イエスのご生涯(1)
イエスのご誕生
これは、東洋の一角――中東にお生まれになったイエス・キリストの、偉大な生涯の物語です。
イエスが公に人々に伝道された期間(公生涯)は、わずかに約3年半。しかしその3年半が、世界を変えました。
私たちは、聖書の『四福音書』を基礎とし、そのほか様々な歴史研究をふまえて、イエスのご生涯の実像に迫ってみましょう。
すべての人のために
イエスがお生まれになった地パレスチナは、位置的に、ヨーロッパ・アジア・アフリカの3大大陸の、「接点」の地にあたります。
そこはまた、世界の3大人種――黄色・白色・黒色人種(または最近の分類にしたがってモンゴロイド・コーカソイド・ニグロイド)のそれぞれが住む地域の、「交点」でもあります。
パレスチナを中心として、東方には黄色人種が、北方と西
ローマ皇帝アウグストウス――彼はイドマヤ人ヘロデを「ユダヤ人の王」として任命し、委任統治させた(ルカ2:1)
方には白色人種が、南方には黒色人種が住んでいるのです。
パレスチナは、その意味では世界の中心に位置しています(エゼ5:5)。つまりイエス・キリストは、いわば「万国の中心」にお生まれになりました。
キリストがお生まれになったのは、西洋人のためでも、東洋人のためでもありません。彼は、全世界の人々のためにお生まれになったのです。
イエスがお生まれになったのは、今から約2千年前です。イエスがこの地上を歩まれてから、悠久の歳月が過ぎました。
しかし彼の語られた言葉と、その精神は、今もなお多くの人々の中に生きています。事実、イエスの影響力は、現在も世界の多くの人々に及んでいるのです。
私たちは普段、「キリスト暦」(
西暦) に慣れ親しんでいます。
これは、イエス誕生の年を「紀元」とし、時代を・・B.C.(Before Christ =英語で「キリスト以前」)
と、A.D.(Anno Domini
=ラテン語で「主の時代」) に分けたものです。
ですから、「イエスはいつ生まれたのか」と聞
イエスは、人間の最も貧しい場所に降誕された。
けば、本当は「紀元」と答えるところでしょう。
ところが、のちに学者の計算違いが判明して、現在ではイエス誕生の年は、紀元前4年頃と言われています。
時は満ちた
イエスの活動の舞台となった国ユダヤは、当時ローマ帝国の属国でした。ローマは、地中海の周辺世界に、史上最大の世界帝国を形成していました。
「すべての道はローマに通ず」という言もあるように、ローマ帝国は各地の道を整備していました。
そのため当時、交通の便はきわめて良く、人々は広大な帝国内を、自由に行き来できるようになっていました。
ローマ帝国内の主要幹線道路は、すべてを合わせると、延べ8万5000キロあったと言われています。これは今日のアメリカ合衆国全土をくまなく覆うインターステート・ハイウェイの延べキロ数と、ほぼ同じです。
ローマ帝国は、広さの面ではアメリカの8割くらいの面積でしたから、いかに道路が完備していたかわかるでしょう。もちろんこれは主要幹線道路についてだけで、支線道路も含めると、その3倍以上――29万キロもあったとのことです。
さらに、帝国内ではギリシャ語が共通語となっていて、言葉の障壁もなくなっていました。ローマは、多くの国々を文化的に一つに統合していたのです。
これはそれ以前の、ギリシャ帝国やペルシャ帝国の時代の支配とは、大きな違いでした。以前の国の支配形態は、征服者が単に「自分より程度の低い蛮人を支配する」という支配でした。
しかしローマ帝国の場合は、違っていました。ローマは、ローマと同等の文化的伝統を持つ国々(たとえばギリシャなど)を、統合しつつ支配したのです。
ローマは、各地に総督を置き、地方行政を行ないながら、共通の文化制度を敷きました。ローマは世界を「一つの大きな住み家」とし、国家を一つの「共通の祖国」としたのです。
こうした「交通の便」「共通語」「共通の文化制度」という条件は、そののちキリスト教が世界宗教として福音を宣教していくために、欠くことのできない素地となりました。
事実、パウロをはじめキリストの使徒たちは、これらの素地があったからこそ、きわめて短期間に、ローマ帝国全土に福音を伝えることができたのです。まさに、
「時は満ち」(マコ1:15)
ていました。
キリストが世界のすべての人のためにお生まれになって、世界的宗教が始まるために最も適した状況が、すでにそこにできていたのです。
待望された救い主
当時ユダヤの人々は、ローマ帝国の圧政によって苦しんでいました。
ユダヤ(イスラエル)民族は、全世界のための救い主「キリスト」を来たらせるために、神が創始し、育成された民族です。
ユダヤには、モーセ(B.C.15世紀)
以来、数多くの預言者が現われていました。しかし旧約時代最後の預言者マラキが、4百年前に現われて以来、もはや預言者はユダヤに現われていませんでした。
神はいつになったら、この国を顧みてくださるのでしょうか。いつ、世界を顧みてくださるのでしょうか。
人々は、救い主を待ち望みました。彼らは、ヘブル語で「メシヤ」と呼ばれ、ギリシャ語で「キリスト」と呼ばれるかたの到来を待望しました。
メシヤ=キリストという言葉の原語の意味は、「油注がれた者」です。イスラエルでは、王や大祭司の任職式で、彼らの頭に油が注がれました。
つまり「油をそそがれた者」(メシヤ)とは、「神から任職された者」ということなのです。
しかし聖書では、「キリスト」(メシヤ)の語は、とくに終末が間近になった時代に現われる、特別な「救い主」を表す用語として用いられるようになりました。
人々は、「主の日」(終末の日)が間近になった時代に現われる特別な神からの救い主を、「キリスト」と呼んだのです。
このように「キリスト」という言葉は、人の名(固有名詞)ではなく、「称号」です。
世の中には、いろいろな「称号」があります。現在の日本の天皇の場合なら、「天皇」が称号で「明仁」が名前(固有名詞)です。将軍・家康なら、「将軍」が称号で、「家康」が名前です。
ほかにも「カイザル」(ローマ皇帝を表す)、「パロ」(エジプト王を表す)などの称号が、聖書に出てきます。
人は本棚を作る時、まず「ことば」で、それをどう作るか考える。
その「ことば」には、本棚の本質が概念の形で含まれている。
「イエス・キリスト」は、「イエス」が名前で「キリスト」が姓、というのではなく、「キリス
ト(神からの救い主)なるイエス」という意味なのです。端的にいえば、「イエス」を「キリスト」と呼ぶのが、キリスト教です。
人々は、神から任職された、神からの権威を持つキリストの到来を、待ち望んでいました。そのようなときイエスは、静かにユダヤの小村ベツレヘムの馬小屋で、お生まれになったのです。
キリストの到来は予言されていた
イエス・キリストの到来は、その到来の何百年も前から、旧約聖書の中に予言されていました。
マホメットであれ、シャカであれ、孔子であれ、ソクラテスであれ、その出現が何百年も前から予言されていたわけではありません。
しかしキリストに関しては、何百年も前から数多くの予言がなされていました。
たとえば出現の時については、B.C.6世紀に、イスラエルの預言者ダニエルがこう予言していました。
「エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、7週と62週あることを知り、かつ悟りなさい」(ダニ9:25協会訳)。
メシヤ到来は、エルサレム再建命令発布の年である紀元前457年から数えて、「7週と62週」、計69週の後と予言されました。
この「週」とは、原語では単に「7」という意味ですが、ここでは7年を表す、と聖書学者は考えています。
そうすると「69週」は483年となり、メシヤ到来の年は、紀元26年となります。これはまさに、イエスが公生涯に入り、宣教を開始された年です。
またキリスト誕生の地について、B.C.8世紀の預言者ミカはこう予言していました。
「ベツレヘム・エフラタ(ベツレヘムの古名)よ。あなたはユダの氏族のうちで最も小さいものだが、イスラエルを治める者が、あなたのうちから、わたし(神)のために出る。
・・・彼は主(神)の力により、その神、主の名の威光により、立ってその群れを養い、彼らを安らかにおらせる。今、彼は大いなる者となって、地の果てにまで及ぶからである」(ミカ5:2-4)。
イエスが育たれた地ナザレ
この「イスラエルを治める者」とは、キリストのことです。しかし彼は、単にイスラエル民族の支配者となるのではなく、その力は「地の果てにまで及ぶ」、つまり世界の救い主となるというのです。
彼はユダヤの小村ベツレヘムにお生まれになる、と予言されています。事実、キリストは、ベツレヘムでお生まれになりました。
降誕されたキリストは「その群れを養い、彼らを安らかにおらせる」でしょう。キリスト来臨の目的は、人々に真の平安を与え、尽きない幸福を与えることなのです。
旧約聖書では、キリストの到来に関する予言は、「真に平和で繁栄した世界が到来する」との予言と、つねに一緒に言われています。
キリストが来られると、世界は変わり、真の平和・繁栄・幸福がおとずれる、と言われているのです。
この「真の平和・繁栄・幸福に満ちた世界」を、聖書は「神の国」と呼んでいます。
「神の国」は「神の王国」とも訳されます(「国」の原語はバシレイア)
。
旧約時代の預言者たちは、キリストの到来とともに、至福の「神の国」(神の王国) がやって来る、と予言したのです。
預言者ダニエルは、こう述べました。
「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず・・・永遠に立ち続けます」(ダニ2:44) 。
この「永遠の国」は、もちろん地上的な国ではありません。地上的な国なら、「永遠に続く」ことはあり得ません。
「永遠の国」は、キリストによって立てられる天的な国です。事実イエスは、
「わたしの国は、この世のものではありません」(ヨハ18:36)
と言われました。キリストの「国」は、地上的なこの世のものではなく、天的な「神の国」「神の王国」なのです。
それは地上の王が支配する国ではありません。神とキリストを王とする国です。
「神の王国」は、キリストにより、どのようにして立てられるのでしょうか。B.C.8
世紀の預言者イザヤは、こう予言しました。
「(キリストの) 主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる」(イザ9:7)。
この予言によれば、キリストによって立てられる「王国」は、キリストの初来の際に、「一挙に」確立されるのではないと言えます。
初来から再来にかけての期間に、キリストの「主権は増し加わって」いくでしょう。
そして最終的にキリスト再来の際に、キリストは「王座に着いて」王国が確立するのです。「神の国」は、キリストの初来が発端となり、再来によって完成するのです。
キリスト再来の際には、全世界的な平和・繁栄・幸福が確立されるでしょう。
かつて「ダビデ」王(B.C.10世紀)
が神のもとに王座について、イスラエルを治めたように、キリストは最終的に、神のもとに王座について、永遠の王国を治められ
るでしょう。
しかしキリストは、初来の際に、そのための端緒をつくられるのです。
受肉
聖書は、キリストは「神の言」である、と言っています。
「初めに、言(キリスト)
があった。言は神と共にあった。・・・この言は、初めに神と共にあった。・・・すべてのものは、これによってできた。
・・・この言に命があった。・・・言は肉体となり、私たちのうちに宿った」(ヨハ1:1-14) 。
なぜ聖書は、キリストを神の「言」と呼ぶのでしょうか。そこには、聖書の深遠な哲学があるのです。
人間の場合、たとえば物を製作するとき、まず頭の中で「ことば」を使って、どのように作るかを考えるでしょう。
たとえば、ある人が日曜大工で、「本棚」を作るとしましょう。彼はまず、棚の数を「何段」にするか、棚の幅や長さを「何センチ」にするか、木は「どんな木を使うか」などということを、まず「ことば」で考えるでしょう。
その「ことば」の中には、本棚の材質、大きさ、形、色など、本棚の「本質」的な事柄が、概念のかたちで含まれています。
本棚がまだ出来ていない先に、すでに頭の中では「ことば」によって、本棚の「本質」的な事柄が考えられているわけです。
「ことば」によって、これから作る物の本質的な事柄が考えられ、その後に、目の前に実際に本棚が出来てきます。
つまりここでは、ある意味で、「本質は事物に先立っている」のです。(もっとも無神論哲学者サルトルは、これを逆さまに言って「事物は本質に先立つ」と説きましたが、これは彼の無神論思想に基づくもので、ここでは関係ありません。)
私たちが有神論に立つなら、「本質は事物に先立つ」と考えることができるのです。
というのは聖書によれば、神が世界を創造されたとき、万物の「本質」はすべて、「神のことば」の中に先立って存在していたからです。
神が「光あれ」と言われると、光がありました(創世1:3)。「地は植物を生えさせよ」と言われると、植物がありました(同1:11) 。
光や植物の「本質」は、光や植物が実際に出現する以前に、神の「ことば」の中にすでにあったのです。
神の「ことば」は、人間の「ことば」と違って、本質を表す「概念」を有するだけでなく、万物の「本質そのもの」を宿しているのです。
それで神が「ことば」を発っせられると、そこに万物が生じました。
「神のことば」には、無の中から存在を呼び出す力があるのです。神は力ある「ことば」によって、万物を創造されました。神は「ことば」によって活動されたのです。
「神のことば」は、神の活動であり、神のご本質の顕現であり、その力の現われです。「神のことば」は、初めから神とともにありました。
この「神のことば」すなわち神の活動が、至高の人格となって現われたのが、神の御子キリストなのです。「神のことば」キリストは、神による人格と、力を備えておられるのです。
キリストは、神より出た「神のことば」であり、永遠において神より生まれ出た「神の御子」です。
彼は、永遠から永遠に至るまで存在しておられ、その御力により「万物を保っておられます」(ヘブ1:3)。
初めから神と共におられ、私たちの目には見えないこの永遠の御子キリストが、「肉体となり」(ヨハ1:14) 、人となって現われたのが、「ナザレのイエス」です。これをキリスト教では、「受肉」と呼んでいます。
彼は、神から来られ、肉体をとって人となられたのです。そのためクリスチャンたちは、イエス・キリストは神性と人性の両方を具有しておられる、と信じています。
イエスにおいて、私たちは天の神のご本質を見ることができ、また人間としての最高の姿をも見ることができます。イエスは神から来られ、神と人とを結ぶ「橋渡し」となられたのです。
全能の神の御子が、自らを限定され、時間と空間の中に入り、ひとりの無力な人間の赤ん坊としてお生まれになった――このことにクリスチャンは、大きな意味を見出します。
イエスの家庭
神は、キリスト降誕の家庭として、敬虔で質素なユダヤ人――ヨセフとマリヤの家庭を、お選びになりました。彼らの住む家は、ガリラヤ地方の「ナザレ」町にありました。
しかしB.C.4 年頃、ローマ帝国各地の「人口調査をせよ」との勅令が皇帝から出され、そのためヨセフとマリヤは、自分たちの生まれ故郷ベツレヘムに向かいました。
人口調査の際には、人々は自分の生まれ故郷に帰るべきことが定められていたからです。ベツレヘムでの滞在中に、イエスはマリヤの胎からお生まれになりました。
イエスのお育ちになった町ナザレは、総じて山岳地帯ですが、風光明媚な所です。25キロほど東に行くと、「ガリラヤ湖」という大きく美しい淡水湖があります。湖には魚が豊富なので、漁師が漁をしています。
マリヤの夫ヨセフは、大工でした(マタ13・55)。イエスの育った家庭は、概して貧しかったようです。聖書によると、彼らは初子イエスを神にささげる儀式をした際に、
「山ばと一つがい、または家ばとのひな二羽」(ルカ2・24)
という規定にしたがって、神への供え物をしました。
普通なら「小羊と鳩」であったのに、彼らは、貧しい人々のための特別な規定に従って、「鳩」だけを捧げたのです(レビ12・8)。イエスはこの家庭に、長男(第1子) としてお生まれになりました。
ヨセフとマリヤは、イエスの誕生後、ほかにも子どもたちをもうけました。彼らの名は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダであり、ほかに姉妹たちもいました(マタ13・55・56) 。
彼らイエスの弟や妹たちは、イエスの十字架以前は、イエスを救い主として信じてはいませんでした。しかし十字架と復活の後になると、イエスを信じるようになったようです(使徒1:14参照) 。
イエスの弟ヤコブは、新約聖書『ヤコブの手紙』の著者となり、イエスの弟ユダ(イスカリオテのユダとは別人)
は、新約聖書『ユダの手紙』の著者となりました。
少年期のイエスは、兄弟たちの中で傑出した知恵と、知識とを持っていました。それは人々を驚かせるほどでした(マタ13・56) 。
けれども、イエスがそのために兄弟たちに妬まれたり、不和が生じたり、というようなことはなかったようです。聖書は、
「イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、神と人から愛された」(ルカ2 ・52)
と記しています。イエスは、少年期にすでに、自分は神から来たメシヤである、との自覚を持たれたようです。
12歳のとき、イエスは両親と共に、エルサレムに上りました。ところが両親が帰路についたあとも、イエスはしばらくエルサレムにとどまり、律
「イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、神と人から愛された」
法学者や教師たちと討論をなさいました。そのことについて、あとでイエスは、
「わたしは・・・父の家にいた」(ルカ2:49)
のだと語られました。イエスは、神を「父」と呼び、エルサレムの神殿を「父の家」と呼ばれたのです。
これはユダヤ人にとっては、大変なことでした。旧約のどんな偉大な預言者も――モーセも、エリヤも、エリシャも、神を個人的に「父」と呼ぶことは決してありませんでした。
ユダヤ人にとって、人間が個人的に神を「父」と呼ぶことは、神への冒涜にほかなりませんでした。それにもかかわらずイエスは、少年期から神を親しく「父」と呼ばれました。
イエスは、ご自分が神から来た子である、との自覚を持っておられたのです。しかし、イエスはそのことでご自分の心を高ぶらせたり、傲慢に振る舞うことはありませんでした。
むしろ、少年期においては「両親に仕えられた」(ルカ2:51) のです。 (つづく)
久保有政著
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