善悪の起源
私たちの世界にはなぜ、善と悪、
命と死、幸福と不幸が同居しているのか
この世には、善と悪が混在している。
(左は、ケガ人を助けるサマリヤ人)
2種類の世界がある
聖書をみると、「世界」には2種類のものがあることが、わかります。
それら2種類の世界とは、1つは「天国」に代表される"絶対的一元世界"(ぜったいてきいちげんせかい)、もう1つは「この世」に代表される"相対的二元世界"(そうたいてきにげんせかい)です。
むずかしい言葉が並びましたが、その意味するところは、決してむずかしくありません。まず、"絶対的一元世界"から見てみましょう。
絶対的一元世界とは、天国、すなわち神の国のことです。
聖書のいう「天国」は、単なる"死後の世界"ではありません。それは漠然とした世界ではなく、ひじょうに具体的・現実的な世界です。
そこには絶対的幸福、絶対的生命、絶対的善が支配しています。反対に災いや、死、悪などは一切、混在していません。聖書は言っています。
「(天国には)もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」(黙示21:4) 。
「もはや、のろわれるものは何もない」
(黙示22:3-5) 。
天国は、死、悲しみ、叫び、苦しみ、のろい、闇、災い、不幸などが一切ない世界で、そこには生命、幸福、祝福、歓喜、善、光などだけが存在しているのです。
これは、天国という世界の最も重要な特長です。たとえば天国には「死」が存在していませんから、天国の「生命」とは、"死に相対(あいたい)する生命"ではありません。「死」という、生命の対極のものがないのです。
つまり、天国の生命は"絶対的な生命"です。"絶対"――文字通り"対立を絶して"いて、相反(あいはん)するもののない生命です。
また、天国には「不幸」が存在していませんから、天国の「幸福」は、"不幸に相対(あいたい)する幸福"ではありません。天国の幸福も、やはり"絶対的な幸福"なのです。
そのほか、天国の善は絶対的な善であり、天国の真理は絶対的な真理です。このような意味で、天国は"絶対的一元世界"なのです。それは絶対的生命、絶対的幸福、絶対的善が、一元的に支配している世界だからです。
闇がなく光だけが支配する世界、また死がなく生命だけが支配する世界、不幸がなく幸福だけが支配する世界、悲嘆がなく歓喜だけが支配する世界、虚偽がなく真理だけが支配する世界、悪がなく善だけが支配する世界――それが天国です。相対立するものがないのです。
このような絶対的一元世界というものは、今の私たちには、おそらくきわめて想像しにくいものでしょう。というのも今私たちが住んでいるこの世界は、絶対的一元世界ではなく、"相対的二元世界"だからです。
そこで次に、"相対的二元世界"について見てみましょう。
この世では相反する2種類の原理が同居している
"相対的二元世界"とは、この世のように、幸福と不幸、祝福とのろい、命と死、善と悪、光と闇など、相反する2種類の原理が同居している世界のことです。
ただしこれは、いわゆる「二元論」でいうように、世界のすべての事象を2つの根本原理で説明できる、ということではありません。すべてを2つの原理に還元(かんげん)できるわけでも、すべてが相対的だ、ということでもありません。
聖書は、天国に見られる一元的世界と、この世の二元的世界の双方について述べているのです。
実際、私たちの世界や人の心が、善の勢力と悪の勢力をはじめとする、2つの相対立するものの影響下にあるのは事実でしょう。キリストの使徒パウロは、こう書きました。
「善をしようとする意志は自分にあるが、それをする力がない」
また、
「私の欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行なっている」(ロマ7:18-19)。
私たち人間の心をのぞいてみると、"善をなそうとする自分"と"悪をなそうとする自分"の2人の自分がいるかのように、善悪両勢力が働いているのがわかります。
また私たちの世界も、人類愛にもとづく貴い善の行為をする人がいるかと思えば、一方では、虐殺や殺戮(さつりく)などの恐ろしい悪が行なわれたりしています。同じ人類が、あるときは悪を行ない、あるときは善を行なっているのです。
そのほか私たちの住んでいるこの世には、幸福があると共に不幸があり、生があると共に死があり、歓喜があると共に悲嘆があり、真理があると共に虚偽があり、また光があると共に闇があります。
その意味でこの世は、"相対的二元世界"となっているのです。それは2種類の相反するものが、二元的に支配している世界だからです。
この世には幸福と不幸が混在している。
神を信じる人は霊において絶対的一元世界に生きる
「世界」には、"絶対的一元世界"および"相対的二元世界"という、2種類の世界があることを述べました。しかしこれら2つの世界は、互いに隔絶されているわけではありません。
私たちは肉体的には、完全に"相対的二元世界"に住んでいます。しかし霊は、ときおり"絶対的一元世界"を、かいま見ることが可能なのです。
聖書は、神を信じるクリスチャンたちが受けた神からの祝福や、力、また幸福などについて、
「(彼らは)来たるべき世の力を味わった」(ヘブ6:5)
のだ、と述べています。この「来たるべき世」とは天国のことで、天国がやがて定められた日に地上に来ることを、述べているのです。
神を信仰し、その祝福にあずかった人々は、来たるべき世である「天国」という絶対的一元世界の力を、この世に生きながら味わうことができます。自分の霊において、天国の祝福を"先取り体験"できるのです。
もしあなたが神を信じ、救い主キリストを信じているなら、神の聖霊があなたの内に宿っています。あなたはその聖霊によって、すでに天国の絶対的生命である「永遠の生命」の保証を受けています。
あなたは「永遠の生命」の祝福を、部分的にはすでに受けているのであり、体験しつつあるのです。
またあなたは天国の絶対的幸福を、部分的に、この世に生きながら体験することができます。
絶対的生命・絶対的幸福が完全にあなたのものになるのは、あなたが天国に行ったときですが、この世においても、それらを先立って部分的に体験することが可能なのです。
したがって私たちは、この世の相対的二元世界に生きながら、神を信じることにより、同時に絶対的一元世界の祝福に生きることができる、と言えます。
天国という絶対的一元世界は、上から、この世の相対的二元世界にかかわって来ています。そのため望みさえすれば、人は絶対的一元世界の栄光を、かいま見ることができるのです。
エデンの園の「命の木」「善悪を知る木」とは何だったか
さて神がエデンの園をつくられたとき、神は園の中央に、2本の特別な木を生(は)えさせられました。
「主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設(もう)けて、その造った人をそこに置かれた。・・また園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた」(創世2:8-9)。
と聖書に記されています。
ここで「命の木」とは、天国に見られる絶対的生命の世界を、代表・象徴するものでした。一方「善悪を知る木」は、現在の私たちの世にみられる善悪対立の世界を、代表・象徴するものでした。
「命の木」は、絶対的生命の支配する絶対的一元世界の象徴物であり、一方「善悪を知る木」は、相対的二元世界の象徴物であったのです。
「命の木」は、絶対的生命の支配する
絶対的一元世界を代表・象徴していた。
神はなぜ、この2本の木を生えさせられたのでしょうか。それは私たちには完全には知り得ないことです。
しかし神が世界を創造されたとき、その「世界」には、おそらく2種類のものがあり得たのでしょう。つまり創造された世界は、絶対的一元世界と相対的二元世界の、どちらかになる可能性があったのです。
それで神は、お造りになったエデンの園の中央に、それら2種類の世界を代表する象徴物として、「命の木」と「善悪を知る木」とを生えさせられました。
そののち神は、アダムにこう命令されました。
「あなたは、園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは、取って食べてはならない」(創世2:17) 。
――それは簡単な命令でした。園のどの木から取って食べてもよいが、「善悪を知る木」の実だけは食べてはならない。
つまりアダムとエバには、「命の木」から取って食べることは、当然許されていました。彼らは「善悪を知る木」に手を出してはならないが、「命の木」から取って食べることは、いっこうにさしつかえなかったのです。
実際、アダムとエバがもし神の命令に背かずエデンから追放されたりしなかったならば、彼らはいずれ「命の木」に手を伸ばし、その実を食べ、絶対的生命の世界に入ったことでしょう。
彼らは絶対的一元世界に入り、永遠に生きたに違いありません。「命の木」に代表される絶対的一元世界の祝福は、彼らの前に大きく広がっていました。
しかしアダムとエバは、神の命令に背き、「善悪を知る木」の実を取って食べ、現在私たちが住んでいる善悪対立世界――すなわち相対的二元世界に入りました。
彼らは、善と悪、幸福と不幸に特徴づけられる世界に入ったのです。相対的二元世界は、彼らの人生に展開し始めました。
これについて詳しく見るために、「善悪」「知る」「食べる」のそれぞれの聖書的意味を、調べてみましょう。
「善悪を知る木」は、善悪・幸不幸の混在する
相対的二元世界を代表・象徴していた。
「善悪」とは道徳的善悪と自然的善悪のこと
日本語で「善悪」というと、単に"道徳的善悪"という感じがしてしまいます。道徳的に良いことと、悪いことです。
しかし聖書の原語を調べてみると、これは単に道徳的善悪のことではありません。これは"自然的善悪"の意味にも使われる語です。
自然的善悪とは、道徳と関係のない"良いものと悪いもの"――たとえば幸福と不幸、祝福と災い、喜びと苦しみなどをいいます。
「善悪を知る木」の「善悪」には、これら道徳的善悪と、自然的善悪の両方の意味が含まれています。アダムとエバが「善悪」を知ったとき、その「善悪」は道徳的に良いこと悪いことだけでなく、自然的善悪――幸不幸、祝福と災い、喜びと苦しみなどもさしていたのです。
つぎに、「善悪を知る」の「知る」について見てみましょう。
「知る」とは深くかかわること
聖書において「知る」(ヘブル語ヤーダー、ギリシャ語ギノースコー)という語は、ひじょうに深い意味を持っています。それは単に"頭で知る"とか"観念的知識として知る"という以上の意味を持っているのです。すなわち"体験的に知る"という意味につかわれます。
たとえば旧約聖書・創世記4:25に、
「アダムは、その妻を知った」
と書かれています。これはアダムが、頭の中で観念的知識としてエバという女性について知った、ということではありません。
「知った」は、男女の肉体関係をさしているのです。それは体験的な知識です。アダムが、エバという女性とひじょうに深い関係に入った、ということを意味しているのです。
またエゼキエル書22:16に、
「このときあなたがたは、わたし (神) が主であることを知ろう」
と言われています。これも、人々がある出来事を通して神を体験する――神がまさに存在し、力ある主であることを体験するであろう、という意味なのです。
また新約聖書・マタイの福音書7:23では、キリストが、不法者や偽善的信者に対してこう言われています。
「わたしは、あなたがたを全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れていけ」。
キリストがこうした人々を「知らない」と言われたのは、頭の中で観念的知識として知らない、ということではありません。キリストは、頭では彼らのことをよく知っておられます。
「知らない」は、彼らとご自分が相容れない関係であることを、言っているのです。つまりここで「知る」の語は、信頼と真実によって結び合わされた人格的結合関係をさしています。
このように「知る」は、体験的に知ることであり、自分の全存在をあげて相手にかかわることです。
「善悪を知る」という場合も、そうです。アダムとエバは善悪を知る木の実を食べたとき、「善悪」を知り、道徳的善悪と自然的善悪に深くかかわるようになったわけです。
彼らは決して、単に観念的に、頭の中で善悪を知ったのではありません。善悪の区別がわかるようになった、ということでもありません。
このことで、多くの人が誤解をしています。アダムとエバが「善悪を知った」というのは、善悪の区別がわかるようになったことだと、思っているのです。
しかし善悪の区別がわかることが、どうして悲劇になるのでしょうか。アダムとエバは、木の実を食べて善悪の別を判断できるようになったのではありません。
「善悪を知った」は、善悪対立世界――相対的二元世界の中に、彼らの全存在が入ったことなのです。道徳的善悪と自然的善悪の満ちる世界に、彼らは自分の全存在をあげて、かかわるようになったのです。
以来、道徳的善悪(正邪) のみならず、自然的善悪
(幸不幸、祝福と災い、喜びと苦しみ)
が、彼らの人生を特徴づけるようになったのです。
「食べる」とは自分の内に展開すること
もう一つ、木の実を「食べる」の意味を、明らかにしておかなければなりません。聖書では「食べる」の語は、特別な意味を持っているからです。
私たちは何か食物を食べると、それが内で消化され、やがて私たちの肉となり、血となり、活動エネルギーとなります。食べると、それが自分のうちに"展開していく"のです。
聖書では「食べる」の語は、自分のうちに展開していく、という意味で使われています。たとえばキリストの使徒ヨハネは、黙示録10章で、天使から渡された巻き物を「食べて」います
(10:10) 。
すると、その巻き物に記された数々の預言の言葉が、彼の口を通して次々と出てくるのです。それが黙示録11章以下の預言です。
ヨハネが巻き物を「食べた」ことにより、その巻き物の内容が、ヨハネの内に、あるいはヨハネを通して展開していったわけです。
預言者エゼキエルも、同様の経験をしています
(エゼ2:8-3:4)。このように「食べる」ことは、それが、自分の内に展開していくことです。
クリスチャンが教会で「聖餐(せいさん)」を行なうのも、そうした意味があります。キリストの体を表すパンを食べ、キリストの贖(あがな)いの血を表すぶどう酒を飲むとき、キリストの命が自分の内に展開していくのです
(ヨハ6:35,54)。
したがって善悪を知る木の実を「食べた」ことは、道徳的善悪と自然的善悪がアダムとエバの内に、そして彼らの人生に、展開していくことを意味しています。
「聖餐(せいさん)」にも見られるように、
「食べる」ことは自分の内に
"展開していく"ことである。
それだけではありません。「善悪」は、彼ら2人だけでなく、彼らから出てくるすべての子孫――すなわち全人類に、展開していったのです。
2人が善悪を知る木から取って食べたとき、善と悪に規定される相対的二元世界は、彼らの内に展開し始めました。彼らの人生は、善と悪、幸福と不幸、喜びと悲しみの人生となったのです。
彼らの人生には、命だけでなく死が、善だけでなく悪が、義だけでなく罪が、入りました。そればかりか彼らが知った「善悪」は、すべての子孫にまでも及びました。
人類の歴史は、戦争と平和、善人と悪人、幸福と不幸、栄枯盛衰(えいこせいすい)の複雑に交錯(こうさく)する歴史となりました。人類の歴史とは、アダムとエバが知った「善悪」の展開にほかならないのです。
この世は善悪対立世界
アダムとエバが善悪対立世界(相対的二元世界)に入った後、彼らの間に、カインとアベルという2人の男の子が生まれました。
ところが兄カインは、あることからアベルを憎むようになり、ある日ついに彼を殺害してしまいました。人類最初の殺人です。こう記されています。
「カインは弟アベルに話しかけた。『野に行こうではないか』。そしてふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した」(創世4:8)。
このようにカインは悪い者でしたが、一方、弟アベルは、「義人アベル」(マタ23:35)と呼ばれた善き人でした。これに代表されるように、善悪対立世界に入った後、アダムとエバの子らは、善子と悪子とに分立しました。
カインは義人アベルを殺害した。このことにも見られるように、
アダムとエバの子孫は、善子と悪子とに分立した。
世界は、善の勢力と悪の勢力とが相対立し、ぶつかりあう世界となりました。したがって創世記3:15に、こう記されています。
「わたしは、おまえ (へび) と女との間に、またおまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く」
これは、ひじょうに深みのある言葉です。この句には、預言的意味がからんでいるのです。
この句は、ハ虫類のへびと女性との関係を言ったものではありません。「へび」はサタン(悪魔)を示し、「女」は天国を指しているのです。
ヨハネの黙示録に、
「巨大な龍、すなわち悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは・・・」(黙示12:9)
という表現があります。「へび」はサタンのことです。エデンの園の「へび」の背後には、悪の勢力の主体サタンがいたのです。
したがって「へびの子孫」といえば、聖書では、サタンの側についている人々のことを意味します。かつてバプテスマのヨハネやイエスが、偽善的な人々や悪者に対して、
「まむしの子らよ」 (ルカ3:7
、マタ12:34)
と言って話されたのも、彼らがサタンの勢力の支配下に置かれてしまっていることを指摘した表現です。
つぎに「女」は、ふつうの"女性"のことではありません。「女」また「母」は、聖書では「天国」の象徴なのです。ガラテヤ人への手紙4:26には、
「上なるエルサレム(天国)は、自由の女であって、私たちの母をさす」
とあります。天上のエルサレム――つまり天国はクリスチャンたちの母であり、一方クリスチャンたちは、母なる「御国(みくに)の子たち」 (マタ13:38)なのです。
つまり、先の「へびの子孫」と「女の子孫」の間に敵意が置かれたという句は、"サタンの勢力"と"天国の勢力"
(神の勢力) との間に、対立関係が置かれたことを意味しています。アダムとエバが善悪対立世界に入って以来、人類は、「へびの子たち」と「御国の子たち」とに分立したのです。
ここで「へびの子たち」はカイン型の人々、「御国の子たち」はアベル型の人々、と言ってもよいでしょう。
「御国の子」になるには
ただし、この区別は、決して生まれつきのものではありません。
はじめから「御国の子」として生まれてくる人間は、いないからです。はじめは、誰でも神に反抗する、罪深い性質を持っています。すべての人は、はじめは「へびの子」であり、カイン型の人間なのです。
しかし人が、自分の人生の中で罪を悔い改め、神の側につく決心をするとき、その人は「御国の子」に生まれ変わります。
人間には、100%の善人も、100%の悪人もいません。だれでも、善悪両方の性質を持っています。
しかし何が「へびの子」と「御国の子」とを分けるかと言えば、その人が自分の意思で神の側につくか否か、ということなのです。
道徳的に正しいか否かということではありません。道徳的に完全無欠な人など、この世にはいないからです。
私たちはみな、罪人(つみびと)です。しかしその罪を悔い改めて、救い主キリストを受け入れ、神を信じるとき、その人は「御国の子」として迎え入れられます。
私たち人間の前には、つねに2つの道があります。一方は、祝福と命につながった道であり、もう一方は、のろいと死(滅び)につながっています。
かつてイスラエルの指導者モーセは、約束の地カナンを前にして、人々にこの2つの道について説き、こう述べました。
「あなたは、いのちを選びなさい」(申命30:19) 。
私たちはこの世にあって、善と祝福と命の道を選んで、生きていかなければなりません。それは、罪とサタンの道をふり捨て、救い主キリストに従っていく道です。
私たちは、神にあって善の道を選び、祝福と命の道を歩むなら、その行き先は、"相対的善悪の彼岸(ひがん)"とも言える、絶対善にして聖なる御国です。
此岸(しがん)は、私たちの今住む善悪対立世界――相対的二元世界であり、彼岸に、絶対的一元世界である神の御国があります。それは善悪の対立や、争いを離れた至福の国であり、絶対的祝福の国なのです。
神の御国は、私たちにとって「約束の地」です。そこに入るために、あなたも「いのちの道」を選ぼうではありませんか。
久保有政著
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