信仰・救い

祈りは第3の手
祈りの手は、肉体の手以上に多くの事を行なう。


主イエスは死んだ少女の手を取って、「少女よ。
あなたに言う。起きなさい」と言われた。
すると少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。

〔聖書テキスト〕

 「イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、一生懸命願ってこう言った
 『私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください』。
 そこで、イエスは彼と一緒に出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
 ところで、12年のあいだ長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果してしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れこみ、うしろから、イエスの着物にさわった
 『お着物にさわることでもできれば、きっと直る
 と考えていた
からである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、体に感じた。イエスもすぐに、自分のうちから力が外に出ていったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、
 『だれがわたしの着物にさわったのですか』
 と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。
 『群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも「だれがわたしにさわったのか」とおっしゃるのですか』。
 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こったことを知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。
 『娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい』。
 イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から、人がやって来て言った。
 『あなたのお嬢さんは亡くなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう』。
 イエスはその話の言葉をそばで聞いて、会堂管理者に言われた。
 『恐れないで、ただ信じていなさい』。
 そしてペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。
 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中に入ってこう言われた。
 『なぜ取り乱して泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです』。
 人々はイエスをあざ笑った。しかしイエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。そして子どもの手を取って
 『タリタ、クミ』
 と言われた(訳して言えば、『少女よ。あなたに言う。起きなさい』という意味である。)
 すると少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。12歳にもなっていたからである。彼らはたちまち、非常な驚きにつつまれた。
 イエスはこのことを誰にも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに少女に食事をさせるように言われた。」(マルコの福音書5:21-43)


〔メッセージ〕

 以前、ヒットした映画に「E.T.」といのがありました。異星人との心あたたまる交流を描いた映画でしたが、「E.T.」とは“Extra Terrstrial”という難しい言葉の略なんだそうです。
 その映画のポスターは、印象的でした。左側から異星人の手が、右側からは人間の手が伸ばされて、両者の人指し指が触れるか触れないかぐらいに接近している絵だったのです。
 ちょうど、ミケランジェロの有名な「天地創造」の絵の中の、神の手とアダムの手が触れるか触れないかぐらいに接近している場面を、思い起こさせるものでした。


ミケランジェロ「天地創造」――
神の手(右)とアダムの手(左)の部分。

 きょう私は、もう一つの「E.T.」に、私たちの手を伸ばしてふれる、ということをお話ししたいと思います。
 その「E.T.」とは“Eternal Truth" ――永遠の真理のことです。イエス様は、
 「私が道であり、真理であり、命なのです」(ヨハ14:6)
 とおっしゃいました。本当の真理は、イエス様のうちにあるのです。
 私たちは、2本の手を持っています。70〜80センチ先の所まで届く手です。しかし私たちは、じつはもう1本の手を持っています。
 それは「第3の手」であり、見えない手です。それは天にまでも届く手なのです。
 「そんな手がどこにあるのですか」
 とお思いですか。でもその手は、誰もが持っているのです。あなたも持っています。それは「祈りの手」です。


祈りの手は真理に触れる
 
 「祈りの手」は、本当は誰でも持っているのですが、残念ながら多くの人は、それを用いていません。その手の使い方を知らないのです。
 テキストの聖書箇所に、
 「大ぜいの人の群れが、(イエス様の)みもとに集まった」(マコ5:21)
 と記されています。
 今日も、大ぜいの人々が教会にやって来ます。中には、いろいろな人がいます。来はじめてまもないのに、すぐイエス様を信じる人。ながく来ているのに、なかなか信仰に入れない人。いろいろな人がいます。
 この違いは、どこから来るのでしょうか。その違いは、祈りの手を伸ばすか、伸ばさないかによるのです。
 私たちの肉体の手は、いろいろな働きをします。つかむ、運ぶ、触れる、ものを書く、作業する、・・・また耳をほじくるなんてこともできます。
 では、祈りの手は、どんな働きをするのでしょうか。祈りの手は、まず第1に、真理に触れるのです。
 私たちは知識だけでは、真理に触れることはできません。知識の中には、真理の半分もないのです。なぜイエス様は、
 「私が真理なのです」
 と言われたのでしょう。イエス様は、「私の教えは真理です」と言われるだけでなく、ご自身そのものが真理だと言われました。
 これは真理は、神および神の御子という、ご人格の中に存在するからです。イエス様のご人格そのものが真理なのです。真理は、人格を持っています。
 私たちは知識だけでは、真理に触れることができません。私たちは、祈りの手を通して、はじめて真理に触れることができます。
 かつてイエス様が復活されたとき、弟子のひとりのトマスは、なかなかイエス様の復活を信じようとしませんでした。そして、
 「私は、復活されたというそのイエス様の手に、釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」
 と言い放ちました。その8日後、弟子たちが室内にいたとき、イエス様がそこに入って来られました。そしてトマスに、
 「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」
 と言われました。トマスは、うち倒れるようにひれ伏して、
 「わが主よ、わが神よ
 と叫びました(ヨハ20:24-29)
 トマスはこのとき、自分の肉体の手を伸ばして、イエス様の手の釘跡には触れませんでした。わき腹の槍の跡にも、触れませんでした。
 しかし彼は、自分の持つ第3の手である「祈りの手」を伸ばして、イエス様に触れたのです。イエス様が、
 「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」
 と言われたとき、彼の霊の手がイエス様を抱きしめました。そして、
 「わが主よ、わが神よ」
 と信仰告白をしたのです。
 彼は、自分の常識や知識では、イエス様を信じきることができませんでした。しかし祈りの手――霊の手を通して、はじめてイエス様の真理に触れることができたのです。


トマスの手は、主イエスの肉体に触れなかった。
しかし彼の祈りの手が、そのとき真理に触れたのである。

 あなたには、神様のことで、わからないことがあるでしょうか。何か、まだ信じきれないものがあるでしょうか。そうであれば、あなたにおすすめしたいことは、あなたの祈りの手を伸ばすことです。
 あなたがそれを伸ばしさえすれば、神はその手をつかんでくださるのです。そして神様は、それを待っておられます。
 私たちは、すべてのことがわかってから信じるのではありません。むしろ信じると、すべてのことがわかってくるのです。
 ある高校生は、3年ほど教会に通っていましたが、なかなか確信を持てませんでした。そして私に手紙をくれたので、私はその返事に、
 「暗い世界に閉じこもらないようにしてください。あなたの顔を光のほうに向け、光のほうへ、あなたの心の手を差し出してください。そして、今の自分のありのままの状態を、神様に申し上げるとよいでしょう」
 と書きました。1週間後、彼は喜びの手紙をくれました。洗礼を受ける決心がつきました、とのことでした。彼は、自分の祈りの手を光の神に伸ばしたのです。
 祈りの手は、真理に触れます。これが第1の事柄です。


祈りの手は神の力を引き出す

 第2に、祈りの手は、神の力を引き出します。
 テキストの聖書箇所に、「長血の女」の話が出てきます。「長血」とは、婦人の生理に関する病の一つで、つねに不潔さを伴う病です。
 彼女は12年もの間、この病に苦しんでいました。医者からもひどい目に会わされ、自分の財産をみな使い果してしまいました。
 彼女はイエス様のことを耳にして、群衆の中にまぎれ込み、「うしろからイエスの着物にさわり」ました。
 当時「長血」は、ユダヤの律法で「汚れたもの」とされていましたので、その病にある者は儀式にたずさわることを禁じられていました。また当時のユダヤの学者たちは、婦人に触れられることを喜びませんでした。
 それで彼女は、ことさらに遠慮して、「うしろから」さわったのでしょう。これは、私たちの姿と同じではないでしょうか。
 私たちは、自分たちが卑しい者であることを知っています。自分たちが不潔な者であることを、知っています。しかも、
 「何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった」(5:26)
 というのも同じかも知れません。私たちも世の中で苦労しています。私たちも、何とか良くしていただきたいのです。
 女は、自分の手を伸ばして、イエス様に触れました。この「接触」が、重要な意義を持っていたのです。ポイント・オブ・コンタクト――接触するこの一点が、大切なのです。
 女がイエス様に触れたとき、彼女は「すぐに血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、体に感じ」ました。
 じつは、イエス様に触れた人は、そのとき大勢いたのです。弟子たちも、
 「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『誰が私にさわったのか』とおっしゃるのですか」
 と言いました。肉体の手でイエス様にさわった人は、沢山いたのです。
 しかし長血の女の伸ばした手は、ただの手ではありませんでした。そこには、祈りが込められていたのです。また、それは信仰の込められた手でした。


長血の女の手には、
信仰と祈りが込められていた。

 「『お着物にでもさわることができれば、きっと直る』と考えていたからである」(5:28)
 と記されています。この「考えていた」と訳されている言葉は、原語では「言っていた」です。
 単に心に思うだけではなく、彼女は言葉に出していたのです。それは、より大きな信仰です。彼女の差し出した手には、この信仰が、この祈りが込められていました。
 彼女は、単に肉体の手ではなく、信仰の手、祈りの手を伸ばしたのです。それがイエス様に触れました。その瞬間、病はいやされました。祈りの手は、神の力を引き出したのです。
 クリスチャン新聞の記事によると、1980年度のミス・アメリカとなったシェリル・プレウィットさんは、こんな証しをしています。
 プレウィットさんは、11歳のとき交通事故にあい、左足の骨が砕けてしまいました。全身ギプスの治療生活が続きましたが、ギプスを取ると、左足が5センチも短くなっていました。
 それからの6年間というもの、彼女は自分の左足が短いことを、ひた隠しに隠しました。しかしある日、彼女は主イエスによる「いやしの信仰」に立ちました。
 彼女は短いスカートに着替え、1日中高校のホールに、立ち続けました。それは「自分がいやされる前の足がどんな状態だったか、クラスメイトのみんなに見せておこう」と思ったからです。
 その夜、彼女は祈りました。
 「足を少し伸ばして元通りにするくらい、あなたには何でもないことです。私はあなたが下さるものを、みな受け取ります」。
 また、自分の生涯を主イエスに明け渡すことを、主に申し上げたのです。今は、ミス・アメリカに選ばれたほどのスタイルを持つ彼女です。
 むかし左足が5センチも短かったなどということは、誰も想像できないでしょう。しかしこれは、彼女自身とクラスメイトたちがよく知っている事実なのです。
 プレウィットさんは、祈りの手を伸ばしました。信仰の込められた祈りの手が、神の力を引き出したのです。
 これは病や障害に限ったことではありません。神の力を必要としている人は多くいます。いや、必要としない人はいません。
 あなたの心には今、どろどろとした長血のようなものが流れていないでしょうか。うみが出ていないでしょうか。あなたの家庭は?仕事は?人間関係は?
 長血の女ははじめ、医者のもとへ行きました。それも悪い医者だったので、彼女は財産をみな食われてしまいました。
 私たちはどこへ行くべきでしょう。大学教授の所でしょうか。哲学者の所でしょうか。政治家の所でしょうか。いわゆる宗教家の所でしょうか。
 いや、私たちは主イエス・キリストのもとへ行くべきなのです。そして行くとき、
 「お着物にでもさわることができれば、きっと直る」
 と考え、口にすることです。
 あなたの祈りの手を伸ばすのです。主の手の釘跡に、わき腹の槍の跡にふれるのです。十字架にふれるのです。
 そうすれば、すべてはいやされるのです。


祈りの手は人を生かす

 第3に、祈りの手は、人を生かします。
 テキストの聖書箇所で、会堂管理者ヤイロはイエス様に、
 「私の小さい娘が死にかけています。どうかおいで下さって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください」(5:23) 
 と「一生懸命願い」ました。彼は、自分の祈りの手を上げたのです
 ヤイロも長血の女と同様、イエス様が娘に手をふれて下さりさえすれば娘は助かる、との信仰を持っていました。そこでイエス様は、彼と一緒に娘のところへお出かけになりました。
 その途中で、さきの長血の女の出来事があったわけです。長血の女は、みんなの見ているところで、みごとにいやされました。ヤイロもそれを目撃して、どんなに心が強められたことでしょう。
 「イエス様はこんなに素晴らしい力をお持ちなのだ。娘もきっと直る」
 と思ったに違いありません。イエス様は、長血の女に対して、
 「娘よ、あなたの信仰があなたを直したのです。・・・」
 と言われました。ところが、まだそう話しておられるときに、ヤイロの家から人がやって来て、ヤイロにこう言いました。
 「お嬢さんは亡くなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」。
 ヤイロは一瞬、絶望感を感じたに違いありません。
 「とうとう死んでしまったのか。ああ、これでもうおしまいだ」
 しかしイエス様は、
 「恐れないで、ただ信じていなさい(5:36)
 と言って、どんどん家へ向かって行かれたのです。この「信じていなさい」とは、「信じ続けなさい」ということです。


長血の女がいやされた直後、
ヤイロのもとに訃報が入った。
しかしイエスは彼に言われた。
「恐れないで、ただ信じていなさい」。
 

 私たちも、自分の隣人のためにとりなしの祈りを捧げているとき、ときおり、悪いニュースが飛び込んでくることがあります。しかしイエス様は、
 「ただ信じていなさい」
 と言われるのです。
 私の知っているある人は、20年間、両親の救いのために祈りました。その20年の間には、両親の救いをあきらめたくなるような出来事も、多々あったに違いありません。
 しかしその人は、あきらめずに祈り続け、ついにその20年目にして、両親の魂を勝ち得ました。ふたりともイエス様を信じ、洗礼を受けたのです。
 旧約聖書に、イスラエルとアマレクが戦った時の出来事が記されています。そのとき指導者モーセは、イスラエルの勝利のために、手を上げて祈りました。
 しかし手を上げて祈っていると、しだいに疲れてきて、手が下がってきました。そこで従者アロンとホルが、両側からモーセの手をささえたので、モーセは祈り続けました。
 モーセの祈りの手は、日没まで下がることがありませんでした。こうしてイスラエルは、ついに勝利をおさめたのです(出エ17:8-13)
 イエス様もこのとき、ヤイロに、
 「恐れないで、ただ信じていなさい」
 と言われることによって、失望しかかっていたヤイロの祈りの手をささえて下さった
のです。
 イエス様はヤイロの家につき、ご自分の手を伸ばし、横たわっていた少女の手を取って、
 「少女よ、あなたに言う。起きなさい」
 と言われました。少女はすぐさま起き上がり、歩き始めました。
 私たちは信じぬいて、主の最善の時を待っているなら、主はそのときにご自身の手を伸ばして、事をなして下さるのです。主の御手の届かぬところはありません。
 祈りは、人を生かします。私たちが祈りの手をあげることは、愛なのです。
 以前私のもとに、あるかたからお電話がありました。
 「夕べ、私はクリスチャンになる決心をしました」
 というのです。
 じつはその人には、あるクリスチャン女性の友人がいました。彼女はふだんから、一人の耳の不自由な男の子の世話をしている人でした。その男の子は、聴力がかなり劣っていたのです。
 ある日、そのクリスチャン女性と、男の子と、電話をかけてきたその人との3人が、一緒に電車に乗っていました。クリスチャン女性が、聴力の劣るその男の子にたずねました。
 「世の中で一番つらいことは何?」
 男の子は、
 「人が僕の名前を呼んでくれたとき、僕が気がつかないこと」
 と答えました。
 しばらくして、そのクリスチャン女性はこう祈ったそうです。
 「どうか私があの子の名前を呼んだとき、あの子が気づきますように
 そのとき、男の子は窓の外を見つめていました。クリスチャンの女性は、うしろから、ふつうの大きさの声で、
 「○○君」
 と声をかけました。騒々しい電車内の雑音のために、正常な耳の人でもやっと聞こえる程度でした。しかし男の子は振り向いて、
 「お姉ちゃん、僕呼んだ?
 と言ったのです。その光景を見て、電話をかけてきたその人は、自分もクリスチャンになる決心がついたといいます。
 「クリスチャンは、祈りという愛の方法を持っている。これはクリスチャンしか持てない。そう思いました。それで私も、クリスチャンになる決心がついたのです」
 とのことでした。
 また、祈りを通して、私たちは近くの人だけでなく、遠くの人をも愛することができます。
 OMS(東洋宣教会)の元総理デューエル師は、以前私にこんな話をしてくださいました。
 25年ほど前、師がインドで宣教師をしていた時のことです。師はある日、知らずにコブラの多くいる地に、一人で行ってしまいました。
 そこから無事に帰ってきたのですが、それを現地の人に話すと、身震いして驚き、
 「現地の者なら絶対、あそこへは一人で行きません」
 とのことでした。
 あとでわかったことなのですが、師がコブラの多くいるその地に行ったちょうど同じ時刻に、じつはアメリカでは、師の宣教のために兄弟姉妹たちが祈りを捧げていたのです。
 兄弟姉妹たちは、コブラのことを知っていたわけではありません。しかし彼らは、インドにおける師の宣教のために、神様に祈りの手をあげていたのです。
 みなさん、祈りの手は、なんと多くのことをなすでしょう。それは肉体の手以上に、多くの愛を行なうのです。
 しかもそれは、遠くまで届きます。たとえ地球の裏側でさえも。祈りは、偉大な愛の方法です。祈りの手は、人を生かすのです。

久保有政(レムナント1992年11月号より)

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