主のみこころを知る方法
私たちは聖書と、摂理と、聖霊によって、主のみこころを知る
聖書には、主のみこころの原則的なものは、残らず記されている。
〔聖書テキスト〕
「それから彼らは(パウロたち)は、アジア(現在のトルコ共和国西部)で御言葉を語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。
ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、
『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けて下さい』
と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤ(現在のギリシャ)へ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである」(使徒の働き16:6-10)
〔メッセージ〕
神のみこころを知る方法について、学びましょう。
私たちは、しばしば人生の岐路に立たされます。その岐路でどのような決断をするかによって、人生が大きく左右されるのです。
「あれか、これか」――仕事、家庭、学業のことで、間違った決断をして、不幸になった人が少なくありません。どのようにしたら、人生の岐路において正しい決断ができるのでしょうか。
クリスチャンは、正しい決断をするために神のみこころを知ることが大切である、と知っています。
神のみこころを知らない人は、将軍の命令を知らずに闇雲に行動する兵士のようです。また、社長の考えを聞かずに自分勝手に行動する社員にも似ています。
幸福をつかむか不幸になるか、人生に勝利するか敗退するか――これらは、天地の造り主、また歴史の支配者であるかたのご意思を、知って行動するか否かにかかっている、と言えるでしょう。
しかし、
「私は主のみこころに従って歩みたいと思います。でもどうしたら、何がみこころなのかを、具体的に知ることができるのですか」
と質問されるかたも、きっといるでしょう。そこで、神のみこころを知る方法について、ご一緒に学んでみることにしましょう。
みこころを知る上で、とくに大切な要素は3つあります。聖書・摂理・聖霊の3つです。それらを、一つずつ見ていきましょう。
1.聖書
聖書はすべて、「神の霊感を受けて書かれた」(Uテモ3:16) ものです。聖書には、神のみこころの原則的なものは、残らず記されています。
私たちは何か行動するとき、御言葉の裏付けがなければなりません。もし御言葉に照らし合わせてみて、御言葉が反対しているものなら、私たちはその行動をとりやめなければなりません。
テキストとしてあげた聖書箇所は、キリストの福音が、初めてヨーロッパに伝わろうとするところです。
使徒パウロは、はじめ東の方へ伝道に行こうとしました。しかし結局、主の導きにより西の方のマケドニヤ――すなわち現在のギリシャ地方へと伝道に向かったのです。
ある人々はきっと、
「自分たちの祖国ユダヤもまだキリスト教化されていないのに、なぜ外国へ行くのか」
といぶかったことでしょう。そして反対する人も、いたに違いありません。
パウロたちは東方へ行くことを取りやめ、
西のトロアス町へ行き、さらに西のマケドニヤへ渡った。
こうして最初のヨーロッパ伝道が開始されたのである。
台湾で宣教をしている、私の知っているある日本人宣教師も、やはり台湾へ行くとき、知人から同じようなことを言われたそうです。
「日本もまだキリスト教化されていないのに、なぜ外国へ行くのですか」
と。しかし彼にも、また使徒パウロにも、その海外宣教については、主イエスの言われた次の御言葉の裏づけがありました。
「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マタ16:15)。
かつて大説教家ジョン・ウェスレーは、
「世界はわが教区なり」
と言いました。私たちは伝道において、地上の国境線などはないもの、と思うべきなのです。それが主のみこころだからです。
私たちは主のみこころを、まず聖書によって知ります。詩篇の作者はこう述べました。
「あなた(神)のみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)。
有名なヘレン・ケラー女史は、生後まもなく熱病にかかり、盲聾唖となり、目は見えない、耳は聞こえない、口は話せないという三重苦を負いました。
彼女の家庭教師となったサリバン先生は、彼女に一体何を教えたでしょう――それは「言葉」でした。
「言葉がこの子の目になる」。
目は見えない、耳は聞こえないという人が、一体どうやって言葉を覚えるのでしょうか。
しかし、サリバン先生の非常な努力のすえ、ヘレンは大学に入れるほど言葉を話せるようになりました。そして無事、名門ハーバード大学を卒業できたのです。
私たちも、この世界を手探りであゆんでいるということでは、ヘレンと同じではないでしょうか。
私たちの多くは、空間的には世界を見ることができるでしょうが、未来の世界を見ることはできません。そして一歩一歩、未来に向かって手探りであゆんでいるのです。
そのとき私たちの「目」になるのは、神の御言葉のほかにありません。神の御言葉が、あなたの目になるのです。あなたは、神の御言葉を、心にたくわえているでしょうか。
詩篇の作者は、
「私はあなた(神)に罪を犯さないため、あなたの御言葉を心にたくわえました」(詩篇119:11)
と述べました。神の御言葉は、私たちが善悪を判断する際の基準であり、人生を成功に導く指針です。それは私たちの人生を豊かにする、光なのです。
みことばは、主のみこころを知るための第1の要素です。もしみことばが禁じているなら、それは主のみこころではなく、反対に、みことばが命じているなら主のみこころであり、またみことばが許可していることなら、それは許可されていることなのです。
私たちは、主のみこころを判断するために、ふだんから主の御言葉を心にたくわえていなければなりません。
2.摂理
みこころを知るための第2の要素は、摂理(せつり)です。摂理とは、神がご自身の計画にしたがって、事の成り行きを導かれることをいいます。
使徒パウロの一行は、ルステラ町から、はじめアジア地方(現在のトルコ共和国西部)へ行こうとしました。しかし彼らはそれを、
「聖霊によって禁じられた」
と記されています。それで彼らは、その北隣りのフルギヤ・ガラテヤ地方へやって来ました。
しかしさらに東方のビテニヤ地方へ行こうとすると、再び、
「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」
わけです。それで「ムシヤ(地方)を通って、トロアス(町)に下り」ました。彼らは結局、西方の町へ行ったのです。
この「聖霊によって禁じられた」、また「イエスの御霊がお許しにならなかった」とは、どういう意味なのでしょうか。
「聖霊」および「イエスの御霊」は、同じ意味です。神の聖霊は、イエスの御霊でもあるからです。御霊すなわち聖霊は、父なる神、および御子イエスから出ます(使徒2:33) 。
ある人は、この「聖霊によって禁じられた」というのは、きっと預言者が彼らの前に現われて、聖霊が預言者の口を通して語り、禁じたのだろうと想像しています。
しかし、もしそうした預言(神の御言葉を語ること)がなされたのならば、なぜ「こちらへ行くのはいけない」だけでなく、「こちらへ行け」というお告げがなされなかったのか、という疑問が生じます。
パウロ一行は、行くべきでない方向へ行くことを禁じられましたが、行くべき方向は、示されなかったのです。
したがって、神はおそらく預言者を通して禁じたのではなく、摂理をもって禁じられた、と考えられるのです。
つまり、パウロたちはそちらへ行こうとしたのですが、結局そちらへ行けないような状況になったのでしょう。
このテキストの10節に、
「私たちは、ただちにマケドニヤへ出かけることにした」
という言葉があります。この節以前は、「パウロとバルナバ」とか「彼ら」という言葉で言われていたものが、ここから急に「私たち」という言葉に変わるのです。
これは「We-セクション」(「私たち」部)と言われるところで、おそらく『使徒の働き』の著者であるルカ自身が、ここからパウロ一行に同行するようになったことを示している、と言われています。
同行するようになったルカは、「医者」(コロ4:14) でした。それである学者は、これは「肉体のとげ」を持っていたと言われるパウロの健康がすぐれなかったため、ここから医者ルカが同行するようになったのだろう、と想像しています。
そうであれば、けわしい山地であるビテニヤ地方をさけて、彼らがトロアス町へ下っていった、というのは納得の行くことです。
トロアスとは、「トロイの木馬」で有名な、古代都市トロイのことです。いずれにしても聖霊は、摂理をもって、彼らが神のご計画とは違う方向へ行くことを、禁じられたのです。
神の摂理は、道を閉じたり、開いたりします。
むかしヨセフは、兄弟たちのねたみを買い、商人に売られ、エジプトに連れていかれました。彼はそのとき、自分はなぜこんなひどい目に会うのだろう、と思ったに違いありません。
しかし、すべては神の摂理のもとにありました。ヨセフはエジプト人のもとで、しもべとなりました。彼は、やがて能力を買われ、次々に出世し、ついにはエジプトの宰相にまで登りつめました。
その後カナンの地にききんがあったため、ヨセフの父ヤコブと兄弟姉妹たちが、エジプトに避難してきました。
このときヤコブ一家が救われることが出来たのは、やはりヨセフがすでにエジプトに来ていて、宰相の地位にあったからでしょう。ヨセフは家族に対面したとき、彼らに対してこう言いました。
「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を(エジプトに)遣わして下さったのです」(創世45:5) 。
ヨセフは神の摂理に対して、目の開かれた人物でした。彼は自分の経験した逆境でさえも、大きな観点で見れば神の摂理のうちにあり、そこには善なる目的があることを知っていたのです。
摂理のうちには、神のみこころがあります。あなたが今、このサイトを読んでいることも、また教会へ導かれたことも、すべては神の摂理によるものなのです。
田原米子さんは、若いときの自殺未遂のために、足は片足が義足、手は一方しかなく、しかも3本しか指がないという体です。
しかし、病院を訪問してくれたクリスチャンたちの伝道により、クリスチャンに生まれ変わりました。そののち、伝道してくれたクリスチャンの一人と結婚。今は夫婦で伝道活動をしています。
米子さんは、ご主人からプロポーズを受けたとき、「自分はこんな体だから」と言って、すぐにそれを受けることはできなかったそうです。
しかし、ふたりの結婚について主のみこころかどうかを祈っていたとき、次の聖書の御言葉が与えられました。
「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたし(キリスト)の父は、それをかなえて下さいます」(マタ18:19)。
この御言葉が、米子さんだけでなく、プロポーズしたご主人の心に、強く迫りました。それは同じ日に、ふたりが別々の場所で祈った時に与えられたのです。
それでふたりは、主のみこころを確信。結婚にゴールインしました。これなども、神の摂理の一例です。
あなたの人生の大切な事柄についても、もしあなたが真剣に祈るなら、主は摂理をもってご自身のみこころを示されるでしょう。主は私たちの祈りに答えて、ある場合は道を開き、ある場合は道を閉じられるのです。
ただし「困難=神が禁止しておられる」とは思わないで下さい。神は困難を乗り越えて、その道をすすんでいくことを望んでおられることもあります。
神が摂理によってみこころをお示しになるときには、「これは神様がお示しになったこととしか思えない」というような出来事が起きたり、重なったりします。
摂理も、主のみこころを知る一つの重要な手立てなのです。
3.聖霊(による内なる導き)
神のみこころを知るための第3の要素は、聖霊による内なる導きです。聖霊による、私たちの心に対する語りかけなのです。
使徒パウロたちは、海辺の町トロアスに下っていき、そこで夜を過ごしました。すると、ひとりのマケドニヤ人――つまりギリシャ人が夢に現われて、
「マケドニヤ(ギリシャ)に渡って来て、私たちを助けてください」
と懇願するのでした。聖書はこの時のことについて、
「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである」
と記しています。
パウロの夢の中に現われたマケドニヤ人は、
「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」
と懇願するのであった。
パウロの見た夢は、目がさめたら忘れてしまうような夢とは違った、ひじょうに印象的な夢でした。彼はきっと、眠りからさめたとき、目に涙を浮かべていたでしょう。
ギリシャ人が現われて助けを求めた姿は、ギリシャに伝道に行くべきことを、示しているのか――パウロはきっと、
「ギリシャへ行くことが、あなたのみこころですか。ヨーロッパ宣教をまずしなさい、ということなのですか?」
と祈ったことでしょう。すると聖霊は、彼に深い「確信」を与えてくださいました。すばらしい平安を与えてくださったのです。
彼らはギリシャへ行き、ヨーロッパの地を歩いて、伝道をしました。こうして福音は、以後、ヨーロッパ→イギリス→アメリカというように、西へ西へと伝わり、さらには今や太平洋を越えて、アジア・アフリカの時代へと入っています。
福音の中心地は、西へ西へと移り、ついには世界を一周するのです。
現代では、こうした「夢」による示しは、多くあるものではありません。それは、歴史的にとくに重要な場合などに限って行なわれてきたものです。
しかし聖霊は、クリスチャンがみこころを求めて祈るとき、いつもその心に、導きを与えてくださいます。
「神はみこころのままに、あなたがたの内に働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリ2:13)
と記されています。神は聖霊によって、私たちの心の内に、まず「志」を立てさせてくださるのです。私たちが逃れることのできないような、聖なる願いを、内に起こしてくださるのです。
主に祈り、愛に基づく強い願いが起こされ、
誰も奪うことのできない平安がそれに伴うなら、
それは聖霊によるものと考えてよい。
もしあなたが、聖書を学び、主のみこころを祈っているとき、神と人のために、心の内に強く聖なる願いが起こされたなら、それは聖霊によるものと考えて、間違いはないでしょう。聖霊以外に、そのような願いを起こせるかたはいないからです。
そして聖霊による志には、必ず平安がともないます。聖書を学べば学ぶほど、神と人のことを考えれば考えるほど、与えられた平安が深まっていくのです。
神は、「内導者」です。私たちを、内側から導いてくださるのです。
あのアルバート・シュヴァイツァー博士は、30歳までは、神学、哲学、音楽を学んでいました。
しかし30歳の時の、ある感謝祭の朝、ふと宣教会報を読んでいると、アフリカのコンゴで宣教師を求めている記事が、目に入りました。
シュヴァイツァーはそのとき、主のみこころを求めて祈りました。すると自分がアフリカに、伝道者として、また医者として行くべきことに、尽きない平安が与えられたのです。
彼はその後、大学の医学部に入学して医療を勉強。そして36歳の時、妻と共に、当時「暗黒大陸」と言われていたアフリカにわたり、伝道と医療の仕事に従事しました。
聖書には、
「あなたの隣人を、自分と同じように愛せよ」(マコ12:31)
と記されています。またキリストは、あの「良きサマリヤ人のたとえ」(ルカ10:29-37)を語られているように、人を愛することは主のみこころです。
つぎに、シュヴァイツァーが、自分の読んでいた宣教会報の宣教師を求めている記事に心を奪われたこと――これは摂理です。神は摂理によって、その記事に目をとめさせて下さったのです。
アルバート・シュヴァイツァー博士
また彼が主のみこころを求めて祈り、自分がアフリカに宣教師として、また医者として行くことに強い願いが与えられ、また深い平安が与えられたこと――これは、聖霊による内なる導きなのです。
二、三の注意
このように、神のみこころを知る上で、最も大切なのは、聖書・摂理・聖霊の3つです。
どれも「せ」から始まる言葉なので、覚えやすいでしょう。それらが3拍子そろえば、主のみこころと確信してよいのです。
ここで注意しなければならないことは、これらのうち最も大切なのは、最初の「聖書」、すなわち神の御言葉だということです。
もし、聖書に禁じられている事柄であれば、たとえ事の成り行きがどう見えても、あるいは心に願いが起こされても、それを決して主のみこころと思ってはなりません。
聖書の御言葉は、主のみこころの原則を記したものであって、最も明確なものです。聖書に禁じられていることは、決して主のみこころではあり得ません。
ですから、たとえばある人が、
「私は夢を見ました。これが主のみこころです」
と言っても、あるいは、
「私には神のお告げがありました。それはこうです」
と言っても、もし聖書の御言葉に矛盾するような事柄であれば、それを主からのものと思ってはいけません。
つぎに注意すべきことは、聖書・摂理・聖霊の3つが最も大切なのですが、それらについてあなたが間違った判断を下さないために、できるだけ信仰の先輩や、信仰の指導者に相談することをおすすめしたい、ということです。
信仰の先輩に相談し、祈ってもらえば、聖書の御言葉に関して、あなたはより深い理解が得られるかもしれません。
あるいは摂理に関して、あなたの目が、より詳しく開かれるかもしれません。また聖霊の内なる導きについても、より深く判断できるようになるかもしれません。
信仰の先輩に相談し、祈ってもらうことは、あなたが間違った判断をしないための、補助的な手段なのです。そうした中で、聖書・摂理・聖霊による主のみこころを、尋ね求めるのがよいでしょう。
今あなたは、何か、事をなそうとしているでしょうか。あるいは、人生の岐路に立たされているでしょうか。
もしそうなら、主のみこころを祈り求めてください。聖書の御言葉は、何と言っていますか。摂理はどうですか。聖霊はあなたに、何と語りかけておられますか。
信仰の先輩には、相談してみましたか。あなたは時間をかけて、主のみこころを祈り求めましたか。
主の御心であれば、聖霊は必ず、あなたに強い願いと、尽きない平安を与えてくださいます。世の人々がたとえいかに反対しようとも、その道を進もう、との決意と平安を与えてくださるのです。
どうぞ、主のみこころを常に尋ね求めながら、人生をあゆんでいってください。読者の一人一人が、神に喜ばれる生活を送れるよう、また、
「こうして良かった」
とあとで言える人生を送れるよう、また父母から受けたこの体で神の栄光を豊かに現わし幸福になれるよう、主イエス・キリストの御名によって、祝福致します。
久保有政著(レムナント1992年12月号より)
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