二種類の懐疑
懐疑とのつき合い方 D.L.ムーディ
いわゆる「懐疑」には、2種類あります。1つは真面目なもので、悩みをともないます。しかしもう1つの懐疑は、単に議論を好み、議論だけを目的とするものです。
議論のための懐疑について
この、あとの種類の懐疑――議論のための懐疑を示す人は、ちょうど肉体のトゲのようなものです。それは私の奥までは傷つけませんが、チクチクとした痛みをもたらします。
私はきっと死ぬまで、こんな人に出会うに違いありません。この種の人々は、キリスト教についてあれこれ批判するために、議論を吹きかけてきます。
このような議論については、私は使徒パウロの次の助言に耳を傾けるよう、おすすめします。
「愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたがたが知っているとおり、ただ争いに終わるだけである」(Uテモ2:23) 。
困ったことに何と多くの信者が、この「愚かで無知な論議」という間違いを犯していることでしょうか。彼らは議論を吹きかけてくる人々に、聖書のすべてを弁護しようとしているのです。
私は自分が回心したとき、聖書については、ほんのわずかしか知りませんでした。ところが私は、自分のもとにやって来る人々に対して、キリスト教を何から何まで弁護しなければならない、と思っていました。
ある日、ボストンの無神論者と語り合った時のことでした。私は自分の論議を、すべて打ち壊されてしまいました。私は失望して帰りました。
しかし今では、この問題に関して、勝ちを得ています。神の御言葉の中には、わからない所も少なからずあることを、私は告白しなければなりません。しかし、
「そういうわからない箇所はどうするのですか?」
と、もしあなたがお聞きになるなら、私は、こう答えます。
「何もしません」。
「でも、わからない所を説明しないと・・・」
私は、
「説明しません」。
「では、どう扱うのですか?」
「もちろん信じるのです」。
と答えます。また、
「理解できないことは信じられません」
と言われたとしても、
「私は信じます」
と言うだけです。
5年前、聖書のある箇所が、私にはわかりませんでした。それは神秘的なものに思えました。
しかし以来、私は多くの光を得ています。人は、神について常に新しい何かを見いだしていくのだ、と思うのです。
私はまた、聖書の中の論争の箇所は、論じないことに決めています。昔の神学者が言いました。
「魚を食べるときに、人は食べやすいところを先に食し、骨はあとに残しておく」。
自分の能力で消化できない所は、光のさし入るまで、そのままにしておけばよいのです。わからないことまで説明する義務は、私にはありません。まことに、
「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり・・・」(申命29:29)。
私はこの御言葉を取り、食し、それを糧として霊的な力を得ます。
聖書のテトスへの手紙3章9節に、短い文章ですが、良いアドバイスがあります。
「愚かな議論、系図、口論、律法についての論争などを避けなさい。それらは無益で、むだなものです」。
真面目な懐疑について
しかし、真面目な人は、ときに真面目な「疑い」を持つこともあるでしょう。そういう人に対して、私は病児に対する母親のような優しさをもって接したい、と思います。
たとえ人が懐疑に陥ったとしても、その人を切り離したり、退けたりするような人に、私はくみするわけにはいきません。
しばらく前、ある求道者会でのことでした。懐疑的な婦人求道者がおりましたので、そのかたを、私の知っているある婦人信者のかたにお渡ししました。
しばらくして、私が会堂を見回っていますと、その求道者の婦人がちょうど会堂を出ていくところでした。「おやっ」と思い、おまかせしたその信者のかたに、
「どうして彼女を帰してしまったのですか」
と聞きますと、
「だって、あの人、疑ぐり深いんですもの」
と言うのです。私はとんで行って彼女を呼び戻し、別の信者にひき合わせました。その信者は、彼女と1時間も話し、祈りを共にしました。
そののちその信者は、彼女と夫を家にたずね、伝道しました。その知的な婦人は、その週のうちに疑いを捨て、生き生きとした信者になりました。
疑い深い人に対する伝道は、確かに多くの時間やコツ、祈りを要します。
しかし、その人の疑いが真面目なものであるなら、主が私たちを取り扱われたときのようにその人に接していきさえすれば、必ずや道が開けるのです。
もしあなたが疑いを持っている求道者であるなら、ここに2、3の適切な聖書の御言葉をご紹介しましょう。
「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたし (キリスト)が自分から語っているのかがわかります」(ヨハ7:17) 。
もし人が、神のみこころを行ないたくないと思うなら、教理を知ることもないでしょう。またどんなに疑う人でも、自分が罪をつくらなくなることを神が望んでおられる、という事実を認めないわけにはいかないでしょう。
ですから、もしあなたが罪に背を向けながら、光を得ようと努力し、いっぺんに聖書を理解するのではなく、日々主のお与えになるものを受けて、感謝しながら進んで行くなら、あなたには、光が与えられるでしょう。
あなたは一歩一歩前進し、ついには、闇の中より輝く天の光の中へと導かれるのです。
ダニエル書12章10節に、次のように語られています。
「多くの者は身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟ることがない。しかし、思慮深い人は悟る」。
神はご自身の秘密を、敵に対しては現わされません。決して現されません。執拗に罪の中に生きて行こうとする人は、神のみこころを知ることはできません。
しかし、
「主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を、彼らにお知らせになる」(詩篇25:14)
のです。
ヨハネ福音書15章15節にも、こう書かれています。
「わたし (キリスト)はもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。
わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら、父
(神)から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」。
つまりあなたがキリストの友となるなら、あなたは彼の秘密を、知るのです。
「わたしがしようとしていることを、アブラハム
(イスラエル人の父祖) に隠しておくべきだろうか」 (創世18:17)
――この言葉を、神はあなたについても言われるに違いありません。あなたも、神に似せて造られた人間であって、神を理解するにふさわしい者なのです。
罪より離れようとしない者が、神のみこころを悟ることはありません。神もまた、その人に秘密をあらわされません。
しかし、あなたが喜んで罪から遠ざかり、神に向かって心の窓を開けるならば、あなたは心の内にさし入る豊かな神の光を感じて、驚くでしょう。
主の前に謙虚でありなさい
今でも思い出すのですが、聖書ほど、ひからびた暗い書物はこの世にない、と感じられたある晩のことを、私は覚えています。
ところが、そう感じた次の日には、私は全く変わっていました。私は聖霊によって新生したのです。ここに、鍵があるように思うのです。
神のみこころを知るために、私は自分の罪を、断ち切らねばなりませんでした。私は自己を、主イエスに明け渡したのです。
この「自己を明け渡す」という一点において、また、主の指導のもとに喜んで自分をゆだねるということにおいて、神はおのおのの魂に通ってくださるのです。
多くの懐疑家のむずかしさは、「うぬぼれ」という一点に帰着します。そうした人々は、自分が全能の神以上のことを知っていると、思っているのです。彼らは、
「教えられやすい心」(ティーチャブル・ハート)を持って主のもとに来ようとはしません。
しかし、謙虚な心で主のもとに来るなら、だれでも祝福されます。こう聖書に書かれています。
「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人はだれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすれば、きっと与えられます」
(ヤコ1:5)。
久保有政著
|