新生の経験
真の幸福をつかむために
D.L.ムーディ
〔聖書テキスト〕
「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネの福音書3:3)。
〔メッセージ〕
聖書の中で、これほど親しまれている御言葉はないでしょう。
この御言葉が真実であるなら、私たちにとって、これほど重要なメッセージはありません。
ところが、私たちはこの重要な問題に関してさえ、しばしば間違いを犯しています。
キリストは明確にお教えになりました。
「誰でも新しく生まれなければ、神の国を「見る」ことはできない」――ましてや神の国を「継ぐ」などということはできません。
この「新生」の教えこそ、私たちの人生の土台です。また来世に関するすべての希望の基礎です。それはキリスト教のイロハなのです。
私の経験では、人がこの教えをはっきり理解していないと、聖書の根本的な教えのほとんどすべてに関して、不健全になるおそれがあります。
人が新生の教えを正しく理解しているなら、たとえ聖書の難解な箇所に出会っても、解決があるでしょう。
人は新生を理解して初めて、難しいと思われた聖書の御言葉も、ひじょうにわかりやすいものとなるのです。
聖書の新生の教えは、すべての誤った宗教をくつがえすものです。また聖書や神に関するすべての間違った意見を、くつがえすものです。
私の友人の伝道者が、かつてこんなことを話してくれました。
ある伝道集会のあとで、一人の男性が彼に近づいてきました。その男性は、キリスト教に関する数々の質問を表にして持って来て、言いました。
「これらの質問に満足のいく答えをくださるなら、私はクリスチャンになる決心をしましょう」。
そこで私の友人は、こう答えました。
「私のもとに来るより、直接キリスト様のもとに行かれたほうが、よいと思いませんか。そうすればあなたは、自分でこれらの質問について調べることができるでしょう」
その男性も、それが賢明な道だと思ったのでしょう。彼はキリストを受け入れました。
キリストを受け入れてしばらくたった後、彼はもう一度その表を見ました。するとそれらの質問は、すでにみな答えられてしまったことに気づいたのでした。
さて、キリストが「だれでも新しく生まれなければ・・・」と言われた相手は、ニコデモという人物でした。
ニコデモはユダヤ人の指導者の一人でしたが、キリストに関するいろいろな疑問をもって、悩んでいました。
ある夜、彼は意を決して、キリストのもとにたずねて来ました。その彼にキリストが、 「新しく生まれなさい」
と言われると、彼は返事の意外さにびっくりしました。しかしその日こそ、彼の生涯において最もさいわいな日となったのです。
「新たに生まれること」――これこそ、私たちがこの世において経験し得る、最も幸福な出来事です。ここで、聖書の言葉に注意してください。
キリストはニコデモに対し、「だれでも新しく生まれなければ」と言うだけでなく、「上から生まれなければ」(ヨハ3:7 新改訳注参照) 、また「霊から生まれなければ」
(ヨハ3:5)という表現も使われています。
「・・・しなければ」という言葉を、3つ使われているのです。キリストはまた別のときに、こうも言われました。
「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」 (ルカ13:3)
「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできないであろう」
(マタ18:3)
「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に入ることはできない」 (マタ5:20)
これらの言葉はみな、同じことを言っているのです。
主イエスは新生の教えを、ユダヤ人の指導者であり法律の博士であった、ニコデモに対して話されました。
話された相手は、サマリヤの井戸端の女でも、また取税人マタイ、取税人ザアカイでもありませんでした。私はこのことに感謝せざるを得ません。
もしこの重要な教えが、これら3人に話されていたのであれば、人々はきっと私に言うでしょう。
「もちろんそうでしょう。取税人や娼婦は、生まれ変わる必要があります。しかし私は、正しい人間ですから、生まれ変わる必要はありません」。
ニコデモは、エルサレムの人々の中でも、典型的な良識家であったようです。そうでないという記録はありませんでした。
このニコデモに対して、キリストは新生の教えを説かれました。どんな良識家であっても、生まれ変わらなければ、天国に入ることはできないのです。
私たちは天国に入る前に、生まれ変わらなければならない――この教えを、いちいち証明する必要はないでしょう。
神の力によって生まれ変わらなければ、誰も神の国にふさわしい者とはなれない――このことは、正直な人なら誰でも認めることでしょう。
キリストが新生の教えを説かれた相手は、ユダヤ議会の議員、また良識家のニコデモであった。
聖書は、人は生まれついたままでは罪ある者であり、神のもとから「失われた者」である、と教えています。私の経験も、これを裏づけています。
どんなに立派で賢い人でも、神に背いて生きるなら、たちまち罪におちいります。すべての人は、新しく生まれ変わらなければならないのです。
新生でないもの
ここで、新生とは何でないか、についてお話ししたいと思います。
新生とは、教会に行くことではありません。私は人にお会いすると、そのかたがクリスチャンであるかどうか、お尋ねすることにしています。
ある人はこう答えます。
「私はもちろん、クリスチャンです。毎週日曜日に教会に行っていますから」
――しかし、毎週教会に行くことが新生なのではありません。
他の人はこう言います。
「私は正しいことを行なうよう、つね日頃、心がけています。自分はクリスチャンではないかと思います。これが新生ではないでしょうか」
――いいえ、正しいことを行なうことが新生なのでもありません。
キリストの身代わりの死によって、贖いのみわざは、すでに完成した。
さらに別のタイプの人もいます。「新しい生活を始めた」と称する人々です。それで新生した、と思っているのです。
しかし、単に生活の形態を変えたことが新生なのではありません。また洗礼(バプテスマ)を受けることも、新生ではありません。
こう言いますと、ある人は次のように言うでしょう。
「なぜですか。私は洗礼を受けました。それで私は生まれ変わったのではないのですか」。
しかし、洗礼を受けたことが、そのまま神の国に入ったことなのでしょうか。いや、そのようなことはあり得ません。
あなたが教会に通って、たとえ洗礼を受けても、信仰がなければ、あなたは神の子になることができません。洗礼は、実体を伴って初めて新生になるのです。洗礼自体を新生の代わりにするのは、恐ろしい誤りです。
私は洗礼を、否定しているわけではありません。洗礼を受けただけでは神の国に入れない、と述べているのです。
だれでも「新しく生まれなければ」、天国に入ることはできません。もしこれを読んで、意味を誤解するかたがいれば、神がその誤解を解かれることを祈ります。
さらに、ほかの人々は言います。
「私は聖餐にあずかっています。私は教会の礼典に、欠かさず出席しています」。
教会の礼典はさいわいなものです。イエス様は、「これを守るごとにわが死をおぼえよ」と言われました。
しかしこのこと自体は、新たに生まれることでもなければ、死より生命に移されることでもありません。
イエス様ははっきり言われます――非常にはっきりしているので、誤った解釈をする余地もありません。
「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。
この御言葉と、礼典と、何の関係がありましょう。教会へ行くことと新生と、一体何の関係がありましょう。
また別の人は言います。
「私は毎日お祈りをしています」。
――しかしこれもまた、神の聖霊による生まれ変わりとは異なる、と言わなければなりません。
今私たちが当面している問題は、きわめて厳粛な事柄です。みなさん、私たちはイエス様の言われるような新しい生まれ変わりを、経験しているでしょうか。
あなたは、死より生命に移されていますか。そのことを私たちは、熱心に、また忠実に見きわめなければなりません。
誰が新生を必要としているのか
ある人々は、宗教的な集会というものは、不道徳な人や堕落した人を立ち直らせるのにいい、と言います。
酔っぱらいや、バクチ打ち、またそのほか堕落した人々や、不道徳な人を改心させるのに、宗教は役に立つというわけです。そしてこう言うのです。
「堕落した人間や不道徳な人間に、宗教は必要だが、私には必要ない」。
けれども「だれでも新しく生まれなければ・・」の御言葉を、キリストは一体だれに語られたでしょうか。
それはニコデモという人物に対してでした。ニコデモとは一体誰だったでしょう。酔っぱらいだったでしょうか。あるいはバクチ打ちだったでしょうか。ドロボウだったでしょうか。
いいえ、彼はエルサレムでも指折りの道徳的な人間でした。彼は、サンヘドリンと呼ばれる由緒あるユダヤ議会の議員であり、ユダヤ教の正統的な信仰の持ち主でした。
このエリートであるニコデモに対して、キリストは、
「だれでも新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない」
と言われたのです。こうなると、ある方々は、問うことでしょう。
「しかし、自分で新しい生命を造れるわけではないし、どうやって新しく生まれるというのか」。
たしかに新しく生まれることは、あなた自身ではできません。ですから、私があなたに、自分で新しく生まれなさいと求めることはありません。
私はみなさんに申し上げます。キリストなくして、ひとりひとりの人間を生まれ変わらせることは、全く不可能です。
ところが人々は、自分で自分を生まれ変わらせようとしています。自分で古きアダムの性質に、つぎあてをしようとしています。
しかし必要なのは「新しい創造」です。新生という、神による新しい創造です。新生は、神がなされる新創造のみわざなのです。
聖書の創世記1章をごらんなさい。神が無から天地を造られたとき、人間はまだ存在していませんでした。天地は、神がおひとりで造られたのであって、人間は何もしなかったのです。
キリストが十字架上で、私たちのために贖いのみわざをなして下さったときも、そうでした。贖いは、キリストがなされたみわざであって、人間は何もしなかったのです。
新生も、人間のわざではなく、父なる神と救い主キリストによるみわざです。
「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」(ヨハ3:6)。
と聖書は言っています。
エチオピア人は、自分の皮膚の色を変えることはできません。豹は、自分の斑点をなくすことはできません。
あなたは自分で自分を清め、聖なるものにしようと、できる限りの努力をしてごらんなさい。しかしそれは、ちょうど肌の黒い人間が、自分の体を洗って肌を白くするのと同じくらい、難しいことです。
肉(自分の性質)において神に仕えるくらいなら、月の上まで自分の足で跳び上がろうとするほうが、まだ簡単でしょう。
肉によって生まれた者は肉です。また霊(神の性質)によって生まれた者は、霊です。 私たちは神の霊によって、新しい生命に入らなければなりません。
いかにして神の国に入るのか
さて、私たちはどうしたら神の国に入ることができるのでしょうか。神がお語りになる御言葉を聞きましょう。
私たちは、「努力する」ことによって神の国に入れるのではありません。これは救いが、努力して入る価値のないものだ、ということではありません。
もし道の途中に、川や山があるならば、川を泳いで渡ったり山をよじ登ることは、努力する価値が充分あることです。
救いも、あらゆる努力をする価値のあるものです。しかし私たちは、自分の努力や働きによって、救いに入るわけではありません。
「働きはなくても、信じる者に」(ロマ4:5)
救いは与えられるのです。私たちは、救われたから努力するのであって、救われるために努力するのではありません。
十字架から出発して努力するのであって、十字架を目指して努力するのではありません。聖書は、
「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」
(ピリ2:12)
と言っています。人が「自分の救いの達成に努める」とは、どういうことでしょうか。
救いを達成しようと努めるためには、まず救いというものを、その人が得ていなければなりません。
たとえば、私が子どもに、
「百ドルを注意して使いなさい」
と言ったとしましょう。すると子どもは、
「じゃあ、まず百ドルをちょうだい。そうしたら注意して使います」
と言うでしょう。まず百ドルを持っていなければ、それを注意して使うことはできません。
救いもそうです。それを得ていなければ、その達成に努めることはできません。
私は、はじめて自分の家を離れ、ボストンに来た時のことを思い出します。私はボストンで、やがてお金を全部使い果たしてしまいました。
それで何か良い知らせは来ないかと、1日に3度も郵便局へ行きました。郵便は1日に1回しか来ないと知りながら、何かのはずみで来ていないか、と思ったのです。
私はついに、幼い妹からの手紙を受け取りました。それを見て、どんなにうれしかったことでしょう。
妹は、ボストンにはスリが多いと聞いていたらしく、その手紙の内容は、大部分「スリに気をつけて」というものでした。
しかし、すられるためには、「すられる物」を持っていなければなりません。当時、無一文だった私は、すられないよう努力することができませんでした。
同様に、あなたは努力して自分の救いを達成しようとする以前に、まず救いそのものを得ていなければなりません。得てから、努力するのです。
みなさん、キリストがあのカルバリの丘で、
「完了した」
と叫ばれた言葉は、そのままの意味なのです。
神の側では、私たちを罪から贖い出す(救い出す)みわざはすでに成し遂げられ、完了しました。
私たちの側ですべきことは、イエス・キリストのみわざを、ただ自分の内に受け入れることなのです。
「草が、この羊の肉や毛になっていることを、あなたは信じますか」。
救われようと、あれこれ努力することではないのです。
「じつに神秘的なことだ」と、ある人は言うでしょう。また、「どうしてそんなことがあり得ましょう」という人もいるでしょう。
実際、それは人間の耳には奇妙に聞こえます。
「再び生まれる?神の霊によって生まれるだって?どうしてそんなことがあり得ましょう」。
多くの人は言います。「それを説明してください。もしよく説明できないなら、私に信じさせようとするのはやめてください」 と。
しかし説明してくれと言うならば、私はあっさりと、「私にはできないことです」と言い切ります。なぜなら、
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」(ヨハ3:8)。
と聖書は言っています。私はたとえば「風」について、すべてを理解することはできません。あなたが説明を求めても、私にはできません。
北に吹く風があると思えば、違う場所では、正反対の方向に風が吹いています。この風の流れを説明しろと言われても、私にはできません。
では説明できないからといって、風が存在しないかというと、そんなことはありません。
もし私が、「風なんてものは存在しませんよ」と主張したら、どうなるでしょうか。そんなことを言えば、きっと幼い女の子はこう言うでしょう。
「風は目には見えないけれど、ちゃんとあるのよ。ときどき風の音が聞こえるし、私の顔に吹きつけたりするもの。いつだったか、私も傘を吹き飛ばされてしまったわ。
また町で、帽子を飛ばされた人を見たこともあるわ。あなたは森の中の木や、とうもろこしの畑に吹きつけている風を見たことがないの?」。
もし、神の霊によって人が新しく生まれ変わるなどということはない、と、ある人が言うのであれば、その人はむしろ、風などない、と言ったほうがましでしょう。
私は、ちょうど自分の顔をなでる風を感じるように、心の中に神の霊の働きを感じているのです。
私はそれを理論づけることはできません。説明できないことは、世の中に多いものです。しかし私は、信じるのです。
「万物の創造」ということも、決して説明できません。世界を、見ることはできます。しかし神がそれをいかにして無から創造されたかは、説明できません。
神による創造は、信仰によって心に認められるのです。
すべてを説明するのは不可能である
私には説明したり、議論で説き伏せたりすることは、できません。しかし私は信じております。
私は以前、ビジネスで旅行しているある人が、「イエス・キリストの使命と宗教は、啓示されるものであって、研究されるものではない」と言ったと聞きました。
キリストの使徒であったパウロも、「神が・・・御子を私のうちに啓示してくださったとき・・・」(ガラ1:15)
と述べています。キリストの生命の輝きは、頭で理解するより、むしろ心の中に啓示されるものなのです。
ある青年の一団が、旅をしていました。彼らは、自分たちの知性でわからないことは決して信じない、と心に決めていました。これを聞いたあるクリスチャンの老人が、
「君たちは、頭でわからないことは決して信じないそうだね」と声をかけました。すると彼らは、「そうです」と答えました。そこで老人は尋ねました。
「そうですか。それなら、きょう汽車で運ばれて来た鶏や、羊、豚、牛などは、みな草を食べているけれども、その草がそれらの動物の毛になったり、肉になったり、卵になったりしていることを、君たちは信じるかね」。
「もちろん信じますよ。わけがわからなくったって、信じないわけにはいかないでしょう」と彼らは答えました。老人は、
「それならば、わしもキリストを信じないわけにはいかないのだよ」と言いました。
老人は、自分の人生に起こった新生の体験を思うと、キリストを信じないわけにはいかなかったのです。
不幸のどん底から、すっかり立ち直らされた人をみれば、人間の生まれ変わりを信じないわけにはいきません。
悪に染まっていた人が、その泥沼から救い出され、今は堅固な岩の上に心を安めて、幸福に輝いているのです。
かつて彼らの口は、不満や愚痴やのろいの言葉を吐いていました。しかし今は、喜びながら神を讃美しているのです。古いものは過ぎ去り、すべてのものが新しくなりました。
彼らは単に心が改まったのではなく、生まれ変わったのです。キリストにあって、彼らは「新しい人」となったのです。
(つづく)
久保有政著
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