四つの愛
本能の愛・心情の愛・良心の愛・存在の愛について
「愛」と呼ばれているものには、いくつかの種類があります。ここで4種類の「愛」について、考えてみましょう。
四つの愛
第1の愛は、性欲や性愛などに見られるような「本能の愛」です。
これはギリシャ語で、エロスと呼ばれる愛です。この言葉は、聖書には出てきませんが、これはきわめて本能的な愛といえるでしょう。
第2の愛は、親子の間の愛情や、夫婦愛、兄弟愛、師弟愛、恋愛、友情などに見られるような「心情の愛」です。
新約聖書の原語であるギリシャ語では、この愛をフィレオーといいます。これは感情、または心情的な愛で、「好き」「いとしい」「かわいい」などの気持ちを伴います。
心情の愛は、自分にとって大切なものを愛し、いとおしむ愛です。
以上の「本能の愛」および「心情の愛」は、だれもが生まれつき持っている、ごく一般的な愛と言えるでしょう。
つぎに第3の愛は、聖書の教える「隣人愛」に見られるような良心の愛です。
新約聖書の原語ギリシャ語では、この愛をアガペーといいます。アガペーの愛は、好き嫌いの感情をも超えた愛です。
相手が好きな人物であろうと、たとえ嫌いな人物であろうと、その人を愛するのです。その人に対して最善となるものは何であるかを考え、相手が誰であろうと善を行なうのです。
この愛は、敵をも愛する愛となることができます。
「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが与えられるでしょう」(マタ5:47)
「わたし (キリスト) は、あなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」
(マタ5:44)
「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、彼に飲ませなさい。・・・悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」
(ロマ12:20-21 )
と聖書に記されています。悪に対しても善をもって報いる――これは、好き嫌いの気持ちをも乗り超えた「良心の愛」です。
また「良心の愛」は、聖書で「真理への愛」(Uテサ2:10) と呼ばれている愛でもあります。
良心の愛は、永遠的真理、また神の真理を愛するのです。神の御教えを尊び、それを守ろうとします。こうした良心の愛を持つようになるためには、心の眼が開かれる必要があります。
最後に、第4の愛は、神ご自身、およびキリストの持っておられるような存在の愛です。
これは、存在しているだけで愛を感じさせるような愛、または存在そのものが愛であることです。
人間でも、「その人がそばにいるだけで心が暖まる」と思えるような人がいます。神はそれ以上に、「共におられるだけで幸福を感じさせて下さる」おかたです。
こうした愛を、「存在の愛」と呼ぶことにしましょう。それは「神の愛」を表すのに最もふさわしい言葉です。
「神は愛なり」(Tヨハ4:8)
――この聖書の言葉は、神の存在そのものが愛である、と言っているのです。創造主なる神、および救い主キリストは、私たちの幸福の源であり、命の泉であって、存在そのものが愛です。
愛のかたまり、全身全霊が愛である、と言えましょう。この「存在の愛」は、愛の中でも、最も崇高な人格だけが持てる愛です。
低い段階の愛は捨てるのではなく・・・
「愛」にはこのように、大きく分けて4つのものがあります。そしてその間には高低の差と、段階があると言ってよいでしょう。
しかし私たちは、第1の「本能の愛」を捨てて第2の「心情の愛」に進み、さらにそれを捨てて第3の「良心の愛」に、また第4の「存在の愛」に進むべきだ、と説くのではありません。
仏教の開祖シャカなどは、第1の本能の愛を「捨てよ」と説きました。仏典を読むと、シャカはかなり口を酸っぱくして、
「決して性交をしてはならない」
と何度も弟子たちに説いています。性欲は、修行と成仏の邪魔である、と彼は考えていました。
シャカは弟子たちに、いかなるかたちであれ、すべての性交渉を禁じました。未婚の者には結婚を禁じ、結婚している者には出家をさせました。そうでなければ成仏は不可能、と考えていたのです。
また中国の僧、天台・智は、出家者に性欲を捨てさせるために、女性を「汚らわしいもの」と見るよう教えました。
愛欲の心が起きるのは、女性の美しいところばかり見るからで、女性を「糞尿の塊」と見れば愛欲の心は起きない、と説いたのです。
キリスト教はどうでしょうか。
キリスト教では、「性欲を捨てよ」とは必ずしも説きません。もし人類から性欲がなくなってしまったりしたら、人類は滅びてしまいます。
キリスト教では、結婚の中での性は良いもの、という認識があります。性は神が造られたものであり、神からの賜物だと考えるのです。
実際、初代教会において、クリスチャンになった人々に、「独身生活を続けよ」とか、「結婚生活を破棄せよ」とか、求められることはありませんでした。
キリスト教が禁じているのは、ゆがんだ形の性なのです。性は神の良き賜物であるゆえに、その本来のかたちを人がゆがめるならば、それは大きな罪とされます。しかし本来のかたちが尊ばれている限り、性は決して罪ではありません。
このようにキリスト教では、第1の愛である性愛などの「本能の愛」を「捨てよ」、とは説きません。説くとすれば、むしろ、
「清められた本能の愛を持ちなさい」
ということなのです。
第2の「心情の愛」についても、同様です。キリスト教では、心情の愛を「捨てよ」、とは説きません。
心情の愛は、私たち人間に当然備わっているもので、本来良いものです。親子の間の愛情、兄弟愛、師弟愛、恋愛、友情などは、いずれも美しいものです。
大切なのは、これらの愛を捨てることではなく、むしろそれらを純化し、ゆがみなきものにすることでしょう。
私たちは神の愛によってより高い愛に目覚める
さらに「心情の愛」を、単に人を愛するそれらの愛だけにとどめるのではなく、私たちはさらに一歩進むべきです。
つまり、「魂の真の親」であるかたへの愛に目覚めてほしいのです。魂の親である神を心から愛する心情愛にまで、至ってほしいのです。
私たちは、神を愛する心情愛に至るときに、さらに高い段階の愛に進むことができます。人は神への愛を持つようになると、その心には自然に、次の第3の愛である「良心の愛」がわき上がってきます。
「良心の愛」――「隣人愛」や「敵への愛」は、好き嫌いの感情を超越しているために、人間的な思いだけでは実行が難しいものです。それは愛なる神からの御助けが必要なのです。
「隣人愛」や「敵への愛」は、神からいただかなければ、なかなか持てるものではありません。しかし私たちは神を愛することによって、この愛に目覚めることができます。
「隣人」とは、単に空間的に自分の近くにいる人々のことではありません。あなたに関わりのあるすべての人々、あなたの思いや知識の中にあるすべての人々をさします。
私たちは神を信じ、また努力を重ねるなら、少なくとも、この「良心の愛」の境涯にまで達することが可能です。それは人間として達し得る範囲にあります。多くのクリスチャンは、この愛に達することを求め、また得てきました。
さらには、もっと先に進む人々も出てくるかもしれません。愛を熱心に追い求めるならば、第4の「存在の愛」を感じさせるほどに高められる人も、出てくるでしょう。
完全な意味で「存在の愛」を持っておられるのは、父なる神・救い主キリスト・聖霊の三位一体なる神のみです。
しかし人間でも、愛の訓練を積めば、「この人がそばにいるだけで心が暖まる」 といった「存在の愛」を人々に感じさせるほどに、高められることはあるでしょう。
つまり、私たちは「低い段階の愛を捨てて、高い段階の愛に進め」というのではありません。
私たちは清められた本能愛を持ち、また純化された心情愛、強い良心愛、さらには豊かなる存在愛を、持つべきなのです。
私たちは、これら4つの愛をすべて持つことを、最終的な目標にすべきでしょう。少なくとも、最初の3つ――清められた本能愛・純化された心情愛・強い良心愛は、自分の心に持てるよう努力すべきではないでしょうか。
人がどの段階の愛まで持っているか――それがそのまま、その人の心の高さを表していると言ってもよいでしょう。
愛は、ある意味では薔薇の花に似ています。薔薇の花が幾重かの花びらによって成っているように、愛も、幾重かの層から成っているのです。
花は、最初はつぼみで、しだいに内側から新しい他の花びらが出てきます。そしてついには幾重かの花びらによって構成された、美しい花となります。
愛も同様です。「本能の愛」や「心情の愛」だけの人は、まだ「つぼみ」なのです。私たちはさらに進んで、内側から「良心の愛」また「存在の愛」に目覚めたいものです。
薔薇の花言葉が「愛」であるのは、なかなかよくつけたものです。私たちは愛なる神を心に信じることによって、「良心の愛」また「存在の愛」に目覚め、愛の香りを放つ者になることができるのです。
久保有政著
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