イエスのご生涯
イエスの倫理の教え(前)
イエスは、山に登り、ついてきた大勢の群衆を前に、次のように語られました。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。
イエスは山上から「八福の教え」を説かれた。
悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受け継ぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」(マタイの福音書5:3-10) 。
これは、有名なイエスの「八福の教え」と言われるものです。イエスは8回「・・・の人たちはさいわいである」を繰り返し、これら8種類の人たちを祝福されました。
つまりこれらの人々は、イエスが好ましいとお考えになった人々です。
イエスはどのような人々を、神の前に好ましい人物とお考えになったのでしょうか。それを見てみましょう。
「こころの貧しい人々」とは神の前に身を低くする謙虚な人々
イエスははじめに、
「こころの貧しい人たちは、さいわいである」
と言われました。
私たちはふつう、「心の豊かな人」になることを目指します。寛大で、愛情に富み、正義感に燃え、つねに新しいことにチャレンジし、平安と喜びを失わない心の人になることを目指します。
それなのにイエスは、
「こころの豊かな人はさいわいである」
とは言わず、
「こころの貧しい人たちはさいわいである」
と言われたのです。「心が豊かな人」も、確かにさいわいなことではあります。しかし「こころの貧しい人たち」は、それ以上にさいわいだ、とイエスは言われるのです。
イエスはあるとき、「パリサイ人の祈りと取税人の祈り」と一般に呼ばれている、次のような話をされました。この話の中の取税人の心は、まさにイエスの言われる「心の貧しい人」の意味を、最も的確に表しています。
イエスはこう言われました。
「ふたりの人が、祈るために宮(神殿)に上った。そのひとりはパリサイ人(ユダヤ教パリサイ派の信者)であり、もうひとりは取税人(税金徴収人)であった。
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った。
『神よ、私はほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、またこの取税人のような人間でもないことを、感謝します。私は1週に2度断食しており、全収入の10分の1をささげています』。
ところが取税人は、遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら言った。
『神様、罪人の私を、おゆるしください』
と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。
おおよそ自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は、高くされるであろう」(ルカ18:9-14)。
イエスがなされたこの話の中で、ふたりの人が出てきます。「パリサイ人」と「取税人」です。
「パリサイ人」と呼ばれるユダヤ教パリサイ派信者は、当時、多くの場合自分を「義人」だと自任して、他人を見下げていました。
この話の中のパリサイ人も、いかに自分が道徳的に正しい人間であるかを、神の前に感謝しています。
パリサイ人たちは当時、他の人たちと比べれば、実際にきわめて品行方正な人たちでした。彼らの道徳水準は、きわめて高いものでした。
神殿で祈ったこのパリサイ人も、口からデマカセを祈ったわけではなく、自分について思っている通りのことを祈ったのです。
一方そのかたわらで取税人が、目を天に向けようともせずに祈りました。「取税人」は当時ユダヤの支配者であったローマ帝国の手先となって、人々からしばしば規定以上の税金をまきあげ、私腹をこやしていた人々でした。
神殿のかたすみで祈った取税人の心は、先のパリサイ人と比べて、なんと貧しかったことでしょう。彼は胸を打ちながら、祈りました。
「神様、罪人の私をおゆるしください」。
取税人の心は、罪責感で一杯でした。彼は自分がひどく汚れた人間であることを自覚し、神の前に自分を無にしたのです。
彼は自分を低くし、ただ神の憐れみにすがりました。こうした貧しい謙虚な心こそ、神の良しとされるものなのです。
むなしい空の心でなければ、神が入って住まわれることはできません。この取税人は、自分に何も誇るものがないことを認め、謙虚な空の心になって、神の前に出たのです。
神の前に義とされて家に帰ったのは、この取税人のほうでした。パリサイ人のほうが道徳的に、はるかに高かったにもかかわらず、神はこの取税人の貧しい心を祝福されたのです。
まことに天国は、こうした心の貧しい人々に与えられます。
パリサイ人と取税人の祈り
「悲しんでいる人たち」とは不幸に悲しむ人々
イエスはまた、
「悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう」
と言われました。事実イエスは、つねに不幸に悲しんでいる人々の所に行っては、彼らを慰め、また祝福されました。
イエスはしばしば、当時の社会において「はみ出し者」とされていた人々の所に行き、共に会話を持たれ、また食事をされました。
福音書はこう記しています。
「イエスが、家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共に、その席についていた。パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った。
『なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか』。
イエスはこれを聞いて言われた。
『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。「わたし
(神) が好むのは、あわれみであって、いけにえではない」(旧約聖書・ホセ6:6)
とはどういう意味か、学んできなさい。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである』」 (マタ9:10-13)。
ここでいうイエスが共に食事をされた「罪人たち」とは、とくに売春婦や、離婚した者、荒らくれ者、不良少年、そのほか社会の「はみ出し者」とされた人々のことでした。
パリサイ人は、こうした人々とは決して食事を共にしなかったのです。しかしイエスは、彼らと堂々と食事をし、親しく声をかけ、また会話を持たれました。
「丈夫な人に医者はいらない、いるのは病人である」。
まさにイエスは、不幸な人々の所に積極的に出向かれたのです。また、病人の所にも、積極的に出向かれました。こう書かれています。
「イエスはペテロの家に入って行かれ、そのしゅうとめが熱病で、床についているのをごらんになった。そこでその手にさわられると、熱が引いた。そして女は起きあがって、イエスをもてなした。
夕暮れになると、人々は悪霊につかれた者を大勢、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。これは預言者イザヤ
(B.C.8世紀) によって、
『彼は、私たちのわずらいを身に受け、私たちの病を負うた』(イザ53:4)
と言われた言葉が成就するためである」(マタ8:14-17)
イエスは積極的に病人をいやし、悪霊を追い出されました。これは旧約聖書イザヤ書の預言の成就である、と聖書は言っています。
イエスは「私たちのわずらいを身に受け、私たちの病を負うた」のです。
永遠の生命の具現者であられるイエスは、人々の病気をもご自分に負い、人々の悲しみを、かわりに担ってくださいました。私たちの悲しみは、すべてイエスが担ってくださるのです。
イエスは、こののち数年後には、十字架にかかられることになります。十字架は私たちの罪を担い、身代わりに神の審判を受け、私たちに罪の赦しを与えるためなのです。
あらゆる不幸、病気も罪も、イエスが担われました。ですから不幸に悲しんでいる人々は、さいわいです。
イエスがすでに私たちのもとに来られたからです。あなたはイエスを心に迎えさえすれば、苦しみは喜びに、悲しみは尽きない平安に変えられるでしょう。
「柔和な人たち」とは神の前に素直で人に対し温和な人々
イエスはまた、
「柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受け継ぐであろう」
と言われました。「柔和な人」として思い起こされる人物の一人に、モーセがいます。
イスラエル民族の出エジプトの際の指導者モーセについて、ある人々は、「こわい人」というイメージを持っているようです。しかし彼は、じつはきわめて柔和な人でした。
「モーセは、その人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」(民数12:3)
と聖書は記しています。彼は神の前にきわめて謙虚な人であり、また人々への優しさに富み、温かみのある人物だったのです。
モーセは、強情なパロ (エジプト王)
に対してイスラエル人解放を迫る剛毅さを持つ一方、人となりはきわめて柔和で、人々に対しては限りない優しさを持っていました。
彼の内では、剛毅さと柔和さという、反対のものが合一していたのです。この「反対の合一」ということは、ひじょうに重要なことです。本当の柔和さは、内なる強さから来ます。真に強い人物は、きわめて柔和なのです。
イエスご自身も、ひじょうに柔和なかたでした。預言者たちは、イエスについてこう語りました。
「見よ。あなたの王がおいでになる。柔和なおかたで、ろばに乗って」
(マタ21:5) 。
イエスの人となりがきわめて柔和であったことは、幼な子たちがごぞってイエスのもとに集まってきたことにも、よくあらわれています。
「イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。するとイエスは言われた。
『幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしの所に来るのを止めてはならない。天国は、このような者の国である』」
(マタ19:13)。
このようにイエスは、決して近寄りがたい人物ではありませんでした。主はつねに、優しさと温かさを、人々に感じさせるおかただったのです。
幼い子たちとイエス
イエスは、神殿で商売人たちを追い出す剛毅さを持つ一方、限りない優しさを人々に感じさせるおかたでした。イエスの内では、やはり剛毅さと柔和さという反対のものが、合一していたのです。
私たちは悪に対しては剛毅さを、人々に対しては柔和さを持つべきなのです。柔和は人に対する優しさであり、また神の前における素直さです。私たちは神の前に、強情であってはなりません。
イスラエル民族は旧約時代、幾度も神の教えを忘れ、神の教えを踏みにじりました。
そのため彼らは、なかなか悔い改めないその強情さのゆえに、やがて神から退けられ、「バビロン捕囚」の憂き目にあってしまいました。
しかし柔和な者は、「地を継ぐ」でしょう。彼らは神に受け入れられ、この世で、また来たるべき世で、神の祝福を継ぐ者となるのです。
「義に飢えかわいている人たち」とは神の義を求める人々
イエスはまた、
「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう」
と言われました。聖書でいう「義」とは、神の前に正しい、また良いと認められることです。しかし、イエスは、
「義人はさいわいである」
とは言わず、
「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである」
と言われました。これは神の前に完全に「義なる人」と認められるような人は、この世にいないからです。聖書は、
「義人はいない、ひとりもいない。・・・すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けられなくなっており・・・」
(ロマ3:10,23)
と言っています。私たちはみな、「罪人」なのです。「クリスチャンが義人で、未信者は罪人だ」というのではありません。すべての人は罪人なのです。
クリスチャンと未信者と、何が違うのかと言えば、クリスチャンは義に対して飢えかわきを覚え、キリストにある罪の赦しを信じた者たちだ、ということです。
そして今もクリスチャンは、来たるべき義の全うされる時に至るまで、つねに義に飢えかわいています。こうして義に飢えかわいている人たちはやがて、義に満たされるであろう、とイエスは語られました。
ところが、多くの人は義に飢えかわいているどころか、義を追い求めることすらありません。人々は罪の結末の恐ろしさを、知らないのです。また神の前に義とされることの祝福と、平安を知りません。
それはちょうど、ガンの病に身をおかされた人々のようです。末期症状が現われ、死期が近づくまで、その人は自分の内に巣食っている病の恐ろしさを知りません。
また義を求めず、罪の中にとどまっている人々は、ちょうど川を舟で下っている人々のようです。その先には大きな滝があります。自分がひじょうに危険な状態にあることに、気づかないのです。
神の前に義とされる生活は、次の3つの生活です。
第1に、聖書の教えを、つねに学ぶ生活です。
素直な心で神の教えに聞き、それを学び、心に蓄えることです。イエスは、
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で、心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」(マタ11:28-29)
と言われました。イエスに学び、イエスに聞く生活です。
第2に神の前に義とされる生活は、その教えに従う生活です。
教えを「聞いても行なわない人」ではなく、「聞いて行なう人」になれ、とイエスは説かれました(マタ7:24) 。私たちは力の及ぶかぎり、み教えに従う者とならなければなりません。
第3に、イエス・キリストの救いに信頼する生活です。
私たちはこの世では、決して完全な者ではありません。時に罪を犯すこともあるでしょう。
しかしその時も、すぐに悔い改め、イエスのもとに行くことです。また、つらい試練の時もあるでしょう。
しかし生きている時も、死ぬ時も、イエスの救いに信頼することです。イエスは、
「信じる者には、永遠のいのちがある」
(ヨハ6:47)
と言われました。イエスに信頼する者には、天国と、永遠の命と、豊かな報いが約束されているのです。
イエスはまた、どんな時も私たちと共におられると、約束してくださいました。
「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」
(マタ28:20)。
私たちは主イエスに信頼してあゆむ限り、義の生活を全うすることができるのです。
(つづく)
久保有政著
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