヤハウェの名で呼ぶ者は・・・・)
 と訳しました。これは明らかに誤訳でしたが、その影響は大きいものでした。
 実際、このためにユダヤ人は、聖書を読むときヤハウェの御名の記された箇所に来ると、それを「アドーナーイ」(主)と読み変えたのです。
 また聖書に、「アドーナーイ・ヤハウェ」(主ヤハウェ)と続けてある箇所は、「アドーナーイ・エローヒーム」と読み変えました。
 こうしてヤハウェの御名は、やがて発音されないようになってしまったのです。
 ヘブル語は、子音だけで記される言葉です。普通はその子音に、母音に相当する発音記号をつけて、発音します。
 しかし神の御名を表す子音文字には、このような理由で、本来の発音記号がつけられませんでした。それで正しい発音が、次第にわからなくなってしまったのです。
 では、「ヤハウェの御名を冒涜する者は・・・・」という上の聖句は、本当に神の御名を発音することさえ禁じたものでしょうか。
 いいえ、疑いもなく、そのようなことは決してありません。もし神の御名を発音することさえいけないのであれば、なぜ聖書の原本に「ヤハウェ」という神の呼び名が、6500回以上も出てくるのでしょうか。
 創世記4:26には、アダムの孫のエノシュの時代に、人々は、
 「ヤハウェの御名によって祈ることを始めた
 と記されています。当時の人々は、
 「ヤハウェ様」
 と、神の御名を呼んで祈ったはずです。また、かつてイスラエルの指導者モーセが、
 「ヤハウェは安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」(出エ20:11)
 と民に向かって述べた中で、彼は「ヤハウェ」の御名を発音しなかったでしょうか。また民が、このモーセの言葉に答えて、
 「ヤハウェの仰せられたことは、みな行ないます」(出エ24:3)
 と叫んだとき、彼らはヤハウェの御名を声に出さなかったでしょうか。あるいは彼らは「ヤハウェ」の御名の箇所を、「主」と置き換えて言ったでしょうか。
 もちろん、そのようなことはなかったはずです。彼らはヤハウェの御名を、声に出して発音したのです。そうでなければ、多神教の広まりつつあった当時において、どの神を信じるのか、はっきり表明できなかったからです。
 人々は、唯一の真の神への信仰を告白する際に、神の御名ヤハウェを用いました。預言者も民も、それを用いました。またルツ記2:4には、ボアズが刈り入れ人たちに、
 「ヤハウェがあなたがたと共におられますように」
 と言い、それに答えて刈り入れ人たちが、
 「ヤハウェがあなたを祝福されますように」
 と言った箇所があります。人々は挨拶の中でも、気軽にヤハウェの名を発音したのです。


ボアズが「ヤハウェがあなたがたと
共におられますように」と挨拶すると、人々は
「ヤハウェがあなたを祝福されますように」と答えた。

 そうであれば、どうして神の御名の発音を禁じる理由があるでしょうか。1543年に、宗教改革者マルチン・ルターはこう書きました。
 「彼ら(ユダヤ人)は現在、ヤハウェの御名は発音すべきでないと主張している。しかし彼らは、自分たちの語っている事柄を理解していない。・・・・
 もし、神の御名をペンとインクで書いて良いのなら、なぜ口にするのはいけないのか。声に出すほうが、ペンとインクで書くより、ずっと勝っている。
 口にするのがいけないというなら、なぜそれを書いてはならないもの、読んではならないもの、考えてはならないもの、とも言わないのか。これらを考えると、実に不快にさせられる」。
 聖書は明らかに、神の御名を発音することを、禁じていません。禁じているのは、神の御名に対する敬いの心を持たずに、御名を「みだりに唱える」(出エ20:7)ことです。もし常に、
 「御名があがめられますように」(マタ6:9)
 という心を持って御名を発音するなら、それは一向にさしつかえないことです。それはむしろ、信仰の告白となることであり、大切なことと言えるでしょう。


「エホバ」か「ヤハウェ」か

 つぎに、神の御名は、なぜ一時「エホバ」と思われたのでしょうか。
 ヘブル語聖書では、神の御名は、

                   
 と記されています。これら4つの文字が、神の御名を表す神聖四字(テトラグラマトン)です。
 ヘブル語は右から読むのですが、これらの神聖四字は、それぞれローマ字のYHWHに相当します。
 このようにヘブル語は、子音だけです。しかし一般には、それに母音記号をつけて発音します。
 ユダヤ人は、神の御名を発音することをしませんでしたから、ユダヤ人はしばしば聖書朗読者のために、神聖四字の母音記号として、アドーナーイ(主)の母音記号を書き加えました。そしてその神聖四字を、アドーナーイと読ませたのです。
 ところがA.D.1518年に、ガラチヌスという人が、神聖四字YHWHにアドーナーイの母音記号をつけたものをアドーナーイと読まずに、それをそのままエホーワー(Yehowah)と発音しました。
 ヘブル語の「アドーナーイ」の母音は、ァ・オー・アーです。それを彼はエ・オー・アーとし、神聖四字YHWHの母音として当てはめて、エホーワー(Yehowah)と発音したのです。これから、エホバ(Jehovah)という呼び名が起こりました。
 しかし、これは強引だったようです。『聖書辞典』(いのちのことば社発行)には、こう述べられています。
 「ガラチヌス(A.D.1518年)が初めて神聖四字にアドーナーイの母音記号を合わせて、これをエホーワーと発音したことから、エホバという呼び名が起こった、しかしこれは、ヘブル語の発音法から言って無理で、ヤハウェが古代の発音に近いであろう」(「主」の項)。
 また、『新聖書大辞典』(キリスト新聞社発行)には、こう述べられています。
 「エホバという読み方は、この慣習(神聖四字にアドーナーイの母音記号をつけたこと)に対する無知による、誤読である」(「主」の項)。
 では、神聖四字YHWHをヤハウェと発音すべきという根拠は、何でしょうか。
 その根拠はおもに、幾つかの古代資料にあります。たとえば、キュロスのテオドレトス(Theodoretos)の記すサマリア人の読み方ヤーベ(ιαβε)、アレクサンドリアのクレメンス(Clemens)による読み方ヤーウーエィ(ιαουαι)などです。
 これらは、もともとの発音がヤハウェであったことを思わせます。
 またヤハウェの短縮形は、「ヤハ」です。たとえば、
 「苦しみのうちから、私はを求めた」(詩篇118:5)
 の「主」は、原語ではヤハです。
 この発音は、今も多くの言葉の中に残っています。たとえば「ハレルヤ」は、ハレル・ヤハで、“ヤハウェをほめよ”の意味です。
 預言者「エリヤ」の名はエリ・ヤハ(またはエリ・ヤハゥー)で、“ヤハウェは神である”の意味。預言者「イザヤ」はイザ・ヤハ(イザ・ヤハゥー)で、“ヤハウェの救い”の意味です。


預言者エリヤの名は、エリ・ヤハで、
    「ヤハウェは神である」の意味である。 
ドレ画

 預言者「エレミヤ」はエレミ・ヤハ(またはエレミ・ヤハゥー)で、“ヤハウェが(母胎から)解かれますように”の意味。「アナニヤ」はアナニ・ヤハで、“わが主はヤハウェ”。またモーセの後継者「ヨシュア」はヤェホー・シュア(ヤハゥ・シュア)で、“ヤハウェは救い”の意味です。
 そのほか、ユダヤ人の人名や言葉の中には、神の御名の短縮形であるヤハが含まれていることが多くあります。こうしたことから、今では多くの学者が、神の御名はヤハウェであると考えています。
 神の御名ヤハウェは、深い意味を持っています。
 この御名は、ヘブル動詞ハーヤー(ある、あらせる)の変化したものと言われ、「実在者」、もしくは「在らしめる者」「創造者」の意味を持つ、と言われています。
 それはまことに、真の実在であるおかた、創造主、また永遠の独立自存者であるかたに、ふさわしいお名前であると言えるでしょう。


大切なのは崇敬の心を持って神の御名を呼ぶこと

 以上、いくつかのことを述べてきましたが、ここで最も大切なのは、神の御名がエホバかヤハウェか、ということではありません。
 大切なのは、神の御名である神聖四字YHWHに対する、崇敬の心です。神聖四字に発する読み方であれば、若干の発音の違いは、神はおゆるしになるのではないでしょうか。
 ヤハウェでも、ヤーウェでも、またたとえエホバであっても、崇敬の心をもって発音するのであれば、神は快くその呼び名をお受けになるでしょう。
 日本語でヤハウェと言うところを、英語ではジャーウェー(Jahweh)と発音されることがあります。フランス語では、ヤハベと発音します。
 同じ神の御名であるのに、言語によって、ずいぶん発音が違うわけです。そうであれば、多少の発音の違いは、もともと大きな問題ではないはずです。人が完全な発音で神の御名を呼ぶのは、もともと不可能なのです。
 むろん、人が神の御名の正しい発音を探求していくことは、良いことでしょう。しかし正しい発音が真に大切なことなら、神ご自身が、その発音が保存されるよう、歴史的に取り計らってくださったはずです。
 大切なのは、現在自分が知っている言葉で、崇敬の心を持って神の御名を呼ぶことなのです。


 あなたは、神ヤハウェの御名を尊んでいるでしょうか。その御名のあがめられることを、願っていますか。
 神の御名こそ、全地であがめられるのに、ふさわしいものです。詩編の作者はうたいました。
 「ヤハウェという名をお持ちになるあなたのみ、全地をしろしめす(お治めになる)、いと高き者であることを、彼らに知らせてください」(詩編83:18)。
 この高貴な御名は、神ご自身と共に、とこしえに存続するのです。
 ヤハウェの神の御名を知っていることは、単なる知識以上のことを意味します。それは自分が、神ご自身との深い関係にあることを、意味するのです。
 人間関係の中でも、相手の人の名前さえ知らないようでは、その人と親しい間柄であるとは言えないでしょう。ましてや神との関係は、そうです。
 神の御名を知り、神と深い関係にあることの恩恵は、測り知れません。聖書は言っています。
 「彼が、わたし(神)を愛しているから、わたしは彼を助けだそう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう」(詩編91:14)。
 「私の名を知っているから」――神の名を知り、その御名のあがめられるために生活している者は、「高く上げ」られることでしょう。また、こう言われています。
 「ヤハウェを恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が開かれた。『彼らは、わたしのものとなる。――万軍のヤハウェは仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる』」(マラ3:16-17)。
 宣教とは、ヤハウェこそ神であり、その御子イエス・キリストこそ世の救い主であることを、人々に知らせることなのです。

久保有政(レムナント1993年4月号より)

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