終末と新世界

なぜ悪や苦しみがあるのか
悪の問題と世界の終末

世界にききんがあることについて神を非難するのなら、
穀物を豊かに産する田畑や果樹園などが
世界に多くあることについては、一体誰を賞賛するのか。

 私たちは、やがて一切の悪と苦しみが世界から追放される時が来る、ということを聖書を通して学んできました。
 しかしここで、悪と苦しみの問題に関して、さらに深い検討を加えてみましょう。それは、このことで多くの人が、神をそしっているからです。人々は言います。
 「神は愛であるものか。神が愛であるなら、なぜこの世は、こんなにも悪と苦しみに満ちているのか」。
 そのほか、悪についての正しい知識がないために、多くの人が、人間的な判断で神を非難しているのです。


世界に悪や苦しみがあることの責任はどこにあるのか

 ある人々は、
 「神がいるなら、なぜ世界に悪や苦しみがあるのか」
 と言い、またある人々は、悪や苦しみがあるのは神の責任だとして、神を非難します。しかし、これは正しいでしょうか。
 たとえば、この世界には多くの悪人がいて、人に危害を与えたり、物を盗んだりします。
 もし、こうしたことについて神を非難するとすれば、そうした人は、この世界に平和を愛し隣人(りんじん)愛に励む多くの偉人・聖人がいることについて、いったい誰を称賛するのでしょうか。
 またこの世界には、ききんがあり、しばしば多くの人が飢(う)えに苦しんで死んでいきます。
 もし、ききんがあることについて、それは神が悪いと言うなら、そのように言う人は、この世界に見られる多くの肥沃な田畑や、果物を豊かに産する果樹園等については、誰を称賛するのでしょうか。
 また、病気というものがあることについて、その責任を神に帰するなら、人体に備わっている驚くべき自然治癒力(ちゆりょく)については、その功績を誰に帰するのでしょうか。
 また、貧民街や貧民窟のような場所があることについて、その責任を神に帰するとすれば、雄大な山々、澄んだ美しい湖、清らかな花々が、いたるところにあることについては、誰をほめたたえるのでしょうか。
 明らかに、世界には、良いことと悪いことの両方があります。もし、世界に悪いことがあるのが神の責任ならば、良いことがあるのは誰の功績なのでしょうか。
 多くの人は、世界にある悪いことについては、神の責任だと言って神を非難しますが、良いこと、すばらしいことについては、誰をも称賛しません。
 それとも神は、良いことも悪いことも同時に行なわれる、矛盾したおかたでしょうか。しかし、聖書は言っています。
 「あなた(神)は善にして、善を行なわれます(詩篇119:68)
 また、
 「主のみわざは完全。まことに主の道は、みな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しいかた、(す)ぐなかたである」(申命32:4)
 神が、良いことも悪いことも同時にする、矛盾したおかただとは到底考えられません。
 では、誰に責任があるのでしょうか。あるいは、世界に悪や苦しみがある原因は、どこにあるのでしょうか。


悪と苦しみはサタンの誘惑と人間の自発的決断という2つの事柄によって世界に入った

 世界に悪と苦しみが入った原因については、つぎの例話によって、ある程度たとえられるでしょう。
 ある小学校で、大火事が起き、生徒の多くが焼け死にました。火事の原因は、上級生の一人が友だちをそそのかして、ストーブにいたずらをさせたためでした。
 そのストーブから火が広がり、ついには学校を全焼してしまったのです。火事の最中、校長はひどく心を痛め、一人でも生徒を救い出そうと奔走しました。
 火が消えた後、疲れ果てた校長のもとに、子どもを火事で亡くした親が来て、こう、つめよりました。
 「校長、あなたは学校の責任者ではないか。なぜ、こんなことが起こらないように、もっと努力をしなかったのか。うちの子を返してくれーっ」。
 校長は、それを聞きながら、何も言わず涙ぐんでいました。
 しかしその親は、校長が火事の最中、命がけで子どもたちを救い出そうと奔走(ほんそう)し、幾人かを救い出したこと、しかし校長自身も、その学校で生徒として学んでいた自分のひとり息子をその火事で失ったことを、あとで聞いて、恥じ入ったとのことです。
 親は、火事の責任を校長に求め、感情的に非難しました。その気持ちは理解できます。しかしそうした責任追求は、必ずしも当を得たものとは言えなかったでしょう。
 私たちは一方的に非難するのではなく、冷静に物事の状況や事情を、まずよく理解しなければなりません。
 この火事の場合は、直接的には、そそのかした生徒と、そそのかされた生徒の行為を原因として、起きました。
 同様に、世界に罪と災いが入った出来事も、2つの面から起きました。つまり、サタンの誘惑と、人間の自発的決断という両面から起きたのです。
 まずエデンの園で、「へび」がエバを誘惑しました。神の命令に背(そむ)くよう、エバを誘惑したのです。
 この「へび」は、2重の意味を持っています。一つは、文字通りハ虫類のへびであり、もう一つは、サタン(悪魔)です。
 サタンはこの世の悪の勢力の主体であって、へびがサタンを意味していたことは、黙示録の次の言葉から明らかです。
 「この巨大な竜、すなわち悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は・・・・」(黙示12:9)
 ここで「あの古いへび」が、エデンの園にも姿を表したあの「へび」であることは、明らかでしょう。つまりエバを誘惑したへびの背後には、サタンがいたのです。
 サタンは、へびを通して、エバを誘惑しました。
 このとき、エバはその誘惑を拒むべきでしたし、拒む能力も持っていました。しかし彼女は自発的決断により、「食べるな」と神に命じられていた木の実を、食べてしまいました。
 つづいてアダムも、自発的決断により、そうしました。堕落は、このように2つの面――サタンの誘惑と、人間の自発的決断とによって起きたのです。


ラファエロ画「アダムとエバ」。エデン追放の前なので、
へび(サタン)は人のような顔を持ったものとして描かれている。



なぜ神は、初めから人間を背かない者に造らなかったのか

 さて、堕落が人間の自発的決断によって起きたのなら、なぜ神は、初めから人間を背かない者に造らなかったのか、という疑問を持つ人が少なくありません。そうした人々は言います。
 「神は、なぜ人間を、どんなことがあっても決して背かないように造らなかったのか。もしそうしていたら、人間は堕落することもなかったのに」。
 また、
 「こんな人間を造った神に、欠陥があるのだ」
 と言って、神を非難する人もいます。
 しかし、神のみこころにある考えを無視し、そのみことばに聞こうとせずに、自分の考えで一方的に神を非難することは、正しいでしょうか。聖書は言っています。
 「ああ。陶器(とうき)が、陶器を作る者に抗議するように、自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、『何を造るのか』とか、『あなたの造った物には、手がついていない』などと言うであろうか」(イザ45:9)
 陶器師が陶器をつくるとき、彼はそれを何かの目的をもって、つくります。そしてそれを、その目的にかなうような特徴を備えたものに、つくりあげるでしょう。


陶器師が陶器をつくるとき、彼はそれを
何かの目的をもってつくる。そしてそれを、
その目的にかなった特徴を備えたものに、つくり上げる。

 その目的にかなった形、色、材質につくるのです。同様に人間が創造されたときも、神は人間を、ご自身の目的にかなう性質を持つ者にお造りになったはずです。
 では、神が人間を創造された目的は、何だったでしょうか。
 神が人間を創造されたのは、人間が神との愛と生命の交わりの中で、神の栄光を現わし、それによって、
 "神が人を喜び、人間もまた神を喜ぶ"
 という相互の喜びが実現されるためでした。人間の創造目的は、神ご自身の幸福と人間の幸福の双方を、目指していたのです。
 人間は、神との間に、愛と生命の交わりをなす者として造られました。それは人間を通して、神の栄光(すばらしさ)が現わされるためです(Iヨハ1:3、Iコリ6:20)
 そのとき、神は人間のわざを見て人間を喜び、人間もまた、自分を造り恵みをお与えになる神に、感謝と讃美をささげ、神を喜びとするのです。
 しかし、人間が真に"愛の交わりの対象"となるためには、人間は、ある特徴を備えていなければなりません。
 それは、人間が自由な心で神を愛せることです。神に向けられる人間の愛は、決定されたものであってはいけないのです。
 神を愛することも、神を愛さないことも、人間の自由でなければなりません。そうでなければ、その愛に意味はありません。
 たとえば、人間が自動的に、オートマチックに神を愛するよう、人間の心が決定されていたとしたら、その愛に、はたして意味があるでしょうか。
 また、人間が自由な心で神を愛するのではなく、心を"操作"されて愛するのだとすれば、そのような愛で愛されて、神ははたして真の喜びをお感じになるでしょうか。
 ある優秀な科学者が、精巧なロボットをつくったとしましょう。このロボットは、すばらしい人工頭脳を備えており、独身のこの科学者の、身のまわりの世話を、いろいろ見てくれました。
 朝は定刻に起こしてくれ、洗濯も買い物もひとりでしてくれます。服がやぶければ、つくろってくれます。何かわからないことがあれば、合成音声で教えてくれます。
 しかしもしこのロボットが、人間の奥さんのするようなことをもっと出来たとしても、彼は、心や感情の動きのある人間の奥さんにしてもらうような、心の潤いを感じるでしょうか。
 ロボットがすることは、それが外面的にどんなに人間の行為に似ていても、所詮(しょせん)、魂のないプログラムされた行為にすぎません。それは生命ではなく、機械だからです。
 人間なら、愛し、愛され、幸福を感じることができます。しかし機械は、人間の行為のまねごとをするだけで、何を感じることもできません。
 そんな機械が、自動化された愛のようなもので世話をしたり、心情のない会話を持ったとしても、人は決して真の心の満足は得られないのです。
 ましてや神は、決定された愛によってオートマチックに愛されたとしても、真の喜び楽しみをお感じになりません
 それは人間側でもそうです。人間がもし、心を操作されて他の意志によって動かされて神を愛したとしても、その愛は、その人自身の喜びとはなりません。
 人間は、自分の愛が、自発的なものであり、自由な心情から出てくるものであるところに、喜びを感じることができるのです。


神は人間が何を愛するかについて人間に自由をお与えになった

 そういうわけで、人間が真に神の愛の交わりの対象となるためには、人間の心は自由で、その愛は自発的なものである必要がありました。
 そこで神は、この目的を果たすために、人間が何を愛するかについて、人間に全き自由をお与えになったのです。
 人間は、この愛と生命の交わりをもとに、神の栄光を現わす者として造られました。
 人間は、初めから神に背かない者として造られていれば、神の栄光を現わせたでしょうか。しかし神は、人間をあやつり人形のようにしてまで、ご自分の栄光を現わしたいとは思われませんでした。
 いや、あやつり人形のようでは、真に神の栄光を現わせないことを、知っておられたのです。真に神の栄光を現わすためには、やはり人間側の自発的・積極的意志が必要でした。
 神は、人間側の自発的従順(じゅうじゅん)を通して、ご自身の栄光を現わすことを望まれました。
 すなわち人間が、神の導き、命令、助言を求めて歩み、みこころへの自発的従順によって神の栄光を現わすことを、望まれたのです。
 この従順には、豊かな報いが用意されていました。それは、神も人も喜ぶためです。
 従順もまた、このように自発的なものでなければならず、決定されたものや、強制されたものでは意味がなかったのです。
 このように神は、人間の自発的愛と自発的従順を望まれ、人間に人格的自由、そして自由意志をお与えになりました。人間は、自分の道を、自分で選ぶことができたのです。


グレコ画「聖ペテロの涙」。神は人に、
神を愛することに関して、全き自由をお与えになった。

                                                                                                                             久保有政

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