比較宗教 

仏教徒の方々の質問に
お答えして



神は宇宙の創造主である。


  仏教徒や、仏教系新興宗教の方々との対話の中で、クリスチャンによく投げかけられる疑問や質問に、次のようなものがあります。
 これらの疑問や質問に、一つ一つ答えていきましょう。


神はどこから来たのか

 聖書にはこう書かれています。
 「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰する」(ロマ11:36)
 聖書によれば、万物は神から出たのであって、万物の根源は神です。
 神は、万物の創造主であって、私たち人間のような被造物(ひぞうぶつ)(造られたもの)ではありません。
 何かによって造られた者でも、何かによって存在させられている者でもありません。
 神はまた、人間のように空間の中に動く、特定の形や大きさを持った存在者ではありません。
 神は"すべて"であり、無限のおかたです。"神の外側"というものはありません。聖書に、
 「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である」(黙示21:6)(アルファ、オメガとは、それぞれギリシャ語アルファベットの最初と最後の文字)
 と記されています。神は最初であり、最後であり、すべてです。神は、いわゆる「第一原因(一番最初の原因)であり、最終目的です。神はどこから来たわけでもありません。
 神は、みずから存在しておられるのです。神は自存のおかたです。
 聖書の中で、神はこうも言われています。
 「わたしは、(あ)って在(あ)る者」――I AM THAT I AM. (出エ3:14)
 これはなんと力強い言葉でしょうか。
 私たち人間は、いわば"有って無い者"です。人の生涯はふつう70〜80年、長くても120年程度です。それ以外の時は、世に存在していません。人間はいわば"有って無い者"です。
 しかし神は、「有って在る者」です。神は永遠から永遠まで存在し、何によっても造られたり、生まれたりすることのない、真の実在者なのです。


神はどこで宇宙を造ったのか。宇宙の内側で造ったのか、それとも外側でか。

 私たちは宇宙の「内側」とか「外側」ということをつい考えてしまいますが、宇宙論を研究している科学者が言っているように、宇宙の外側に何かの空間があるわけではありません。
 さらに、神は空間に束縛されるかたではありません。イエス・キリストが言われたように、
 「神は霊です(ヨハ4:24)
 神は、私たち人間のように空間に束縛されたりはしません。空間も、時間も、物質も超越したかたなのです。
 その神が、物質世界を無から創造されました。そしていま物質世界は、神の内に、抱かれるようにして存在しているのです。聖書にこう書かれています。
 「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです(使徒17:28)


神はなぜ信じる人々だけを救うのか。

 救いはある意味で、結婚のようなものなのです。
 男性が女性に求婚しても、女性がウンと言わないかぎり、結婚はできないでしょう。
 救いも同じです。救いは、神との愛と生命の交わりの中に入れられることです。神との愛と生命の「交わり」の中に入れられることが、私たちの救いなのです。
 ですから、「交わり」がなされるためには、双方で、自由意思による合意がなされねばなりません。
 神は、至高の権威を持っておられるかたです。しかしこの「交わり」のために、神は権威を人間の上にふりかざしたりすることは、なさいません。
 神は人の心を強制することはせず、自由な意思を尊重されるのです。
 神のほうでは、結婚したい、人と交わりを持ちたいと願っておられます。ところが人が、神と交わるのはイヤだ、と言っていてはいつまでも結婚できません。救いに入れないのです。
 人の側で、
 「私は、神様と愛と生命の交わりを持ちたい。神様を心に受け入れます。神様を信じます。神様に、お従いします」
 という"信仰告白"が、なされなければならなりません。こうした信仰がない限り、人が神との交わりに入って神の永遠の生命を受けることは、不可能です。
 この信仰は、人自身の自由意思によらなければなりません。その自由意思の中には、神さえも踏みこめないのです。
 クリスチャンが伝道をするのは、まだクリスチャンになっていない人々に神の愛を伝え、そうした人々も神を愛し、信じるようになってもらいたいからです。
 花婿の求婚にこたえる花嫁のように、神の愛に私たちが応じない限り、私たちは神との交わりに入ることはできません。


人は、神を信じ、神を愛することによって、
神との交わりに入り、救いを得る。



信じない人は、なぜ地獄に行くのか。

 聖書には、
 「人は種を蒔(ま)けば、その刈り取りもしなければならない(ガラ6:7)
 と書かれています。人はだれでも、必ず自分のなした行為に対する報いを受けなければなりません。
 「自分の肉 (悪い性質をさす) のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊(みたま) (神をさす) のために働く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取る」 (同6:8)
 と聖書に書かれています。罪悪を行なえば、地獄における滅びを刈り取らなければなりません。これは因果の法則です。まさに善因善果、悪因悪果です。
 ですから、いわゆる「地獄の苦しみ」の、もともとの原因は、自分が生前に行なった罪や悪にあります。生前の罪や悪が、地獄において炎のように人を苦しめるのです。
 神が人を苦しめるというより、その苦しみは自分の行為がもたらしたものなのです。裁きというものは、決して神が一方的にお与えになるものではありません。むしろ人が自分に招くものなのです。


人は(行為の)種をまけば、その(報いという)
     刈り取りもしなければならない 
     創元社『聖書物語』より



神が愛であるというのに、なぜ地獄というような苦しみの場所があるのか。

 キリスト教の神は、愛の神です。とはいえ、義の神でもあられます。
 神はしばしば、「親」にたとえられます。しかし、単に「親」というだけでは、神の本当のお姿をよくたとえていません。
 親ならば、愛情におぼれ、子どもを甘やかすこともあるでしょう。しかし神は単なる「親」ではなく、「裁判官」でもあられるのです。
 正しい裁判官でもある神は、人の罪に対しては、いつかは罰を下さなければなりません。
 たとえば、ここにひとりの立派な裁判官がいたとしましょう。彼は法廷で、ある犯罪人に、法にのっとって刑を言い渡します。
 しかし、刑を言い渡すからといって、その裁判官が冷酷な人物であると言えるでしょうか。そうは言えないでしょう。むしろ正義を守る人物は、たいてい深い人間愛をも持っているものです。
 神は義なるかたであって、正しいかたです。神は人の罪を、最終的には罰しなければなりません。そうでなければ、神はもはや「義」ではありません。
 もし警察官が、人の犯罪を見ていながら、犯罪人をつかまえようとしないならば、彼はもはや正しい警察官ではありません。同様に神が人の罪を見ていながら、人を罰しようとしないなら、神はもはや正しいかたではありません。
 神は「義」であるゆえに、人に罰を下さなければならないのです。しかし人の罪を罰するとしても、神が冷酷なかたであるとは言えません。聖書に、
 「主(神)は、あわれみ深く、情け深い。怒るにおそく、恵み豊かである」(詩篇103:8)
 と記されています。神は愛であり、慈悲であり、また「怒るにおそい」かたです。
 神は「怒るにおそい」とはいえ、もし人間がいつまでも背き続け、罪の道から離れないならば、いつかは怒りを下さなければなりません。それが神の義です。
 神が義である以上、刑罰と、その場所である地獄は存在しなければならないのです。


キリスト教では愛を説きながら、なぜ中世の十字軍に見られるような残虐な行為ができたのか。

 中世のヨーロッパの暗黒時代は、人々によく知られています。この時代のローマ教皇の座は、一部の腐敗した人々の手に握られていました。
 教皇の座をも含め、あらゆる聖職が、金で売買され、賄賂(わいろ)や、売淫(ばいいん)、殺戮(さつりく)など、あらゆる悪が横行していました。
 キリストの敵が、公然と教皇の座を獲得し、人々を惑わしていたのです。
 この時代はまさに、恥辱の時代です。これほど反キリスト教的な事柄が行なわれた時代は、ほかにはないでしょう。
 人々は、中世のヨーロッパの多くの国々は「キリスト教国」であった、と思っています。
 ところが、これらの国々の99%の人々は、聖書を自分で読むことすらありませんでした。一般の民衆は、文字が読めなかった上、聖書も手に入らず、ただ上から教えられたことだけを受け入れていました。
 しかもこの時代は、聖職売買が横行し、腐敗した人間が聖職を奪い、権力をふるっていました。
 悪の巣窟と化してしまったこの時代のローマ・カトリック教会の歴史は、現在もすべてのクリスチャンにとって、大きな悲しみです。
 しかし中世の腐敗した時代は、決して聖書の教えの"結果"ではありません。それはすべて、聖書の教えに反するものとして起こったのです。
 残念なことに多くの人々は、キリスト教を攻撃しようとすると、必ずこの中世の暗黒時代を持ち出します。しかし、暗黒時代は持ち出すのに、キリスト教徒がこれまでなしてきた多くの功績には全くふれないのは、一体なぜでしょうか
 たとえば、あのマザー・テレサのなしている事業、またアフリカの黒人に尽くしたシュヴァイツァー、赤十字をつくったアンリ・デュナン、家なし子たちのために一生を捧げたジョージ・ミュラー、貧しい人々に尽くした賀川豊彦などの功績にふれないのは、なぜでしょうか。
 かつての国際連盟も、今の国際連合も、女性の地位向上運動、労働者の地位向上運動、刑務所改良運動や、病院、孤児院の設立、ホスピス(末期治療)なども、多くはキリスト教徒の手によって推進されてきました。
 キリスト教徒は、慈善、福祉、医療、教育、産業、科学、芸術、その他多くの分野で目ざましい活動をしてきました。
 こうしたものこそ、聖書の教えの反映なのです。もしキリスト教を知ろうという気があるのなら、こうしたものも見てほしいものです。


キリスト教が真理であるというなら、なぜ多くの教派に分かれているのか。

 キリスト教はたしかに、多くの教派に分かれています。しかし世間で誤解されているほど、教派間で争っているわけではありません。
 キリスト教会が教派に分かれているのは、ちょうど国が分かれているのに似ています
 世界には多くの国があります。なかには仲の悪い国もありますが、今日多くの国々は、互いに国交を結び、大体仲良くやっています。
 国がなぜ分かれているのかというと、それは国によって国家体制が違うのが、一つの原因です。世界各国は、それぞれの国家体制の中で、繁栄を追求しているわけです。
 同様にキリスト教会の各教派も、それぞれの教会政治をもって、福音宣教に励んでいます。
 たとえばある教派は、教会政治の形態として、監督制をとっています。教団の長は監督と呼ばれ、その人の強いリーダーシップのもとに教団が運営されているのです。
 ある教派はまた、長老制をとっています。教団の中に、選ばれた何人かの長老と呼ばれるリーダーがいて、それらの人の合議で教団が運営されていくのです。
 また会衆制といって、信徒の多数決によって教団が運営されているところもあります。このように教会政治の違いが、教派の違いを形成している一要因となっています。
 そのほか、ある教派は伝道に力を入れ、ある教派は海外宣教に力を入れ、ある教派は慈善事業に力を入れるというように、教派によって特色を打ち出しているところもあります。
 しかし大部分の教派間には、伝道者同士、また信徒同士の交流があります。超教派の集会も、各地で盛んに行なわれています。
 キリスト教会はみな、聖書を信奉しています。ですから細かい所で多少解釈の相違があったとしても、根本的なところでは、ほぼ一致しているのです。
 仏教の場合ですと、念仏宗のかたは、自宗の信奉する経典により「極楽浄土はある」と言い、一方、日蓮宗のかたは、やはり自宗の信奉する経典により「極楽浄土は架空のたとえ話にすぎない」と言います。
 しかしキリスト教では、ある教派が天国を信じ、ある教派は天国を信じない、ということはありません。根本教理では一致しているのです。
 それはキリスト教では、どの教派も、(異端でない限り)ただ一冊の書物『聖書』を信奉しているからです。教派によって別の経典を信奉する、ということはありません。
 プロテスタントも、カトリックも、ロシア正教も、いずれも聖書を信じています。
 メソジストも、長老派も、アッセンブリーも、ペンテコステも、バプテストも、アライアンスも、ナザレンも、日本キリスト教団も、またそのほかどの教派も、同じ聖書を土台としているのです。
 キリスト教では、どの教派に属しているかよりも、聖書にどれだけ精通し、聖書をどれだけ実践しているかが、尊ばれます。聖書を実践している人は、どの教派に属していても、尊ばれるのです。


聖書を実践している人は、
どの教派に属していても、尊ばれる


                                                                                                                                保有政
 

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